Maybe Blue 第三部 誰かのために
夏天4
控室に入った途端、巧は傍にあったロッカーの扉を思い切りけった。祝杯ムードの中で突然響いた大きな音に、川城の部員たちは歓声を止めて、振り返る。
「…どうしたんだよ、巧。俺たち凪浜に勝ったんだぜ？優勝したんだぜ？」
後半の凪浜の怒涛の攻めにも耐え抜き、三対二で川城は神奈川県の優勝校としてインターハイへの出場が決まったのだ。
チームメイトの御木本がそう言って巧の肩に触れようとしたが、巧はそれを激しく振り払うと、再びロッカーの扉を蹴りあげた。静まり返った控室で、巧の激しい息遣いが一層響き渡る。まるで手のつけられなくなった野生動物のようだが、試合の後とあって、巧にはそれ以上動く力も残されていなかった。自分に向けられた視線に気づき、巧は史央に呼ばれるのも無視して控室を出た。
廊下を少し歩いたが、ふと足を止めると、巧は思い切り掌を握りしめ、そのまま壁を叩いた。蹴らなかったのは、足を保護しなければと辛うじて残っていた理 性がそうさせていた。もうあと数週間後には、インターハイの全国大会が始まるのだ。怪我をして出場できない状況は、流石に避けたかった。
壁に背をつけ、ずるずると座り込み、畜生と小さく呟くと、背後から「巧」と確かな史央の声が聞こえてきた。
「巧、大丈夫か」
「何がだよ。足か？安心しろ、俺もそこまで馬鹿じゃねぇ」
「じゃなくて。…やっぱり、高津に何か言われたのか？」
苛立ちの原因をはっきり言われて、巧は声を荒げた。
「だから何も言われてねぇっつーの！」
吐き捨てたところで史央の冷静な視線を感じ、巧は俯いて口を開いた。
「…暑くてイライラしただけだ」
しかしそれでも、史央は巧を見つめる目を揺るがせない。見透かされそうな気がして、巧はわざとらしく息を吐くと、それにしてもと口を開いた。
「堕ちたよな、あいつらも。
去年の栄光なんて、夢か幻かってくらい。
今じゃ、神奈川の王者は俺たちだぜ、史央。
そうだ、あいつのところに行こう。沢木萌子。
で、見せつけてやろうぜ。
お前たちの仲をさ」
立ち上がり、背中を丸めて鼻でそう言いながら笑うと、史央が冷静な声で言った。
「もうやめよう」
「やめるって？何を？」
ちらりと見ると、史央が逃げるように視線を落とす。
「凪浜を挑発することだ」
冗談じゃねぇと、巧は史央に言い返す。
「喧嘩ふっかけてきたのは、あいつらの方だぜ」
あの時の悔しさを忘れずにいたからこそ、今の川城が、俺たちがいるんじゃないか。
そう思う巧に対して、史央は態度を変えなかった。
「あの時の凪浜の選手はもう卒業していない。今日の試合だって、俺は正直凪浜に勝ったとは思っていない」
「何でだよ。優勝したのは俺たちだぜ？」
「あの二年のキーパー潰したのは、お前だろ？巧」
気付いたかと、巧は心の中で舌打ちをした。
「だけどよ、あのくらいでダメになるようじゃ、まだまだってことだろ？」
「そんな風に凪浜に勝ったとしても、俺は堂々と胸を張れない。
二年前は、確かに俺たちと凪浜の差ははっきりしていた。けど、今の俺たちなら、正々堂々戦っても、勝てる力があると俺は信じてる。
だからこそ、本当の力で勝負して、勝ちたいんだ」
はっきりそう言われて、巧も黙りこんだ。
あの時の悔しさを糧にして、今日まで努力を一番にしてきたのは、史央だということは、巧もわかっていた。チームを盛り上げる為に、自ら率先して練習に励 み、時には憎まれ役も買ってでた。そんな史央だからこそ、川城の選手たちはついてきたのだ。今の川城の原動力になっているのは巧だと言われてはいるが、そ れは史央も同じだ。どちらかが欠けていれば、今の川城はなかった。巧もそれはわかっている。
返す言葉が見つからず、巧が黙りこんでいると、それからと史央が話を続けた。
「それから、俺と沢木のことは、もう放っておいてくれないか」
俯きがちにそう言った史央に、巧はハンと笑いながら答える。
「もっとガンガン攻めろって。お前がそんなんだから―」
「振られたんだよ、俺は」
はっきりそう言われて、巧は改めて史央を見つめ返した。声は低かったが、淡々と語るその口調には、史央の決意が現れていた。
「確かに怯んだのは俺だ。でも、そうしなければ、沢木は俺をふって、きっとそれで終わっていた。
俺は今のままでいい。今のままでも、沢木と繋がっていられるんだったら、それでかまわない。
俺は、沢木の幸せを見届けたいんだ。その時傍に居るのが俺ならもちろん嬉しい。けど、そうじゃなくても、あいつが本当に心から笑っていられるようになるまでは、見ていてやりたいんだ」
だから、お前はもう手を出すな。
はっきりそうは言わなかったが、巧には史央の気持ちがちゃんと伝わっていた。
確かに、史央の言った通りだった。
巧にとって史央と萌子の関係は、いつからか凪浜を挑発する為の材料でしかなかった。
力なく立ちつくした巧の肩を、ポンと史央が叩く。
「手、血が出てるぞ。マネージャーに治療してもらえ」
史央はそう言うと、控室に戻っていった。
痛みのある右手を見ると、確かに甲に血がにじんでいた。
「ったく…真面目すぎんだよっ、お前はさ」
小さな声でそう呟きながら、巧は右手を握りしめた。
集められた部員の中には、悔し涙と滲ませているものもいれば、少しホッとしている表情のものもいた。
インターハイの県予選の決勝。
前半をリードされた凪浜は、後半勢いを取り戻したものの、結局一点差を詰められず、負けて準優勝となった。インターハイ本選には、神奈川県から二校出場できるので、凪浜も川城と一緒に出場はできるものの、気持ちの面でもその差は大きい。
勝っていればその勢いでとなるのだが、負けて出場となれば、まずはそのメンタル部分が重要だ。今日の試合で一度落ちた気持ちを、三週間後には再び奮い立たせなければならない。
石橋は目の前に並んでいる部員ひとりひとりの表情を見ながら、徐に口を開いた。
「残念ながら、今日の試合は負けた。応援してくれた部員には申し訳なく思う。特に、今日を最後に引退する部員たちには、花道を作ってやれなくて、本当にすまない。
個人的には、皆にはいつも悔いの残らない試合をしてもらいたいと思っている。そういう意味では、今日は大いに悔いの残る試合にはなった。
けれど、今はそれを前向きにとらえていきたいと思っている。今日の試合で感じた問題点、ウィークポイントは、はっきり見えてきたつもりだ。だからこそ、次のインターハイではそれらを克服して行けば、もっともっと上にあがっていけると思っている。
皆も、今日の悔しさは忘れないでくれ。
夏はまだ始まったばかりだ。
特に三年生には、高校最後の夏になる。
皆、悔いの残らない夏を過ごしてほしい」
「はいっ」
石橋の声に、部員たちはそれぞれの思いを胸に返事をした。
応援席の荷物を、選手が乗ってきたバスに詰め込んで一方で、選手たちも次々とバスに乗り込み始めていた。
萌子はステップに足を乗せようとしていた成の姿を見つけると、声をかけた。
「あの、成っ」
話があると思ったのか、成はバスに乗るのを止めて、萌子のところにやってきてくれた。バスに乗り込んで学校に向かうのは一緒だが、その後萌子は後片付けをしなければならない。話すなら、今しかないと思ったのだ。
人目を避けるように、バスのフロント側に立ち、萌子は頭を下げた。
「ありがとう、今日は」
顔を上げると、成は何のことだがわからないと言った表情を浮かべている。萌子は慌てて説明した。
「あの時、迎えに来てくれて、…嬉しかった」
素直にそう言うと、成は逆に顔をしかめた。
「そう言われると、反省する」
「え」
「もっと早く、萌子に謝るべきだったなって」
小さくごめんと謝る成に、萌子は一瞬間を開けて、慌てて首を振った。素直に成が自分のことを気にかけてくれていたことに、胸がぎゅっと掴まれたような痛みを感じた。と、急に巡りが良くなったように胸がドキドキし始めた。
…どうしよう。
考えることはない。成の傍から離れよう。
そう思った萌子に、成が口を開く。
「ところで萌子、今なら少し時間あるし、行ってきたら？」
「え？どこに？」
「今川のところ」
予想外の言葉に、萌子は一瞬頭が真っ白になった。
「あ…うん、でも、大丈夫。向こうも、多分忙しいと思うし」
慌ててそう答えると、「そ…か」と成も納得したようだった。
少し残念そうな横顔に、成の本気が見える。
本気で、そう思ってくれてたんだ。
そう感じると、今度は胸の高鳴りだけではなく、鼻の奥がつんと熱くなった。
「あ、忘れ物。控室、行ってくる」
萌子は慌ててそう言うと成の前から走り去り、建物の陰に入って、一息ついた。壁にもたれかかり、そのままずるずるとしゃがみこむと、胸を抑えてその場にうずくまる。
どうして、そんなに優しくするの。
裏切った私のこと、どうして許してくれるの。
思いだしたように萌子は左手を見つめる。
成が掴んだ左手は、かすかにふるえていた。
あの時を思い出すと、かっと頬が熱くなり、気付いたらほろりと涙が頬に零れ落ちていた。
やだ、もう。
忘れるって決めたのに。
我慢していたはずが、一度溢れだすと、あとは止めどなく涙が流れてきた。
持っていたタオルで口を抑え、声が漏れないようにと噛みしめる。
その時、足音がして、萌子の視界に誰かの足先が見えた。
「…由太」
顔を上げたところで、萌子は自分を見ている由太に気付いた。
おまけにその表情は険しく、何があったのかと追求するように鋭く萌子を見つめている。
由太としては、萌子に聞きたいことがあって探していたところに、建物の陰に消えていく萌子を見つけ、追いかけてきただけのはずだった。
しかし、誰にも見えないその場所で、萌子はうずまるようにして泣いていたのだ。
いったい何があったんだ。
そう尋ねようと由太が一歩、萌子に近づこうとしたところで、慌てて萌子は立ち上がった。
「ごめん、ちょっと。
負けちゃったの、やっぱり悔しくて」
だがそれが萌子の強がりなことは由太にもよくわかっていた。
「萌子―」
差し出したその手に気付く前に、萌子は由太に無理やりな笑顔を見せた。
「大丈夫だから。ごめん、顔洗ってくるね」
そして萌子は由太の前から去って行く。
自分の脇を通り抜けていった萌子の背中を見つめながら、由太は固く手を握りしめた。
その時、反対側から別の影が通り抜けた。
その姿を見て、由太は思わず追いかけていた。
「今川っ」
他の部員たち数人と一緒に歩きながら談笑していた史央だったが、由太に呼ばれて足を止めた。察したように、部員たちは先に行ってると言い残し、史央と由太だけが残された。二人きりになったところで、史央が肩にかけていた鞄を床に置いて、口を開いた。
「高岡だよな。何か用か？」
平然とした表情が、余計に由太の気に障った。
「萌子に何をした？」
「沢木？」
表情を曇らせる史央を無視するようにして、由太は一方的に話し続ける。
「泣いていたんだ、萌子が。
試合には負けたが、部の中の騒動はもう落ち着いた。
お前のこと以外であいつが泣く理由はない。
もう一度聞く。萌子に何をした」
真っ直ぐな由太の視線を受け止めてから、史央は決心したように答えた。
「今日はこんな状況で、話すらできてないよ。
そもそも、高岡の言っていることが俺には分からない。どうして沢木が俺のことで泣く？」
首を傾げる史央には嘘をついているようには思えない。
だが、あの塚本巧のチームメートであり、公私ともに仲がいいのであれば、平気で嘘の一つや二つ、顔色を変えずにつけるくらいの度胸があるのかもしれない。
ふてぶてしい男だ。
由太はムッとしたように答えた。
「付き合ってるんだろう」
しかしそう言った由太の言葉に、僅かに史央の表情が強張った。
もしかして、と由太は尋ねた。
「…違うのか？」
すると史央は肯定も否定もせずに答えた。
「沢木がそう言ったのならそうだ。俺の気持ちはもう決まっているから」
史央は床に置いた鞄を再び肩にかけると、お疲れさまと言い残して、去って行った。
美都はバスに乗り込もうとしている湊の姿を見つけて声をかけた。
「湊君！」
気付いた湊が、荷物を持ったままバスから降りてくる。
「どうした？」
「うん、さっきね、気付いたんだけど。湊君のユニホームの背番号、ちょっとほつれてない？」
言われて鞄を探り、汗にまみれたユニホームを出すと、確かに一部だが、糸がほつれていた。今日の試合で相手選手ともみ合いになった時に引っ張られたり 色々して、そうなってしまったんだろう。ユニホームは、個人の持ち物ではなく、いわば部の持ち物だ。自分が使っていてほつれてしまえば、自分が直さなけれ ばならない。
「貸して。私、直してくるから」
「あー大丈夫。汗臭いし」
美都がその端を掴んだもののの、湊もそう言って離さずにいた。汗でぐっしょりと濡れ、グラウンドの土で汚れたユニホームは、女の子に渡すようなものではない。しかし、美都は大丈夫と手を離さずにいた。
「皆の洗濯ものだってやってるんだもの。慣れてるし、汗や泥は一生懸命戦った証拠。気にしないで」
珍しくそう強く美都が言うので、湊としても引きづらくなる。どうしようかと顔を上げたところで、湊は美都の後ろに立つ陰に気付くと、それじゃあと手を引くことにした。
「わかった。ありがとう」
美都はほっとしたような笑顔を見せると、湊のユニホームをきちんと畳んで手にする。美都としては、常日頃世話になっている湊へのお礼をしたかっただけだった。
よかったと、一息ついたところで、湊の視線がどこか遠くに向いていることに気付いた。
「湊君？」
声をかけると、ああと気付いたように湊は声を上げ、
「じゃ、頼んだから。ごめんな、和美」
とバスに乗り込んで行った。振り返ると、確かに和美がこちらの様子を見つめながら立っている。
「どうかしたの？和美君」
美都が駆け寄り、そう声をかけたが、和美は不機嫌そうな顔で、
「別に」
と答えるだけだった。
「萌子、電話よ」
母にそう言われて電話に出ると、思った通り史央だった。
「優勝おめでとう」
萌子が真っ先にそう言うと、史央は苦々しく笑ってからこう言った。
「だけど、今日の試合は俺たちの負けだ」
それを聞いて萌子は、史央は気付いていたんだなと思った。
巧のしたことは、薄々感じていたものの、実際に分かったのは試合の後の谷田部の話だった。
許せない。
そう思った。
だがそれがそのまま川城の選手たちへの怒りにはならなかった。負けたとはいえ、一点差を守りきったのは、川城の実力だ。それに、最初の巧のフリーキックは見事だった。仮に巧の行為がなかったとして、凪浜が勝てたかどうかはわからない。
それほど、二校の実力は拮抗していた。
「だけど、次戦う時がきたら、その時は。正々堂々と戦うよ」
「よろしくお願いします」
それじゃあ、と電話を切ろうとしたところで、史央が躊躇いながら萌子を引き留めた。
「あのさ、沢木。前にも言ったけど、俺の気持ちは変わってないから。
沢木が俺を利用してくれるのは、一向に構わない。むしろ、そうしてくれて嬉しい。
だけど、泣くな。俺の知らないところで泣いたりしないでくれ」
「どう…して？」
由太以外には見られていないはずだと思う萌子の声が強張った。それに気付いた史央は、大きく息を吐くと、はっきりと答えた。
「高岡に、沢木が泣いたのは俺のせいだと詰られた」
恥ずかしさで顔が真っ赤になる萌子に、史央の慌てた声が聞こえてくる。
「誤解しないでくれ。俺は別に、見当違いなことを言う高岡にも、俺と付き合ってると言っている沢木にも、腹を立ててるわけじゃない。腹を立ててるんだとすれば、沢木が一人で泣くような状況にしているのに何もできずにいる自分に腹を立ててるだけだ」
史央を利用していることがばれてしまい、萌子は謝った。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。そうした方がいいなら、俺としては構わない。
けど、沢木。辛いのか？」
心配そうな史央の声に、萌子はこくりと頷いた。
「少し…辛かっただけ。でも、もう大丈夫。
わかってたの。今までのことなかったみたいに、すっぱり忘れたりはできないだろうなってことは。
でも今はそれがわかったから。
少しずつ少しずつ、波にさらされてまあるくなっていく硝子のかけらみたいに、そうやってゆっくりと忘れていこうと思う」
そう答えながら萌子は左手を見つめた。
あの時は震えていたけれど、今はもう大丈夫だ。
そう。そうやって少しずつ、時間をかけて忘れていけばいい。
すると、史央がわかったと口を開く。
「それじゃあ、俺はずっと待ってる。
沢木が、沢木のことを泣かした奴のこと、ゆっくり忘れていくのを待ってるから」