Maybe Blue 第三部 誰かのために
夏天3
ベンチでは、いきなり興仁が立ち上がったかと思うと、着ていたジャージを脱ぎ捨て宣言するように言った。
「監督、俺行きます」
「何を言ってる。落ちつけ、高津」
石橋がそう答えるが、興仁は聞いていないのか、勝手にベンチの脇でストレッチを始めている。萌子も立ち上がり、興仁にとりあえず話しかけようとするが、
「谷田部の様子がおかしい。きっと何かあったんだ」
と独り言を呟くように言って、まったくベンチの方を見ていない。
「でも興仁。まだ怪我が治ってないじゃない」
心配そうに言う萌子にも、興仁はきっぱりと言う。
「テーピングすれば大丈夫。それと、無理にキャッチしなきゃ、何とかなる」
一歩も引く様子がない興仁に、萌子は困ったようにベンチを振り返る。その視線に応えるように、腕組みをしていた石橋がはっきりと言った。
「いや、もう少し様子を見よう」
「監督！」
悲鳴のような声を上げて興仁は石橋に駆け寄っていったが、その険しい表情を見て、興仁も諦めたようだった。脱ぎ捨てたジャージを拾い上げると、溜め息をついてどんとベンチに座る。そして、心配そうにゴール前に立つ谷田部を見つめた。
自分が出れない試合で、ここまでのいい流れを変えるように点を取られた谷田部のことが心配なのだろうか。
萌子はそう思いながら組んだ手を口許にあてている興仁の横顔を見つめる。
意外とあれで、面倒見いいからな。
しかし萌子も、谷田部の動きが気になったのは確かだ。
さっきの失点も、どこか縮こまったような印象を受けた。
何でもないと、いいけど。
グラウンドの中では、試合が再開されようとしていた。センターサークルではボールを持った知朗と望が並んでいる。
「だが高津、準備だけはしておけよ」
ふいに石橋の声がして、興仁は勢いよく立ち上がった。
「はい！」
しかし、興仁の不安は残念ながら的中していた。
それから五分も経たないうちに、凪浜はまたしてもコーナーキックから中央に高く上げられたボールに、塚本がヘディングであわせて、一点を取られたのだ。
同じような攻撃に、同じような失点。
二点リードとなり浮かれた川城イレブンをしり目に、成はゴール前でボールを持ちながら項垂れている谷田部に声をかけた。
「谷田部」
肩に触れようと手を上げると、またも谷田部がびくついた。
その様子に、成は谷田部の負った傷の深さを理解した。そして谷田部自身も自分の反応に驚きながらも、じっと見つめる成を見て、諦めたように俯いて呟いた。
「…すみません、俺。怖くて…。前半、川城と競り合ってから、接近戦が怖くて、それで…」
すみませんと何度も謝る谷田部の肩が少し震えていた。
きっかけになったのは、あの巧のプレーだろう。あれが、故意か偶然かはわからない。だが、その後に取った二点は、確実にそこを狙っていたものだ。
相手の弱点を攻めることは、間違ってはいない。だが、もし最初の行為が故意だとしたら、それは笑って許せるようなことではない。下手をすれば、谷田部という一人の選手をつぶしかねない。
「いいから」
成はそう言うと、震える谷田部の腕を何度か叩いて、ベンチを仰いだ。
石橋はすでに立ちあがっていた。
ユニホーム姿の興仁まで、ライン際に立っている。
自分が交代するとわかって、谷田部は深く成に頭を下げると、足早にグラウンドを出て行こうとした。思わず成はそんな谷田部に声をかける。
「自分を責めるなよ、お前だけのせいじゃないからな」
走り出していた谷田部の足がぴたりと止まる。そして、谷田部は再び頭を下げると、駆けだしていった。
そう、二失点は谷田部だけのせいじゃない。
その前にきちんとクリアしていれば、取られることのなかった点だ。
残り十五分。
点差は二点。
おまけにキーパーは怪我人だ。
借りは、返さないと。
成がベンチを再び見ると、石橋が軽く頷いているのが見えた。
チャンスが来たら、上がっていけ。
そういうことだ。
成はぐるりとグラウンドを見渡した。
ひときわ目立つ金髪の選手は、けだるそうにグラウンドを歩いている。
巧もそろそろスタミナが切れてくる頃のはずだ。
「大丈夫かよ、興仁」
ゴールに向かって走ってきた興仁に、ケンがそう聞いている。心配してか、湊も集まってきていた。
「任せとけ。
あ、けど、キャッチできるか不安だからさ、基本パンチングになると思う。だから、フォロー頼んだぞ」
「仕方ねぇなぁ」
ケンはそう言ってにやりと笑う。その笑顔を見て、成はまだまだ自分たちはいけると思うことができた。
それでもまだ心配そうな表情を浮かべる湊の名前を成は呼ぶ。
「湊。俺、チャンスが来たら上がるから」
だから、あとは頼んだ。
そうは言わなくても、湊にその気持ちはきちんと伝わり、わかったと返事が返ってくる。
試合を再開するホイッスルが鳴った。
その後の試合展開は、ほぼ川城陣営での試合となった。
攻める凪浜に、川城は防ぐ一方となった。実際巧一人だけを凪浜のゴール前に残し、他は全員が守りに回っていた。これ以上点を取ると言うよりは、この二点 を守りきって勝ちに行くということなのだろう。人数が多い分だけ、凪浜もマークをされて、シュートまでは至るものの、なかなか得点に結びつくことができず にいた。
何とかコーナーキックを取ったところで、成が上がっていくと、コーナーに立つ右京と目があった。
ファーサイドの左に走りこめ。
そう右京が言っているのがわかる。
実際に川城の選手たちは、中央に集まった望や和美たちや、ニアにいる知朗をマークしているようだ。成は逆サイトの、しかも少し離れたところに立ち、その様子をうかがっていた。
右京の蹴りだしたボールが、天高く舞い上がる。中央ではそのボールに向かって何人かの選手がジャンプをしたが、届くような選手はおらず、ボールはそのまま選手の疎らな左サイドへと落ちて行く。成は、 その落下点に向かって必死で走っていた。思ったよりも、ボールの勢いが速い。いや、そうでなければ、きっと途中でカットされてしまうと言うことなのだ。い つだって右京からのボールは、そうだった。パスする相手の百パーセント力を出し切ったところにボールを出す。
間に合うか。
後ろから川城の選手が成を追いかけているのが息でわかる。
正面にも、中央から流れてきた川城の選手が迫ってきていた。
ボールをトラップしてからシュートする余裕はないだろう。
そもそも、ボールに追いつけるのかも危ういのに。
間に合えっ。
成は落ちてきたボールに向かって、トラップすることなくそのままスライディングするようにボレーシュートを放った。ボールは正面に来ていた川城の選手の脇を通り抜け、そのままゴールネットを揺らした。
わっと歓声が沸き上がる。
二対三。
ようやく一点差だ。
「流石、わがチームのリベロッ」
「やったな成！」
グラウンドに横たわったままで冷静に時計を見ている成を、他の選手たちがもみくちゃにする。成は立ち上がり、丁寧に一人一人に応えると、いつの間にか前に立っていた右京とハイタッチを交わした。
「あと、一点だ」
笑顔で成がそう言うと、右京は相変わらずのポーカーフェイスで、
「あと二点だ」
と淡々と答えた。
確かに、あと一点で追いつくが、勝つなら二点取らなければならない。
「急ごう、あまり時間がない」
その後も、凪浜の攻撃は続いた。
「右っ、知朗、右に開けっ」
興仁の怒鳴り声が聞こえてきて、巧はうるせぇなと小さく呟く。
点差が一点になっても、川城のその点差を守る試合運びは変わらなかった。攻める余裕がないのも事実だが、攻められる選手がいないのも事実だった。今まで攻撃の中心に居た巧は、スタミナ不足からボールから遠く離れた凪浜陣営で、走るどころか時折立ち止まってすらいる。
「だから、右だって！！」
更に叫ぶ興仁の声に、嫌気がさした巧はついに興仁に近づいていき、声をかけた。
「そんな大声出して大丈夫かよ。怪我、治ってないんだろ？」
すると興仁は、にっこりと笑って答えた。
「医者ってのは大げさに言うからさ。でもホラ、大丈夫だし」
興仁はそう言って、両手をバンバンと叩きあった。
どうも、こいつのテンションと前向きっぷりにはついて行けねぇ。
話しかけたくせに興味のなくなった巧は、そのまま興仁から離れて行こうとしたが、今度は逆に興仁から話しかけられた。
「塚本、頼みがあるんだけどさあ」
何だと足を止めると、興仁は声色を変えることなく続ける。
「謝ってくれないかな、うちのマネージャーに」
巧は思わずくすりと笑って答える。
「マネージャーって、うちのキャプテンの女に？何て？デートできないくらい、練習に没頭させてスミマセンって？」
しかしそんな巧の挑発に興仁はのることなく、答える。
「萌子じゃないよ。一年の小森って子。責任感の強い子でさ、俺の怪我は自分のせいだって責めてるんだ。
本当は、お前が原因なのに」
小森のこと覚えてるだろう？と興仁は真顔で巧を見つめる。
気付いてたのかよ、と思いながらも巧はへらへらと答える。
「あーそうだったっけ？でもわざとじゃねぇよ、偶然―」
「小森も可哀そうだよ。本当は俺にボールをぶつけようとして、失敗したあて付けにされて」
きっぱりという興仁を、その時巧は初めてまじまじと観察した。
気付いてたってわけか。ぼーっとしてそうなのに、なるほどね。
巧はまたくすりと笑うと、はいはいと流すように返事をした。
「気が向いたらな。けど、試合に負けた腹いせに、そいつ俺のこと殴ったりしねぇよな。女ってヒステリックだからさ」
これで話は終わりだと、巧がそう話を切って背を向けた時、ふいに興仁の声が聞こえてきた。
「お前、もったいないな」
「え」
言われた意味がわからずに、巧は自然に振り返る。興仁は真面目な表情を崩さずに、本当に悔しそうに言った。
「多分、お前が凪浜に来てたら、もっとすごい選手になってたよ」
そう言われてようやく、もったいないの意味がわかった。
瞬間、悔しさが猛烈に巧の体の中から沸き上がった。
「…何だとぉ―」
そう吐き捨てると、興仁に近づき、ユニホームの胸倉を掴んだところで、興仁は悔しい表情のままで答えた。
「今度イエローもらったら、退場だろ。次のインターハイも出れなくなるぞ」
その言葉に、巧も振り上げた手を止めるしかなくなる。
「巧っ」
突き刺すような史央の声が聞こえてきた。
次の瞬間、史央が巧の手を抑えて、興仁から引き離す。
「何やってるんだよっ」
その後すぐに主審が近付いてきて興仁に尋ねた。
「何があったのかね」
「いや、何でもないです。すみません」
そう興仁が答えたので、主審は次に巧に尋ねた。
「君が高津君を殴りかかろうとしてるように見えたんだが、それは気のせいかね」
どうやら試合は、川城選手の怪我のせいで中断しているようだ。何事かと他の選手たちも、二人のところに集まってきていた。
「…はい」
間を開けて、巧が気の抜けた返事をすると、主審はもう一度興仁を見つめた。
「本当かね？高津君」
「はい、お騒がせしてすみませんでした」
互いに口を割らないと思ったのか、主審は溜め息をつくと、グラウンドの中央へと戻っていく。その背中に、史央は深く頭を下げた。そして再び顔を上げた時には、興仁にも頭を下げていた。
「悪いな」
「いいや」
そして巧がまた何か言いだす前にと、史央はすばやく巧の肩に手を回し、グラウンドを歩き始める。歩きながら史央は巧に話しかけた。
「そろそろ交代した方がいいんじゃないか？巧」
「冗談だろ？俺抜きでどうやって点取るんだよ」
鼻で笑う巧に、史央はすまなそうに答える。
「監督はもう得点を必要としていない。むしろこの一点を守りきるよう指示してる」
その指示が、この試合に勝つ為に的確であることは巧にも分かっていた。だが、思わず口を開いてしまう。
「ったく、身勝手だよな。監督も、お前も。
俺はさ、点取ればいいわけ？点取ったら、用済みなわけ？」
史央が一瞬何かを言いかけたが、それを飲み込み、小さな声で答えた。
「だけどお前、もう走れないだろ？」
ボールの来ないところで、走ることなく、まるで休憩しているかのように歩く姿は、必死にプレーを続けるチームメイトから見て気持ちのいいものではない。
「わかったよ」
巧はそう答えると、自らグラウンドの外に出て行こうとした。
どうせ史央がそう言うってことは、監督だってきっともう準備してるんだろう。
実際、自分の息も上がっている。史央が走れないと言ったのは、間違いではない。
この暑さと、湿度の高さが、いつも以上に巧の体力を奪っていた。
「巧」
史央に呼び止められて、あ？と巧は振り返る。
「何言われた？凪浜の高津に？」
一方的に巧に非があるわけだとは思っていないことがうかがえるその言葉に、巧はふっと笑みをこぼした。
「別に。どうでもいいこと」
残り時間あと十分。
そうして川城は主力である塚本巧の交代を告げた。