Maybe Blue 第三部 誰かのために
夏天2
控室に入ってくるなり、樹生は持っていたドリンクの容器をロッカーに投げつけた。その音に、選手たちにタオルを配っていた望もびっくりして振り返った。周囲の視線に気付いていながらタオルを頭にかけてベンチに座っている樹生に、望はそっと声をかけた。
「どうした？ミッキー」
「何でもねぇよ」
声が低い分だけ、返事が短い分だけ、その怒りの強さがわかる。確かに樹生は決定的なチャンスをものにしつつも、外していた。
望はそれ以上会話するのを諦めて、他の選手に再びタオルを配り始めた。控室に入れる部員は限られているから、こういった雑務も控えの選手がやらなければならないのだ。それに、ハーフタイムの十分は決して長くはない。その間に体を休めるのはもちろん、後半に向けての立て直しを図らなければならない。怪我をした選手がいれば、そのケアもしなければならない。これ以上樹生に声をかけて、怒らせ、喧嘩をする余裕はないのだ。
望がいなくなって、一人になった樹生は、じっと考え込んでいた。
一点、いや二点は取れたはずだった。
しかし自分はそれを外したのだ。
おまけに川城に一点取られてしまい、凪浜が勝利するには、あと二点は取らなければならなくなった。
俺が、取らなきゃならない。
俺が。
更に気持ちが焦る。
ふいにさっき、巧に言われたことを思い出した。
前半が終わって、グランドから引き揚げてくる時、偶然樹生は巧と並ぶことになった。
多くの凪浜の選手がそうであるように、樹生も巧のことはよく思っていない。いやむしろ天敵だと思っている。
おまけにシュートが決められていない苛立ちから、そそくさと離れようとしたところで、巧の方から声をかけられた。
「ハーフタイム短いから、急いで便所行った方がいいぜ。グランドでお漏らしはできねぇだろ」
その声に思わず振り向くと、巧が樹生を見てくすくすと笑っていた。馬鹿にされたと気付いた樹生は顔を真っ赤にして、とびかかろうとしたが、その前に巧は すっと川城に控室へと戻っていってしまった。追いかけようとしたところで、後ろからやってきた成に背中を叩かれ、樹生は怒りを抱えたままに控室へと戻って くることになったのだ。
思い出したところで、樹生は再びギリギリと奥歯を噛みしめる。
あの時は、ちょうど樹生もトイレに行くことを考えていただけに、心を見透かされたようで余計に苛立ちが増していた。
しかし、とはたと気付く。
どうして、塚本巧は、自分がトイレに頻繁に行っていることを知っているのだろうか。凪浜もそうだが、川城の控室の辺りにもトイレは用意されているはずだ。
その時、控室の声が樹生の耳に戻ってきた。
「大丈夫？さっきの怪我」
男所帯の中でもひと際通る高い声は、萌子の声だ。
その時にある考えが樹生の中で思い浮かぶ。よく考えるより先に、樹生はタオルを外して立ち上がると萌子の前に立ちふさがった。
谷田部に声をかけていた萌子だったが、その前に樹生が現れ、少し戸惑った表情を見せる。
「どうしたの？樹生君。どこか怪我でもしてる―」
「川城に、情報流してるのか？」
「え？」
控室の空気が、樹生の言葉に張りつめたものへと一瞬にして変わる。運悪く監督もコーチも控室にはいない。樹生は一歩萌子へと詰め寄ると、揺るぎない表情で萌子を睨みつけた。
「俺の情報、やつらに流したろ」
「ちょっとミッキ―」
気付いた望が慌てて間に入るが、それでも樹生の口は止まらなかった。望の手を振り払うと、そのまま萌子に怒鳴り散らす。
「あいつらに頼まれたのかっ？それとも、彼氏の為に自分から流したのかっ」
「そんなこと、してないわ」
冷静な萌子の声が、更に樹生の気持ちを逆なでする。
「だったらどうして塚本巧が俺がトイレに何度も行ってること知ってんだよ。
さっきだろ、さっき俺を追いかけてきた時、あいつらに情報流してんだろっ！
萌子さんはどっちの味方なんだよ！」
控室が静まり返る。部員たちの視線が、萌子へと集中していた。萌子が戸惑いながら口を開こうとした時、急にドアが開いて石橋が入ってきた。
「ミーティングやるぞ」
石橋はすぐさま、控室の様子がおかしいことに気付いた。
「どうした？何があった？」
当然だが、答える部員はいない。
石橋は問題ないと判断したのか、時間がないと思ったのか、すぐにミーティングの準備を始めた。ホワイトボードに選手の背番号を書いたマグネットを貼りつけたところで、静かな音を立てて控室を出て行こうとする萌子の背中が見える。
「沢木？」
「すみません、少ししたら戻ってきます」
自分を呼びとめる石橋の声に萌子はそれだけ言うと、控室を出て行った。
「…なんか、やばいよな」
応援席のベンチに座ってそう篤志が呟いた。ハーフタイムに入り、凪浜の応援席に漂う雰囲気は、あまりいいものとは言えない。
すぐさま隣の理香が立ち上がって怒鳴り返す。
「何言ってるの！そんな弱気じゃダメ！大丈夫、勝てるってば！」
「けどさ…、川城調子いいじゃん。特に塚本とか」
川城の一点目のフリーキックを思い出して、ため息交じりに篤志が呟く。
「塚本以外でも、今川も絶好調だし」
「やっぱ彼女の前だと、気合入るんじゃないの？」
厭味交じりに山田がそう言う。同意するように篤志が大きなため息をついて呟いた。
「萌子の為を思うなら、負けてくれてもいいのなぁ」
「そういうことされても萌子は喜ばないでしょ」
覇気のない篤志に思わず理香がそう言うと、じろりと上目づかいで言われる。
「じゃあ、萌子はどっちが勝つことを願ってるわけ？」
「それは…」
言葉に詰まる理香に代わって、厳己が言い返した。
「当然僕たちが勝つことを願ってるに決まってるよ」
「そっそうよ！絶対、そう！だって、あたしたち、三年間一緒に頑張ってきた仲間なんだし！」
厳己に押される形になって、ムキに言う理香に、山田がぼそりと答える。
「けど女って、友達か彼氏かって時、彼氏の方選ぶじゃん」
実際に自分だったらと一瞬考えた理香は、その答えを振り払うように大きく手を振り上げて言い返す。
「そうだとしても、萌子は違う！」
「けど、最近の沢木おかしいじゃん。試合じゃなくてミスコン選んだりしてさ。なんつうか、信じられないっつぅか」
一歩も引かない山田を思わず殴りかかろうかと拳を握りしめた理香だったが、ふと山田の後ろに座っていた千鶴の頬に涙が流れていることに気付いた。
「…ちょっと、千鶴ちゃんどうしたの？どこか痛い？お腹？それとも頭？」
「違います。そうじゃなくて」
慌てて顔をタオルで隠す千鶴だが、時々すすりあげる声で、泣いているのは隠せずにいた。
動揺した理香は、思わず篤志の頭を叩く。
「ほら、アッチが負けるようなことばっか言うから」
「え？オレ？」
急に振られた篤志も、とはいえどうしていいかわからずにいると、千鶴が違うんですと、小さく声を上げた。
「そうじゃなくて…。萌子さんは、本心でミスコンを選んだわけじゃないんです」
小さい音を立ててドアが閉まると、控室には重たい空気が広がった。口を開きかけていた石橋も、すぐにミーティングを始めるわけでもなく、部員たちを見回すだけで何も言わずにいる。
「いい加減にしろ、樹生」
最初に声を上げたのは、成だった。
成は、項垂れている樹生に向かって、ぴしゃりと言った。
「自分の不調を萌子のせいにしても、何にもならないことくらい、わかってんだろう。甘えるのはやめろ」
頭の中ではわかっていたことを言われて、樹生は唇をかみしめる。
「…すみません」
噛みしめるようにそう言うと、
「それは俺に言う言葉じゃない」
と一蹴された。
全てが正論で、樹生は更に項垂れて床をじっと見つめることしかできなかった。
スランプの原因は、樹生にあり、萌子は関係ないのだ。
わかっていた。
萌子が、川城にそんな情報を流すわけないとも、応援してるのは凪浜だと言うこともわかっていた。
わかっていたのに、あえて萌子を詰って、責め立てた。
八つ当たりだ。一方的な感情だ。
だがそんな樹生を、萌子は否定も肯定もせずに、自ら身を引いた。
わかってるよ、樹生君のことは。
そこにそんな萌子の気持ちがあるような気がして、樹生は自分に更に腹を立てた。
黙りこむ樹生を見ていた成だったが、ふと視線を周囲に向けると声を上げた。
「皆だってそう思ってたんだろう？
最近ずっと雰囲気悪かったこと、萌子のせいにして、謝りたいと思ってるけど、謝れずにいたんだろう？」
部員たちはそれぞれの顔を見合わせる。そうして目が合うと、みんな一様に目を伏せた。
「萌子は俺たちの味方だ。今までずっと一緒にやってきた仲間なんだから。そうだろう？」
成の言葉に控室には沈黙が続いていた。だがふいに由太が皆に背を向けて、ドアに向かって歩き始めた。
「由太？」
呼び止めるような興仁の声を無視する由太の手がドアノブに触れた時、力強い手がそんな由太の肩を引く。振り返ると、成がいた。
「俺が行く」
その声には有無を言わせない強さがあった。
萌子を非難するきっかけは成との関係にあった。そう思えば、この雰囲気を収めるには成が萌子を連れてくるのが一番いいし、そうすべきだと由太は思った。しかし、由太は自分で萌子を探しに行きたいと思ったのだ。キャプテンと言う立場ではなく、一人の男として。
だが、それを今この場では言うべきではない。
「監督、ミーティングは先にはじめててください。萌子を見つけたら、すぐに戻ってきますから」
何か由太が言おうとする前に、成はそう言うと由太より先にドアノブをまわして、控室を出て行った。
少し歩いたところで見えた階段に萌子は座ると、自然と溜め息が出た。
樹生の言っていることが、八つ当たりであることは萌子にもわかっている。そういえば、トイレに行った樹生を呼びに行った時、樹生と入れ違いのように入っていく川城のジャージが見えた。きっとその選手が、控室に戻って樹生のことを告げたのだ。
八つ当たり。
わかってはいるけれど、それでも実際にされると、いい気持ちはしない。
それどころか、あの沈黙が控室に居た部員たちが皆萌子の答えを待っている時間のように思えた。
凪浜を取るのか、それとも川城を取るのか。
萌子にすれば愚問でしかないその問いかけは、皆にすればそうではないのかもしれない。
いつから、こうなっちゃったのかな。
両手を頬にあて、萌子は考える。
…ううん、それでも。私が選んだことだ。
今川君とつきあうと嘘をついたのも、
関東大会よりミスコンを選んだのも。
そこにどんな理由があろうとも、選んだ自分の責任だから。
部員からの疑いの目を感じた時、萌子はチームのミーティングに自分は立ち入ってはいけないと感じた。実際にその内容を川城に伝えなくても、そう言った不信感を選手たちに植え付けるのはよくないと思ったのだ。
時計を見ると、後半が始まるまであと五分になっていた。
そろそろ戻らないといけないかな。
いくら部員たちから疑いの目を向けられていたとしても、マネージャーとしての仕事は山のようにある。
立ち上がろうとしたところで、萌子は目の前に大きな影があるのに気付いた。
ふと顔を上げると、成が立っている。
「戻ろう、萌子」
優しい声と差し出された手に、萌子はどうしていいのかわからずに、ただそのまま成を見つめていた。すると成は、くすりと笑って萌子の手を取った。
「悪いけど、時間ないから」
「え、でも…」
戸惑い続ける萌子を無視して、成はその手を強く引き続ける。
ドキドキしていた。掴まれた手が、頬のように熱くなっているような気がする。それが成に伝わってほしくなくて、何度か萌子は成の手から逃れようとしたけれど、そのたびに成は力強く萌子の手を掴み直す。
「今までごめん。萌子のこと、信じてあげられなくて」
何のことかわからずに、ただじっと成を見つめていると、控室まで来たところで成がようやく萌子の手を離した。
「仲間のこと信じられなくて、試合に勝てるわけないよな」
成はそういうと、萌子の顔を覗き込むようにして身を少しかがめて、萌子の同意を求めるように、いい？と尋ねた。萌子が慌てて二三度頷くと、成がノックをしてからドアを開ける。
すると、控室に居た選手たちが振り返った。
そしてそれぞれが一斉に口を開きだした。
「萌子さんっ」
「ごめんなさい」
「俺らが悪かった」
突然向けられた言葉に、萌子はまだ戸惑いを隠せずにいた。
「え…っと」
そうこうしているうちに、皆に押し出されるようにして、樹生が萌子の目の前に立つ。
始めは視線を左右へと忙しなく動かし、口もへの字に曲げていた樹生だったが、意を決したように大きく息を吸い込むと、深々と頭を下げた。
「八つ当たりしてすみませんでしたっ」
どういうことかと萌子が他の部員たちに視線を送ると、皆が笑っている。萌子のいない間に何があったのかはわからないが、とにかく樹生は反省しているようだ。
「いいよ、別に。わかってたし」
萌子の言葉に、知朗が答える。
「それじゃますます甘えてたってことだな、樹生」
ムッとした表情の樹生に、ケンが笑いながら言う。
「こいつ絶対彼女の前じゃ甘えるタイプだよな」
「赤ちゃん言葉とか使っちゃうわけですか、新田クン」
からかう興仁たちを、ついに切れた樹生が怒鳴り散らす。
「んなこといわねーっつぅの！」
飛びかかろうとする樹生を望が必死で抑える。
「まあまあミッキー。先輩たちも悪気があってやってるわけじゃないし」
「そうそう、からかってるだけ」
「だから余計ムカつくんだよっ」
顔を真っ赤にしている樹生に、更にケンがこう聞き返す。
「ってかお前彼女いたっけか？そもそも」
「いないですよ」
「お前が言うなよ、望！」
そう言って笑いが起きる。気付けば萌子も自然と顔がほころんでいた。その空気を引き締めるように、石橋が両手をパンパンと叩くと、早口でそれぞれに指示を出した。
「さあ後半が始まるぞ。グランドに行こう。早坂、後半の作戦については和泉から聞いてくれ」
「はい」
「それから新田。青山と交代だ。理由はお前自身がよくわかってるな」
「…はい」
「それと沢木がミスコンに出ることになったのは、俺の責任だ」
「監督！」
石橋は抗議した萌子に向かって手を上げて何も言うなと告げると、驚きで足を止めたままの部員たちに聞こえるように大きな声で言った。
「話してなかったが、今年に入ってから部の補助金が減らされた。補助金が足りなければ、遠征の数も減る。そうなれば、お前たちの経験の場も減る。沢木はその補助金を校長からもらうために、ミスコンに出ることになったんだ。本人は知っての通り出る気なんてなかったが、校長が宣伝の場になるから出場してもらいたがってな。そういうことになった」
すると、湊が口を開いた。
「…そんなことだったなら、遠征なんて行かなくてもいいです。凪浜で頑張れば、いいだけのことです」
それをきっかけに、皆それぞれ口を開き始める。
「そうそう、何なら相手に来てもらえればいいわけだしさ」
「遠征ばっかだと、結構疲れるし」
「俺も、そう思います。誰かが犠牲になってまで、行きたいとは思いません」
部員たちの声を聞いた石橋は、軽く咳払いをすると部員たちのその声に応える。
「安心しろ。足りなくなった費用は、ＯＢたちのカンパで賄えることになった。アルジャーノンのマスターに感謝することだな」
「え、マスターってＯＢなの？」
突然知らされた真実に、控室はざわめく。
そこにコーチが声をかけた。
「監督、残り一分です」
石橋は腕時計を見ると、再び両手を叩いた。
「話はあとでたっぷり聞いてやる。とにかく今は試合に集中しろ！」
「はい！」
控室に元気な声が響く。
そうしてグラウンドに向かって走り出した選手たちの背中を見つめながら、萌子は大きく息を吐いた。
「だから萌子言わなかったんだね。何も」
萌子がミスコンに出場することになった理由を千鶴から聞かされて、美都が呟いた。
やっぱり、萌子自身が希望していたことじゃなかったんだ。
だけど萌子は責められてもその理由を言わなかった。
言えば、どうなるのかわかっていたから。
すると突然理香が、あーもうっと大声を上げて両手をぶんぶんと振りまわして言った。
「どうしてそうなのかな、萌子って、いつも自分一人で抱え込んでさ。相談してくれてもいいのにっ。
あたしだって、少しくらい役に立つよっ？」
すると理香の前に座っていた一馬が口を開いた。
「そういうことじゃない。
そういう性格なんだ。もう三年の付き合いなんだから、小池だってわかってるだろ？」
「わかってるけど」
「だったら、どうすればいいかも、わかってるだろ？」
当然という一馬の言い方に、ムッとした理香が言い返す。
「一馬っちってどうして意地悪なことばかり言うわけ？しかも、あたしにだけ！」
「だからその呼び方やめろって」
「一馬っち、一馬っち、一馬っち！」
部員も含め応援に来ていた凪浜の生徒たちが、びっくりしたように理香と一馬を見つめていた。
一馬はそれに気付いて恥ずかしそうに身を潜めているけれど、理香は臨戦態勢のままだ。
気付けばグラウンドには川城の選手が全員そろっている。美都は時計を見ながら、口を開く。
「ねぇそれより、出てくるの遅くない？何かあったのかな」
観客席にいる部員たちが不安になったところで、バタバタと忙しなくグラウンドに凪浜の選手が出てきた。
「あ、来た来た」
「よかったぁ」
ほっと安心して選手の様子を見ていた美都は、先ほどとは違う雰囲気にすぐ気付く。
「…なんか皆楽しそうだね」
「うん、なんか笑ってる」
選手たちはそうして互いに声を掛け合いながら自分のポジションにつく。
「よし！あたしたちも全力で応援するよっ！」
理香の掛け声で、部員たちはそれぞれグラウンドに向かって声援を送り始めた。
後半が始まった。
前半とは違い、立ち上がりから凪浜のペースとなった。
樹生に代わって交代した望が、積極的に前線に出るようになったおかげで、全体のラインが上に上がったのだ。
それに何より、選手たちの雰囲気が違う。
いったい、何があったんだ。
あの十分間の間に。
史央はそう思いながら、対峙している凪浜の選手それぞれの表情を観察した。
ミドルシュートを放ちながらも、ゴールバーにはじかれ、悔しがる知朗。気にするなと声をかけ、知朗の肩を叩く選手たち。その明るい表情は、前半には見られなかったものだ。
おまけに、ディフェンスが調子を上げてきていて、さっきから川城の選手はペナルティーエリア内ではボールを持つことができずにいる。
点差は一点のみ。決して安心できるものではない。
苛立ちや焦りからラフプレーが増えて、パスが雑になる。
そして後半立ち上がり五分を過ぎたところだった。
中盤で川城のパスをインターセプトした和美が、右京へとパスする。当然右京に川城のディフェンダーが貼りついているのだが、追いつかれる前に、右京はワンタッチで前線にボールを蹴り出す。
「曽根っ」
史央は思わずチームメートの名前を呼ぶ。曽根がマークしているのは知朗のはずなのに、彼は右京に向き合っている。
焦る川城陣を嘲り笑うかのように、右京の出したスルーパスは、翻弄された川城のディフェンスラインを抜けて、グラウンドを駆けていく。
そこに走り込むのは、フリーになった知朗だ。
少し距離があるようにも思えるそのパスを、俊足の知朗がやすやすと捉える。
目の前に居るのは、キーパーだけ。
一対一の、決定的なチャンス。
右か、左か。
転がすのか、浮かすのか、それともそう見せかけて、中央を狙うのか。
はっとして史央が叫ぶ。
「違う！右だっ右っ」
しかし、知朗はシュートを打たずに、右へとグラウンダーのボールを蹴りだす。
そこには、望が走り込んでいた。
ふいを突かれたキーパーが、体勢を立て直す余裕はなく、望の蹴ったボールはゴール左隅へと吸い込まれていく。
同点ゴールに、観客がどっと沸いた。
全身で喜びあう凪浜イレブンを見ながら、史央は項垂れる曽根の肩を叩いた。
「ふり出しに戻っただけだ。残り時間も十分ある。気にすんな」
わかっていたとはいえ、凪浜の選手の層は厚い。そのことを感じながら、史央は自分たちの仲間を見回した。
レギュラーはほぼ固定。部員数はそこそこ居ても、主力選手が怪我をすれば、戦力ダウンは否めない。
おまけに、中心になる巧にはスタミナがない。
つまり、いかに前半で集中して点を取るかが、川城が勝利に近づくポイントなのだ。
そう易々とは勝たせてはくれないよな、流石に。
小さくため息をつき、センターサークルに立つと、巧と御木本が何やら話しているのが見えた。訝しげな御木本に、巧が自信たっぷりの笑顔を見せている。
何だろうと思う史央に、主審がホイッスルを吹いた。
試合再開だ。
気持ちを切り替え、史央はボールを蹴りだした。
しばらくはそのまま凪浜ペースで試合は進んだ。
点を取られずに済んだのは、ディフェンス陣の頑張りのおかげだ。
しかし、このままでは勝てない。後半も二十分を過ぎ、巧のスタミナもそろそろ切れ出す頃だ。
何とか点を取らないと。
そう思う史央の前で、巧がいきなり前線へとボールを投げ入れた。
せっかくのチャンスに無謀なと思うそのボールに追いついたのは御木本だった。
史央も駆けあがり、中央で手を上げてパスを要請した。周囲に凪浜のディフェンダーがいたが、それでも普通ならば中央に折り返すべきだ。しかし御木本は、なかなかパスを出さずにいる。おかげですぐに凪浜のディフェンダーに囲まれてしまう。
何をやってるんだと思う中で、御木本が軽く蹴ったボールが凪浜ディフェンダーに当たり、川城はコーナーキックを得た。
右のコーナーキックだったので、左利きの史央が蹴ることになる。向かおうとする史央を巧が呼びとめた。
「俺、中央にいるから、高めのくれよ」
背はそこそこあるが、足技の方が得意な巧が、そう指示することは珍しかった。
そう言えば前半の時も、珍しく無理やり中央に飛び込んでいったな、と思いながら史央はボールをコーナーに置く。ゴール前では川城と凪浜の選手がそれぞれのポジション争いを始めていた。
おそらく、巧なりの作戦があるんだろう。
史央は指示通りに高めのボールを中央へと蹴りあげる。
反応したのは、巧と凪浜のキーパーだ。
そうなると当然リーチの広さからキーパーの方が有利になる。
ダメかと思った次の瞬間、ボールに向かって伸びていたキーパーの手がぴたり止まる。
あれ？と思っている間に、巧がボールをゴールに押し込んだ。
静まり返っていた川城の応援団が一気に騒ぐ。
再び川城が一点リードしたのだ。
史央はチームメイトたちとはしゃぐ巧の姿を、じっと冷静に見つめていた。巧はチームメイトたちと一通りハイタッチを交わすと、自然と史央のところにもやってきた。
「ほらな、いったろ？」
そう言って手を上げるものの、ハイタッチしようとしない史央に気付くと、諦めたのか小さくため息をついて、自分のポジションに戻ろうとした。
そんな巧を、思わず史央は呼び止める。
「何をしたんだ？」
控えの選手とは言え、この決勝リーグを勝ち進んできたキーパーのミスにしては、初歩的すぎる。それに、感覚でサッカーをしている巧にしては、さっきの指示は的確過ぎた。
何をしたんだ、巧。
追求するその視線の前で、巧はふっと息を吐くと、史央に背を向けて空を仰いだ。
「約束したよな、史央。
俺たち、絶対にあいつらに勝とうって。あの時の悔しさ、一生忘れねぇって」
それは史央も忘れたことがない。
あの後、練習量も増やし、戦略も睡眠時間を削って練った。それが時に、チームメイトや先輩の反感を買うこともあったが、こうして県大会の決勝までやってこれるようになったのだ。
「勝つぞ、俺たち。
絶対に、勝つ」
巧はそう言い残すと、すっと人差し指を立てて手を天にかざし、自分のポジションへと戻っていく。
体が重そうに見えるのは、やはりスタミナが切れ始めているからだろう。
しかしそれでも、入学当時と比べると、巧の体力もかなり上がった。
それは全て、彼らに勝つためだ。
その想いは、史央も巧も同じはずだった。
だが史央の心には、小さな黒いしみのようなものが、どんどん広がっていくのを感じた。
「谷田部、気にするな」
ゴール前に立ちつくす後輩に、成はそう声をかけて、肩に手を置いた。
しかしその瞬間、谷田部は激しく肩を震わせると一歩後ずさりする。そしてはっと気付いたように顔を上げると、そこにいるのが成であることにようやく気付いたように表情を緩めて頭を下げた。
「すみません、俺が…しっかり止めないから」
「いや。…それより、大丈夫か？前半の時の怪我が痛むのか？」
異常なほどの反応が気になり、成は尋ねた。しかし、谷田部は、
「怪我は大丈夫です。すみませんでした」
とだけ言うと、ゴールの中に転がっていたボールを急いで手にして、前線へと蹴りあげた。そして、気にするなと言うように成に向かって両手を握りしめて笑顔を見せる。
ボールはセンターラインにまで届き、知朗の足元へと転がる。
試合が再開される。
残り時間二十分ほど。点差は一点だが、返せないほどではない。
特に今は、自分たちにいい波がやってきているのがわかる。
今の一点で、若干逸れた感はあるが、それでもすぐ取り戻せる。そんな気がしていた。
だが成は何となく気になり、谷田部の方を振り返った。
すると谷田部に、先ほど見えた笑顔は消え去り、怯えた表情だけが残っていた。