Maybe Blue 第三部 誰かのために
夏天1
「勢いある新興勢力と、去年の覇者の戦いか」
そう呟いた大内は、試合前の練習風景を一枚写真に収める。
今日は、インターハイの神奈川県予選の決勝だった。
対戦カードは、川城と凪浜。
このところ、神奈川県はこの二校の争いになっている。今のところ、川城が一勝していて、その勢いは勝ち進むたびに強くなっていた。
中心は何と言っても、中盤の塚本巧だ。
その風貌や言動から、マスコミが好みそうな大物感が漂っていて、大内は今日の試合も塚本を押さえておくようにと上司に言われてやってきていた。
眠れる獅子と言われ続けていた塚本は、確かに紙面を飾るには、ネタがつきない。
実際に川城は、この塚本とキャプテン今川史央の活躍により、常に二点以上の得点差をつけて、勝ち上がってきた。基本的には攻撃型のチームだ。
一方の凪浜は、このところ、試合内容もどこか覚束ない。
藤原右京、早坂成というユース代表選手を二人も抱え、選手はそろっているはずなのだが、新しいチームになって取り入れたゾーンディフェンスがうまく作用しないことがあり、そこを突かれて度々ピンチを迎えている。おまけに、正ゴールキーパーだった高津興仁が怪我の為、県予選での出場は事実上不可能となり、 守備に対する不安は尽きない。また攻撃面でも、フォワードの一人、新田樹生がここ三試合でノーゴールという点取り屋らしからぬ結果の為か、試合も常にぎりぎりのところでようやく勝っている状況だった。
先日行われたインターハイ出場高を決める準決勝でも、何とかもぎ取ったフリーキックを藤原右京の技で決め、結局その一点を守りきって勝ったという、内容的にはかなりお粗末なものになっていた。
誰もが川城の優勝を予想していた。
だが…それで、終わるんだろうか。
しかし大内は、一人そう思っていた。
確かに藤原右京にはじまって、自分が凪浜に肩入れしすぎているのはわかっている。けれど、あいつらが何かをやってくれるんじゃないか、という期待を、大内はいまだ抱かずに居られなかったのだ。
いい夢、見させてくれよ。
そこには、記者という立場を忘れ、凪浜を応援する一人の男がいた。
試合前の練習から上がってきたところで、樹生は流した汗をタオルで拭きながら、一息つく。
春から続いている不調は、よくなるどころか、ますます悪化する一方だ。チームの状態は何とか持ち直してきているというのに、自分はこの三試合で無得点というチームの点取り屋の役割を全くと言っていいほど果たせていなかった。決定的なシュートを外しても、周りは責めるどころか、焦るなと樹生に言う。それが逆に樹生に『何とか点を取らなければ』と更に焦らせる結果になっていた。
ドリンクを飲もうとしたが、すでに中身は無く、それを床に投げ捨てると樹生はベンチから立ち上がった。
「あれ？どこ行くの、ミッキー」
控室を出て行こうとする樹生を見つけて、声をかけてきたのはチームメイトの望だ。
望は、不調の樹生に代わって出場する機会が最近増えていた。
おまけに、この前の試合では、決勝点となる貴重なゴールを決めた。
そのうちスタメンが望になるのではないか、と自分の聞こえないところで言われていることを、樹生は知っている。
「…トイレだよ」
とはいえ、望のことを嫌いになったり邪険にしたりということは、樹生はできない。
気性の荒く、我の強い樹生にとって、マイペースな望は、安らげる大事な存在でもあったし、今までキツイ練習も乗り越えてきた仲間だった。
「けど、さっきもトイレ行ってたじゃん。もうすぐミーティング始まるって言うのに…」
もしかしたら、今日こそスタメンから外されるのではないか、という不安が樹生にはあった。
インターハイの出場を決めたとはいえ、県大会の決勝と言う重要な試合だ。
特に相手は、このところ負けている川城。
この試合の結果が、本戦でもその次の選手権予選にも影響することは、樹生にもわかっていた。
だからこそ、スタメンの選手の発表を聞くのが怖かった。
「すぐ戻ってくるからっ」
そう吐き捨てて、樹生は控室を出る。
競技場についてから、何度もトイレに行っているので、場所は覚えている。
時間があまりないこともわかっているので、中に入ろうとすると出てきた選手と軽くぶつかった。
「すんません」
俯きながら小声でそう言うと、樹生は素早くトイレの個室へとかけ込んで、座り込んだ。
プレッシャーに弱く、緊張が高くなると、トイレが近くなるのは昔からだ。
ばれないようにと強気な発言をして入るが、内心びくついていることも少なくない。
っつーか、何弱気になってんだよ、俺。
点決めればいんだよ、点決めれば。
しかし考えるのは簡単で、実際は難しいことは樹生自身が感じていることだった。
そろそそろ戻らないとやばいかも。
樹生は小さくため息をつくと、気合いを入れると控室へ向かうべく立ち上がった。
「樹生君」
トイレを出たところで、きょろきょろと顔を動かしている萌子が樹生を見つけて声をかけてきた。
「ミーティング始まる。スタメン発表するから、すぐに控室に来て」
「…はい」
緊張が一気に高まる。
今日、もし俺がスタメン落ちして、望がスタメン入りしていたら…。
俺は、いつもの望みたいに笑顔で頑張れって言ってやれるのかな。
樹生は望が、スタメンに入りたがっていることを知っていた。
『いつか、ミッキーと一緒にプレーしたいなぁ』
一つ上に知朗という絶対的な選手がいるために、今のところそれは実現していないどころか、今では一つの椅子を二人で取り合っている状況だ。
いつも勝つのは樹生で、望は悔しさを微塵も見せずに、樹生に頑張れとエールを送る。
…そうだよ、もし、俺がスタメン落ちして、望がスタメン入りしたら。
やったな、って言ってやろう。
きっと、望も笑ってくれる。
そうしたら俺も、笑い返せることができる。
大きく息を吐くと、樹生は萌子が開けたドアから、堂々と控室に入っていった。
空はどんよりとした雲に覆われて、体には湿気がまとわりついている。今は降ってはいないが、いつ降ってもおかしくない天候だった。例年だと梅雨明けまであと一週間ほど。早く明けてほしいと願う梅雨だが、明けると途端にじりじりと太陽が照りつける夏になる。
今年の夏は、ここ二年連続で出場して、去年は優勝までした全日本ユース大会に出場できなくなり、必然的に照準はインターハイとなっていた。神奈川県には出場枠が二つある為、準決勝で勝てば、インターハイへの切符を手にすることにはなる。とはいえ、一位で出場するのと、二位で出場するのは、モチベーション的にも変わってくる。
特に相手は川城だ。
このところ、凪浜は川城との距離を縮めるどころか、広げられる一方だった。
おまけに、挑発的な巧の行動でもって、部員たちの多くは川城のことをよく思っていない。だからこそ、川城のキャプテンである史央と付き合うと宣言した萌子に非難が集まったのだ。
実際にはつきあってはいないのだが、理香に付き合おうと思うと話したことが広がった為に、気付いたら後戻りできなくなっていた。
それに、史央と付き合おうと思ったのも、嘘ではない。
だがそうする前に、しなければならないことがあると萌子は考えていた。
成を忘れること。
今はなかなかできていないけれど、きっといつかはできるだろうと、萌子は思っていた。
選手たちがグラウンドを駆け出していく。
緑の芝生に、凪浜のブルーのユニホームはよく映えた。中でも萌子は自然と背番号五番の成の姿を自然と探してしまう。
それに気付いた萌子が慌てて下を向いた時、ホイッスルが鳴り、試合が始まった。
試合は立ち上がりから川城が優勢だった。
予想はしていたが、思った以上に動きが早く、開始五分も経たないうちにシュートが放たれた。史央の蹴ったボールは、興仁の代わりに出場している谷田部の手を掠めたものの、ゴールポストに当たり、ラインを割る。
「ラッキーラッキー。いいぞ！谷田部っ」
左の方から興仁の声が聞こえてきた。
最初はどうなるかと思った谷田部も、決勝トーナメントを戦うにつれて、徐々に自信をつけて、声もよく出るようになった。
巧の蹴ったコーナーキックは、谷田部が直接キャッチして、凪浜はカウンター攻撃に出る。ボールを受けた右京が素早く前方にスルーパスを出す。それを受けたのは知朗だ。だが知朗にもすぐ相手ディフェンダーが追いかけてきた。追いつかれる前に、知朗がパスを出す。そこに走り込んでいるのは樹生だ。
ディフェンダー陣は知朗に向かっていて、樹生はノーマークだったのだ。ボールを受けた樹生の前には、ゴールキーパーがいるだけ。
それは決定的なチャンスだった。
歓声が上がる。だが、それは一瞬にして、落胆の声に変わった。
ボールはゴールポストから大きく外れて飛んでいったのだ。
ふう、と小さくだが石橋の溜め息が聞こえてきた。
今日のスタメンに調子のいい望ではなく、樹生を選んだのは石橋だ。
ベンチに座り直し、腕組みしながらグラウンドを見つめる石橋を見て、萌子は今朝石橋に謝られたことを思い出していた。
「色々すまなかった」
唐突に頭を下げられて、萌子は戸惑い、石橋に顔を上げるよう何度も言ったが、石橋は中々顔を上げようとはしなかった。
「昨日汐里からカンパをもらって全部聞いた。何も知らずにいて、本当に情けない」
カンパが集まったと聞いて、何より萌子はほっと胸をなでおろした。そして、明日にでもアルジャーノンに行ってマスターにお礼を言わなければと思った。
「内緒にしようって言ったのは、汐里さんだったんですよ。監督が怒るだろうからって」
笑顔で萌子がそう言うと、ようやく石橋は顔を上げたものの、ばつが悪そうに萌子から視線を逸らして言う。
「怒ったのは、あいつの方だ。高校生の教え子に、教師である人間が、何で責任を背負わせてるんだと。
正論だ。あの時、お前がいくら出ると言っても、やはり俺が止めるべきだった。すまない」
そう言って石橋はもう一度頭を下げる。
初めて見た石橋のつむじの辺りには、隠しきれない白髪が見えた。それだけ石橋も苦労をしているのだ。
萌子はもう一度微笑んで石橋に声をかけた。
「頭上げてください。もう、いいですから。もう、終わったことですから」
「しかしあいつらが―」
「いいんです」
石橋が言いたいのが部員たちの態度ということは萌子にもわかったが、それでも萌子は断った。ゆっくりと顔を上げる石橋に、萌子は茶化したように言う。
「私は、大丈夫ですから。監督の方がよく知ってるじゃないですか、私が打たれづよいってこと」
萌子がそう言って手をハサミに見せて髪を切る仕草をすると、石橋は手で口許を抑えて気まずそうに横を向いた。
「それよりも、今日の試合。頑張りましょう。
川城は、確かに今勢いのあるチームです。でも、うちだってなかなかいいチームだと思います」
そういう萌子に、石橋はああと大きく頷く。
不調な攻撃陣も徐々に調子を上げてきている。ゾーンディフェンスが完成すれば、十分に全国優勝を狙えるチームだ。
「勝って、一位でインターハイに乗り込みましょう」
しかし、流れは変わらず川城だった。
多彩な攻めの川城に、何とか耐え凌ぐ凪浜。
しかし、決定的な瞬間は、前半残り十分という場面で訪れた。
一人抜け出そうとした史央の体をケンが引っ張り、川城のフリーキックになったのだ。
ゴール前、30メートルほどの距離。
巧が蹴ったボールは、見事なカーブを描いて壁を越え、そのまま谷田部の手をすり抜けてゴールネットを揺らしたのだ。
川城の先制ゴール。
そしてその勢いは、前半が終わるまで続いた。
特に残り五分のコーナーキックの場面で、思わず凪浜がひやりとした瞬間があった。
史央の蹴ったボールに反応した谷田部と巧がもつれ合い、巧の肘が谷田部の顔を殴打したのだ。
倒れたキーパーの前でボールはそのままゴールの中に入っていき、川城は一瞬追加点が決まったものだと騒いだが、すぐに審判のホイッスルでそれが間違いだと言うことに気付いた。
谷田部はゆっくりと立ち上がったものの、その顔は赤く染められていた。
すぐさま審判がイエローカードを巧に出す。
巧は冗談だろうと肩をすくめたものの、抗議することはしなかった。
一方の谷田部は、他の選手たちに支えられるようにして一旦はグラウンドの外に出た。慌てて走り寄った萌子が大丈夫かと声をかけると、
「はい、すみません」
と詰まらせた声で答えた。とりあえず鼻血が出ている以外に外傷はないということで、谷田部は鼻に詰め物をしてグラウンドに戻った。
何となく気になって萌子が振り返ると、グラウンドに戻ってきた谷田部に対して、巧が何かを言っているところだった。
ラフプレーを謝っているのだろうか。
しかし、大丈夫だと両手を前後に振っていた谷田部の表情が、次の瞬間強張ったものへと変わる。
巧はというと、いつもと変わらない態度で、そんな谷田部の肩を数回叩いて、自陣へと戻っていった。そして戻っていく途中、萌子を見つけると、にやりと笑ったのだ。
嫌な予感がして、萌子が谷田部の方を見ると、谷田部は蹴らなければならないボールを見つめているだけだった。
谷田部…くん？
その後は、お互いシュートまでに至らず、〇対一の川城リードで前半が終わった。
グラウンドから戻ってくる選手の表情はあまり芳しくない。
特に樹生にいたっては、唇をかみしめたまま、誰とも会話をせずにそのまま控室へと入っていった。
大丈夫かなと思っていると、控室に向かう選手の中に、谷田部の背中を見つけた。萌子は慌てて駆け寄っていった。
「谷田部君―」
引き留めようと軽く伸ばしただけの手だった。
鼻血は止まったのか、後で痛くなってきたような打ち身はないか、尋ねたかっただけだ。
しかし谷田部はその手に気付くと、大きく萌子から飛びのいた。
「あ…萌子、さん」
しかしその表情は強張ったままだ。萌子はじっと谷田部の顔を見つめながら尋ねた。
「谷田部君、大丈夫？」
「あっ、はいっ。だ、大丈夫です」
谷田部はそれだけ言うと、萌子から逃げるように控室へと駆けて行く。
もともと寡黙で輪の中に居ても外側の方で目立たぬようにひっそりと笑っているようなタイプではある。
しかし、その過剰な反応に萌子の胸は更にざわめいていた。
そう呟いた大内は、試合前の練習風景を一枚写真に収める。
今日は、インターハイの神奈川県予選の決勝だった。
対戦カードは、川城と凪浜。
このところ、神奈川県はこの二校の争いになっている。今のところ、川城が一勝していて、その勢いは勝ち進むたびに強くなっていた。
中心は何と言っても、中盤の塚本巧だ。
その風貌や言動から、マスコミが好みそうな大物感が漂っていて、大内は今日の試合も塚本を押さえておくようにと上司に言われてやってきていた。
眠れる獅子と言われ続けていた塚本は、確かに紙面を飾るには、ネタがつきない。
実際に川城は、この塚本とキャプテン今川史央の活躍により、常に二点以上の得点差をつけて、勝ち上がってきた。基本的には攻撃型のチームだ。
一方の凪浜は、このところ、試合内容もどこか覚束ない。
藤原右京、早坂成というユース代表選手を二人も抱え、選手はそろっているはずなのだが、新しいチームになって取り入れたゾーンディフェンスがうまく作用しないことがあり、そこを突かれて度々ピンチを迎えている。おまけに、正ゴールキーパーだった高津興仁が怪我の為、県予選での出場は事実上不可能となり、 守備に対する不安は尽きない。また攻撃面でも、フォワードの一人、新田樹生がここ三試合でノーゴールという点取り屋らしからぬ結果の為か、試合も常にぎりぎりのところでようやく勝っている状況だった。
先日行われたインターハイ出場高を決める準決勝でも、何とかもぎ取ったフリーキックを藤原右京の技で決め、結局その一点を守りきって勝ったという、内容的にはかなりお粗末なものになっていた。
誰もが川城の優勝を予想していた。
だが…それで、終わるんだろうか。
しかし大内は、一人そう思っていた。
確かに藤原右京にはじまって、自分が凪浜に肩入れしすぎているのはわかっている。けれど、あいつらが何かをやってくれるんじゃないか、という期待を、大内はいまだ抱かずに居られなかったのだ。
いい夢、見させてくれよ。
そこには、記者という立場を忘れ、凪浜を応援する一人の男がいた。
試合前の練習から上がってきたところで、樹生は流した汗をタオルで拭きながら、一息つく。
春から続いている不調は、よくなるどころか、ますます悪化する一方だ。チームの状態は何とか持ち直してきているというのに、自分はこの三試合で無得点というチームの点取り屋の役割を全くと言っていいほど果たせていなかった。決定的なシュートを外しても、周りは責めるどころか、焦るなと樹生に言う。それが逆に樹生に『何とか点を取らなければ』と更に焦らせる結果になっていた。
ドリンクを飲もうとしたが、すでに中身は無く、それを床に投げ捨てると樹生はベンチから立ち上がった。
「あれ？どこ行くの、ミッキー」
控室を出て行こうとする樹生を見つけて、声をかけてきたのはチームメイトの望だ。
望は、不調の樹生に代わって出場する機会が最近増えていた。
おまけに、この前の試合では、決勝点となる貴重なゴールを決めた。
そのうちスタメンが望になるのではないか、と自分の聞こえないところで言われていることを、樹生は知っている。
「…トイレだよ」
とはいえ、望のことを嫌いになったり邪険にしたりということは、樹生はできない。
気性の荒く、我の強い樹生にとって、マイペースな望は、安らげる大事な存在でもあったし、今までキツイ練習も乗り越えてきた仲間だった。
「けど、さっきもトイレ行ってたじゃん。もうすぐミーティング始まるって言うのに…」
もしかしたら、今日こそスタメンから外されるのではないか、という不安が樹生にはあった。
インターハイの出場を決めたとはいえ、県大会の決勝と言う重要な試合だ。
特に相手は、このところ負けている川城。
この試合の結果が、本戦でもその次の選手権予選にも影響することは、樹生にもわかっていた。
だからこそ、スタメンの選手の発表を聞くのが怖かった。
「すぐ戻ってくるからっ」
そう吐き捨てて、樹生は控室を出る。
競技場についてから、何度もトイレに行っているので、場所は覚えている。
時間があまりないこともわかっているので、中に入ろうとすると出てきた選手と軽くぶつかった。
「すんません」
俯きながら小声でそう言うと、樹生は素早くトイレの個室へとかけ込んで、座り込んだ。
プレッシャーに弱く、緊張が高くなると、トイレが近くなるのは昔からだ。
ばれないようにと強気な発言をして入るが、内心びくついていることも少なくない。
っつーか、何弱気になってんだよ、俺。
点決めればいんだよ、点決めれば。
しかし考えるのは簡単で、実際は難しいことは樹生自身が感じていることだった。
そろそそろ戻らないとやばいかも。
樹生は小さくため息をつくと、気合いを入れると控室へ向かうべく立ち上がった。
「樹生君」
トイレを出たところで、きょろきょろと顔を動かしている萌子が樹生を見つけて声をかけてきた。
「ミーティング始まる。スタメン発表するから、すぐに控室に来て」
「…はい」
緊張が一気に高まる。
今日、もし俺がスタメン落ちして、望がスタメン入りしていたら…。
俺は、いつもの望みたいに笑顔で頑張れって言ってやれるのかな。
樹生は望が、スタメンに入りたがっていることを知っていた。
『いつか、ミッキーと一緒にプレーしたいなぁ』
一つ上に知朗という絶対的な選手がいるために、今のところそれは実現していないどころか、今では一つの椅子を二人で取り合っている状況だ。
いつも勝つのは樹生で、望は悔しさを微塵も見せずに、樹生に頑張れとエールを送る。
…そうだよ、もし、俺がスタメン落ちして、望がスタメン入りしたら。
やったな、って言ってやろう。
きっと、望も笑ってくれる。
そうしたら俺も、笑い返せることができる。
大きく息を吐くと、樹生は萌子が開けたドアから、堂々と控室に入っていった。
空はどんよりとした雲に覆われて、体には湿気がまとわりついている。今は降ってはいないが、いつ降ってもおかしくない天候だった。例年だと梅雨明けまであと一週間ほど。早く明けてほしいと願う梅雨だが、明けると途端にじりじりと太陽が照りつける夏になる。
今年の夏は、ここ二年連続で出場して、去年は優勝までした全日本ユース大会に出場できなくなり、必然的に照準はインターハイとなっていた。神奈川県には出場枠が二つある為、準決勝で勝てば、インターハイへの切符を手にすることにはなる。とはいえ、一位で出場するのと、二位で出場するのは、モチベーション的にも変わってくる。
特に相手は川城だ。
このところ、凪浜は川城との距離を縮めるどころか、広げられる一方だった。
おまけに、挑発的な巧の行動でもって、部員たちの多くは川城のことをよく思っていない。だからこそ、川城のキャプテンである史央と付き合うと宣言した萌子に非難が集まったのだ。
実際にはつきあってはいないのだが、理香に付き合おうと思うと話したことが広がった為に、気付いたら後戻りできなくなっていた。
それに、史央と付き合おうと思ったのも、嘘ではない。
だがそうする前に、しなければならないことがあると萌子は考えていた。
成を忘れること。
今はなかなかできていないけれど、きっといつかはできるだろうと、萌子は思っていた。
選手たちがグラウンドを駆け出していく。
緑の芝生に、凪浜のブルーのユニホームはよく映えた。中でも萌子は自然と背番号五番の成の姿を自然と探してしまう。
それに気付いた萌子が慌てて下を向いた時、ホイッスルが鳴り、試合が始まった。
試合は立ち上がりから川城が優勢だった。
予想はしていたが、思った以上に動きが早く、開始五分も経たないうちにシュートが放たれた。史央の蹴ったボールは、興仁の代わりに出場している谷田部の手を掠めたものの、ゴールポストに当たり、ラインを割る。
「ラッキーラッキー。いいぞ！谷田部っ」
左の方から興仁の声が聞こえてきた。
最初はどうなるかと思った谷田部も、決勝トーナメントを戦うにつれて、徐々に自信をつけて、声もよく出るようになった。
巧の蹴ったコーナーキックは、谷田部が直接キャッチして、凪浜はカウンター攻撃に出る。ボールを受けた右京が素早く前方にスルーパスを出す。それを受けたのは知朗だ。だが知朗にもすぐ相手ディフェンダーが追いかけてきた。追いつかれる前に、知朗がパスを出す。そこに走り込んでいるのは樹生だ。
ディフェンダー陣は知朗に向かっていて、樹生はノーマークだったのだ。ボールを受けた樹生の前には、ゴールキーパーがいるだけ。
それは決定的なチャンスだった。
歓声が上がる。だが、それは一瞬にして、落胆の声に変わった。
ボールはゴールポストから大きく外れて飛んでいったのだ。
ふう、と小さくだが石橋の溜め息が聞こえてきた。
今日のスタメンに調子のいい望ではなく、樹生を選んだのは石橋だ。
ベンチに座り直し、腕組みしながらグラウンドを見つめる石橋を見て、萌子は今朝石橋に謝られたことを思い出していた。
「色々すまなかった」
唐突に頭を下げられて、萌子は戸惑い、石橋に顔を上げるよう何度も言ったが、石橋は中々顔を上げようとはしなかった。
「昨日汐里からカンパをもらって全部聞いた。何も知らずにいて、本当に情けない」
カンパが集まったと聞いて、何より萌子はほっと胸をなでおろした。そして、明日にでもアルジャーノンに行ってマスターにお礼を言わなければと思った。
「内緒にしようって言ったのは、汐里さんだったんですよ。監督が怒るだろうからって」
笑顔で萌子がそう言うと、ようやく石橋は顔を上げたものの、ばつが悪そうに萌子から視線を逸らして言う。
「怒ったのは、あいつの方だ。高校生の教え子に、教師である人間が、何で責任を背負わせてるんだと。
正論だ。あの時、お前がいくら出ると言っても、やはり俺が止めるべきだった。すまない」
そう言って石橋はもう一度頭を下げる。
初めて見た石橋のつむじの辺りには、隠しきれない白髪が見えた。それだけ石橋も苦労をしているのだ。
萌子はもう一度微笑んで石橋に声をかけた。
「頭上げてください。もう、いいですから。もう、終わったことですから」
「しかしあいつらが―」
「いいんです」
石橋が言いたいのが部員たちの態度ということは萌子にもわかったが、それでも萌子は断った。ゆっくりと顔を上げる石橋に、萌子は茶化したように言う。
「私は、大丈夫ですから。監督の方がよく知ってるじゃないですか、私が打たれづよいってこと」
萌子がそう言って手をハサミに見せて髪を切る仕草をすると、石橋は手で口許を抑えて気まずそうに横を向いた。
「それよりも、今日の試合。頑張りましょう。
川城は、確かに今勢いのあるチームです。でも、うちだってなかなかいいチームだと思います」
そういう萌子に、石橋はああと大きく頷く。
不調な攻撃陣も徐々に調子を上げてきている。ゾーンディフェンスが完成すれば、十分に全国優勝を狙えるチームだ。
「勝って、一位でインターハイに乗り込みましょう」
しかし、流れは変わらず川城だった。
多彩な攻めの川城に、何とか耐え凌ぐ凪浜。
しかし、決定的な瞬間は、前半残り十分という場面で訪れた。
一人抜け出そうとした史央の体をケンが引っ張り、川城のフリーキックになったのだ。
ゴール前、30メートルほどの距離。
巧が蹴ったボールは、見事なカーブを描いて壁を越え、そのまま谷田部の手をすり抜けてゴールネットを揺らしたのだ。
川城の先制ゴール。
そしてその勢いは、前半が終わるまで続いた。
特に残り五分のコーナーキックの場面で、思わず凪浜がひやりとした瞬間があった。
史央の蹴ったボールに反応した谷田部と巧がもつれ合い、巧の肘が谷田部の顔を殴打したのだ。
倒れたキーパーの前でボールはそのままゴールの中に入っていき、川城は一瞬追加点が決まったものだと騒いだが、すぐに審判のホイッスルでそれが間違いだと言うことに気付いた。
谷田部はゆっくりと立ち上がったものの、その顔は赤く染められていた。
すぐさま審判がイエローカードを巧に出す。
巧は冗談だろうと肩をすくめたものの、抗議することはしなかった。
一方の谷田部は、他の選手たちに支えられるようにして一旦はグラウンドの外に出た。慌てて走り寄った萌子が大丈夫かと声をかけると、
「はい、すみません」
と詰まらせた声で答えた。とりあえず鼻血が出ている以外に外傷はないということで、谷田部は鼻に詰め物をしてグラウンドに戻った。
何となく気になって萌子が振り返ると、グラウンドに戻ってきた谷田部に対して、巧が何かを言っているところだった。
ラフプレーを謝っているのだろうか。
しかし、大丈夫だと両手を前後に振っていた谷田部の表情が、次の瞬間強張ったものへと変わる。
巧はというと、いつもと変わらない態度で、そんな谷田部の肩を数回叩いて、自陣へと戻っていった。そして戻っていく途中、萌子を見つけると、にやりと笑ったのだ。
嫌な予感がして、萌子が谷田部の方を見ると、谷田部は蹴らなければならないボールを見つめているだけだった。
谷田部…くん？
その後は、お互いシュートまでに至らず、〇対一の川城リードで前半が終わった。
グラウンドから戻ってくる選手の表情はあまり芳しくない。
特に樹生にいたっては、唇をかみしめたまま、誰とも会話をせずにそのまま控室へと入っていった。
大丈夫かなと思っていると、控室に向かう選手の中に、谷田部の背中を見つけた。萌子は慌てて駆け寄っていった。
「谷田部君―」
引き留めようと軽く伸ばしただけの手だった。
鼻血は止まったのか、後で痛くなってきたような打ち身はないか、尋ねたかっただけだ。
しかし谷田部はその手に気付くと、大きく萌子から飛びのいた。
「あ…萌子、さん」
しかしその表情は強張ったままだ。萌子はじっと谷田部の顔を見つめながら尋ねた。
「谷田部君、大丈夫？」
「あっ、はいっ。だ、大丈夫です」
谷田部はそれだけ言うと、萌子から逃げるように控室へと駆けて行く。
もともと寡黙で輪の中に居ても外側の方で目立たぬようにひっそりと笑っているようなタイプではある。
しかし、その過剰な反応に萌子の胸は更にざわめいていた。