Maybe Blue 第三部 誰かのために
五月闇2
チャイムが鳴って、昼休みになった。
購買で買ってきたパンを教室で右京が食べていると、サッカー部でクラスメイトでもある山田が椅子を持って近づいてきて、右京の隣に腰かけた。
「なあ、藤原。ぶっちゃけどうなってるわけ？鈴井さんとは」
「スズイ？」
誰だかわからずに聞き返すと、山田がニヤけた顔で肘を右京の脇腹にすりあててくる。
「ほらぁ、この前お前がクッキーもらってた子だよ。清純派って感じの可愛い一年！俺の妹が鈴井さんの友達でさ、お兄ちゃんからも聞いてほしいって言われたんだ」
山田に説明されても、右京には鈴井という子の顔すら思い出せない。
右京が照れ隠して知らないふりをしているのではなく、本当に知らないのだと気付いた山田は、え？と聞き返した。
「覚えてないわけ？鈴井里子！礼まで言ってたぞ。でもって、次の日うまかったって感想まで伝えたって聞いたぜ」
「山田はそういう話、ほんと好きだな」
そう言って右京の隣の席に座っていた一馬が口を挟んできた。
「単なる噂話だろ。お前の妹が勘違いしてるんじゃないか？」
右京がそういうことをするタイプじゃないとわかっていての一馬の発言だ。
しかし、クッキーや礼、感想などと言われて、思い当たった右京が、あ、と声を上げると、一馬と山田の立場は逆転した。
「ほらな、本当だろ？」
「珍しいな、藤原」
いつかと言われれば、すぐにわかる。
あの日、石橋の家の前で雨に濡れる紗依を見た翌日だ。
「だから、大騒ぎになったんだよ。妹も脈があるってテンションあがっちゃってあがっちゃって」
だがいくら言われても、相手の顔も名前も思い出せない。
何故なら、右京にとっては、プレゼントを持ってきたのが誰かということではなく、その日に意味があったのだ。
思い出したわりに、反応の薄い右京を見て、山田は怪訝そうな表情を浮かべて、尋ねた。
「何？藤原ってば何も考えずにあんなことしたわけ？
もしかして、単純に腹がへってたとか？」
そうではない。
震える声で差し出された包みを見たときに、右京は自然と紗依のことを思い出した。
『手作り？』
まじまじとその包みを見て呟くように尋ねると、彼女は大きく頷いた。
何となくその姿が、紗依に思えた。
手作りの弁当と一緒に、その想いも拒否された紗依。
雨の中で、濡れながら泣いていた紗依。
…俺だったら、俺だったら受け取っていたのに。あの人のお弁当も、想いも、全部。
そう思っていたらいつものように無視することも突き返すこともできず、何となく、受け取ってしまったというのが正しい。
受け取ったら、相手が驚いたままで硬直して動かないので、逃げる口実にと礼を言って、去った。
受け取ったものの、後の処理に困って部屋で広げてみると、困ったことに右京の苦手な甘いクッキーだった。
悩んでいたところに、樹生が現れて、腹が減ったとそのクッキーを食べ、うまいうまいとたいらげた。
翌日、その女の子が右京の前に現れて、いきなり謝った。
右京が甘いものが苦手なのを知らずに、甘いお菓子を渡してしまったことへの詫びだった。黙ってると、今度は甘くないお菓子を持ってこられそうだったので、右京は樹生の感想をそのまま伝えた。
それだけだ。
それで、右京の中では終わった話だった。
とはいえ、そう正直に山田に話すのが面倒と思った右京は、黙ってパンを口に運んだ。山田はそれを肯定と受け取ったらしい。
「…俺、お前を一度でいいからボールの代わりに思いっきり蹴り飛ばしてやりたい。
でもって、お前が特集されたサッカーピープルに、藤原右京はこんな奴だって投書してやりたいっ、っていうかしてやる！
あー、満知子になんて言やいんだよ…。
まあ大事なチームメイトの一人だから、お前の気持ちはそれとなく伝えてはやるけど、お前ちゃんと断れよ」
まったく変な期待持たせんなって、と呟きながら自分の席に戻っていく山田をちらりと睨みつけると右京は再びパンを頬張った。その様子を見ていた一馬が声をかけてきた。
「山田は大げさなヤツだけどさ、何でもらったわけ？そのクッキー」
一馬は山田よりは話のわかるヤツだとは思っているが、全てを話すには紗依と石橋のことを話さなければならなくなる。
右京は仕方なく、何となく、とだけ答えた。すると一馬は小さく息を吐いて、真面目な表情で答えた。
「どう応対するかは人それぞれだと思う。プレゼントを受け取るだけするヤツもいれば、適当に遊ぶヤツもいる。
けど、正直俺はお前は全部断ることで、期待させないようにしてるんだと思ってた。
気まぐれで期待させるのは、一番罪だぞ」
期待させたつもりはない、と言おうとも思ったが、何故か紗依の泣き顔を思い出し、止めた。そんな右京を見て、一馬も言うことは言ったとばかりに教室の外に出て行く。
何となく居心地の悪くなった教室を出て、右京は海辺で昼寝でもしようかと校舎を歩く。
プレゼントはクラスメートから、見知らぬ相手まで、手紙も含めて沢山もらったことがある。だが、直接渡されるものについては、確かに今までの右京は断ってきたし、勝手に送りつけられたものについては、中も開けずに捨てていた。
理由は単純。その贈り物は贈り主の一方的な思いでしかないからだ。
しかし、差し出された包みを目にした瞬間、紗依のことを思い出し、つい受け取ってしまった。
しかし、受け取るだけでその先はない。
期待をさせたつもりなんか、ない。
あの日以来、紗依は笑顔を見せなくなった。
グラウンドに顔を出すこともなく、たいていが保健室にこもりきりだ。
石橋と顔を合わせることを避けているのだと右京は思っていた。
それだけ真剣だったのだ。
右京の期待を抱かせる僅かな隙もないくらい。
それなのに、その想いは、大事な相手には届かない。
それは、右京も同じ。
先の見えない追いかけっこに苛立ち、思わず足元の小石をけり上げる。
壁に当たって音があがると同時に、右京は後ろから声をかけられた。
振り返ると、知らない女子生徒が立っている。
「あの…一年の鈴井です」
名前を言われて、さっき山田が言っていた相手だと何となくわかった。顔を見ても、やはり思い出すことができない。
後ろの方で少し距離を置くようにして見守る影が二つ見えた。いずれかが山田の妹なのかもしれない。
「よかったら…、今度のお休みの時に、一緒に映画行きませんか？」
俯きがちな頬が赤い。
白い肌が綺麗だなとは思うものの、それ以上の感情は右京には沸いてこなかった。
静寂の中、時折ちらりと右京を見上げる視線に期待がこもっているのがわかる。
『気まぐれで期待させるのは、一番罪だぞ』
一馬の言葉が頭を過った。
グラウンドに姿を現すたびに、
試合会場で勝利に喜ぶ紗依を見るたびに、
どこかで淡い期待を描いていた。
だけど、それは。
きっと、自分勝手な希望。
「興味ないから」
淡々とそう答えた右京の言葉を、相手はまたしても取り違える。
「あの…それじゃ…映画、嫌なら遊園地でも―」
「そうじゃない」
答えを求めて右京をまっすぐ見つめるその瞳が、胸にちくりと刺さったが、右京は怯まず告げる。
「あんたのこと、興味ないから」
それが、真実。
唇をかみしめる表情を見て、右京はくるりと背を向ける。
「…だったらどうして、クッキー受け取ったんですか？」
少し遠くの方から、別の女子生徒の叫ぶ声が聞こえた。
足を止めて僅かに振り返ると、掌で涙を拭う彼女の隣に、鼻息の荒い女子生徒が立っていた。山田の妹だと言うことが一目でわかる。
一歩、右京に歩み寄ろうとする山田の妹を、彼女が引き留めた。
「止めて、満知子。
わかりました。あの、すみませんでした。呼びとめちゃって」
「でも―」
「あの、サッカー。頑張ってください」
彼女はそういうと、右京に一礼して校舎へと戻っていった。
顔をあげた瞬間に見せた笑顔が、右京の胸をまたちくりと刺した。
「ねえ、今日終わったら飲みに行かない？」
昼休み、保健室に現れたかと思うと、同僚の谷垣が紗依をそう誘ってきた。
「いいですね」
何となく、紗依も酒を飲みたい気分だった。
酒に酔った勢いで、いっそのこと石橋との話を谷垣にしてしまうかもしれない。
その方が、気分が楽になりそうだ。
「話したいことがあるのよー」
にやけた表情の谷垣に、いい話かと尋ねると、どうかなと意味ありげな返事が返ってきた。
谷垣も、確か恋人はいなかったはずだ。
ただ、紗依とは違い、合コンには積極的に参加していた。
どことなく明るい雰囲気の谷垣を見て、好きな人ができたのだろうかと思っていると、弁当を広げて窓の向こうを見ていた谷垣がふいに声を上げた。
「あら、三年の藤原君」
一時期、毎日のように顔を出していた右京だが、ここ最近は顔をみていない。
最後に見たのは、石橋のことを忠告しに来た時だ。
『監督は先生のこと、何とも思ってない』
本当にその通りだった。
わかっていても、ほんのわずかな期待を抱いていた。
だがそれも、石橋にはっきりと言われた今は砕けて、塵ほどにも残っていない。
右京が保健室に来ない理由はわからないが、紗依が保健室からあまり出ないのは、石橋にも右京にも会いたくないからだった。
ほら、言った通りだろ。
そう口にすることはないだろうが、見透かされるような視線が辛かったのだ。
しかし久しぶりに見た右京の表情は、紗依には何か重たいものを胸に抱えていそうな表情に思えた。
それにしても、ただ歩いているだけなのに、まるで映画のワンシーンにでもなりそうな憂いを帯びた横顔だ。
紗依が今までの右京とのやりとりを忘れて、素直にそう思っていると、一緒に右京を見ていた谷垣が大きくため息をついた。
「ほんと綺麗な顔してるわよね。将来も有望だし。今のうちサインくらいもらっておこうかな」
「サイン？」
「田波先生って、サッカー部のこと詳しいかと思ってたけど、そうでもないのね。
藤原君、サッカーすごく上手なのよ。ユース代表で、しかもその中心メンバーで、沢山プロチームからも誘いがあるって話。それに最近、サッカー雑誌にも載ったらしいわよ」
「そう、なんですか」
言われてみれば、紗依は凪浜のサッカー部が全国的に有名な強豪校であることはわかっていたものの、その実力や個々の選手の能力はまったくと言っていいほど知らなかった。
紗依はいつも憂いを帯びた表情で、のっそりと保健室にやってくる右京のことを思い出した。
…もしかしたら、私とは全然違う世界を見ている子なのかも。
谷垣は興奮気味に話を続ける。
「おまけに、あのルックスでしょう？人気出るわよ、絶対。
ほらほら、早速女の子が追いかけてきた。告白でもするんじゃない？」
声を躍らせ興味津津と見つめる谷垣と、カーテンの向こうで目の前を駆けていく女子生徒の姿を見ながら、紗依は少しだけ羨ましく思った。
今の自分に、あれほど真っ直ぐに好きな相手にぶつかる勇気はない。
そもそも、真っ直ぐぶつかれないままに、ふられてしまったのだ。
二人の姿は保健室の窓からは見えなくなるが、開いた窓からその声が聞こえてきた。
どうやら女子が右京をデートに誘っているらしい。
その時、ひと際鋭く、右京の声が聞こえた。
「あんたのこと、興味ないから」
はっきりとした拒絶の言葉。
紗依はこの前の石橋の言葉を思い出す。
あの時の石橋の言葉も、取り付く島もないほど、はっきりとした拒絶だった。
俯く紗依に、谷垣が大きくため息をついて言う。
「ああまで言わなくていいのに。
やっぱり三拍子揃った男っていないのかもね。
小さい頃からサッカー上手だって話だから、周りにちやほやされてあんな天狗になっちゃったのかな。
世界は自分中心に回ってるって、勘違いして。
まあもし、私が藤原君の母親だったとしても、あれだけ綺麗なら甘やかして育てちゃいそうだけど」
だけどサインはもらっちゃおうと弾んだ谷垣の声だけが、保健室に響いた。
「え…？」
石橋から話を聞かされた時、千鶴は一瞬頭が真っ白になった。それから、言われたばかりの言葉を頭の中で反芻したところで、慌てて言い返していた。
「無理ですっ、そんなっ、私が…Aチーム担当なんてっ」
言い返したところで、相手が監督とチームを管理しているAチームのマネージャーであることに気付き息をのむと、その後で自分の立場を思い出して慌てて口を閉ざして身をすくませた。
そもそも、練習がなくなったところで、呼び出された千鶴は、自分が何かまずいことをやらかしてしまったのではないかと不安におびえて体育教官室にやってきていた。
元気で部員たちともすぐに馴染み、まりりんと渾名をつけられたまりとは違い、千鶴は部員達からもいまだ小森サンと他人行儀に呼ばれているのだ。
今朝も磨いたばかりのボールを、水溜りの中に落として、理香に溜め息をつかれたのだ。
そんな矢先の呼び出しで、千鶴はてっきり、退部届を出せと言われるのかと思っていたのだ。
しかし実際は、違っていた。
むしろ、大抜擢といってもいいかもしれない。けれど、そこには責任が伴う。しかも、千鶴が今までに経験したことがないような、大きくて重いプレッシャーと共に。
俯いた千鶴にかけられたのは、反論されたことに対する不快感ではなく、優しく諭すような萌子の声だった。
「ごめんね。私が関東大会に行けなくなってしまって。でも、誰かが選手たちの為にやらなきゃならないことなの」
とはいえ自分ができることではない。
千鶴自身、そのくらいの分別はできるつもりだ。
「私には無理ですっ、まりと違って、おっちょこちょいだし、ドジだし、一日一回はミスしてるし」
「大丈夫。ミスは誰でもあるから、大事なことは二度同じミスを犯さないこと。
それにわからないことは私がちゃんと教える」
「でも、理香さんだって美都さんだっているじゃないですか、なのに、どうして私がっ」
意外と頑なな千鶴に、石橋が深いため息をついてからきっぱりと答えた。
「小池はベンチで盛り上げ役をやる方が適任だ。椎名はもうそろそろ引退のことを考えなきゃならん。
お前か大野かと言えば、俺も沢木も、お前の方が適任だと考えた」
その言葉に千鶴は首が壊れると言うほど左右に振ってこたえる。
「そんなことありませんっ、だって私はまだ半人前だし―」
「誰だって、一人前から始まるわけじゃないわ。
経験して、大きくなっていくの」
「でも―」
そういう千鶴の肩に、萌子はそっと手を置いて言った。
「大丈夫。それまでは私がちゃんとサポートして教えるから」
その時ふと千鶴は思った。
「あの…でも、どうして、萌子さんは行けないんですか？関東大会って大きな大会ですよね？」
上位になった高校は、夏に行われる全日本ユース大会に出場する権利が得られる。
千鶴の思う萌子ならば、仮にその日に模試があっても、怪我をしていても、何があっても大会にはついていくはずだった。
その声に、場が静まり返る。
少しして、助け舟を出すように石橋が言った。
「法事だ」
はっとしたように萌子が石橋の方を振り返る。
そして、千鶴に向き直って懇願するように言った。
「ごめんね、千鶴ちゃん」
そう言った萌子の表情がどこか苦しそうに思えて、千鶴は何も言えなくなってしまった。
千鶴のAチーム担当の発表は、その日の練習終りに石橋から告げられた。
「法事があって、沢木は来週の関東大会には同行できなくなった。
代わりに小森が同行する。
慣れない部分は皆が助けてやってくれ」
えーっという声の中で、頭を下げる萌子の方を、理香が叩く。
「大変だね、萌子」
「本当にごめんね」
「いいよ。萌子の分まで、私も美都も頑張るからさ」
そういう理香の隣で、美都も大きく頷いていた。
ごめん、と萌子が言うと、理香は大きく首を横に振る。
「法事じゃ仕方ないよ。
親の面子とかもあるしね。
大丈夫、萌子の分まで、頑張ってくるから」
明るくそう言う理香に、萌子は罪悪感を覚えながら、「ごめん」ともう一度言った。
自分ではなく千鶴がAチーム担当になったことを、正直なところまりは複雑な気持ちで祝福していた。
だが、不思議といいなあ千鶴、とは思うものの、ずるいな千鶴、とは思わなかった。
実際に花形選手たちに囲まれて、慌ただしく動いている千鶴を見ると、羨ましくは思うものの、怒鳴られたりしている千鶴を見ると、可哀そうだなと心の中で思った。
それに、自分はベンチでじっと試合の状況を見守って、スコアをつけているよりも、スタンドで大声あげて応援して、ボールの行方に一喜一憂している方が好きだとは思うし、あっているとも思う。けれど、と心のどこかでは思ってしまう。
親に言わせれば、結局それはないものねだりということらしい。だが、羨望と悲哀、嫉妬と諦めと納得、たくさんの複雑な感情が入り混じった感情はそんな言葉一つでは収まりきらなかった。
まりは、千鶴とはサッカー部で一緒にマネージャーをやるようになって、友達になったと言う関係だが、きっかけを抜きにしても千鶴のマイペースな性格は好きだった。千鶴は、まりが、「まりりん」とあだ名で呼ばれていることを羨ましく思っているようだが、まりからすれば、千鶴が「小森さん」と先輩からも呼ば れるのが、彼女に対する女子としての気遣いに思えて、たまに羨ましくなることがある。
やっぱり、ないものねだりなのかな。
そう思いながら、まりは職員室を出る。
放課後、掃除当番だから、もう一人の日直に日誌の返却を頼もうと思っていたのに、彼はチャイムと同時に教室から消えていたのだ。
早く戻らないと、遅れちゃう。
普通に行けば練習には遅れることはないのだが、マネージャーであり一年生であるまりたちは、普通の部員たちより早く準備していなければならないのだ。
久しぶりのグラウンドでの練習に、部員たちも気合が入っている。うまくは言えないが、最近の部の雰囲気はどこかピリピリしていて、まりでも気後れしてしまうことがたまにある。
最近、公式戦でライバル校である川城にことごとく敗れ、神奈川県ナンバーワンの座を明け渡していることも理由の一つのようだが、まりからしても、ここ最 近の凪浜のサッカーは、ミスが多いように思えた。しかも、些細なミスだ。しかし、そこをうまくついてくる川城がいて、凪浜はなかなか勝てないでいる。
それ故に、今度の公式戦である関東大会にかける部員たちの意気込みは、ひと際強いものがあった。関東大会は、全日本ユースへと続く大会で、トーナメント 戦であるために、凪浜も川城も勝ち上がっていけばぶつかることになる。一部の部員からすると、この関東大会で川城を叩き、続くインターハイの県予選での勢 いに続けたいと思っているようだった。
そんな状況の中で遅刻でもしたら、怒鳴られるに違いない。
時計を見て慌てて廊下を走りだそうとしたところで、職員室の並びにある校長室から、萌子が出てくるのが見えた。
一礼する萌子の前に立っているのは、にこやかな校長の笑顔だ。
校長先生に呼び出し？
そう思い、声をかけようと思ったまりはその手をすぐにひっこめて、柱の陰に思わず隠れた。
失礼します、という萌子の声に被るようにして、明るい校長の声が廊下に響いた。
「十三日のコンテストまであまり時間もないからね。くれぐれも怪我には気をつけてくれたまえ。君の代わりに出場してくれる人はいないんだから」
十三日のコンテスト？でも、その日は、関東大会の日で、萌子は法事の為に関東大会には同行できない。
…本当は、法事じゃなくて、コンテストの為に関東大会に来れないってこと？
頭に浮かんだその答えに、まりは戸惑っていた。
思わず廊下に立ちつくしていると、名前を呼ばれた。
「まりも日直だったんだ」
千鶴だ。
「急がないと、遅刻するよ」
校長の言葉に囚われて、ぼんやりしているまりに千鶴はそう言うと、二人して部室に向かって走り出した。
走りながら、まりは思っていたことをそのままに口にする。
「ねえ、千鶴。萌子さん、関東大会に来ないのって、法事じゃなくて別の理由なのかな？」
「え？別の理由って？」
「例えば…コンテストとか」
「コンテスト？何の？」
「わかんないけど」
すると、千鶴はくすりと笑って答えた。
「まりがわかんないんだったら、私だってわかんないよ」
目の前には部室がある。
急いで着替えれば、間に合いそうだ。
だが着替えながらもまりの頭の中には、さっきの言葉が離れてくれない。
思い立ったら即行動のまりは、曖昧なことが苦手だった。
「でもね、言ってたんだよなー。校長が」
「何の話？」
その時ドアが開いて、理香が顔を出す。思わずまりは声をかけた。
「あ、理香さんならわかるかも。萌子さんが出るコンテストって何ですか？」
コンテスト？と腕組みをした理香だったが、ああと両手を叩いて答えた。
「あー、もしかして、ミスハイスクール？」
「やっぱり理香さんってすごい！」
「でもあのコンテストなら萌子、断ったって言ってたけど？」
その返事に、まりはえっと思いながら思わず口ごもりながら呟く。
「でも今日…」
「今日、どうしたの？」
理香がじっとまりを見つめていた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
石橋と打ち合わせの後、備品の整備を終えてグラウンドに現れた萌子は、そう言いながらベンチの近くにいた理香と美都のところに向かった。
スコアブックの確認をしていると、ふいに目の前に理香が立った。そして萌子が口を開く前に、仁王立ちになって理香が言った。
「萌子、嘘だよね。コンテストなんか出ないし、その為に関東大会行かないってわけじゃないよね」
「理香…」
止めようとする美都の手を理香が振り払う。萌子は何も言えずに黙り込んだままだった。
「答えてよ、どうなの？ミスハイスクールなんて興味ないって言ってたのに、突然出る気になったの？
部活をさぼってまで？」
険悪なムードに気付いた篤志が駆け寄ってくる。
「おい理香、何言ってんだよ、急に」
しかしそれを制するように理香が叫んだ。
「いいから答えてっ」
グラウンドには部員しかおらず、その声に気付いた部員たちは、皆ストレッチを止めて理香と萌子の様子を見つめていた。
「どうしたんだよ」
「それがさ…」
状況を伝える声が波紋のようにグラウンドに瞬く間に広がっていく。
静まり返った中で、萌子は項垂れたまま答えた。
「…ごめん」
ごめんなさいと頭を深く下げた萌子に、思わず理香が怒鳴る。
「謝ってほしいんじゃないのっ、あたしはっ―」
「校長に頼まれて、仕方なくそうなったんだ、小池」
「監督…」
萌子が慌てて顔を上げると、自分の背後に溜め息をついた石橋が立っていた。
石橋は皆に聞こえるように声を張り上げて言った。
「法事だと言ったのは、俺の判断だ。この時期に、部員たちの士気がそがれるようなことはしたくはない」
しかしそれ以上の甲高い声で理香が言い返す。
「だったら、断ればいいじゃないですか。本人のやる気がないのに、校長が無理やり出場させられるわけじゃないでしょう？」
項垂れる萌子を一瞥して、石橋は歯切れ悪く答えた。
「…この件については、沢木は悪くない」
たまらず理香が叫ぶ。
「納得できませんっ、そんなのっ。ちゃんと説明してくださいっ」
しかし石橋は淡々と答える。
「それ以上説明することはない。
お前ら、ストレッチ続けろ」
自分を無視して部員たちに指示する石橋の声に、理香の怒りの矛先は当然萌子へと向かった。
「関東大会が大事な大会だって、わかってるでしょ？萌子っ。
ユース大会につながる大会だし、インターハイの前哨戦でもある。
そう言ったのは、萌子じゃない。
それにわかってる？
私たちが一緒にいける数少ない大会なんだよ。
三人で一緒にいられるまで、あと少ししかないんだよっ」
なのに、どうしてっ。
理香の苛立ちがわかる分だけ、萌子は何も言えずに「ごめん」と呟く。
頭を下げて、グラウンドを見つめると、視線の先に見えていた理香の足元がさっと動いた。
「もういいっ」
「理香っ」
美都の叫び声に萌子が顔を上げた時には、目の前にいた理香の姿はなかった。グラウンドに消えていく背中を少しだけ追いかけた美都が、困ったように萌子を振り返っていた。
「萌子…、どうしたんだよ」
慌てて駆け寄ってきた篤志に、
「理香のところに行ってあげて」
と萌子は言うと、唇をかみしめながらベンチに座り、いつものように仕事を始めた。