Maybe Blue 第三部 誰かのために
靑嵐9
「萌子は…きっと、朔哉先輩のところだよ」
決意を固めてそう言った理香に、それにも動じない成の声が受話器を通して聞こえてきた。
「知ってる」
思わず理香は声をあげた。
「え。どうして―」
「電話したんだ、福山さんに。
でももう出たって。時間的にはもうこっちにいるはずなんだ。
…そうだよな、駅に行けばいいんだよな。ありがとう」
最後は口早に言って電話を切ろうとした成に、理香は必死になって叫んだ。
「待って成くん。あたしも行くっ」
驚く成の声が聞こえたけれど、気にせず理香は電話を切った。
頭がくらくらした。
萌子は、あたしが渡した手紙を持って朔哉さんのところに行った。
それなのに、朔哉さんのところから去った。
どうして、何があったんだろう。
だけど、非常事態だからって、成くんから朔哉さんに電話をかけるなんて、そんな―。
動揺する気持ちを落ち着かせようと大きく深呼吸をする理香に、階段を下りてきた篤志が尋ねる。
「どうしたんだよ。成はなんて？」
理香はその声ではっとする。
今一番に考えるべきは、萌子の居場所。
朔哉さんと何があったのかとか、成くんがどんな気持ちでいるとか、そういうのはこの際後回しだ。
理香はいったん部屋にあがると、パーカーを手にして戻ってきた。そして、答えを待っている篤志に言う。
「萌子がいないんだって、探してる。朔哉さんところももう出てるから、こっちに戻ってきてるはずなのに。
それで、成くんが駅に探しに行くっていうから、あたしも行くの」
そう言って篤志を置いて出て行こうとすると、篤志も理香の後を追いかけてきた。
「俺も行く」
思わず理香が篤志をじっと見ると、篤志はごく当たり前のことのように言った。
「こんな時間に女の子一人で歩かせられない」
萌子のことも心配だし。
篤志がそう言いたいのは分かったけれど、とりあえずこの話は後回しにしようと、理香は篤志と一緒に駅へと向かった。
成は二人よりも先に来ていて、改札の前をうろうろとしていた。
しばらくは電車が着いて人が出てくるたびにそわそわしていたが、時間が過ぎていくうちに、疲労感の方が大きくなっていった。
「来ないな。もう着いててもおかしくない時間なのに」
篤志がそう言う。成はポケットに手を突っ込んで黙ったままだ。
雨はどんどん激しさを増していた。
萌子は傘を持っているんだろうか。
持ってなくて、雨宿りしてるから遅くなっているんだろうか。
それとも、どこかで濡れている？
ふとそう思って不安になる成に、理香があっと大きな声を上げる。
「ねえ行き違いとかない？あたし、もう一度萌子の家に電話してみる」
理香はそう言うと、近くにある公衆電話に向かって走っていく。
篤志はその後ろ姿を見ながら、成に話しかけた。
「理香から聞いたけど…お前が、朔哉さんに連絡したのか？」
「ああ」
冷静に答える成がじれったくて、思わず篤志は言い返す。
「どうしてっ。お前がかけなくてもよかっただろ？俺がかけたのにっ」
「非常事態だから、仕方ないし。誰かに頼むことでもないし。それに篤志いなかっただろう？」
「そう…だけど、でも」
とその先の言葉を篤志は飲み込んだ。
どんなに苦しい想いで朔哉に連絡を取ったのかなんて、聞かなくてもわかることだった。
男としてのプライドも捨てた行為に、篤志は成が自分より何倍も大きな存在に思えた。
返す言葉もなくなり、二人が黙りこんだところで、理香が唇をかみしめながら戻ってきた。
「どうだった？」
浮かない表情に心配そうに成が口を開く。うん…と頷きながら理香は答える。
「…少し前に萌子から電話があったって」
「良かった」
ほっと安堵の息が漏れる中で、それでと理香は話を続けた。
「それで…美都の家に泊まるって」
硬い表情が何を言いたいのか、成にも篤志にも予想がつく。そして、理香はその予想通りの言葉を口にした。
「気になって美都の家にかけたら、萌子とそういう約束してないし、何も連絡来てないって」
目の前にかすかに見えた光が、一気に遮断された気がした。
凪浜にもいない。
朔哉のところにもいない。
泊まると言った美都の家にもいない。
それじゃあ…と小さく篤志は呟いた。
「どこに行ったんだ、萌子」
また電話が鳴った。
ついさっきの電話が和美でなかったことに落胆していた美都は、少しだけ期待して電話に出る。
「もしもし、椎名？和泉だけど」
聞こえてきたのは湊の声だ。
やっぱり違ったと思いながらも、美都は尋ねる。
「湊くん。どうしたの？」
毎日といってもいいくらい顔を会わせる湊だが、電話で話したことはほとんどない。
そういえばさっきの理香の電話も様子がおかしかったなと思いながら美都は湊の答えを待つ。
湊は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに話を始めた。
「俺の友達で、和美と同じ中学校のやつがいて、聞いたんだ。その女の子のこと」
女の子とはもちろん愛海のことだ。
聞きたいような聞きたくないような思いの中で、美都は決心して小さく震える声でうんと答える。湊はそれが、と切り出した。
「二人は付き合ってなかったって。そいつ、彼女がその子の友達だったらしくて、二人のことも詳しいんだ。
彼女の方は好きだったみたいだけど、結局和美がふったって話だった」
つまり二人は付き合ってない。
そのことにほっと安心すると、今度は後悔の念が美都を襲う。
正しいことを言った和美くんを、私は信じなかったんだ。
大好きな人を、信じられなかった。
「…椎名？」
美都をそっと気遣う湊の声が聞こえてくる。美都は鼻をすすりあげながら答えた。
「…ありがとう、湊くん」
これ以上話していると、また愚痴話になってしまいそうだった。
美都は涙を手でぬぐうと、もう一度ありがとうと言った。
リビングに戻ってくると、キッチンの方から史央が顔を出した。
「家の人、大丈夫だった？」
「…うん」
嘘をついた罪悪感で、胸がちくりと痛んだが、萌子はそう答えた。
史央に泊まってもいいかと聞いたのは、凪浜には戻れないと思ったからだった。史央は両親も兄弟もいないから泊まるのは構わないが、萌子の親は大丈夫かと 尋ねた。そこで萌子はようやく家に電話することを思い出した。案の定、夕食は一緒に食べると言っていたのにその時間を過ぎても帰らない萌子を、母親は心配 していた。美都の家に泊まるとついた嘘も、すんなりと受け入れてくれていた。
史央の住む家は、駅から少し離れたところにあるマンションの一室で、ごく普通の間取りの部屋だった。
リビングのソファーに浅く座っていると、史央がお椀を運んできた。
「夕飯食べてないんだろう？簡単なもので悪いけど」
そう言ってテーブルに並べたのは、野菜炒めとご飯だ。答える前にお腹が反応し、萌子は僅かに赤らんだ顔で素直に食べることにした。Ｌ字のソファーの逆側に座った史央に、萌子は箸を取りながら頭を下げる。
「ごめんね。朝になったらすぐに帰るから」
「気にしなくていい。今日は他に誰もいないし、明日もこの雨だから練習はどうなるかわからないし。
ああ、ベッドは俺のを使ってくれていいから。俺は、親の部屋で寝る」
「ごめんね」
申し訳なさそうに萌子がそう言う。
雨でぬれた服のままじゃ風邪をひくからと、史央はジャージを萌子に渡した。
おまけに風呂まで入れてくれたのだ。史央はその間、萌子の夕食を用意してくれていたのだろう。
箸を置いた萌子に、史央は気にするなと言う。
「いいから、食べて。ありもので作ったからうまいかどうかわからないけど、温かいと多少はうまく思えるだろ？」
そう言われて、萌子は野菜炒めを口に入れる。
「おいしい」
素直な感想を伝えると、史央は嬉しそうにほほ笑んだ。
笑うと目元に小さなしわができる。
昔はそうじゃなかったなと萌子はふと思った。
それだけじゃない。一緒に遊んでいた頃は、そう変わらなかった身長も、今は全然違う。萌子が着ている史央のジャージは、その中で泳げそうなくらいに大きかったし、裾も何回も折り返さねばならなかった。
温かなご飯を食べていると、萌子は気持ちがだんだんと落ち着いていくのがわかった。
ふいに萌子は電話で母親が言っていたことを思い出す。
「サッカー部の早坂君が、萌子と連絡取りたがっていたけど」
余裕がなく、どうして成が連絡を取りたがっているのかは聞けずに萌子は電話を切った。だがここ数日、話しかけても来なかった成が連絡を取りたがっているというのなら、何かがあったんだろう。
それも、大事なこと。
けれど今の自分に、成とちゃんと向き合える自信はなかった。
もしも…祥子と付き合うことにしたっていう報告だったら…。
そう思うと、なおさらだった。
でも現実からは逃げられないのだ。
こんな状況で私、きちんと忘れられるのかな。成のこと。
萌子が箸を置いたところで、史央が口を開こうとした。
「なあ、沢木―」
「ただいまぁ！」
高い声が、ドアの開く音と同時に家に響く。そして、驚いて立ち上がった史央の前に、６歳くらいの男の子が飛び出てきて、史央に抱きついた。
「ただいま！フミくん！」
「幸央（ゆきちか）。お前今日、まーくんとこに泊まるって―」
「うん。でもまーくん、風邪引いたみたいだし、おうちの明かり見えたから、帰ったの」
萌子が二人のやり取りとみて驚いていると、幸央と呼ばれた男の子が萌子を見てから史央を見上げて尋ねた。
「だあれ？」
「ああ、お兄ちゃんの友達の沢木萌子さん」
友達と聞いて安心したのか、幸央の表情が和らぐ。
「こんばんわ」
「こ、こんばんわ」
慌てて立ちあがると、史央は足元でじゃれつく幸央の頭をなでながら萌子に言う。
「ごめん沢木。弟の幸央が、帰ってきた。
あー幸央、ごはんは食べた？」
「うん」
「それじゃ、お風呂だな。
ちょうどいい、入ったところだから、ほら準備するぞ」
「はぁーい」
元気よく手を挙げてそう答えた幸央は、その手を史央に引っ張られながらリビングを出て行く前に萌子にも手を振った。
「ばいばい」
ぎこちなく萌子も手を振り返すと、幸央は満足したのか史央の足元に駆け寄って行く。
そうして廊下を歩く二人の声が、リビングの萌子にも聞こえてきた。
「ねえ、お姉ちゃんは、フミくんのコレ？」
「どこでそんな言葉覚えて…巧だな、まったく。
違うよ、友達だ。
それから幸央、そんな言葉、母さんの前では使うなよ。ショック受けるから」
「はぁーい」
一瞬のざわめきの後で静寂が訪れると、ついに駅の明かりは消えようとしていた。
「行っちゃったね、終電」
理香がそう呟く。
朔哉のところから帰ってくるのであれば、電車を使うのが普通だ。
バスという手段もあるが、考えにくかった。
溜め息をついた成に、篤志が言う。
「自分で電話をかけてきたってことは、誘拐とかじゃないだろうし、大丈夫だよ。
帰ろう、成」
寮の門限はとうに過ぎている。だが途中で篤志が気を使って、今日は遅くなると伝えていたから誤魔化してくれるはずだ。
足を出口へと向けた篤志だったが、成はそのまま改札を見て答えた。
「俺は、もう少し待ってみるよ」
するとムキになったように理香も言う。
「じゃあ、あたしも」
そんな理香に成は淡々と答えた。
「小池は帰った方がいいよ。この時間じゃさすがに親も心配するし。篤志に送ってってもらってさ」
「嫌よ。もう少し、ここに居る」
理香はそう言うと、しゃがんでアピールした。
成が小さくため息をつき、篤志に視線を向けると、その篤志がふいと歩き始めた。
「篤志―」
「理香の家には俺が電話する」
振り返らずにそう篤志が答える。
ありがとうと成が言うと、篤志はひらひらと手を振り、公衆電話の受話器を持ち上げた。
遠くからその様子を見つめていた理香は、しゃがんだままで自分の両膝を抱えながら小さく呟くように言った。
「…ごめん、成くん」
「え」
それが何に対する謝罪なのかわからずにいる成に、理香は抱えた両膝に顔を埋めるようにして話を続けた。
「萌子が朔哉さんところに行ったの、あたしのせい。あたしが、萌子をけしかけたから…ごめん」
成が悪いんだと思い込んだ。
だから、萌子は朔哉のところに行くべきで、自分がしていることは悪くはないんだと。
けれど実際に理香にそうさせたのは、萌子の為ではなく、自分の為だった。
そうして、萌子の方に向く篤志の視線を、自分の方に向かせたかったのだ。
しかしそれが成を傷つけてしまったと気付いた時から、理香は成に謝らなければならないと思ったのだ。
そうして怒って、詰られるんであれば、それも受け入れなきゃならない。
覚悟を決めてそう言った。
けれど、成の返事は凪のように穏やかなものだった。
「いいよ、もう。
別に小池だけのせいじゃない。祥子も萌子に福山さんの住所渡したらしいから」
祥子と聞いて理香は驚く。
祥子と朔哉は恋人同士なのだ。
それなのに、別れるような真似をしたという祥子の気持ちを測りかねて理香は声をあげた。
「それって、どういうこと？」
理香は立ち上がり成を見つめる。
電話を終えて歩いて来ていた篤志が、突然の理香の行動に目を見張って二人を見ていた。
全てが終わったんだと、成は一度深く息を吸うと、説明をすることにした。
「付き合ってたわけじゃないんだ、祥子と福山さん。祥子はただ福山さんに恋人役を頼まれただけ。
二人はあの卒業式以来、会ってないよ。
福山さんの住所すら祥子は知らなかったんだ。だから、俺が祥子に渡したんだ」
今回のことは、あの時の罰でもあるんだろう。
あの住所を書かれた紙をもらった時は、それがどれほど意味のある紙かなんて思いもしなかった。
けれど福山さんを忘れられない萌子を見るたびに、渡された意味を思い知らされた。
萌子を解放するかどうかは、俺にかかっているんだと。
途端に怖くなった。
そうしたくなかったから。
だけど萌子が苦しむたびに、それは俺が解放しないせいだと思った。切り札を持っていたのは、俺だから。
だから、祥子に渡した時は、重荷がひとつ消えた気がしてほっとした。
でもそれは、全部俺のエゴで。
だから、あの紙が萌子に渡るのは、当然のこと。
萌子が福山さんのところに行くのも、当然のこと。
そして、こうして戻ってこない萌子を待つことも、萌子が出した答えを受け入れることも、あの時の罰として当然のこと。
「きっと、その方が良かったんだ。
忘れられないんだったら、会いに行くべきだったんだ。
そう気付いて、俺がもっと前に渡すべきだった」
そう認めると気持ちがいくらか軽くなった気がした。
壁にもたれかかっていた成は、体を起こすと、
「帰ろうか」
と告げた。歩き始めた成を、慌てて理香と篤志は追いかける。
駅の外に出ると、雨はもう上がって、きれいな月が星空に輝いていた。
「なあ成―」
話しかけてきた篤志の声を遮って、成は月を見上げて言う。
「萌子がどうして福山さんのところを出たのかはわからないけど。
どうなっても、俺は、萌子が出した答えを全部受け止めようと思う」
翌日は、昨日の雨が嘘のように晴天になった。
「練習なくなったんだ。送るよ」
という史央の言葉に甘えて、萌子は史央と一緒に川城の駅に立っていた。朝早い駅には、休日とはいえ人が何人かいた。
今日の凪高の練習は午後からだった。
突然の休日に戸惑っている史央に、萌子は何も考えずに答えた。
「練習、本当にないの？グラウンドが水浸しだから？でも午後になったら乾くんじゃない？」
すると史央は自嘲気味にほほ笑んだ。
「うちのグラウンドは水はけがあまりよくないし、午後は野球部がグラウンドを使うんだ。うちは普通の公立校だし、実績もないから、サッカー部だけのグラウンドはなくてね」
凪高には選手権の優勝をしたことで、サッカー部用ともいえる第二グラウンドが作られたのだ。遠征用のバスもある。部室も他の部と比べても格別広い。環境としては恵まれている。
しかし、最近の試合では環境的に恵まれていない川城に勝てない状況である。
黙りこむ萌子たちに、電車が入ってくるアナウンスが聞こえてくる。
「今度会うのは、インターハイの予選かな。その前に、関東大会があるか」
そうだね、と萌子は答える。
いずれにしても上に行くのに凪高にとって、川城が大きな壁であるのには変わらない。
春になってからの勝率は、川城の一勝だった。凪高としてもいつまでも負け続けるわけにはいかない。
そう考える一方で、自分の足取りがどこか重いことに萌子は気付いていた。
凪浜には家もある。通っている学校も。
だけどそのどこにも自分の居場所はないのだと思うと、更に気持ちまでが重くなった。
電車がホームに入ってきた風が、そんな萌子の髪を舞いあがらせる。
ドアの前に並ぶ萌子に、史央は真剣な表情で言った。
「話したいことがあったら、いつでも電話してくれて構わないから。
会って話したいんなら、会いに行く。電車で一時間くらいなんだ。会おうと思えば、会えるし」
「…本当に？」
そう尋ねると史央は真剣な表情のままで、ああと答えた。
「…迷惑じゃないの？」
すると史央がくすりと笑った。
「一緒に駆け落ちまでした仲だろ？」
その笑顔には、やはり昔の面影が見え隠れして、昔のことを思い出し、いくらか気持ちが軽くなった気がした。
「ありがとう。今川君」
そう答えて電車に乗り込むと、ドアの閉まるベルが鳴り始めた。
ドアの傍に立ち、ぎこちなくだが史央に手を振ろうとしたところで、突然史央がその手を掴むと、萌子を電車から降ろした。急なことでバランスを失った萌子は、そのまま史央の胸に倒れ込んだ。慌てて体を起こそうとした萌子の背中を、史央の腕が押しとどめる。
電車が動き出す中、萌子は史央に抱きしめられるようにして駅のホームに立っていた。
「やっぱり、どうしても今言いたい。
もう二度も、沢木に言わなかったことを後悔したくないんだ。
昨日何があったとか、涙の理由とかは、もういい。聞かない。
沢木からも無理に話さなくていい。話したくなったらで、構わない。
でも、俺の知らないところで、沢木が泣いているのは嫌なんだ。
つらい時は、俺が沢木のことを守ってやりたい。
俺、あの時からずっと沢木のことが好きだった」
史央はそう言うと、萌子から体を離した。
そして戸惑いで揺れる萌子の目を見て、話を続けた。
「再会した時、嬉しかった。だけど、好きだって気持ちは昔の気持ちだって思ってた。
でも違う。今の俺の正直な気持ちなんだ。
それに、わかるんだ。今の沢木が俺を必要としてくれてること。
迷惑なんかじゃない。
俺が沢木を助けるのは、必然だから。
だから、付き合おう」
そこまで一気に話すと、史央は一息ついて、きちんと話した。
「俺と付き合ってほしい」
史央のまっすぐな視線から逃れるように萌子は俯き、口を開く。
「…今川君、私ね―」
「誰かを忘れたいんなら、俺がそうしてみせる」
その言葉に思わず萌子は顔をあげる。
何も語らなかったはずなのに、どうして気持ちがわかるんだろうか。
そう思って史央をじっと見つめる萌子に、史央は力強く言った。
「相手のこと、思い出せないくらい俺で埋めてみせる」
決意を固めてそう言った理香に、それにも動じない成の声が受話器を通して聞こえてきた。
「知ってる」
思わず理香は声をあげた。
「え。どうして―」
「電話したんだ、福山さんに。
でももう出たって。時間的にはもうこっちにいるはずなんだ。
…そうだよな、駅に行けばいいんだよな。ありがとう」
最後は口早に言って電話を切ろうとした成に、理香は必死になって叫んだ。
「待って成くん。あたしも行くっ」
驚く成の声が聞こえたけれど、気にせず理香は電話を切った。
頭がくらくらした。
萌子は、あたしが渡した手紙を持って朔哉さんのところに行った。
それなのに、朔哉さんのところから去った。
どうして、何があったんだろう。
だけど、非常事態だからって、成くんから朔哉さんに電話をかけるなんて、そんな―。
動揺する気持ちを落ち着かせようと大きく深呼吸をする理香に、階段を下りてきた篤志が尋ねる。
「どうしたんだよ。成はなんて？」
理香はその声ではっとする。
今一番に考えるべきは、萌子の居場所。
朔哉さんと何があったのかとか、成くんがどんな気持ちでいるとか、そういうのはこの際後回しだ。
理香はいったん部屋にあがると、パーカーを手にして戻ってきた。そして、答えを待っている篤志に言う。
「萌子がいないんだって、探してる。朔哉さんところももう出てるから、こっちに戻ってきてるはずなのに。
それで、成くんが駅に探しに行くっていうから、あたしも行くの」
そう言って篤志を置いて出て行こうとすると、篤志も理香の後を追いかけてきた。
「俺も行く」
思わず理香が篤志をじっと見ると、篤志はごく当たり前のことのように言った。
「こんな時間に女の子一人で歩かせられない」
萌子のことも心配だし。
篤志がそう言いたいのは分かったけれど、とりあえずこの話は後回しにしようと、理香は篤志と一緒に駅へと向かった。
成は二人よりも先に来ていて、改札の前をうろうろとしていた。
しばらくは電車が着いて人が出てくるたびにそわそわしていたが、時間が過ぎていくうちに、疲労感の方が大きくなっていった。
「来ないな。もう着いててもおかしくない時間なのに」
篤志がそう言う。成はポケットに手を突っ込んで黙ったままだ。
雨はどんどん激しさを増していた。
萌子は傘を持っているんだろうか。
持ってなくて、雨宿りしてるから遅くなっているんだろうか。
それとも、どこかで濡れている？
ふとそう思って不安になる成に、理香があっと大きな声を上げる。
「ねえ行き違いとかない？あたし、もう一度萌子の家に電話してみる」
理香はそう言うと、近くにある公衆電話に向かって走っていく。
篤志はその後ろ姿を見ながら、成に話しかけた。
「理香から聞いたけど…お前が、朔哉さんに連絡したのか？」
「ああ」
冷静に答える成がじれったくて、思わず篤志は言い返す。
「どうしてっ。お前がかけなくてもよかっただろ？俺がかけたのにっ」
「非常事態だから、仕方ないし。誰かに頼むことでもないし。それに篤志いなかっただろう？」
「そう…だけど、でも」
とその先の言葉を篤志は飲み込んだ。
どんなに苦しい想いで朔哉に連絡を取ったのかなんて、聞かなくてもわかることだった。
男としてのプライドも捨てた行為に、篤志は成が自分より何倍も大きな存在に思えた。
返す言葉もなくなり、二人が黙りこんだところで、理香が唇をかみしめながら戻ってきた。
「どうだった？」
浮かない表情に心配そうに成が口を開く。うん…と頷きながら理香は答える。
「…少し前に萌子から電話があったって」
「良かった」
ほっと安堵の息が漏れる中で、それでと理香は話を続けた。
「それで…美都の家に泊まるって」
硬い表情が何を言いたいのか、成にも篤志にも予想がつく。そして、理香はその予想通りの言葉を口にした。
「気になって美都の家にかけたら、萌子とそういう約束してないし、何も連絡来てないって」
目の前にかすかに見えた光が、一気に遮断された気がした。
凪浜にもいない。
朔哉のところにもいない。
泊まると言った美都の家にもいない。
それじゃあ…と小さく篤志は呟いた。
「どこに行ったんだ、萌子」
また電話が鳴った。
ついさっきの電話が和美でなかったことに落胆していた美都は、少しだけ期待して電話に出る。
「もしもし、椎名？和泉だけど」
聞こえてきたのは湊の声だ。
やっぱり違ったと思いながらも、美都は尋ねる。
「湊くん。どうしたの？」
毎日といってもいいくらい顔を会わせる湊だが、電話で話したことはほとんどない。
そういえばさっきの理香の電話も様子がおかしかったなと思いながら美都は湊の答えを待つ。
湊は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに話を始めた。
「俺の友達で、和美と同じ中学校のやつがいて、聞いたんだ。その女の子のこと」
女の子とはもちろん愛海のことだ。
聞きたいような聞きたくないような思いの中で、美都は決心して小さく震える声でうんと答える。湊はそれが、と切り出した。
「二人は付き合ってなかったって。そいつ、彼女がその子の友達だったらしくて、二人のことも詳しいんだ。
彼女の方は好きだったみたいだけど、結局和美がふったって話だった」
つまり二人は付き合ってない。
そのことにほっと安心すると、今度は後悔の念が美都を襲う。
正しいことを言った和美くんを、私は信じなかったんだ。
大好きな人を、信じられなかった。
「…椎名？」
美都をそっと気遣う湊の声が聞こえてくる。美都は鼻をすすりあげながら答えた。
「…ありがとう、湊くん」
これ以上話していると、また愚痴話になってしまいそうだった。
美都は涙を手でぬぐうと、もう一度ありがとうと言った。
リビングに戻ってくると、キッチンの方から史央が顔を出した。
「家の人、大丈夫だった？」
「…うん」
嘘をついた罪悪感で、胸がちくりと痛んだが、萌子はそう答えた。
史央に泊まってもいいかと聞いたのは、凪浜には戻れないと思ったからだった。史央は両親も兄弟もいないから泊まるのは構わないが、萌子の親は大丈夫かと 尋ねた。そこで萌子はようやく家に電話することを思い出した。案の定、夕食は一緒に食べると言っていたのにその時間を過ぎても帰らない萌子を、母親は心配 していた。美都の家に泊まるとついた嘘も、すんなりと受け入れてくれていた。
史央の住む家は、駅から少し離れたところにあるマンションの一室で、ごく普通の間取りの部屋だった。
リビングのソファーに浅く座っていると、史央がお椀を運んできた。
「夕飯食べてないんだろう？簡単なもので悪いけど」
そう言ってテーブルに並べたのは、野菜炒めとご飯だ。答える前にお腹が反応し、萌子は僅かに赤らんだ顔で素直に食べることにした。Ｌ字のソファーの逆側に座った史央に、萌子は箸を取りながら頭を下げる。
「ごめんね。朝になったらすぐに帰るから」
「気にしなくていい。今日は他に誰もいないし、明日もこの雨だから練習はどうなるかわからないし。
ああ、ベッドは俺のを使ってくれていいから。俺は、親の部屋で寝る」
「ごめんね」
申し訳なさそうに萌子がそう言う。
雨でぬれた服のままじゃ風邪をひくからと、史央はジャージを萌子に渡した。
おまけに風呂まで入れてくれたのだ。史央はその間、萌子の夕食を用意してくれていたのだろう。
箸を置いた萌子に、史央は気にするなと言う。
「いいから、食べて。ありもので作ったからうまいかどうかわからないけど、温かいと多少はうまく思えるだろ？」
そう言われて、萌子は野菜炒めを口に入れる。
「おいしい」
素直な感想を伝えると、史央は嬉しそうにほほ笑んだ。
笑うと目元に小さなしわができる。
昔はそうじゃなかったなと萌子はふと思った。
それだけじゃない。一緒に遊んでいた頃は、そう変わらなかった身長も、今は全然違う。萌子が着ている史央のジャージは、その中で泳げそうなくらいに大きかったし、裾も何回も折り返さねばならなかった。
温かなご飯を食べていると、萌子は気持ちがだんだんと落ち着いていくのがわかった。
ふいに萌子は電話で母親が言っていたことを思い出す。
「サッカー部の早坂君が、萌子と連絡取りたがっていたけど」
余裕がなく、どうして成が連絡を取りたがっているのかは聞けずに萌子は電話を切った。だがここ数日、話しかけても来なかった成が連絡を取りたがっているというのなら、何かがあったんだろう。
それも、大事なこと。
けれど今の自分に、成とちゃんと向き合える自信はなかった。
もしも…祥子と付き合うことにしたっていう報告だったら…。
そう思うと、なおさらだった。
でも現実からは逃げられないのだ。
こんな状況で私、きちんと忘れられるのかな。成のこと。
萌子が箸を置いたところで、史央が口を開こうとした。
「なあ、沢木―」
「ただいまぁ！」
高い声が、ドアの開く音と同時に家に響く。そして、驚いて立ち上がった史央の前に、６歳くらいの男の子が飛び出てきて、史央に抱きついた。
「ただいま！フミくん！」
「幸央（ゆきちか）。お前今日、まーくんとこに泊まるって―」
「うん。でもまーくん、風邪引いたみたいだし、おうちの明かり見えたから、帰ったの」
萌子が二人のやり取りとみて驚いていると、幸央と呼ばれた男の子が萌子を見てから史央を見上げて尋ねた。
「だあれ？」
「ああ、お兄ちゃんの友達の沢木萌子さん」
友達と聞いて安心したのか、幸央の表情が和らぐ。
「こんばんわ」
「こ、こんばんわ」
慌てて立ちあがると、史央は足元でじゃれつく幸央の頭をなでながら萌子に言う。
「ごめん沢木。弟の幸央が、帰ってきた。
あー幸央、ごはんは食べた？」
「うん」
「それじゃ、お風呂だな。
ちょうどいい、入ったところだから、ほら準備するぞ」
「はぁーい」
元気よく手を挙げてそう答えた幸央は、その手を史央に引っ張られながらリビングを出て行く前に萌子にも手を振った。
「ばいばい」
ぎこちなく萌子も手を振り返すと、幸央は満足したのか史央の足元に駆け寄って行く。
そうして廊下を歩く二人の声が、リビングの萌子にも聞こえてきた。
「ねえ、お姉ちゃんは、フミくんのコレ？」
「どこでそんな言葉覚えて…巧だな、まったく。
違うよ、友達だ。
それから幸央、そんな言葉、母さんの前では使うなよ。ショック受けるから」
「はぁーい」
一瞬のざわめきの後で静寂が訪れると、ついに駅の明かりは消えようとしていた。
「行っちゃったね、終電」
理香がそう呟く。
朔哉のところから帰ってくるのであれば、電車を使うのが普通だ。
バスという手段もあるが、考えにくかった。
溜め息をついた成に、篤志が言う。
「自分で電話をかけてきたってことは、誘拐とかじゃないだろうし、大丈夫だよ。
帰ろう、成」
寮の門限はとうに過ぎている。だが途中で篤志が気を使って、今日は遅くなると伝えていたから誤魔化してくれるはずだ。
足を出口へと向けた篤志だったが、成はそのまま改札を見て答えた。
「俺は、もう少し待ってみるよ」
するとムキになったように理香も言う。
「じゃあ、あたしも」
そんな理香に成は淡々と答えた。
「小池は帰った方がいいよ。この時間じゃさすがに親も心配するし。篤志に送ってってもらってさ」
「嫌よ。もう少し、ここに居る」
理香はそう言うと、しゃがんでアピールした。
成が小さくため息をつき、篤志に視線を向けると、その篤志がふいと歩き始めた。
「篤志―」
「理香の家には俺が電話する」
振り返らずにそう篤志が答える。
ありがとうと成が言うと、篤志はひらひらと手を振り、公衆電話の受話器を持ち上げた。
遠くからその様子を見つめていた理香は、しゃがんだままで自分の両膝を抱えながら小さく呟くように言った。
「…ごめん、成くん」
「え」
それが何に対する謝罪なのかわからずにいる成に、理香は抱えた両膝に顔を埋めるようにして話を続けた。
「萌子が朔哉さんところに行ったの、あたしのせい。あたしが、萌子をけしかけたから…ごめん」
成が悪いんだと思い込んだ。
だから、萌子は朔哉のところに行くべきで、自分がしていることは悪くはないんだと。
けれど実際に理香にそうさせたのは、萌子の為ではなく、自分の為だった。
そうして、萌子の方に向く篤志の視線を、自分の方に向かせたかったのだ。
しかしそれが成を傷つけてしまったと気付いた時から、理香は成に謝らなければならないと思ったのだ。
そうして怒って、詰られるんであれば、それも受け入れなきゃならない。
覚悟を決めてそう言った。
けれど、成の返事は凪のように穏やかなものだった。
「いいよ、もう。
別に小池だけのせいじゃない。祥子も萌子に福山さんの住所渡したらしいから」
祥子と聞いて理香は驚く。
祥子と朔哉は恋人同士なのだ。
それなのに、別れるような真似をしたという祥子の気持ちを測りかねて理香は声をあげた。
「それって、どういうこと？」
理香は立ち上がり成を見つめる。
電話を終えて歩いて来ていた篤志が、突然の理香の行動に目を見張って二人を見ていた。
全てが終わったんだと、成は一度深く息を吸うと、説明をすることにした。
「付き合ってたわけじゃないんだ、祥子と福山さん。祥子はただ福山さんに恋人役を頼まれただけ。
二人はあの卒業式以来、会ってないよ。
福山さんの住所すら祥子は知らなかったんだ。だから、俺が祥子に渡したんだ」
今回のことは、あの時の罰でもあるんだろう。
あの住所を書かれた紙をもらった時は、それがどれほど意味のある紙かなんて思いもしなかった。
けれど福山さんを忘れられない萌子を見るたびに、渡された意味を思い知らされた。
萌子を解放するかどうかは、俺にかかっているんだと。
途端に怖くなった。
そうしたくなかったから。
だけど萌子が苦しむたびに、それは俺が解放しないせいだと思った。切り札を持っていたのは、俺だから。
だから、祥子に渡した時は、重荷がひとつ消えた気がしてほっとした。
でもそれは、全部俺のエゴで。
だから、あの紙が萌子に渡るのは、当然のこと。
萌子が福山さんのところに行くのも、当然のこと。
そして、こうして戻ってこない萌子を待つことも、萌子が出した答えを受け入れることも、あの時の罰として当然のこと。
「きっと、その方が良かったんだ。
忘れられないんだったら、会いに行くべきだったんだ。
そう気付いて、俺がもっと前に渡すべきだった」
そう認めると気持ちがいくらか軽くなった気がした。
壁にもたれかかっていた成は、体を起こすと、
「帰ろうか」
と告げた。歩き始めた成を、慌てて理香と篤志は追いかける。
駅の外に出ると、雨はもう上がって、きれいな月が星空に輝いていた。
「なあ成―」
話しかけてきた篤志の声を遮って、成は月を見上げて言う。
「萌子がどうして福山さんのところを出たのかはわからないけど。
どうなっても、俺は、萌子が出した答えを全部受け止めようと思う」
翌日は、昨日の雨が嘘のように晴天になった。
「練習なくなったんだ。送るよ」
という史央の言葉に甘えて、萌子は史央と一緒に川城の駅に立っていた。朝早い駅には、休日とはいえ人が何人かいた。
今日の凪高の練習は午後からだった。
突然の休日に戸惑っている史央に、萌子は何も考えずに答えた。
「練習、本当にないの？グラウンドが水浸しだから？でも午後になったら乾くんじゃない？」
すると史央は自嘲気味にほほ笑んだ。
「うちのグラウンドは水はけがあまりよくないし、午後は野球部がグラウンドを使うんだ。うちは普通の公立校だし、実績もないから、サッカー部だけのグラウンドはなくてね」
凪高には選手権の優勝をしたことで、サッカー部用ともいえる第二グラウンドが作られたのだ。遠征用のバスもある。部室も他の部と比べても格別広い。環境としては恵まれている。
しかし、最近の試合では環境的に恵まれていない川城に勝てない状況である。
黙りこむ萌子たちに、電車が入ってくるアナウンスが聞こえてくる。
「今度会うのは、インターハイの予選かな。その前に、関東大会があるか」
そうだね、と萌子は答える。
いずれにしても上に行くのに凪高にとって、川城が大きな壁であるのには変わらない。
春になってからの勝率は、川城の一勝だった。凪高としてもいつまでも負け続けるわけにはいかない。
そう考える一方で、自分の足取りがどこか重いことに萌子は気付いていた。
凪浜には家もある。通っている学校も。
だけどそのどこにも自分の居場所はないのだと思うと、更に気持ちまでが重くなった。
電車がホームに入ってきた風が、そんな萌子の髪を舞いあがらせる。
ドアの前に並ぶ萌子に、史央は真剣な表情で言った。
「話したいことがあったら、いつでも電話してくれて構わないから。
会って話したいんなら、会いに行く。電車で一時間くらいなんだ。会おうと思えば、会えるし」
「…本当に？」
そう尋ねると史央は真剣な表情のままで、ああと答えた。
「…迷惑じゃないの？」
すると史央がくすりと笑った。
「一緒に駆け落ちまでした仲だろ？」
その笑顔には、やはり昔の面影が見え隠れして、昔のことを思い出し、いくらか気持ちが軽くなった気がした。
「ありがとう。今川君」
そう答えて電車に乗り込むと、ドアの閉まるベルが鳴り始めた。
ドアの傍に立ち、ぎこちなくだが史央に手を振ろうとしたところで、突然史央がその手を掴むと、萌子を電車から降ろした。急なことでバランスを失った萌子は、そのまま史央の胸に倒れ込んだ。慌てて体を起こそうとした萌子の背中を、史央の腕が押しとどめる。
電車が動き出す中、萌子は史央に抱きしめられるようにして駅のホームに立っていた。
「やっぱり、どうしても今言いたい。
もう二度も、沢木に言わなかったことを後悔したくないんだ。
昨日何があったとか、涙の理由とかは、もういい。聞かない。
沢木からも無理に話さなくていい。話したくなったらで、構わない。
でも、俺の知らないところで、沢木が泣いているのは嫌なんだ。
つらい時は、俺が沢木のことを守ってやりたい。
俺、あの時からずっと沢木のことが好きだった」
史央はそう言うと、萌子から体を離した。
そして戸惑いで揺れる萌子の目を見て、話を続けた。
「再会した時、嬉しかった。だけど、好きだって気持ちは昔の気持ちだって思ってた。
でも違う。今の俺の正直な気持ちなんだ。
それに、わかるんだ。今の沢木が俺を必要としてくれてること。
迷惑なんかじゃない。
俺が沢木を助けるのは、必然だから。
だから、付き合おう」
そこまで一気に話すと、史央は一息ついて、きちんと話した。
「俺と付き合ってほしい」
史央のまっすぐな視線から逃れるように萌子は俯き、口を開く。
「…今川君、私ね―」
「誰かを忘れたいんなら、俺がそうしてみせる」
その言葉に思わず萌子は顔をあげる。
何も語らなかったはずなのに、どうして気持ちがわかるんだろうか。
そう思って史央をじっと見つめる萌子に、史央は力強く言った。
「相手のこと、思い出せないくらい俺で埋めてみせる」