Maybe Blue 第三部 誰かのために
靑嵐10
空は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていた。
今日の練習は午後からだが、このぶんだと問題なく始まりそうだと思いながら、理香は自転車を走らせていた。なくなったテーピングを自分が買うことになっていたことを、すっかり忘れていたのだ。
走りながら、理香は萌子は帰ってきたのだろうかと思う。とはいえ、萌子の家に電話をかけるわけにもいかず、何となく理香は萌子の家の前を通っていくこと にした。萌子の部屋のカーテンは開いているものの、萌子の姿は外からは見えない。美都の家にはその後も結局萌子から連絡もなかったらしい。萌子の母親が美都の家に電話をかけてきたらまずいと気付いた理香が慌てて電話をかけて事情を説明をすると、美都は驚きながらもそう答えてくれた。
どこに行ったのかな、萌子。
焦る気持ちで、それでも萌子は今日は学校に来るはずだと強く揺るがないものへと変えようとする。
今日は、テスト休み前の大事な練習の日なんだから。
萌子が来ないはずがないんだから。
気持ちを切り替えて、理香は自転車をこぎ始めた。駅前のスポーツショップに行けば、テーピングはあるはずだ。
だが、駅へと向かう角を曲がったところで、理香は思わず自転車を止めた。
その先から背中を丸めて陽炎のようにゆらゆらと歩いてくるのは、萌子だった。
「萌子？」
理香のその声に、萌子はゆっくりと顔を上げる。
萌子だと確信した瞬間、理香は自転車を乗り捨てると萌子に飛びついた。
「昨日どこいたのよっ、心配したんだからねっ」
肩をつかみ、その存在を確かめる。
怪我はどこにもなく、服装も昨日と同じだが汚れている様子はない。
「…ごめん」
ただ、そう答える萌子の視線は、揺らいでいて、理香を見ようとしていなかった。
理香は咄嗟に萌子の手を引っ張った。
「とにかく、どこか話せるところに行こう」
近くにはファミリーレストランしかなかった。飲み物を頼んだところで、理香は向かい合っている萌子に尋ねた。
「萌子が美都の家に泊まるなんて嘘つくからびっくりして心配してたんだよ。だって、もし事故に巻き込まれてたらって思うじゃない。
あ、安心して。おばさんには誰も嘘だって言ってないし、それを知ってるのもあたしとアッチと成くんだけだし」
成と聞いて萌子が僅かに体を強張らせたが、理香はそれには触れずに話を進める。
「それで、昨日はどこにいたの？」
理香の質問に、萌子は口許を引き締めてから、ぽつりと呟くように答えた。
「…今川君の家」
「今川君？って川城の？なんで？」
思わず立ち上がった理香だが、店員や他の客の視線に気づき、逆にソファに隠れるように深く座った。
混乱する頭を落ちつけようと、頼んだジュースを一口飲んでから一生懸命考える。
朔哉先輩のところにいって、どうして今川君のところに？
二人は住んでいるところも違うのに？
そもそも萌子ってそこまで今川君と親しかったの？
そりゃ、萌子の家の電話番号は私が教えたけど…。
うなる理香の前で、ぽちゃんと小さな音が聞こえた。理香が視線を正面の萌子に戻すと、萌子の目から流れ落ちた涙が、注文したカップの中に落ちるのが見えた。思わず萌子を見つめると、ごめんと小さく萌子が呟いた。
「…ごめんね、理香。私、朔哉さんのところにいられなかった。
理香が帰ってから、行ったの。朔哉さんのところに行った。だけど…」
萌子はそこまで言うと、言葉を詰まらせて俯く。
だけど、居られなかった。
…自分の気持ちに気付いたから？
ふいにさっき萌子が一瞬だけ自分の言葉に反応した時のことを思い出して、理香は尋ねた。
「…成くんのことが、好きだから？」
萌子は肯定も否定もせず、話を続けた。
「ごめんね。理香。理香は、朔哉さんとのことを応援してくれてるのに。でも私…」
しかしそこまで言うと、萌子は言葉を詰まらせる。
理香もどう返していいか、悩んで口を閉ざす。
確かに萌子と朔哉の恋が再びうまく行くことを応援していた。でもその気持ちの半分は、篤志を自分に振り向かせるためだった。けれど素直に全てを話して、萌子に篤志の気持ちを気付かせたくないとも思った。理香はジュースを飲むと、冷静なふりをして答える。
「いいよ。
だって一番大事なのは萌子の気持ちだし」
自分の浅ましさから目を背けるように、萌子からも視線を逸らす。
そして理香は昨日のことを思い出して、ぽつりと呟いた。
「それに…あたしも、成くんのこと誤解してたし」
理香は昨日最後に成が言った言葉を思い出して、小さく息を吐くと萌子を見据えた。
「萌子が朔哉さんのところに行ったこと、成くん知ってるよ。
でも、受け止めるって。萌子のこと」
一番大事なのは萌子の気持ち。
もしまた成くんと付き合い始めて、
もしまたうまくいかなくなっても、
それでまたアッチの気持ちがあたしから離れていっても、
それはあたしのせいだ。
アッチの気持ちをつなぎとめられない、あたしのせいだから。
しかしそう言った理香の前で、萌子は頭を左右に振った。
「萌子？」
どうして？と思う理香に、萌子は低い声で話す。
「朔哉さんのところに行った時に、もう私は成のことを裏切ってる。見守ってくれてた凪高の皆も」
「そんなことないよ。それに、朔哉さんとのことは皆に話さなくてもいいことじゃない」
幸い知っている人間も少ない。
けれど萌子は頑なだった。
「話しても話さなくても、裏切ったことは変わらない。
許してくれなくていいの。
私は嘘をついた成の裏切りが許せなかったのに、今度は私が裏切った。
私だけ許してなんて言えない。それに何より、自分で自分が許せない」
今までにない強い口調で言う萌子に、理香はその強張った気持ちを溶かすように優しい声で答える。
「そんな風に思わなくても。もっと気楽に考えなよ」
ね、と笑う理香だが、萌子はそれに応えないままだ。
頑固な萌子の性格は、理香もよくわかっている。
これ以上言っても、今は無駄だと理香は話を変えることにした。
「…それで、今川君ところに泊まったって…。何もなかったんだよね」
「うん。でも」
「でも？」
予想外の言葉に理香の表情が曇る。
しかし萌子は小さな声ではっきりと答えた。
「…きっと、今川君とつきあうと思う」
「萌子」
思わず立ち上がると、周囲の客や店員が自分を見るのがわかったが、それでも理香は怯まなかった。
何考えてるの？と理香が責める前に、萌子は自分の身を守るように肘をついた両手で頭を抱えると、堰切ったように話しだした。
「忘れたいの、全部を。早く、できるだけ早く。
私、何も話さなかった。朔哉さんのことも、成のことも。でも、それでもいいって。今川君、何も話さなくてもいいから、それでも忘れさせてくれるっていうの。
自分勝手なのはわかってる。理香や皆が怒るってこともわかってる。
でも、今は今川君の言葉に甘えていたい」
理香は腹立たしく息を吐くと、どすんと椅子に座りなおして、目をつぶったままの萌子を見つめながら言った。
「それじゃかえって色んな人を傷つけることになるよ？
今川君や成くんだけじゃない、萌子だって。
それでもいいの？」
「ごめん、理香。
私…まだ、頭の中がぐちゃぐちゃで、整理できてないの。何を、どう信じていいのか、わからないの。
きっと私、朔哉さんのこと沢山傷つけていて、でも全然気付かなかった。
追い込んでいたことにも、気付いてなかった。
なのに…」
そこまで言うと、突然萌子はテーブルにぱたりと伏せた。
慌てて理香は萌子の体を揺する。手を触れただけでも、その熱さに理香は驚いた。よく見れば、萌子の顔は赤く、息も荒い。
「萌子？ちょっと…すごい熱じゃない！」
練習の終わった部室は雑然としていた。
明日からは試験前ということで、試験期間を含めて十日間部活が休みになる。その為、練習を終えた部員たちはしばらくは遊べると喜んでいたのだ。
本来は、試験勉強をするための部活動停止期間なのだが、どうやらそういったことは頭にないらしい。
明日からの放課後は何をしようかと計画をする部員たちの中で、成は黙々と着替えをしていた。
そこに園部がひょいと顔を出した。
「おー、早坂っ、昨日はうまく―」
「やめろって園部」
しかし園部が最後まで言い切る前に、山田がそれを止めた。二人は昨日の決闘を見守った部員でもある。いきなり首に腕をまわされて、そのまま壁の方に連れていかれた園部は不満そうに言った。
「何でだよ、え？ってことはもしかして？」
声をひそめる園部に、山田が答える。
「はっきりとは言わないんだけど、雰囲気がさ」
「言えなかったってことか？」
「俺は、告白したけど、玉砕したんじゃないかって思ってる。ようするに俺も早坂も仲間ってことだ。はっはっは」
「ってか、あいつは沢木と付き合ってた時期があるだろう。仲間じゃねぇよ」
「けどそう思うとさ、少しは自分が報われるだろう。
ユース代表だろうが、ただのサッカー好きだろうが、恋愛は常にフェアーだって」
そう言った山田の肩に、誰かの腕がぶつかった。
「あ、ごめん」
と思わず答えて顔を上げると、右京の背中が見えた。ぶつかってきたのは右京の方だし、いつもであれば会釈くらいはするのにと思っていると、同じように右京の背中を見ていた園部が言う。
「っていうかさ、藤原も何か機嫌悪くないか？」
「藤原だけじゃなくて、皆どっか変だよ。湊も気が抜けてるみたいだし、高岡はいつも以上に怖い」
今日の練習風景を思い出して、山田は身を震え上がらせる。そんな山田を見て、園部は冷静に溜め息をついて言った。
「そもそも沢木が休んでるから、雰囲気がおかしいんだ」
いるはずの萌子がいないから理香に尋ねると風邪だという返事が来た。
もちろん萌子も人間ではあるから、風邪くらい引く。だが、園部の印象からすると、風邪くらいで萌子は練習を休むようなタイプには思えなかった。
おまけに今日は試験期間前の最後の練習の日で、次の練習は十日後なのだ。
そんな大切な練習にであれば、萌子なら這ってでも来るだろうにと、思いながら自然と園部は着替え中の成に視線を送る。
それだけじゃないってことか。
でも、皆で一緒にサッカーできるのも、あと数カ月しかない。
園部は最後の試合まで部に残るつもりだった。だが、山田はこのインターハイが最後になる。
だったらせめて、それまでは皆一緒に頑張っていきたいのに、な。
シャツのボタンを留め終わった成は、そこで溜め息をついた。
理香から萌子が無事に凪浜に戻ってきた連絡は、昼前に聞いていた。だが、理香は萌子が熱があるから部活は休むと答えるものの、それ以上のことは何も言おうとしなかった。昨日は何があったのか、どこに泊まったのか、理香が知っているのかどうかすら、成にはわからなかった。
昨日の夜、成が寮に戻ってくると、知朗が待っていた。
当然萌子のことを聞かれるとは思ったものの、成はどう答えていいのかわからずにいた。
正直に話せば、行方の分からない萌子を知朗が探すと言い出しかねなかったし、説明する中ではきっと朔哉の話は避けられないと思ったからだ。
しかし萌子の為を思うと、何も言わない方がいい気がして黙りこんでいると、二人の間に篤志が入った。
「悪い、知朗。一日だけ猶予くれないか？」
「一日？」
顔を歪める知朗に、篤志がああと同じように苦々しい表情を浮かべて言う。
「実はさ、やっぱり萌子怒ってるらしくてさ、会ってくれないわけよ。おまけに椎名の家に泊まりに行っちゃって。
一応、待ってはみたんだけど無理でさ。でも椎名の家に乗り込むわけにもいかないだろう。
成だって悩んでさ、ほらお前との約束もあるしさ、今まで二人でどうするかって公園で話してたくらいなんだよ。
な、頼むって。俺に免じてさ」
篤志に深く頭を下げられた知朗は、成をじっと睨みつける。気付いた篤志が慌てて成の頭も下げようとしたが、成はその手を振り払うと知朗に言った。
「知朗に言われたからじゃない。俺は、俺のタイミングで、自分の気持ちを萌子に伝えるつもりだから」
そう言った成をしばらく睨みつけるように知朗は見つめていたが、小さく息を吐くとそのまま何も言わずに自分の部屋に戻っていった。
それ以来、知朗は成に何も言わないし、成も知朗に話しかけていない。
知朗に言ったことは、嘘ではない。
昨日は気持ちが急いていたが、一晩経ち、成の頭は冷静さを取り戻していた。
俺は俺のタイミングで、伝える。
練習が終われば、成は萌子のお見舞いに行こうと思っていた。慣れないことだけれど、花を買って持っていくつもりでいた。
だが考えてみると、どんな花がいいのかがわからない。
「なあ、湊。お見舞いの花ってどんなのがいいんだろう？」
隣で同じように着替える湊に声をかけたものの、反応がない。
湊？ともう一度話しかけると、驚いたように湊が成を見返した。
「何？」
どうやら話しかけていたことに気付いていなかったらしい。
「お見舞いの花って何がいいのかな、と思ってさ」
「お見舞いか…。鉢植えは避けた方がいいけど、花は相手が好きな花がいいんじゃないか？」
萌子の好きな花と言っても、成には思い浮かばない。腕組みをして悩んでいると、湊が言った。
「わからなかったら、花屋に相談ってのも一つの手だと思うけど」
なるほど、と湊に礼を言うが、湊は何も答えない。
自分に余裕がなくて気付いていなかったけれど、そういえばいつも気配りしてる湊が、今日は黙りこんでいるだけだ。溜め息の数も多いように思う。
「昨日、何かあった？」
「昨日？…いや、何でも。
ただ、俺ってバカだなって思っただけ」
ふっと口許だけに笑顔を浮かべる湊に、成は言い返した。
「湊がバカなわけないだろう？俺より、全然頭がいいよ」
ありがとうとだけ湊は言うと、ロッカーを閉めて、それじゃあと部室を出ていった。
篤志は少し遅れて、部室に入ろうとしていた。雨でぬかるんだグラウンドのおかげでジャージは泥まみれだ。しばらく休みになる前の練習ということもあっ て、練習の内容はいつもより濃かったし、昨日寝るのが遅くなったこともあって、体はいつも以上に疲れていた。早く着替えてしまいたかったのだが、入る直前で理香に腕を引っ張られた。
「アッチッ、ちょっとっ」
そのまま理香は部室の裏まで話があるからと篤志を無理やり引っ張っていく。部室の前を歩いている生徒が通り過ぎたところで、理香はようやく篤志の腕を放した。
「何だよ、話って。萌子のことか？」
帰ってきた萌子を理香が見つけて送り届けたという話は軽く聞いていた。
だが理香は、萌子が昨日いた場所については何も言わなかったのだ。
「うん…それがね」
耳元で囁かれた篤志は、思わず大声を上げる。
「へ？川城の今川と付き合うって？」
「馬鹿っ、声が大きい！…っ」
理香に背中を叩かれたところで、篤志はふと自分たちに向けられる鋭い視線に気付いた。
「知朗…」
そこにはすでに着替え終わって、帰ろうとしている知朗がじっと自分たちを見ていた。
やばいと思い、篤志は手を大きく振りながら近づいてくる知朗に叫んだ。
「いや、何でもない、何でもないからっ。
頼む、見逃してくれって」
「お前昨日も俺に免じてとか言ってたよな」
しかし知朗は篤志のすぐ前に立つとそう言って、篤志を睨んでから、ちらりと理香にも視線を向けて言った。
「どういうことだ？」