Maybe Blue 第三部 誰かのために
靑嵐7
「汚いけど」
そう言われて上がった朔哉の部屋は、きれいに片づけられていた。１ＤＫの部屋はこじんまりとしているが、ベッドやテーブルなど最低限の家具だけで青を基調にシンプルにまとまっている。
「何か飲む？コーヒーでいいかな」
朔哉の声に萌子は小さく頷く。朔哉はそのままキッチンに立ち萌子に背を向け、コーヒーを湯を沸かし始めた。萌子はその背中を見つめながら、ぼんやりと思い返していた。
こうして二人だけで話すのは、朔哉に別れ話を切り出されて以来だった。
あれから三カ月ほど経つ。つい先日のようなことにも思えたし、かなり昔のことにも思えた。
朔哉は少し痩せたようだった。顔の無駄な肉が落ちたようにも見えるが、上半身などは逆に筋肉がついたようにも見えた。より精悍な顔つきになって、大人っぽくなったと感じる。
もっとも外見以上に、大学生活が色んな刺激を朔哉に与えているのかもしれない。
萌子にも色んな事があったように、朔哉にも色んな事があってもおかしくはない。
新しい環境、新しい仲間、新しい出会い。
しかし外見以外のところでは、朔哉は凪浜に居た時と変わらないようにも見えた。
床に座った萌子の前のテーブルに、湯気の立ったマグカップが置かれる。穏やかな表情だった朔哉が、少し表情を歪めてインスタントしかないことを詫びた。 萌子は首を振る。朔哉も自分のマグをテーブルに置くと、萌子と向かい合うようにしてベッドに腰掛ける。マグは白地に赤と青の線が波のように描かれた色違い のものだった。座る瞬間、足への気遣いが垣間見えて、思わず萌子は口を開いた。
「足は、大丈夫なの？」
「ああ。ほぼ治ってる。来週には復帰する予定だ」
そうと萌子が答えると、会話が途切れた。
コーヒーを飲む朔哉に倣うようにして、萌子もコーヒーを飲む。ミルクがたっぷりなのは、萌子がそうしないとコーヒーを飲めないことをわかっている朔哉の気遣いだ。
覚えてくれていたこと。そうやって、中身が変わらないこと。
胸がいっぱいになり、抱えきれなくなった萌子はカップをテーブルに置くと、ポケットから封筒を取り出し、その横に置いた。
コーヒーを飲んでいた朔哉の動きが止まる。
静かに息をのむ朔哉に、萌子は頭を下げた。
「…ごめんなさい、朔哉さん」
自然と涙がこぼれてきて、萌子のスカートにしみができる。
「せっかく朔哉さんが、私と成が一緒にいられるようにってしてくれたのに、…私、ダメにしちゃった」
そう話し出すと、涙のように言葉がぽろぽろと次々とあふれていく。
「成なりに、一生懸命やってくれてることは、わかってたはずなのに、不安で、疑って…。
成が他の人のところに行くのも、当然なのに…私、責めることしかできなくて…」
「…他の人？」
少し驚いたような朔哉の声に、萌子は首を振る。
「ううん。私が、疑って、勝手にそう思っただけ。成のこと、信じられなかっただけ。
私がきっと成と同じ立場でも、同じことしたはずなのに、成のこと、一方的に責めて」
祥子の言葉が頭をよぎる。
『私は成くんのこと、好きよ』
あの時なぜ言い返せなかったのだろう。
答えは、私の中にずっとあったのに。
成の中にあるんだとばかり思って、成のことばかり探っていた。
うまくいかない原因全て、だから成のことにしてた。
萌子はだんだんと涙のしみが広がっていくスカートの裾を握りしめると、だけどと言葉を続けた。
「だけど、私。やっぱり成のことが好きなの」
祥子や理香に言われた時は、わからなかった。
確かに成とうまくいかないのは、自分が朔哉のことを忘れていないからだと思っていた。ただ今の朔哉に対するその気持ちが、執着心なのか、好きという気持ちなのかどうかは、わからなかった。萌子にとって、朔哉に突然の別れを告げられて別れたくないと思ったことも、けれど心の奥底にあった成に対する気持ちに気付いたことも、真実だった。
けれど、こうして朔哉に会ってわかったのだ。
自分が朔哉に関して感じていたのは、謝罪の気持ちなのだ。
成への気持ちを隠した為に傷つけ続けていた朔哉への、それでもなお萌子の幸せを願い別れを告げ、成に萌子を託してくれた朔哉への、感謝と謝罪の気持ちだった。
僅かに開いた窓の隙間から、雨音が聞こえてきた。どうやら、とうとう降り出したらしい。
小さな息を吐く音が聞こえた後で、朔哉の暖かく優しい声が雨音にのって聞こえてきた。
「大丈夫だよ。早坂とはやり直せる。きっとうまくいくよ」
けれどその声は、次の瞬間氷のように冷たい声色へと変わる。
「…そういえば、萌子は満足？」
思わず萌子は顔をあげた。目の前の朔哉は、今までに見たことのない表情をしていた。
まるで感情を一切切り捨てたような人形のような表情は、より朔哉の端正な顔立ちを際立たせていた。
そして朔哉はゆらりと立ち上がって口を開いた。
「…違うよ萌子。俺は萌子にそんな言葉を言わせるために、別れたんじゃない」
由太は一人、学校の前の海辺に佇んでいた。
頭には、まだ先ほどの歓声が残っている。だが、その最中にいても、由太の気持ちはひんやりとしたものだった。
もともと、知朗と成の決闘に、由太は反対だった。
試合を控えたこの時期に、乱闘にでもなったら大変だというのが、キャプテンとしての建前の理由だが、実際は他にもあった。
一つには、萌子がいないところで、萌子に関わることを決めるようなことになりかねなかったこと。
もう一つには、その土俵に自分が上がれないことだった。
『俺が勝ったら、お前は萌子に金輪際近づくな』
成にそう知朗が言った時、由太は成を押しのけ、自分が対戦したくなったくらいだ。
萌子を傷つけることしかできない成には、もう二度と萌子と関わってもらいたくなかった気持ちは、由太にもあった。だが、公明正大を求める由太には、それができなかった。
だが、感じた悔しさは、その後の知朗の行動によって別の感情へと変わる。
きっかけは、成の発した一言だ。
『けどっ、…頼まれたんだ、福山さんに。萌子のこと、頼むって』
きっとあの言葉を知朗は探していたのだと、由太は思った。その後の展開は、見ている部員たちの想像を裏切るものだったけれど、由太からすれば、知朗はもともと成と萌子を引き離すどころか、繋ぎとめるために今回の決闘を思いついたのだと思わざるを得なかった。どこかはっきりしない成の態度を、見届けたかったのだ。
成が、本当に萌子に相応しいのかどうなのか。
そして相応しいと判断し、成の背中を押してやった。
自分より知朗の方が、よっぽど公明正大だ。自分の気持ちを押し殺してまで、萌子の為になら自分は道化にさえなれる。
だが自分はどうなのだろうか。萌子の為に、そこまでできるのだろうか。
卒業式から、らしくなかった成の態度。
互いに惹かれあっているのに、その障害もなくなったはずなのにうまくいかない萌子と成。
その原因を作ったのは、ほかならぬ朔哉だった。一代前の先輩で、人間的にもできた人だと言われていた福山朔哉の愛するが故のエゴ。
だが、由太にはそんな朔哉の気持ちの方が、知朗よりも理解できた。
ふと、萌子は知っていたのだろうかと思った。福山朔哉のそんな一面を、恋人だった萌子は知っていたのだろうか、知っていて、付き合っていたのだろうかと。
だが、もしそうだとしたら、皮肉なものだ。
ふいに冷たい水滴を頬に感じ、由太は顔を上げる。
ぽつりぽつりと雨が降り出していた。そういえば、今朝の天気予報では夕方から雨になると言っていたことを思い出す。午前の練習が終わってすぐに帰宅する予定だった由太は、傘を持っていなかった。部室になら置いてあるかもしれないと、学校に戻ろうとしたところで、思わず由太は足を止めた。
ちょうど道路を挟んだ反対側の道に、亜紀子の姿を見つけたのだ。友人と一緒で、どうやら部活の帰りらしい。
由太と同じように、亜紀子の方も由太に気付いたようだった。軽く会釈をされ、由太も戸惑いながら返す。傘を取りに部室に戻るのであれば、亜紀子たちのいる道に渡らなければならないのだが、そうすることもできずに由太が立ちつくしていると、逆に亜紀子の方が道路を渡ってきた。
「これ…使ってください」
亜紀子はそう言って自分がさしていた傘を差し出す。しかし由太がそれを受け取らずにいると、亜紀子はほほ笑みながらこう言った。
「私は、友達の傘で一緒に帰るので」
そう言うと、持っていた傘を由太に押し付け、亜紀子は友達の元へとまた駆け戻っていく。そして、二人で相合傘になって、駅に向かって歩き出した。由太は慌てて亜紀子を追いかけると、その肩に手を置く。驚いて振り返った亜紀子に、由太は傘を返した。
「家まで一緒なわけじゃないだろう。俺は、部室に傘があるから」
そして、由太は亜紀子の返事も待たずに、部室に向かって走りだした。
「朔哉…さん？」
小さく、震える声。驚きすぎたせいか、涙は止まったようだ。ただまっすぐにこちらを見つめている。
そんな萌子の様子を見つめながら、朔哉はくすりと笑うと、テーブルに置かれたままの自分と萌子のマグカップを取り上げる。萌子のマグカップにはまだコーヒーが残っていたが、それもぶちまけるようにキッチンに流すと、朔哉は再び湯を沸かしながら、明るい声を出した。
「大方、あの子に言われてきたんだろう。菅原祥子さん。
俺が萌子と別れることにしたのは、萌子の為だって。
その考え方は間違ってないよ。でも、理由が違う。
俺は、萌子と早坂の為に、身を引いたんじゃない。
俺と萌子が、もっと強く深く結ばれる為に、別れたんだ。
俺たちには、一度だけ別れが必要だったんだ」
インスタントコーヒーの瓶にスプーンを入れる。規定量を測って、マグカップに入れる。あとは、お湯を注ぐだけ。
決められたことを決められた通りに、そうしていないと、叫びだしてしまいそうな自分がいて、朔哉はシンクに両手をつく。
「…どういう意味？」
強張った萌子の声が背中越しに聞こえてくる。その声に、まだ自分への信頼を感じ、朔哉は深く目を閉じた。
引き返すなら今かもしれない。
一瞬だけそう思った。
けれどすぐに、もうその時はすでに過ぎ去っているのだと気付いた。
計画して、もう進んできてしまったのだから、今更後戻りはできない。
朔哉はゆっくりと振り返る。萌子が一心に自分の答えを待って、視線を向けてくる。
そう後戻りはできない。
「気づいてたよ。初めから。
萌子の気持ちがあいつにあるって。
わかってた。それでも萌子を手に入れたかった。そうして運よく手に入れたら、今度は放したくなくなった。誰にも渡したくなかった。
だけど、萌子の視線の先には、いつだってあいつがいた。
必死だったよ、俺は。萌子を振りむかせようと、必死だった。
萌子の望むような最高の恋人になろうって」
そうすれば、萌子も俺を見てくれるだろう、そう思った。
意識していたわけではない。
でも気づいたら、萌子の前でも皆の求める『福山朔哉』であり続けている自分がいた。
そうして、必死で萌子があいつのところに行かないように引き留めて、そうしてようやく本当に萌子を手に入れられたと思ったんだ。
そう…あの時までは。
「でも気づいたんだ。そんなことをしても、二人の間には深い絆があって、俺はその中に割って入っていくことはできないんだって」
隣で腕を組んでいるのは自分だというのに、すぐ近くに居る萌子の心は、遠くに居る成の傍にいるように感じたあの時。
自分の中の何かが、小さな音を立てて割れた気がした。
思えば選択肢はいくらでもあった。
遠距離なのが怖くて、萌子の傍に居たいと思ったのなら、一浪してそうすればよかったのだし、
言葉にして萌子に聞いてみてもよかったのだ。
あいつのことをどう思う？
あの時の萌子は、まだ気づいていなかった。自分の心の中で、あいつがどれだけの存在なのかに。あの時ならば、萌子はきっと答えただろう。成はただの部員だと。
けれど、朔哉はわかっていた。
傍に居ても、言葉で否定されても、二人の心は結ばれていることを。
自分が形だけで萌子を留めても、心まではそうできないことを。
「…それでも、萌子に傍に居てほしかった。
たとえ俺を見てくれなくても、
たとえ心が他の男にあっても。
だから、この計画を立てた」
お湯が沸き始めた音に気付き、朔哉は火を止める。カップにお湯を注ぎ終わると、香ばしい香がした。
カップを手に取り、萌子に向き直る。湯気の向こうの萌子は、それでもまだ朔哉の方を見つめていた。
その視線が少し揺らいで見えるのは、自分の中に否定できない部分があるからだろう。それでも、朔哉の言葉を待っている萌子がいる。
それだけでも、あの一年間は無駄じゃなかったんだ。
朔哉は一杯目と同じように、萌子の前にマグを置くと、自分はベッドに腰掛けて口を開いた。
「賭けてみたんだ。萌子が隣にいた俺の一年と、二人の未来を」
「椎名にとっては大丈夫でも、俺にとってはそうじゃないんだよ」
いったん止まりかけていた美都の涙が、湊の言葉で再びこぼれた。一度こぼれると、あとは滝のように流れるだけで、気がつけば美都は全てを話していた。
最近、和美が冷たくなったように思ったこと。
中学時代の友達から、和美の元彼女の話を聞かされたこと。
だけど、和美にはただのクラスメートと言ったこと。
不安になって、中学時代のアルバムを借りたこと。
それが和美にばれて、怒られたこと。
悪いのは自分だということは、美都にもわかってはいる。
でも、と思うのだ。
でも、和美だって、言葉が足りなすぎる。
美都に対してもそうだし、
何よりどうして愛海のことをただのクラスメートと嘘をついたのか。
終わった恋なら、どうして隠そうとするのか。
できることなら問いただしたい。
けれど自分にはそうできないことも、美都は分かっていた。
「あたしも悪いの。思ったことを和美君に聞けないから。
でも怖いの。
変なこと聞いて、和美君に嫌われたくないの」
一気にそう話したところで、美都は鼻をすすりあげた。湊からの返答はなく、部室は静まり返っている。
ふいに雨の音が聞こえてきた。
そう言えば、今日は夕方から雨が降るんだった。
思っていたことを全て吐き出したせいか、美都の気持ちは落ち着きを取り戻していた。
「…ごめん、湊君。あたし一方的に話しちゃって」
その声に、湊はいいやと首を振る。心なしか湊の肩が落ちている気がしたが、恥ずかしさの方が先に立ち、美都は真っ赤な顔で話を続けた。
「湊君、優しいからいつも話聞いてくれるけど、ほんと迷惑だよね。ごめんなさい」
座っていた椅子から立ち上がり、ロッカーを開けて鞄を取り出そうとしたところで、湊のいつになく深い声が聞こえてきた。
「迷惑じゃない、けど…」
「けど？」
何気ない会話だと振りかえる美都の前で、湊は立ちあがると、正面に立った。
影を含んだ表情に、どうしたのだろうと思う美都の前に、湊の手がすっと美都の頬に伸びる。
もう少しで手が届くとなったところで、湊が顔をあげ、そこで美都と目があった。
今までに見たことのない湊の苦しそうな表情を見て、美都は黙ったまま見つめ返す。
とその時、いきなりドアが開いて、少し肌寒い風と共に強い雨音が部屋の中に入ってきた。
「まだいたのか」
由太はそう言いながら、肩の雨粒を払っている。
美都はテーブルに置いたままの卒業アルバムに気付き、湊の脇からすり抜けるようにしてそれを取ると、鞄に仕舞い込んだ。
「あ…でも、もう帰る。高岡君は？」
背後で小さな溜め息が聞こえた気もしたが、美都は部室へと続くドアを開けて中に入っていく由太にそう聞き返す。物音がした後に由太の声が聞こえてきた。
「雨が降ってきたから、傘を取りに。ああ、もし閉めるなら、鍵は俺が持っていく」
傘を見つけたのか、由太は顔を出すと、自分が開けたドアを閉め、美都から鍵を預かった。
「うん、わかった。ありがとう」
珍しく優しいなと美都は思ったが、由太からするとすぐに駅に向かえば亜紀子に会いかねないので、できるだけ学校に居る時間を長くしたいだけだった。
「お前は傘持ってるのか？」
由太がふと気づいて湊に声をかける。美都は由太の話を聞いてすぐに鞄から傘を出していたのだ。
それまで黙り込んでいた湊だったが、由太のその声にいつもの笑顔で「ああ」と答えた。
雨音を聞きながら、朔哉はコーヒーを一口飲んだ。
温かな湯気が朔哉を包み込んだが、朔哉にはその温度もコーヒーの味すら感じることはない。
「あいつが羨ましかった。
自然体でサッカーを楽しみ、サッカーにも仲間たちにも愛されている。だけど、あいつにはそれが普通のことで、特別なんかじゃない。期待やプレッシャーを引きうけるのはいつだって藤原で、あいつはいつも自由だった。
皮肉だよな、俺とは正反対だ。俺は、いつだって皆の思う偶像に踊らされて、コンプレックスだらけ。周囲からの重圧に耐えることに必死で、余裕なんかない。
おまけに萌子まで。
冗談じゃない、あいつにだけは渡さない、本気でそう思った。その為になら、少しくらい汚い手も使った」
朔哉はそう言うと、萌子に視線を戻して、にっこりとほほ笑んだ。
「萌子。楽しかったよな、一年間。
色んなことはあったけど、それでも楽しかったはずだ。だって福山朔哉の恋人なのに、楽しくないはずがない」
「朔哉さん…私―」
そう話しかける朔哉の目が笑っていないことに気付き、萌子は口を挟もうとしたが、ドンと激しい音がそれを遮った。
朔哉が持っていたマグカップをテーブルに叩きつけたのだ。
コーヒーがこぼれて朔哉の手に落ちたが、朔哉はそれを気にすることなく話を続けた。
「そう、俺は結局最後まで、福山朔哉であり続けたんだ。
萌子の前でも、皆の前でも、特に最後にはあいつにその印象を色濃く残して。
二人がうまくいかないのは当然だ。あいつに福山朔哉は超えられない。
なぜなら、皆の思う福山朔哉自体が存在しないからだ。あくまで俺の作りだした偶像。
けれど周囲には、比べられる。おまけに、想い出というのは美化される。凪浜にいる限り、福山朔哉はますます美化された理想の恋人になって、あいつの身に重くのしかかってくる。
萌子だってそうだ。理由もわからず一方的に別れを告げられて、自分の気持ちの整理をする間もなく、隣に別の人間が立っていれば、比べもするだろう。だから俺は徹底的に萌子と距離を置いた。その方が、萌子の心の中に俺という存在が色濃く残る。
そんな二人が、うまくいくって誰が思う？
萌子がここにくることは、必然だったんだよ。
早坂とうまくいかなくて、俺のことが忘れられなくて、だからもう一度やり直したい、そう言ってね」
大事なのは、萌子が自分の意志でここにくることだった。
責任感の強い萌子のことだ。ここに自分の意志で来たということが、凪浜に戻れなくさせる。そして、朔哉のところにしかいるしかなくなる。
そうなるはずだった。
なのに…。
「それなのに…。
あいつのことが好き？
萌子は、どこまで俺をピエロにさせれば気が済むんだ？」
そう怒鳴りながら朔哉がテーブルを強く叩くと、さっき置いたばかりのカップが今度は完全に倒れた。コーヒーがテーブルから床へとこぼれおちる。フローリングの床に茶色いシミがどんどん広がっていく。
「そんなっ、そんなつもりはっ―」
ない、と言おうとする萌子の前で、無言で朔哉は立ち上がりキッチンへと向かう。その態度が朔哉の答えのように思えて、萌子は言葉を飲み込むと、俯いて言葉を続けた。
「ごめんなさい…私。朔哉さんのことそんなに傷つけていたなんて知らなくて、私―」
そう言って朔哉のいるキッチンに振りかえる前に、萌子は背後から朔哉に抱きすくめられた。朔哉が手にしていたタオルがぱさりと萌子の足の傍に落ちた。
思わず息をのむと、朔哉の甘い声が萌子の耳元に届く。
「慰めてほしくて、ここに来たんだろう？萌子。
本当に俺に慰めてほしいんなら、今夜は帰さない。
今夜だけじゃない。もうずっと、萌子を離さない。ずっとずっと、一緒に居る」
朔哉はそういうと、抱きしめていた腕をほどき、肩に置くと、萌子を自分の方に向き直らせて言った。
「萌子、結婚しよう」
突然にプロポーズに、萌子は言葉をなくす。一瞬、体中の力が抜けてしまいそうになったが、朔哉に強く抱きしめられ、床に崩れ落ちることはなかった。
朔哉はまるで熱に浮かされているような熱い声で、朦朧としかけている萌子の耳に囁いた。
「ここからでも凪浜には通える。部活は続けられないだろうけど、それでもやっていけるよ。
一緒に暮らそう、ここで。狭いのが嫌なら、もっと広い所に越してもいい。
実家の近くがいいなら、俺が大学を辞めて、凪浜に戻ってもいい。
学生同士だからって反対されるんだったら、プロに転向してもいいんだ。まだ誘ってくれるところはある。
本当はずっと言おうと思ってたんだ。
結婚すれば、萌子も俺ももう苦しむことはないんだ。二人で幸せになれる。いや、俺が萌子を幸せにする。
ちゃんと両親の承諾も得る。大丈夫。俺、萌子の親に気に入られてたし。
世間に恥じないように結婚式も挙げる。もし結婚ができなかったら、今は婚約というかたちでもいい」
萌子も一度は思い描いたことのある朔哉との結婚だった。
だが、今の萌子にはどう答えていいのかわからない。
言葉を探しているうちに、すっと朔哉は萌子から体を離した。
「今夜、俺に慰められるってことは、そういうことだよ、萌子。
夕飯はすき焼きにしようと思っていろいろ買って来てたんだ。だけど、萌子の好きな麩がないから、買ってくる。ついでに、頭も冷やしてくるよ。
さっきは怒鳴って悪かった。
一時間くらいしたら戻るから」
まるで何事もなかったかのように明るい声に戻って、朔哉は萌子の頬に軽くキスをすると、家を出て行った。
ドアが閉まった途端、萌子はその場に崩れるように座り込んだ。