Maybe Blue 第三部 誰かのために
靑嵐3
日曜の午前の練習が終わると、成は寮に飛び帰ってきて、まずシャワーを浴びた。
今日は萌子と映画を見る約束になっている。樹生とまりが、例の一件のお詫びとして、二人に映画のチケットをプレゼントしてくれたのだ。偶然、日曜日が前日の遠征を受けて、午前中だけの軽い練習だったから、その後でということで萌子と約束をした。学校帰りに寄ってもよかったのだけれど、それはケンたちに止められた。
「汗臭いし、泥臭いし。制服だぞ。
せっかくだから、一旦寮に帰ってから、映画館の前で待ち合わせしていけよ」
「汗だくのＴシャツとかさ、映画館で臭うとムード台無しだしね」
「そうそう、デートらしくおしゃれして、さ」
着て行く服も、ケンや湊たちが選んでくれた。
大慌てで髪を乾かしながら、時計を見ると、予定よりも少し遅くなっていた。
遅刻するわけに行かないと、半乾きの髪のまま、成は着替えると寮を飛び出した。
考えてみると、きちんと前もって約束して、萌子とデートしたことはなかった気がした。
偶然とかは、あったけど。
萌子とデート。
そう思うだけで、胸が弾む。そっと右手を当てて、成は真っ青な空を仰いだ。
会う前からこんなに緊張してて、大丈夫かな。俺。
大きく深呼吸をすると、少し鼓動が収まった気がした。
よし。
右手を握りしめると、成は前を向き、歩き始めようとしたところで、あれ？と声をあげた。電信柱の影に、見覚えのある後姿が見える。
「…祥子？」
名前を呼ばれて、祥子が振り返った。
無理やりな笑顔を見せると、ほろりと涙が頬を伝う。戸惑う成の前で、祥子はそれでも笑顔を作って見せた。
手元の時計を見ても、駅前の時計台を見ても、約束の時間をもう二十分も過ぎている。
どうしたのだろうかと萌子は小さくため息をついた。
成からデートに誘われたのは、ついこの前のことだ。
きちんと誘われるのは初めてで、萌子も頷くのが精いっぱいだった。
誘われた日曜日の練習は、午前だけで終わる。その後でなのかと思いきや、駅で待ち合わせようと成には言われた。それが、萌子にとって嬉しかった。いくら 着替えをするとはいえ、練習中に土埃まみれになった髪もできれば洗いたかったし、それにデートならちゃんと可愛い服を着たかった。練習が終わり家に帰ると、萌子はまずシャワーを浴び、そして用意していた服を着た。気合が入りすぎているのは恥ずかしいけれど、いつもより可愛いなと思ってもらえるような恰好を、と前の日の遅くまで悩んで決めた服だ。ただ、靴や鞄を合わせてみると、少しイメージと違ったり、髪型が合わなかったりして、もたついているともう家 を出なければならない時間になっていた。
母親には、デートに行くことをすっかり見抜かれていた。
「張り切って行ってらっしゃい。そういえば、早坂君ってなかなか可愛い子ね」
くすくすと笑う母から、成に挨拶した話を聞かされた萌子は驚いた。
「どうして言ってくれなかったの？」
「だって、萌子が早坂君のこと、話してくれないから」
そう言われて萌子は思わず黙り込む。今まで話したいことは沢山あったけれど、どれも母に聞かせたくなる話ではなかったのだ。
「晩御飯にも誘っちゃった。あ、ねぇ。今日、よかったら連れて帰ってきたら？」
どうやら萌子以上に母もウキウキしているようだ。
「聞いてみる。もし食べるってなったら電話するね」
そう言って家を出たところまでは、順調だったように思う。
だが、思い出している間にも、成がやってくる気配はない。映画もあと五分で始まってしまう。
映画は次の回でも見れるからいいけど、どうしたんだろう、成。
学校を出るのは萌子より早かったはずだ。
寮に行ってみようかな。
萌子は小さなため息をつくと、歩き始めた。
とりあえず祥子を落ち着かせるために、成は近くの公園に連れて行った。
ベンチに座らせて、自販機でジュースを買って、祥子に渡す。掠れた声で、ありがとうと言いながら、祥子はそれを受け取る。
よく見てみれば、かなり目が腫れている。いつから祥子は泣いていたんだろうかと思ったところで、祥子が口を開いた。
「昨日、電話してみたの。福山…先輩に。
電話がつながって、名前を言って…」
そう言ったところで、祥子は昨日のことを思い出した。
名前を言って、少し間をおいて聞こえてきた朔哉の無情な声。
「先輩のことが、やっぱり好きです。会ってもらえませんかって、言ったの。でも―」
偽りの関係とはわかっていたはずだった。それでも、朔哉と一度だけしたデートは楽しかった。何より、祥子に見せた笑顔だけは、本当だと思っていたのに。
祥子ちゃん。
そのデートの時にそう言って優しく名前を呼んだ朔哉の声は、菅原さんという事務的な声色になって、電話の向こうから聞こえてきた。
「約束の時間は過ぎたから、もう会わないって」
そして電話は、祥子の返事を待つことなく切れた。
同時に自分と朔哉をつないでいた関係も、終わったのだと悟った途端、涙があふれ出してきた。
一晩中泣き明かし、ようやく涙が止まってから、顔を洗い、気がつけば祥子は成のいる寮へと向かっていたのだ。
「…玉砕しちゃった」
そう言う祥子の目からは、また涙があふれ出始めた。
「ごめんね、成くん」
ごめんね、と呟きながら泣き続ける祥子の隣に座り、成は何度もその肩を優しく叩いていた。
「へ？あいつ行ってないわけ？あれだけレクチャーしておいたのに？」
「レクチャー？」
萌子に聞かれて、ケンは慌てて答える。
「何でもない。でも、あいつ俺たちよか全然早くに学校出たぜ。部屋にも制服置いてあったし、俺が貸した青いシャツもなかったし、もうとっくに出たんだと思ってたけど」
「青いシャツ？」
まずったという表情をしたケンに代わり、湊が萌子に言った。
「どこかですれ違ったとかないかな。今頃成が駅にいるとか」
湊の言葉に、萌子もそうだね、と返す。寮と駅を結ぶ道は一つではないし、確かにどこかですれ違っていてもおかしくはない。
「じゃあ、駅に戻ってみる。もしその間に成が戻ってくることがあったら、映画館に向かったって言っておいてくれる？」
「ああ、わかった」
にやけた表情のケンを軽く睨みつけ、萌子は寮を出て少し歩いたところで、はたと気づいた。
成のことだから、ウチに電話を入れてるかもしれない。家に一度寄ってから駅に向かってもいいのだか、それだと時間がかかってしまう。
寮の電話を借りよう。
急いでいたし、寮に入ったのはついさっきのことだったので、萌子はチャイムを押すことなく寮に入った。ついさっきまでいたはずのケンと湊はどうやら部屋 に戻ってしまったようで、玄関には誰もいなかった。無断で電話を使うのもよくないと思ったところで、食堂の方から誰かの話し声が聞こえてきた。自然と萌子 はその方向へと進む。
「…な、うまくいっただろう？あの二人」
「そうだったね、ごめん」
聞こえてきたのは少し声を張った篤志の声と、謝りながらも嬉しそうな厳己の声だ。萌子が二人の名前を呼んで、食堂に入ろうとした時だった。
「僕の杞憂だった。朔哉さんは、ただ本当に萌子のことを考えて、成に萌子のことを頼んだんだとしても、それを気にするような成じゃなかったね」
そう言った厳己の言葉に、萌子は思わず息をのんだ。
朔哉さんが、私のことを、成に頼んだ？
どういうこと？
だが、その場に立ち尽くした萌子に聞こえてくるのは、楽しそうな二人の会話だった。
「そうそう、成ってば単純だしさ」
「素直なところは、からかうと楽しいけどね。昨日もケンと湊と一緒に、今日のデートのことレクチャーしてる時も、ほんと真剣そのものだったよ。
本番、うまく行ってたらいいけど」
だがその笑い声は、萌子の耳には入っていかなかった。萌子はそのまま静かに寮を出ると、ゆっくりと駅へと歩き始めた。
朔哉さんが、私のことを、成に頼んだ。
成は、朔哉さんのことを尊敬していた。成は、そんな人に頼まれて、断るような性格じゃない。
だから、つきあっているとは言わなかった。
だから、私の傍にいたんだ。
初めから、私のことを好きだったわけじゃない。
ただ…。
朔哉さんに、頼まれたから。
一気に感情が湧きあがってきて、萌子は胸の前で震える手を握り締めた。その手にほろりと涙がこぼれ落ちる。その場に泣き崩れそうになった萌子に、クラクションが聞こえた。慌てて脇によけると足がもつれて、萌子はそのまま道路の片隅にしゃがみこんでしまった。
「大丈夫ですか？」
通りかかった人がそんな萌子に気づいて声をかけてきた。
「…は、い。…すみません、ちょっと…びっくりして」
そう言いながら立ち上がった萌子に見えてきたものは、信じたくない光景だった。
道路を挟んだ向かい側は、公園になっていた。そのベンチには、二人の男女が座っていた。
女性は、項垂れる様にして座っていて、男性はその隣で、彼女の肩に手を置いている。
青いシャツのその背中は、後ろ姿だけでも、誰なのか萌子にはわかった。そして、その前で泣いているショートボブの女性も顔は見えなくてもわかる。
萌子は頬の涙を拭うと、ただまっすぐに駅へと歩き始めた。
「ごめん、その…急用が入って」
ようやく見つけた萌子の隣の席に座りながら、成はそう言った。
映画館に着いたのが、上映が始まってからすでに一時間を過ぎたような時間だった。受付では嫌がられたものの友達が中にいるからと半ば強引に入った成は、なかなか萌子を見つけられずに、館内を探し回った挙句、ようやく萌子を見つけたのだ。
「その…急用って言うのは…」
ひどろもどろになりながら一生懸命考えた『急用』を説明しようとする成に、
「いいよ、別に」
と萌子は答えた。
「でも―」
「今は映画の上映中だし、静かにして」
ぴしゃりと萌子に言われると、周囲からもそれに賛同するような咳払いが聞こえてきて、成は黙って座り込む。
だが、目の前の映画は、すでに半分以上過ぎていて、内容はさっぱりわからなかった。成は小さくため息をつくと、隣の萌子の横顔をじっと見つめた。周囲は笑っているシーンだというのに、萌子の表情は硬いままだ。
流石に約束の時間にかなり遅れたから、怒ってるんだろうなと成は深いため息をついた。
萌子が怒るのは、もっともだ。だけど、どうして遅れたのかは、話せない。
朔哉とのことは萌子には話さないと決めた祥子との約束だから、というのもそうなのだが、この前の浮気疑惑があった後だけに、祥子が泣きやむまで一緒にいたから、と正直な理由は言えなかった。
そもそも、成にはどうして萌子が、自分と祥子の関係を疑うのかがわからない。自分は萌子のことが好きだし、祥子は朔哉のことを好きでいるわけだし、萌子も祥子は朔哉と付き合っていると思っているはずなのだ。
それとも、本当のことを知ってしまったとか？
でも、だとしたら萌子はここにはいないはずだ。俺なんかとデートしてるはずはない。きっと、福山さんのところに行ってる。
だから、ばれてない。
成はよしっと気合を入れると、上映後、映画館を出たところで萌子に話しかけた。
「買い物でもする？付き合うよ」
「欲しいものないから、いい」
成と視線を合わせようともしない萌子に気づかずに、それでも成は話しかける。
「それじゃ、お茶とか。俺がおごるよ、遅刻したお詫びに」
「明日も朝練あって早いでしょう。疲れたし、もう、帰ろう」
萌子はそう言うと、さっさと先を歩きだす。どうやら本当に機嫌が悪いらしい。
まあ、俺が悪いんだから、機嫌が悪いのは仕方ないよな。
それに本気で怒ってるなら、俺のこと無視してるはずだし。
これから駅へと向かう人の波に逆らうようにして歩く萌子の背中を、成は諦めて着いて行くしかなかった。
「え？もう学校に行った？」
翌朝、萌子が出てくるのを家の前で待っていた成は、いくら待っても萌子が出てこない。仕方なく遠慮がちにチャイムを鳴らすと、出てきた母親がそう告げたのだ。
「いつもより三十分早くに。今日もやらなきゃならないことがあるから、とか」
「そ…ですか、わかりました」
ありがとうございますと頭を下げて、学校に向かおうとした成を、母親が引き留める。
「昨日のデート、何かあったの？」
「え？」
思わず答える成の声が大きいことに、母親は笑い声をあげると、
「いやね、昨日帰って来てからあの子黙ってばかりだから」
成は黙って頭を下げる。
朝練に遅れそうな時間であることに気づき、失礼しますと言うと成は慌てて走り出した。
どうやら萌子は昨日の遅刻のことをまだ根にもっているようだ。
困ったな、と成は小さくため息をつく。
昨日寮に戻ってくると、さっそくケンと篤志が出迎えた。
「で、どうだったの？デートは」
「萌子に怒られたりしなかった？成くーん」
ケンの言葉に思わずどきりとしながらも、成は笑顔を作って答えた。
「全然。問題なし。万事順調」
映画館を出た時は、表情の固かった萌子だが、成が家に送り届けると、
「ありがとう」
と言ってくれたのだ。驚きながらも、成はいいやと首を振った。次の約束を取り付けられなかったのは情けないことだけれど、明日も明後日も、毎日萌子とは一緒に登下校をするのだから、お詫びのデートはまた今度にしようと思っていただけに、今朝の萌子の行動には驚いた。
まだ怒ってるのか。
一度怒ると萌子の怒りは長く続く。
じっと耐えるしかないか。次のデートの約束どころじゃないや。
小さくため息をついた成だが、ふとその足が立ち止まる。
まさか、と思ったところで、成は頭の中で否定する。
いいや、そんなことはない。
萌子は、知らないはずだ。祥子とのことは。
だって萌子は、あの時間映画を見ていたはずで、あの公園のところにはいなかったはずだから。
だが成は、学校に行き、自分がいかに楽天的だったかを後悔することになった。
「おはよ、萌子」
朝練を終え、教室に入ってきた萌子が自分の前を通りかかったので、祥子はいつものように声をかけた。しかし、萌子は視線をすっと祥子から外すとそのまま無言で通り過ぎた。
「…萌子？」
だがその声にも、萌子は反応せず、自分の席に座る。
どうしたんだろうと追いかけようとした祥子を、その後ろから教室に入ってきた成が呼んだ。
「おはよう、祥子。どうかした？」
振り返らない祥子に成がそう言う。祥子は慌てて振り返って答えた。
「ううん、何でもない。おはよう。…それと、昨日はごめんね」
「いいよ」
笑顔の成を見て、ほっとする祥子は背中に鋭い視線を感じた。慌てて振り返るが、誰も自分のことは見ていないようだ。
気のせい、かな。
その後すぐにチャイムが鳴って、祥子は自分の席に静かに座った。
無視されてる。
そう祥子が確信したのは、三時限目が終わった時だった。
「ねぇ萌子。ここ、わかった？」
終わったばかりの世界史でわからないところがあったから、そう聞いた祥子だったが、目の前の席の萌子は振り返ろうとしなかった。
聞こえなかったのかな、と肩を叩こうとしたところで、急に萌子が立ち上がる。
「萌子？どこ行くの？私も一緒に―」
行くよと言おうとした祥子だが、萌子は話を最後まで聞かずに、さっさと教室を出て行った。
どうしたんだろうと思っていると、ケンが祥子に説明した。
「朝から変なんだよ、あいつ。機嫌、悪過ぎ。
まったく、祥子にまで八つ当たりするなんて、お前のせいだぞ、成」
話を振られた成は、え？と声をあげた。
「お前が、初めてのデートで遅刻するから悪いんだ」
「え？どうして、ケンがそのこと知って―」
「お前が来ないから、心配して萌子が寮に来たんだよ。行き違いかもしれないからって、すぐに駅の方に戻って行ったけど」
言われて成は、昨日ケンが『萌子に怒られたりしなかった？』と言っていたことを思い出した。
あれはそういうことだったのか。
何も知らない祥子が、成に尋ねる。
「昨日、デートだったの？萌子と」
「あ…ん、まあ」
曖昧に答えたのは、萌子が寮にやってきたことを初めて知ったからだった。
ってことは、もしかしたら、あの公園の近くを通ったかもしれない。
「ねえ、成くん。もしかして、萌子…」
不安そうにそう祥子が呟く。どうやら成と同じことを思ったらしい。
「…違うよ。俺が行ったら、萌子は映画館の中にいたし」
もし、本当にその場面を見たら、その後デートしようなんて思わなかったはずだ。
しかし祥子は、成の言葉を信じることはできなかった。
昼休み。
決心した祥子は、萌子の前に立った。どこか教室じゃない場所で、昨日の話をしなければならない気がしていたからだ。知らなかったとはいえ、デートの時間に成を遅刻させたのは、自分のせいだ。
「ねぇ萌子、今日のお昼は―」
しかし萌子は、またも祥子を無視して立ち上がり、教室を出て行こうとした。慌てて追いかけて、その肩を掴む。
「萌子―」
「悪いけど」
冷たい声だった。そして、萌子は祥子を振り返らずに答える。
「祥子とは、話したくないの」
そして呆然とする祥子の手を振り払い、萌子は教室を出て行った。ドアの閉まる音ではっとした祥子は、それでも追いかけようとして廊下を出ると、クラスメートの女子がいきなり前に立ちはだかった。
「わからないの？沢木さん、ついてくるなって言ってるのよ」
「そうよ、沢木さん、あなたのことが嫌いなのよ。ずうずうしいって」
「…萌子が、そう言ったの？」
思わずそう尋ねると、彼女たちは当たり前と言った顔で、祥子に言い返した。
「言わなくても普通わかるでしょう」
「自分でも思わないの？福山先輩のこと、沢木さんから奪っておいて、それなのに友達面するなんて」
「今までみんな我慢してたのに、気付かなかった？」
言われて祥子は俯くと、萌子が行ったのとは逆の方向に肩を落として歩いて行った。
海に出た萌子は、砂浜へと続く階段に腰を下ろすと、深くため息をついた。
昨日はコントロール出来たはずの感情が、今日は無理だった。
やはりあの二人を目の当たりにすると、許すことなんてできなかった。
苛立つ気持ちを少しでも抑えようと、持ってきた弁当を食べていると、あーいたいた、というケンの声が聞こえてきた。
「おい、萌子。お前やりすぎだぞ」
「何が？」
ケンは萌子の隣に座ると、ため息をついて答えた。
「祥子だよ。お前の取り巻きに苛められてたぞ」
思わず萌子は言い返す。
「私の取り巻きじゃないわよ。彼女たちは、サッカー部の取り巻き。残念ながらお目当てはケンじゃないけどね」
萌子の厭味を、ケンは腹立たしく思ったが、それでも我慢した。
いつもの萌子なら、こんなことは言わない。だが昨日は成にデートをすっぽかされかけた。
だから、気が立ってる。
そう思い、ケンは答える。
「どうせ右京目当てだろ？いんだよ、そんなことは。
それよりさ、昨日ちゃんとあいつは来ただろう？もう遅刻のことは許してやれよ。それに、祥子に八つ当たりするな。
まあ、成のことだから、他にもヘマしたかもしれないけど、それも許してやれよ。何があったのかは知らないけどさ―」
「知らないんだったら、口出ししないで」
ピシャリという萌子に、思わずケンも言い返す。
「俺はお前のこと心配してやって―」
「心配してるのは、祥子のこと。私じゃないわ」
「ひねくれるなよ。何だよ、お前おかしいぞ」
萌子は飲んでいたブリックを、階段に叩きつけるようにして置くと、はっきりとケンを睨みつけ、まるで喧嘩を売るかのように言った。
「どうせ私は素直じゃないわよ。でもね、そんなことケンに言われる筋合いはないわ」
そう言って再び弁当を食べ始めた萌子に、ケンは舌打ちをして立ち上がった。
「あーあ、わかったよっ。もう勝手にしろっ」
遠のいていく足音を聞きながら、萌子は唇を噛みしめた。
放課後のグラウンド。部室に戻ろうとしている萌子を見つけた樹生が声をかけた。
「あ、萌子さん。これも―」
持って行ってくださいと言いたかったのだが、萌子は樹生に気づかなかったようにグラウンドから消えて行く。
「聞こえなかったのかな。これでも声はでかい方だと思ってんだけど」
「気にするな、ミッキー」
ため息をついた樹生の肩を、ケンがぽんぽんと叩く。
「今日のあいつはおかしいんだ。ヒステリックだし、八つ当たりするから、近づかない方が無難」
「へぇ。珍しいっすね、萌子さんが」
「昨日のデート、うまく行ったんじゃないの？」
篤志もその話題に加わる。
「って成は言ってたけど。気付かないところで地雷でも踏んだかもな。たかがデートに遅刻したくらいで、萌子も普通ここまで怒らないだろうし。
昨日寮に来た雰囲気だと、うまくいくと思ったんだけど」
そのケンの言葉に、篤志は驚く。
「え、萌子昨日来たの？寮に？」
「ああ。時間になっても成が来ないから、心配してきてたぞ」
そう答えると、篤志が急に黙り込んだ。
「どうかしたのか？アッチ」
「いや、何でもないけど」
篤志は胸の中に浮かんだ疑惑を、すぐに打ち消した。
篤志が厳己と二人で、萌子と成の話をしていたのは、ほんの数分のことだったし、厳己が朔哉のことを話したのも、ほんの一瞬のことだった。
まさか、萌子が聞いているわけない。
強くそう心の中で思っている篤志に、ケンは何も知らずに話を続けた。
「ほんと、祥子も災難だよな。萌子のせいで、クラスの女子たちにハブにされて」
「祥子って、菅原祥子？」
「そうそう。何か知らねぇけどさ、萌子が祥子を避けたせいで、クラスの女子たちがまるで萌子の取り巻きみたいに、便乗してるんだよ。
あいつが一言、八つ当たりしてごめんって謝ればいいだけの話なのに、どうしてこう余計なところで捩れてくるかな」
わざとらしいため息をつくケンに、通りかかったまりが言い返す。
「萌子さんは、悪いくないです」
「なんだよ、まりっぺ。まあそうだよな、まりっぺは萌子のファンだもんなぁ」
「そうじゃなくてっ―」
「おい、大野！」
まりが言おうとしたことを察知した樹生が慌てて止めようとしたが、まりはそれを無視して叫んだ。
「私がいけないんですっ、早坂先輩と菅原祥子のこと、誤解したからっ」
「成と菅原祥子？が何？もしかして、浮気とかそういう話？」
篤志の言葉に樹生がまりを睨む。余計なことを言ってしまったことに気づいたまりが、声を落として答える。
「…勘違い、でしたけど」
俯くまりに、ケンは人差し指を立てると左右に振る。
「あーまったく成って男のことがわかってないね、まりっぺは。
あいつはね、不器用そのものなの。浮気なんて器用な真似、できるようなタイプじゃないの、そもそも。
あれ？そういや成大好きっこのミッキーが黙ってるけど？お前だってそう思うだろう？」
樹生にとっては厭味とも取れるその言葉に、小さく舌打ちして樹生は答える。
「俺は、成さんのことは信じてるから、そういうタイプじゃないってわかってるけど。
…でも思い返すと、あの時萌子さん、俺達の話を聞いて鼻から浮気だと思い込んでた。
もし、思い当たることが何もなかったら、自分の好きな人をあれほど信じないものかな、って」
あの時浮気を否定した成は、嘘はついていないと樹生は信じていた。
あるとすれば、成さんは利用されただけ。
あの時肩を落としていた成の背中を思い出すだけで、樹生は苦しくなる。そんな風にさせた自分が許せなくて、あれから成とはあまり真面目な話ができていない。
「おまえ女いたっけ？」
ふいに振られた話に、樹生はムッとしたように答える。
「…そんなこと関係ありますか？」
するとケンは豪快に笑った後で言った。
「まあまだ無理だろ、お前のその性格じゃ。
あのね、好きだからこそ疑っちゃうの、信じたいのに信じられなくて、だからどんどんドつぼにはまっていくの。
けど、その山を越えたら、その愛は本物になるんだよ。まあ、俺と亮子みたいに？」
呆れる樹生とまりの前で、湊がケンの脇腹を小突く。
「お前の惚気はどうでもいいから。それよりも、早く萌子と成に仲直りしてもらわないとね」
部活が終わり、さっさと帰ろうとした萌子だったが、ミーティングルームを出ると、成が立ってた。
シャツのボタンもところどころとまっていないから、慌てて出てきたことが窺える。けれど、成の顔を見るたびにざわつく心は相変わらずで、萌子はそっけなく言った。
「今日は…一人で帰るから。用事が、あるの」
「俺のこと怒ってるのはいいからさ。祥子のことは関係ないだろ？」
突然祥子の話をされた萌子の心のざわつきが、更に大きくなる。だが、なんとかその気持ちをそこで留めると、萌子は淡々と答えた。
「仲間外れになっているのは、私が彼女たちに命令したからじゃないわ。私は、関係ないもの。
用がないなら、急いでるから、帰る」
そう言って歩き出そうとした萌子の手を、思わず成は掴んだ。
「…昨日の映画、どうだった？」
成は予め用意していたセリフを口にした。
「同じ映画を湊が見ようかなって言ってたからさ。俺、途中からで話全然わかんなかったし、萌子は…見てたんだろう？」
見つめられて、萌子は顔を逸らす。
「…よかったよ。楽しかったし、泣けた」
「やっぱり映画、見たんだよな」
成は小さな声でそう呟くように聞いた。だが萌子は聞こえていたのかいないのか、平然と聞き返す。
「でも、見るなら一人で見ない方がいいって、そう湊に伝えて」
それが今の萌子に言える、精一杯の厭味だった。その言葉に、成は顔を俯かせる。
「昨日のことは、ごめん。俺が悪かった。
とにかく…俺からも頼むよ。クラスの女子に何とか言ってくれ。あのままじゃ祥子が可哀そうだ」
その言葉に、萌子は成の手を振り払った。
「だったら成が何とかしてあげればいいでしょう」
「…萌子」
強張った表情の成を見て、萌子は気づいた。
成は…優しすぎるのだ。
その優しさに、今まで何度も助けられた。
でもその優しさが、今は萌子の胸を切り刻んでいる。
「この前も成、謝ったよね。
あの時、なんて言ったのか覚えてる？」
成がはっとしたように顔を上げる。視線を左右に忙しなく動かし動揺を見せながらも覚悟を決めたのか、成はごくりと唾を飲み込むと、萌子に手を伸ばした。
「萌子、俺―」
だが萌子はその手から逃れるように一歩後ずさりしてはっきりと答えた。
「昨日聞いたの。
成が朔哉さんに頼まれたこと。
だから、私の傍にいてくれてたんだね。
やっとわかった。
でも、もういい。
解放してあげる。
義務感で私の傍にいてくれなくていいから」
大きく見開かれた成を振り切るように、萌子は背を向けて言った。
「さよなら」