Maybe Blue 第三部 誰かのために
靑嵐11
探していた和美の背中が見えたところで、美都は駆け出した。息が上がって苦しかったけれど、このまま和美を帰してはいけないと思った。練習の前に時間が あればと思ったが、和美は開始時間ギリギリにグラウンドに現れたし、練習中は美都の近くに寄りつくことはなかったのだ。そして、練習が終わると、さっさと 一人で帰ってしまったのだ。いつも一緒に帰る美都を置いて。
謝らなきゃいけない。
その一心で美都は何とか和美に近づくと、その背中に話しかけた。
「待ってっ、和美君」
すたすたと歩いていた和美の足が止まる。慌てて美都はその前に回り込むと、何より先に頭を下げた。
「ごめんなさい。和美君。
昨日はあたしがいけなかったの。本当に、ごめんなさい」
膝に頭をぶつけんばかりの勢いの美都に、だが和美は何も言わない。
美都は顔を上げるタイミングを失って、ただじっと視線の先に見える和美の靴先を見ていた。少し苛立ったようにリズムを刻んでいた足だが、ふいにその動きが止まると、「別に」という和美の声が聞こえてきた。
これは許してくれたということなのだろうか、それとも許さないということなのだろうか。
その判断に悩む美都の前で、和美は美都の脇をすり抜けて駅に向かって歩いてく。思わず美都は顔をあげて尋ねていた。
「許してくれるってこと？」
しかしそれにも、和美は「勝手にしろよ」としか答えない。
はっきり言わない和美に苛立ちを少し覚えながらも、美都はそれがいつもの和美特有の照れなのだと思い、急いで和美の後ろを追いかけていった。
わかってる。
本当の気持ちを正直に言えない人だってことくらい。
わかってる。
だからもう迷わない。
和美君のこと、信じるって決めたんだから。
お客さんよという母親の声に萌子が体を起こすと、ノックの後に現れたのは知朗だった。
「…知朗？」
知朗は部屋に入ると、続いてやってきた母親から飲み物を受け取った。しかし母親が部屋を出ていくと、そのカップをテーブルの上に置いて、ベッドの傍に立ったまま口を開いた。
「具合はどうだ？」
「熱が…まだあるみたい」
川城を出た後、体が火照って頭がぼうっとしていたのだが、それはよく眠れなかったからだと思っていたのだ。
理香の助けを借りて、何とか家に帰ってきたところまでは何となく覚えているのだが、その後のことは覚えていない。
知朗の探るような視線から逃げるように萌子が俯くと、知朗はベッドに腰掛けた。
視線の高さが同じになったところで、知朗は珍しく淡々と言った。
「変な話聞いた。お前が、川城の今川とつきあうって。
高熱で頭がおかしくなっただけだよな」
萌子は俯きながら答えた。
「…ごめん」
知朗は萌子の言葉は無視するように、そのまま抑えた声で続けた。
「成のことはどうするんだ」
胸の奥がちくりと痛い。萌子は目を閉じて、その痛みが消えるようにと願いながら答えた。
「…もう、忘れたいの」
「だから、今川と付き合うのか」
萌子の心に考える余裕を与えずに知朗がそう言う。
嘘はつけないと頷くと、知朗はふっと強く息を吐いて言った。
「忘れる必要なんかないだろう」
しかしそういう知朗の表情には、切なさが僅かににじんでいる。
こうして自分は今まで沢山の人を傷つけてきたんだと思い、萌子は首を振った。
「だとしても、相手が今川である必要はないだろ。
この前の試合のこと、忘れたっていうのかよ」
それは関東大会の県予選の決勝のことだ。川城の塚本巧の挑発に乗って、知朗が退場させられた試合だ。
「でも今川君は関係ないわ」
「あいつは川城のキャプテンだ。グランド上での責任者だ。関係ないわけないだろっ」
たしかに知朗の方が正しい。
だが、萌子にとって史央はライバル校である川城のキャプテンという以前に、大切な幼馴染なのだ。
「…ごめん、知朗」
萌子の答えに、知朗が叫んだ。
「そんなに成のこと忘れたいんだったら、俺がそうさせてやるっ」
知朗に手を掴まれた萌子は、それを振り払おうとしたが思った以上に強い力に諦めると、小さく首を振った。
「知朗には無理なの」
「どうしてだよっ、俺の何が今川に劣ってるっていうんだっ」
「そう言うことじゃない」
「じゃあ、何だっ」
耐えきれず、萌子は顔を上げると涙を流しながら知朗に叫んでいた。
「知朗が、凪浜の人間だからよっ。
忘れたくても、無理なの。凪浜の人じゃ…」
凪浜を裏切ったのは私。
だからこの咎をを受けるのは、私一人じゃなきゃいけない。
身近な誰かを巻き込んじゃいけない。
萌子の涙を見てか、知朗は掴んでいた萌子の手をそっと放すと、落ち着いた声で言った。
「確かに俺は、お前を守るように、かばうように、そういう愛し方はできない。でも、傷は外にさらさないと治っていかない。俺はそう思う。
辛ければ手を貸す、でも立ち上がるのは自分自身の力だ。甘えさせるだけが愛情じゃない」
逃げるな。
自分の気持ちと向き合え。
そう言われた気がした。
けれどそれは、朔哉や知朗の想いを更に踏みにじることになる。
そのことに気付いてしまった以上、そうはできない。
何よりそうまでして自分の想いをつきとおしたいとは思えなかった。
それに、自分は裏切ったのだ。成を、凪浜を。
その咎は受けなければならない。
私は、幸せになってはいけない。
萌子は顔をあげて答える。
「知朗は、強いから。
でも、私はそうじゃない。…少し疲れたみたい。ごめん、休ませて」
ベッドにもぐりこんで知朗に背を向ける。
しばらくすると、苛立った息を残して知朗は出ていった。
ごめん、知朗。
今までも、ごめん。
ごめん、ごめん、ごめんなさい。
残された部屋には、萌子の噛み殺した嗚咽がしばらく響いていた。
ドアが開いたところで、成は現れた萌子の母親である元子に小さく会釈をした。
「あら、早坂君。萌子？」
「はい」
部活が終わって、駅前の花屋に寄ってきたものだから、成が萌子の家に来るのは予定よりもかなり遅くなっていた。
「ごめんなさいね。今寝てるのよ」
「具合はどうですか？」
「薬飲んで熱は下がってきたから、明日は学校にもいけると思うわ。
あら、それもしかしてお見舞いのお花？」
元子は、成が背中に隠していた一輪のバラを見つけるとそう言った。
「あ、はい」
ピンクのバラを選んでくれたのは花屋だ。
女性への贈り物としては、これに勝るものはない、ということだ。
ただし、持ち合わせたお金があまりなく、買えたのは一輪だけ。
おまけということでリボンは付けてくれてはいたけれど、それでも見栄えが違う。
「しょぼくて、すみません」
渡しながらそう言うと、元子がふふと笑った。
「そんなことないわ。気持ちだけで十分嬉しいってものよ。
萌子に代わってお礼を言うわね。ありがとう」
門を出たところで、成は振り返った。
萌子の部屋の灯りは消えたままだ。
思えば、丸一日萌子に会っていない。毎日部活で顔を合わせていたから、変な気持ちだった。
明日には、会えるといいな。
でも今日は、ゆっくり休んで。
成は心の中でそう語りかけると、歩き始めた。
寮に戻るとすでに夕食の時間になっていた。慌てて席に着くと、何だか空気が重い。
その原因を探して辺りを見渡していると、知朗が不機嫌にご飯をかきこんでいた。
何があったのだろうと思っていると、部屋に戻った時に篤志がやってきて教えてくれた。
「昨日の話なんだけどさ」
篤志の話を聞いて、戸惑わなかったと言えば嘘になる。
「萌子、朔哉さんの部屋を出た後、川城の今川のところに行ったらしいんだ。そこで泊まって、それで帰ってきたんだって。
で、理香が言うには、今川と付き合うって言ってたらしくてさ」
思いもよらない展開に、成が何も言えずにいると、篤志は話を続けた。
「理香から聞いた時、知朗にもそれがばれちゃって。あいつ萌子の家に駆け込んで行ったんだけど、たぶん同じこと言われて。だから機嫌悪いだろう。
信じられないけど、信じたくないけど…本当の話らしい。
でも他の奴らに話すと、ややこしいことになりそうだから、内緒にしておいてほしいんだ。今のところ知ってるのは、俺と理香と知朗と、お前だけだから」
ややこしいといった篤志の気持ちは、成も理解できる。
このところ川城は凪高のライバルどころか、目の敵になっている高校だ。
そこのキャプテンと付き合うと言うことが、どれだけ波紋を呼ぶか、自分にも想像できるくらいだから、萌子だってわかっているはずなのに。
そう思いながら、成は萌子が四月頃に史央のことを話していたことを思い出した。
初恋の相手…か。
史央の印象は、成にとって悪いものではない。だが、今はお互いおかれた環境が悪い。
…でも決めたから。
萌子の全てを、俺は受け止めるって。
成は心の中でもう一度そう誓った。
翌日からは試験期間一週間前ということで、萌子たち三年生の教室では少しずつ張りつめた空気が漂うようになっていた。今回のテストと次の学期末のテストが、大学受験を推薦で受けようとする生徒にとっては山場になるのだ。
放課後も、教室や図書室で残って勉強する生徒も少しずつ増えていた。
萌子は午前中は病院に行ったものの、熱も下がって問題ということで、昼前から授業に出ていた。
疲れがたまっていたんでしょう。
部活もしばらく休みになるようだし、勉強はあまり根を詰めないように。
そういった医者の言葉を思い出し、萌子はホームルームが終わるとさっさと教室を出て行こうとした。ケンや湊たちは萌子の体を気遣うものの、言葉少なく対 応する萌子の体調がまだ万全ではないと感じたのか、離れて見守るというスタンスになったようだった。しかし、言葉は交わさなくても成からの視線は感じずに はいられず、萌子としては早くそこから逃げ出したかった。
しかし、廊下を出たところで名前を呼ばれた。
「萌子」
振り返らなくても、それが成だということはわかる。萌子は聞こえなかったふりをして歩きだそうとしたが、再び名前を呼ばれ、それでも振り返らずに歩いているとふいに肩を掴まれた。
「待って、萌子」
「ごめんなさい。早く帰りたいの」
はっきりそう言えば、今までの成であればわかったと引き下がるはずだった。
それが成の、優しさであり同時に物足りなさでもあった。
しかし、今日の成はどこか違っていた。
「ちょっと話があるんだ。すぐに、終わるから」
「でも用事があって―」
触れられた肩にないはずの熱を感じ、萌子は身をよじるようにして成の手を振り払いそう言って、去ろうとした。
だが成に背を向けたところで手を掴まれた。
「ごめん」
振り払う暇もなく、成は萌子の手を掴むと、そのまま引っ張るようにして廊下を歩いて行く。ちょっと待ってと萌子が言っても、成は手を緩めず、そのまま萌子を部室へと連れて行った。
部活動禁止の期間でもあり、部室は静まり返っていた。
ドアを閉めたところで、成が心配そうに尋ねる。
「体調は？」
「もう、平気」
萌子は、諦めてそう答えると深くため息をついた。さっきまで成と繋がっていた手がじんわりと汗ばんでいる。
変な風に思われていたらと不安に思う萌子に、成が深く息を吐くと顔をあげて口を開いた。
「きちんと話したいと思ってたんだ。初めから、全部。
二月の終わりの追い出し会の時、俺、福山さんに呼び出されて萌子のことを頼むって言われたんだ。
驚いて、だけど嬉しくて。
あの人に認められたってことで、萌子の傍に居られることで、正直舞いあがって。
でも、いつからか萌子が見てるのは俺じゃないんじゃないかって思うようになってきた。
俺の隣に居るのは、福山さんを忘れるためだって。
そう思ったら、福山さんに負けないようにってことばかり考えるようになってた。
何かがあれば、あの人ならどうしてただろう、あの人ならどう言ってただろうって…。
気付いたら、そうやってがんじがらめになってた。…萌子の、隣に居ることも辛くなってた。
そんな時に偶然、祥子と福山さんの関係を聞いたんだ。
祥子も俺と同じで、秘密を一人で抱えて、もがいてた。同じだったから、一緒に居ると気が楽だった。
会って話したり、手紙を渡したりしてたのは、全部福山さんのことだ。祥子は、ずっと福山さんのこと好きだったから。
手紙は、福山さんの住所を書いて渡した紙。本当は、俺が萌子に渡すように頼まれていたものだったけど、怖くてそれができなかった。
だから、祥子に渡した。そうやって、俺は自分が背負ってた重荷を、人に押し付けて。
俺は…大事なことを、忘れてた」
成はそこで一呼吸置くと、萌子をじっと見つめた。つられるように顔をあげてしまった萌子は、その視線から逃れられず、成を見つめ返していた。
成は優しい目で萌子のことを見つめていた。萌子は理香から聞いた言葉を思い出した。
『萌子が朔哉さんのところに行ったこと、成くん知ってるよ。
でも、受け止めるって。萌子のこと』
許してくれるの？
私のことを。
朔哉さんのところに一度戻った私のことを。
裏切った私のことを。
そんな萌子の気持ちに気付いているかのように、成がふっとほほ笑む。
許すよ。
そう答えてくれた気がした。
けれど、次の瞬間、雷鳴のように朔哉の声が響いた。
『あいつのことが好き？
萌子は、どこまで俺をピエロにさせれば気が済むんだ？』
「俺。萌子のこと―」
そう言いかけた成の言葉を萌子は慌てて遮った。
「私。
私、今川君とつきあうことになったの」
そう言って息をのむ萌子の前で、成は唇を少し噛みしめると、「川城の？」と聞き返してきた。
萌子は頷くと、成は穏やかな表情のままで頷いた。
「そうか。
萌子が…それでいいなら、俺は何も言わない。萌子がそれで、幸せになれるんだったら」
耐えきれず俯いたが、こみあげてくるものを感じ、萌子はそのまま無言で成の脇をすり抜けようとしたが、すれ違った瞬間に成が口を開いた。
「ごめん、萌子のこと幸せにできなくて」
自然と足が止まる。
振り返れたら。
そして、私も成に謝れたら、
許してもらえたら。
だけど、そう思うことすら、もう許されない。
「成が謝ることじゃないわ。それじゃ―」
声が震えるのを隠すように小声で早くそう言うと、萌子はドアノブに手を伸ばした。
早く、この成と一緒に居る空間から逃げ出さなければ、自分の決意を裏切ってしまいそうだった。
しかしそんな萌子の気持ちを引きとめるように成が声を張り上げていう。
「でも俺は、萌子のこと幸せにしたかった。
萌子のことがずっと好きだったから」
伸ばしていた手にもう一度力を入れると、萌子は勢いよくドアを開けて部室を出ていく。
外に出た途端、閉めたドアを背に、その場にしゃがみこんだ。
「っっ」
堪え切れず、息が漏れる。
堰を切ったように感情が溢れてきそうになったところで、数人のしゃべり声が聞こえてきた。
まだダメ。
萌子はそう思うと、走り始めた。
行き先など決めていなかったが、気がついたら海に出ていた。
夕陽を受けて黄金に輝く水面を見つめながら、萌子は声をあげて泣いた。
萌子の前には海しかなく、また萌子の泣き声は波の音がかき消してくれたから、萌子は全てをさらけ出すことができた。
理香に話した時は、咄嗟の思いつきだった。
史央と付き合うと言えば、誰もが萌子を非難することは分かっていた。
実際、知朗も反対をした。
それでよかった。
萌子が罪を犯しても、誰もが責めずに萌子を許すのであれば、自らを追い込むしかないのだ。
「相手のこと、思い出せないくらい俺で埋めてみせる」
昨日の別れ際、史央にそう言われた時、萌子は何も答えられずにいた。
史央はそんな萌子の戸惑いに気付くと、萌子から手を放して言った。
「ごめん、俺…焦りすぎてるよな。沢木の都合考えずに、自分の気持ち押し付けて」
「ううん」
「だったら友達として、それならいいよな？
往生際悪いって思われそうだけど、でもそれでも、沢木のことが心配なんだ。
友達で十分だし、それで構わない。
でもいつか、沢木の気持ちに俺のこと考える余裕ができたら、そうしたらさっき俺の言ったこと思い出して。
答えはいつでもかまわない。いつまでも、俺は待つから」
「でも」
かろうじてそう答える萌子に、史央はにっこりとほほ笑むと言った。
「あの頃から今まで待ったんだ。これ以上待っても、そう変わらないよ」
成を忘れる時がきたら、もしかしたらその時は史央を受け入れられるようになっているかもしれない。
だがそれがいつになるのか、萌子にはわからなかった。
バタンを閉まるドアを見て、成は小さくため息をついた。
『私、今川君とつきあうことになったの』
予想していたことではあったから、さほどショックを受けてない自分に気付き、成はふっと笑みをこぼす。
冷静に考えると、たしかに相手が今川で良かったのかもしれない。
今川っていいやつだし、
見た目もカッコイイし、
サッカーだって上手い。
でも、と息を吸い込むと成はもう一度顔をあげて、萌子が消えていったドアを見つめた。
だからって、福山さんのことを忘れられるかどうかは、別だ。
成は一昨日、久しぶりに朔哉と話したことを思い出した。
気合いを入れて、一気にダイヤルを押した後、そろそろ留守電に切り替わるかどうかというタイミングで相手が出た。
「凪浜高校の早坂ですが。福山さん…ですか？」
長い沈黙の後で、朔哉の重い声が聞こえてきた。
「早坂か…。どうした？」
聞いたことのない朔哉の沈んだ声色に、成は戸惑いながらも尋ねた。
「そっちに萌子が行ってないかなと思って」
すると大きく深呼吸する息が聞こえた後で、朔哉が答えた。
「ああ、来てた。でも、帰ったよ。もうしばらくしたらそっちに着くんじゃないか」
行ったことは覚悟していたが、朔哉の元を去っているとは思っていなかった。
何があったのかと思う成に、朔哉が重苦しい声のままで言う。
「萌子は、きっともう、二度とここには来ない」
「何が…あったんですか？」
思わずそう尋ねると、朔哉が乾いた笑いを浮かべたのが電話越しに分かった。
「傷つけたんだ、俺が、萌子のことを。
早坂、頼んだぞ、萌子のこと」
そう言ってから気付いたように朔哉は呟く。
「前にもこんなセリフ言ったな」
追い出し会の夜だ、と思いながら成はそうですねと答えた。
「あの時…俺、はいって答えましたね」
「そう…だったな」
「でも今はこう答えます。
頼まれなくても、俺は萌子のことを守ります。俺の方法で」
今もそう答えた気持ちに迷いはない。
萌子が福山さんのことを忘れるために、今川と付き合うと言うのならば、それでも構わない。
俺がしたくでもできなかったことを今川にできると萌子が思うんだったら、それで構わない。
それで、どんなに非難されようと、俺が萌子のことを守るから。
萌子のすべてを、受け止めるから。
その夜、風呂上がりの萌子を母親が引き留めた。
「萌子？電話よ。今川君て男の子から」
二階に回してもらった電話に出ると、ほっとした史央の声が聞こえてきた。
「よかった。ちゃんと家に帰ったんだな」
史央の優しさに萌子が戸惑っていると、沢木？と黙りこむ萌子を気遣う声が聞こえてきた。
こういうところ、変わってないなと思いながら、うんと萌子が答えると、史央ははっきりした声で言った。
「俺、決めたから。毎週月曜と金曜の十時に沢木の家に電話する。
きっと沢木にいつでも電話かけてくれて構わないって言っても、結局は気を使ってかけてこないだろうし。
だったらいっそ決めた方がいいと思うんだ。
特に話すことがなくても、たった一分しか話せなくても、それでも電話する。いい？」
変わらない。
こうやって、私のうまく甘えられない性格に気付いて、先回りしてくれるところも、
だけど、それが重荷にならないように気遣ってくれているところも。
結局私も、あの頃から全然変わってないままだ。
一歩前に進みたいのに、足踏みして後ずさりすることばかり考えている。
「…沢木？」
萌子の声が聞こえないことに不安を覚えたのかまた史央がそう呼びかけた。
「…今川君は、それでいいの？」
史央ならば、きっと萌子が史央と付き合っているを皆に嘘をついていると言えば、それでも構わないと言うだろう。
だがそうやって、史央の行為に甘えて、そうして史央を傷つけていないのだろうか。
萌子はふと不安になってそう尋ねた。
「俺がやりたくてやってることだから、いいも悪いもない。
もしいま特に話したいことないって言うなら、俺から話する。くだらなくても、一分は我慢して聞くこと」
そうは言ったものの史央はなかなか話しだそうとしない。
それが自分への気遣いなのだと萌子は気付いた。
なかなか自分のことを話せない私を、今川君はゆっくりと待ってくれているのだ。
「…あのね？」
「ああ」
低い声が頭に優しく響く。
萌子はそっと目を閉じながら話し始めた。
「本当はね…すごく不安だったの。
サッカー部に初めてマネージャー希望で行った時、すごく不安だった。
でも、いろんな人たちが私がサッカー部のマネージャーになること応援してくれてて、そういう意味でも逃げ出せなかった。
だけど、すごく不安で。
中学が女子校だったから、沢山男の子たちがいるのも少し怖かったし、
知らない人ばかりだったのも、少し怖かった。
テレビで見て憧れた高校に入学して、サッカー部にこれたことも、すぐに夢が叶った分だけすぐに壊れてしまいそうで、怖かった。
もし強い向かい風が吹いて来ていたら、すぐに後ずさりしてグラウンドを出て行ってしまうくらい、怖かった。
でもね。
その時、頑張ろうって言ってくれた人がいたの。
がんばろうな、これから三年間。
その時私はまだマネージャーにもなれてなくて、だから彼が言った言葉は、彼の勘違い。
でもその言葉で、私は頑張ろうと思ったの。
一緒に頑張ってくれる人がいると思ったから。
それからも、何度も彼に救われた。
多分彼にとってはなんてことない一言が、私をすくい上げてくれたの。
私、彼のことが好きだった」
そこまで言うと、萌子は受話器を自分から離す。そうしなければ、史央に泣き声が聞こえてしまいそうだったから。
泣きながら、萌子は思っていた。
言葉にすることで、この気持ちを吐きだすことで、そうして私は成のことをきっと忘れられる。
成のことが、好きだった。
本当に、好きだった。
でも、忘れなきゃならない。
忘れなきゃ…。