Maybe Blue 第三部 誰かのために
薫風5
チャイムを前にして、先ほどから紗依は手を出したり、ひっこめたりを繰り返していた。
迷惑かな。
でも、喜んでくれるかもしれないし。
だけど、チョコレートは断られた。
石橋の妻が、実家に帰ったらしいと紗依が聞いたのは、つい先日のことだった。
どうも最近石橋の様子がおかしいと思っていた紗依は、同僚との飲み会の時で、同じ体育教官である有田にさり気なく聞いてみたのだ。酔った有田は、紗依に話しかけられたこともあって嬉しそうに何でも答えた。
「前はよく手作りの弁当持ってきてましたけどね、最近はずっとコンビニの弁当ですよ。たまに奥さんの実家に電話してるみたいだけど、出てもらえないみたいですよ。
まあ当然ですよ。サッカーばかりで、家庭のこと全く顧みないような男ですからね。昔プロだったからなのか、知らないですけど、その時のプライドがまだ 残ってるんじゃないですか。昔取った杵柄って言うじゃないですか。もう過去のことだってのに、いつまでもその時の栄光を引きずるから。俺たちが指導するのは、あくまでも高校生活の範疇。だってのにそれ以上に入れ込んで、奥さんもブチ切れたんでしょう。当然だ。ねえ、そう思うでしょう？田波先生。俺だったら 仕事よりも家庭を大事にしますよ！」
考え込んで紗依が黙っていると、隣の谷垣も口をはさんだ。
「そういえば、服も髪型も、いつも体育教官にしては気を使ってたのに、最近じゃなんかパリッとしてないわね。
顔色も良くないし、自分でちゃんと料理できてるのかしら？」
去年スーパーで会った時に大量のカップラーメンを買っていたことを紗依は思い出す。あの様子だと、毎日の食生活は期待できないだろう。
黙ったままの紗依に、身を乗り出すようにして有田が言った。
「全然っでしょう。あの人、サッカーの為に生きてきたから、身の回りのこと全然できないらしいっすから。ほんと、夫としては失格ですよね、田波先生。その点俺なんか、掃除洗濯料理、何でもできますよ！」
だが紗依はそれに答えずに、ずっと考えていた。
自分に何ができるのかを。
そして、その結論を持って、紗依は石橋の自宅前にやってきた。手にしているのは、帰宅してから作ったお弁当だ。
顔色の優れない石橋の為に、栄養を考えて、一生懸命作って持ってきた。
学校で渡すと、目立つかもしれないからだ。
だが実際に自宅を前にすると、足がすくんでしまっていた。
部屋の明かりがこぼれていて、車もガレージに止めてあるから、石橋は家にはいるのだろう。
だけど、またチョコレートの時みたいに突き返されたら。
そう思うと、やはりチャイムを押すことができない。
「ワンワンッ」
突然犬の鳴き声がして、思わず紗依は動きを止めた。どうやら石橋の向かいの家の犬が、紗依が不審者だと思って吠えているようだ。これ以上吠えられると、 近隣の住民が出てきてしまうかもしれない。焦る紗依に、更に焦らせることが起きた。石橋の家の玄関に明かりがついたのだ。
どうしよう。出てきちゃう。
紗依は慌てて門にお弁当の包みを引っかけると、物陰に隠れた。
すると思った通り石橋が玄関から現れた。どうやら向かいの家の犬のことが気になったらしい。玄関から少し出て、外の様子を伺っていた石橋は、ふと自分の 家の門に置かれた包みを見つけた。手に取ると、まだ温かい。匂いをかぎ、それが食べ物であると気づいたようで、石橋は辺りをきょろきょろと見回し始めた。
その様子を見ていた紗依は慌ててまた隠れる。
胸がドキドキしていた。まるで高校生に戻ったかのようだった。
石橋はしばらく辺りを見回していたものの、誰もいないと思ったのか、包みを持ったまま家へと戻った。ドアが閉まる音を聞き、紗依はほっと安心してそのまま地面に座り込んだ。
「成さん、帰ってきました？」
樹生は部屋に入ってくるなり、そう湊に尋ねた。湊が答える前に部屋に入り込むが、やはり成の姿はない。
ため息をつく樹生に、湊が答える。
「たまにはいいだろう？あいつにだって、いろいろあるんだろうし」
励ますように樹生の背中を叩いて、ベッドに座り込む湊に、樹生は尋ねた。
「じゃ知ってるんですか？湊さんは、成さんがどこにいるかって」
どこで、誰と一緒なのかって。
せめてさっきの電話が聞き間違いだったらと思う樹生に、
「さあ。ちょっと用事が出来たって出かけて行ったけど。
小学生じゃないんだし、そんなに樹生が不安になることもないだろう？」
と湊は余裕の笑みで答える。
そうじゃないんだと、だが自分の中に芽生えた疑惑を、そのまま伝えていいのか悩む樹生に、
「それにまだ門限を十分過ぎたくらいだぞ。すぐに戻ってくるって」
湊はそう答えた。
沈黙の後、祥子が掠れた声で言った。
「どうして…」
成は小さく頷くと、正直に答えた。
「俺も、福山さんに頼まれたんだ。傷ついた萌子を守ってくれって」
『俺は、彼女を傷つける。萌子のこと、頼んだぞ。早坂』
そう言った時の朔哉の表情は、今だに成の頭を離れない。
真剣な表情だった。そして、どこか挑むように成のことを見つめていた。
お前に出来るのか。
萌子を守っていけるのか。
頼まれると同時に、そう問われたような気がした。
でもあの時は、思っていたんだ。
福山さんに頼まれたんだから、俺ならできるって。
萌子を守っていけるって、そう思ってた。
だけど。
大きく息を吐くと、胸のつかえを吐き出すように成は口を開いた。
「だけど、俺、考えちゃうんだ。
あの人より、深く、強く、萌子のこと好きだって言えるかって。
萌子のことは、好きだけど。
でも…正直言って、その自信ない。
あの人は、俺の何倍も、強くて、優しくて、大きい」
勝ち負けの世界じゃない。
だけど、どうすれば、あの人を乗り越えられるんだろうかと考えている。
その一方で、そんなことができるんだろうかって、そうも思ってる。
無理なんじゃないか、って。
広げた足の中央で手を組み、地面を見つめる成の隣で、ふいに祥子が立ちあがった。
「知ってる。
どれだけ、福山先輩が優しい瞳で萌子のことを見つめていたか。優しい声で萌子の名前を呼んでたか。
気づくたびに思った。
萌子になりたいって。
何度も、何度も」
すぐ後ろの道路を走る車のライトに時々照らされて、祥子の背中が暗闇に浮かびあがる。精一杯気張っているように見えても、その背中はどこか頼りなさげだ。
「俺も。福山さんみたいになりたいって思った」
何にも揺らぐことなく、深く萌子のことを愛したいって。
成の言葉を聞いた祥子は、くすりと笑うと、成に微笑みかけた。
「私たち、似た者同士かな」
「え」
「偽りの恋人役を頼まれただけなのに、それでも先輩のことを忘れられない私と、
傍にいるのに萌子の心が掴めない成くんと」
「お互い報われない恋をしてるって？」
思わず成がそう聞き返すと、祥子は頷き、俯きながら謝った。
「ごめん」
俯いた祥子の頬に、髪がかかって、夜の海風に心地よさそうに吹かれている。
二人の人生を変えた日に短かった髪は、肩につかないまでもずいぶんと伸びたように思えた。
報われない恋。
祥子は、福山さんに、
俺は、萌子に、
そして、萌子は…きっとまだ福山さんに。
いや萌子は、報われないわけじゃない。
福山さんは萌子のことが嫌いになって別れたわけじゃない。むしろその逆だ。
でも…。
「…でも。そうだな」
成は呟くように答える。
「今日の話は、萌子には言わない方がいい。
このまま嘘はつき通した方がいいと思う」
成の言葉に、祥子は静かに頷く。
「わかった」
夜の十時過ぎ。凪高サッカー部の新人マネージャーのまりは、海沿いの道を自転車で走っていた。
原因は、コーラだった。まりが部活終わりにと取っておいたコーラが、帰ってきた時にはすでに空になっていた。犯人は三つ上の姉で、まりが怒ると、軽くごめんごめんと謝られた。
「謝るだけなら、警察いらないって」
「でも、謝らないよりマシでしょう？」
「心から悪いと思ってないのに、謝って、でかい態度とられる方がむかつく」
「あんたねぇ、マネージャーになれたからっていい気になってんじゃないわよ」
三つ上の姉も、まりと同じ凪浜高校出身で、サッカー部のマネージャー志望だったらしい。が、姉は呆気なく選考から落とされた。一方のまりは、高い倍率を勝ち抜いてマネージャーの座を手に入れたのだ。
掴みあいになって言い争う姉妹を見て、母親が、
「いい加減になさい。コーラがないなら買ってくればいいじゃない」
と間に入る。それ見たことかと、まりが、
「じゃあお姉ちゃん買ってきてよね」
というと、再び母が、
「二人で行きなさい。夜なんだし、二人仲良くね」
と命令するかのように言った。
結局、まりは姉と近くのコンビニに行くために、自転車を走らせる羽目になったのだ。まりの家は海沿いにあり、一番近いコンビニは、坂を下って海沿いの道路を少し行った場所にあった。
「ちょっとお姉ちゃん！待ってよ！」
まりは前を行く姉にそう声をかける。だが、姉はまだ怒っているのか、まりを気遣う様子もない。海沿いの道にはスピードを出した車が走っており、その脇で まりは車に気をつけながら走っていた。クラクションが鳴り、思わずまりが自転車を止めると、後ろから猛スピードで車がまりのすぐ脇を駆け抜けていく。その 風に舞い上がる髪を抑え、小さくため息をついたところで、海風に乗って女性の声が聞こえてきた。
「萌子になりたいって。
何度も、何度も」
モエコ？
思わずまりは、声のする方へと顔を向ける。すぐ横は海浜公園になっていて、そこには後ろ姿だが一組の男女のカップルが話をしているようだった。
萌子って、萌子さんのこと？
こっそりと公園に入ろうとしたところで、今度は聞き覚えのある声がした。
「俺も。福山さんみたいになりたいって思った」
街頭に照らされたその横顔は、まぎれもなく成のもので、思わずまりは身を固くする。
…どういうこと？
こんな時間に、早坂先輩が萌子さん以外の人と一緒にいるなんて。
その時、相手の女性が成の方を向いた。その横顔は、ついこの前グラウンドに現れた祥子だった。
…どうして？
どうして、早坂先輩と、あの人が一緒にいるの？
それにどういう意味？
あの人が萌子さんになりたくて、
早坂先輩が福山朔哉になりたいなんて。
風に乗って聞こえてくる二人の会話は、車のクラクションもあって途切れがちで何を話しているのかよく聞こえない。ただお互いを見つめあい、柔らかい笑みを交わしているのだけが見える。
もっと近くに行かないと、と思うまりに、姉の声が聞こえてくる。
「まりー？どうしたの？先行くよ」
「え？ちょ、ちょっと待って―」
諦めて自転車に乗りかけたまりだが、次に聞こえてきた成の声に、思わず振り返った。
「今日の話は、萌子には言わない方がいい。
このまま嘘はつき通した方がいいと思う」
…どういうことなんだろう。
萌子さんについてる嘘って、何？
だが自転車を置き、公園に入って行こうとした時、
「まり！いいかげんにしなさいよ。ほんと置いて行くからねっ」
と姉の怒号が車のクラクションよりも大きく響いた。
「わっ、わかったってば！今行くから」
まりはそう答えると、感じた胸騒ぎをそのままに、慌てて自転車に乗り、漕ぎ出した。
お互いに黙り込んだところで、しばらくして祥子が口を開いた。
「…萌子は、知ってるの？成くんが、先輩に言われたこと」
「知らないよ。…話してないし。話すことでもないのかなって」
本当はそうじゃない。
話したら、
そうして、あの人の深い愛に気づいてしまったら、きっと萌子は戻ってこない。
そう思うから、話したくない。
ただの俺のエゴ。
俯く成を見つめながら、祥子はゆっくりと頷く。
「それでいいと思う。
私も、一緒だよ。先輩に頼まれたこと、萌子には言わない。
わかってるの。先輩の気持ちは。
振られたし、恋人のふりだって、それきりだってわかって引き受けた。それ以上は、何も起きないって。
だけど、どうしても、好きなの。忘れられないの」
恋人になりたくて告白したわけじゃない。
ただあの人の記憶に残りたくて、
私みたいにあの人を見ていた女の子がいたことを知ってもらいたくて、告白をした。
キラキラ輝いているあの人を好きになったんじゃない。重たくて苦しくて耐えきれないものを、それでもひっそりと抱えているあの人を、好きになったんだって。
それなのに、結局あの人は、私のことは見てくれていない。
それが悔しくて、情けなくて、忘れるつもりが、どんどん忘れられなくなっている。
祥子は流れ落ちた涙を、横を向いて成に見えないようにして拭うと、この前ね、と口を開いた。
「この前先輩と同じ大学の知り合いから、先輩が怪我したって聞いて。いても立ってもいられなくて、大学に行ってみたの。
でも言われちゃった。ファンの子には、連絡先は教えられないって。
そうなんだよね。私と先輩って、結局何でもなくて、ただの先輩と後輩以下なの。
そう思ったら悲しくなっちゃって。逃げるように戻ってきた駅で、成くんとすれ違ったの。
いっそ萌子に頼みこんで聞こうかとも思った。でもそうしたら、卒業式のことは誰にも言わないってした先輩との約束を破ることになるから、私―」
「萌子は知らないよ。福山さんの連絡先」
成の言葉に、思わず祥子は顔を上げる。成は、気まずそうに答えた。
「福山さんに頼まれたんだ。でも俺は知ってるから、今度教えるよ。祥子に」
「いいの？」
成は頷いた。いっそのこと、誰かに渡してしまえば、気が楽になれると思った。
「それじゃ、帰ろうか」
立ち上がった成に、祥子はゆっくりと首を振る。
「私…もう少しここにいる。海を、見ていたいの」
そう言って成を見送るように手を振る祥子を見て、成は小さく息を吐くと、さっきまで座っていたベンチにまた腰を下ろした。
「女の子一人じゃ危ないよ。それじゃ、俺ももう少しいる」
成の言葉に、祥子はくすくすと笑った。
「成くんてね、やっぱりそうだ」
やっぱり？と首を傾げる成に、祥子は答える。
「初めて見かけたとき思ったの。この人は、一緒に海を見ていたい人だって」
その時強く風が吹き荒れた。だが次の瞬間、ほんの数秒だけ風がぱたりと止む。
『…このまま、時が止まってくれたらな…』
そう萌子に言われたことを、ふいに成は思い出した。一年の頃だから、あれからもう二年も経つ。その間に、色んな出来事があった。本当に、いろんな事が。
あの時と今とでは、少しは萌子は幸せなんだろうか。
それとも…？
底なしのように暗い夜の海を見ている成に、祥子がふいに口を開く。
「私…諦めないで頑張ろうと思う。先輩のこと」
祥子はそう言うと、くるりと振り返って、成を指さした。
「だから、成くんはしっかり萌子のこと捕まえてて。ね？」
迷惑かな。
でも、喜んでくれるかもしれないし。
だけど、チョコレートは断られた。
石橋の妻が、実家に帰ったらしいと紗依が聞いたのは、つい先日のことだった。
どうも最近石橋の様子がおかしいと思っていた紗依は、同僚との飲み会の時で、同じ体育教官である有田にさり気なく聞いてみたのだ。酔った有田は、紗依に話しかけられたこともあって嬉しそうに何でも答えた。
「前はよく手作りの弁当持ってきてましたけどね、最近はずっとコンビニの弁当ですよ。たまに奥さんの実家に電話してるみたいだけど、出てもらえないみたいですよ。
まあ当然ですよ。サッカーばかりで、家庭のこと全く顧みないような男ですからね。昔プロだったからなのか、知らないですけど、その時のプライドがまだ 残ってるんじゃないですか。昔取った杵柄って言うじゃないですか。もう過去のことだってのに、いつまでもその時の栄光を引きずるから。俺たちが指導するのは、あくまでも高校生活の範疇。だってのにそれ以上に入れ込んで、奥さんもブチ切れたんでしょう。当然だ。ねえ、そう思うでしょう？田波先生。俺だったら 仕事よりも家庭を大事にしますよ！」
考え込んで紗依が黙っていると、隣の谷垣も口をはさんだ。
「そういえば、服も髪型も、いつも体育教官にしては気を使ってたのに、最近じゃなんかパリッとしてないわね。
顔色も良くないし、自分でちゃんと料理できてるのかしら？」
去年スーパーで会った時に大量のカップラーメンを買っていたことを紗依は思い出す。あの様子だと、毎日の食生活は期待できないだろう。
黙ったままの紗依に、身を乗り出すようにして有田が言った。
「全然っでしょう。あの人、サッカーの為に生きてきたから、身の回りのこと全然できないらしいっすから。ほんと、夫としては失格ですよね、田波先生。その点俺なんか、掃除洗濯料理、何でもできますよ！」
だが紗依はそれに答えずに、ずっと考えていた。
自分に何ができるのかを。
そして、その結論を持って、紗依は石橋の自宅前にやってきた。手にしているのは、帰宅してから作ったお弁当だ。
顔色の優れない石橋の為に、栄養を考えて、一生懸命作って持ってきた。
学校で渡すと、目立つかもしれないからだ。
だが実際に自宅を前にすると、足がすくんでしまっていた。
部屋の明かりがこぼれていて、車もガレージに止めてあるから、石橋は家にはいるのだろう。
だけど、またチョコレートの時みたいに突き返されたら。
そう思うと、やはりチャイムを押すことができない。
「ワンワンッ」
突然犬の鳴き声がして、思わず紗依は動きを止めた。どうやら石橋の向かいの家の犬が、紗依が不審者だと思って吠えているようだ。これ以上吠えられると、 近隣の住民が出てきてしまうかもしれない。焦る紗依に、更に焦らせることが起きた。石橋の家の玄関に明かりがついたのだ。
どうしよう。出てきちゃう。
紗依は慌てて門にお弁当の包みを引っかけると、物陰に隠れた。
すると思った通り石橋が玄関から現れた。どうやら向かいの家の犬のことが気になったらしい。玄関から少し出て、外の様子を伺っていた石橋は、ふと自分の 家の門に置かれた包みを見つけた。手に取ると、まだ温かい。匂いをかぎ、それが食べ物であると気づいたようで、石橋は辺りをきょろきょろと見回し始めた。
その様子を見ていた紗依は慌ててまた隠れる。
胸がドキドキしていた。まるで高校生に戻ったかのようだった。
石橋はしばらく辺りを見回していたものの、誰もいないと思ったのか、包みを持ったまま家へと戻った。ドアが閉まる音を聞き、紗依はほっと安心してそのまま地面に座り込んだ。
「成さん、帰ってきました？」
樹生は部屋に入ってくるなり、そう湊に尋ねた。湊が答える前に部屋に入り込むが、やはり成の姿はない。
ため息をつく樹生に、湊が答える。
「たまにはいいだろう？あいつにだって、いろいろあるんだろうし」
励ますように樹生の背中を叩いて、ベッドに座り込む湊に、樹生は尋ねた。
「じゃ知ってるんですか？湊さんは、成さんがどこにいるかって」
どこで、誰と一緒なのかって。
せめてさっきの電話が聞き間違いだったらと思う樹生に、
「さあ。ちょっと用事が出来たって出かけて行ったけど。
小学生じゃないんだし、そんなに樹生が不安になることもないだろう？」
と湊は余裕の笑みで答える。
そうじゃないんだと、だが自分の中に芽生えた疑惑を、そのまま伝えていいのか悩む樹生に、
「それにまだ門限を十分過ぎたくらいだぞ。すぐに戻ってくるって」
湊はそう答えた。
沈黙の後、祥子が掠れた声で言った。
「どうして…」
成は小さく頷くと、正直に答えた。
「俺も、福山さんに頼まれたんだ。傷ついた萌子を守ってくれって」
『俺は、彼女を傷つける。萌子のこと、頼んだぞ。早坂』
そう言った時の朔哉の表情は、今だに成の頭を離れない。
真剣な表情だった。そして、どこか挑むように成のことを見つめていた。
お前に出来るのか。
萌子を守っていけるのか。
頼まれると同時に、そう問われたような気がした。
でもあの時は、思っていたんだ。
福山さんに頼まれたんだから、俺ならできるって。
萌子を守っていけるって、そう思ってた。
だけど。
大きく息を吐くと、胸のつかえを吐き出すように成は口を開いた。
「だけど、俺、考えちゃうんだ。
あの人より、深く、強く、萌子のこと好きだって言えるかって。
萌子のことは、好きだけど。
でも…正直言って、その自信ない。
あの人は、俺の何倍も、強くて、優しくて、大きい」
勝ち負けの世界じゃない。
だけど、どうすれば、あの人を乗り越えられるんだろうかと考えている。
その一方で、そんなことができるんだろうかって、そうも思ってる。
無理なんじゃないか、って。
広げた足の中央で手を組み、地面を見つめる成の隣で、ふいに祥子が立ちあがった。
「知ってる。
どれだけ、福山先輩が優しい瞳で萌子のことを見つめていたか。優しい声で萌子の名前を呼んでたか。
気づくたびに思った。
萌子になりたいって。
何度も、何度も」
すぐ後ろの道路を走る車のライトに時々照らされて、祥子の背中が暗闇に浮かびあがる。精一杯気張っているように見えても、その背中はどこか頼りなさげだ。
「俺も。福山さんみたいになりたいって思った」
何にも揺らぐことなく、深く萌子のことを愛したいって。
成の言葉を聞いた祥子は、くすりと笑うと、成に微笑みかけた。
「私たち、似た者同士かな」
「え」
「偽りの恋人役を頼まれただけなのに、それでも先輩のことを忘れられない私と、
傍にいるのに萌子の心が掴めない成くんと」
「お互い報われない恋をしてるって？」
思わず成がそう聞き返すと、祥子は頷き、俯きながら謝った。
「ごめん」
俯いた祥子の頬に、髪がかかって、夜の海風に心地よさそうに吹かれている。
二人の人生を変えた日に短かった髪は、肩につかないまでもずいぶんと伸びたように思えた。
報われない恋。
祥子は、福山さんに、
俺は、萌子に、
そして、萌子は…きっとまだ福山さんに。
いや萌子は、報われないわけじゃない。
福山さんは萌子のことが嫌いになって別れたわけじゃない。むしろその逆だ。
でも…。
「…でも。そうだな」
成は呟くように答える。
「今日の話は、萌子には言わない方がいい。
このまま嘘はつき通した方がいいと思う」
成の言葉に、祥子は静かに頷く。
「わかった」
夜の十時過ぎ。凪高サッカー部の新人マネージャーのまりは、海沿いの道を自転車で走っていた。
原因は、コーラだった。まりが部活終わりにと取っておいたコーラが、帰ってきた時にはすでに空になっていた。犯人は三つ上の姉で、まりが怒ると、軽くごめんごめんと謝られた。
「謝るだけなら、警察いらないって」
「でも、謝らないよりマシでしょう？」
「心から悪いと思ってないのに、謝って、でかい態度とられる方がむかつく」
「あんたねぇ、マネージャーになれたからっていい気になってんじゃないわよ」
三つ上の姉も、まりと同じ凪浜高校出身で、サッカー部のマネージャー志望だったらしい。が、姉は呆気なく選考から落とされた。一方のまりは、高い倍率を勝ち抜いてマネージャーの座を手に入れたのだ。
掴みあいになって言い争う姉妹を見て、母親が、
「いい加減になさい。コーラがないなら買ってくればいいじゃない」
と間に入る。それ見たことかと、まりが、
「じゃあお姉ちゃん買ってきてよね」
というと、再び母が、
「二人で行きなさい。夜なんだし、二人仲良くね」
と命令するかのように言った。
結局、まりは姉と近くのコンビニに行くために、自転車を走らせる羽目になったのだ。まりの家は海沿いにあり、一番近いコンビニは、坂を下って海沿いの道路を少し行った場所にあった。
「ちょっとお姉ちゃん！待ってよ！」
まりは前を行く姉にそう声をかける。だが、姉はまだ怒っているのか、まりを気遣う様子もない。海沿いの道にはスピードを出した車が走っており、その脇で まりは車に気をつけながら走っていた。クラクションが鳴り、思わずまりが自転車を止めると、後ろから猛スピードで車がまりのすぐ脇を駆け抜けていく。その 風に舞い上がる髪を抑え、小さくため息をついたところで、海風に乗って女性の声が聞こえてきた。
「萌子になりたいって。
何度も、何度も」
モエコ？
思わずまりは、声のする方へと顔を向ける。すぐ横は海浜公園になっていて、そこには後ろ姿だが一組の男女のカップルが話をしているようだった。
萌子って、萌子さんのこと？
こっそりと公園に入ろうとしたところで、今度は聞き覚えのある声がした。
「俺も。福山さんみたいになりたいって思った」
街頭に照らされたその横顔は、まぎれもなく成のもので、思わずまりは身を固くする。
…どういうこと？
こんな時間に、早坂先輩が萌子さん以外の人と一緒にいるなんて。
その時、相手の女性が成の方を向いた。その横顔は、ついこの前グラウンドに現れた祥子だった。
…どうして？
どうして、早坂先輩と、あの人が一緒にいるの？
それにどういう意味？
あの人が萌子さんになりたくて、
早坂先輩が福山朔哉になりたいなんて。
風に乗って聞こえてくる二人の会話は、車のクラクションもあって途切れがちで何を話しているのかよく聞こえない。ただお互いを見つめあい、柔らかい笑みを交わしているのだけが見える。
もっと近くに行かないと、と思うまりに、姉の声が聞こえてくる。
「まりー？どうしたの？先行くよ」
「え？ちょ、ちょっと待って―」
諦めて自転車に乗りかけたまりだが、次に聞こえてきた成の声に、思わず振り返った。
「今日の話は、萌子には言わない方がいい。
このまま嘘はつき通した方がいいと思う」
…どういうことなんだろう。
萌子さんについてる嘘って、何？
だが自転車を置き、公園に入って行こうとした時、
「まり！いいかげんにしなさいよ。ほんと置いて行くからねっ」
と姉の怒号が車のクラクションよりも大きく響いた。
「わっ、わかったってば！今行くから」
まりはそう答えると、感じた胸騒ぎをそのままに、慌てて自転車に乗り、漕ぎ出した。
お互いに黙り込んだところで、しばらくして祥子が口を開いた。
「…萌子は、知ってるの？成くんが、先輩に言われたこと」
「知らないよ。…話してないし。話すことでもないのかなって」
本当はそうじゃない。
話したら、
そうして、あの人の深い愛に気づいてしまったら、きっと萌子は戻ってこない。
そう思うから、話したくない。
ただの俺のエゴ。
俯く成を見つめながら、祥子はゆっくりと頷く。
「それでいいと思う。
私も、一緒だよ。先輩に頼まれたこと、萌子には言わない。
わかってるの。先輩の気持ちは。
振られたし、恋人のふりだって、それきりだってわかって引き受けた。それ以上は、何も起きないって。
だけど、どうしても、好きなの。忘れられないの」
恋人になりたくて告白したわけじゃない。
ただあの人の記憶に残りたくて、
私みたいにあの人を見ていた女の子がいたことを知ってもらいたくて、告白をした。
キラキラ輝いているあの人を好きになったんじゃない。重たくて苦しくて耐えきれないものを、それでもひっそりと抱えているあの人を、好きになったんだって。
それなのに、結局あの人は、私のことは見てくれていない。
それが悔しくて、情けなくて、忘れるつもりが、どんどん忘れられなくなっている。
祥子は流れ落ちた涙を、横を向いて成に見えないようにして拭うと、この前ね、と口を開いた。
「この前先輩と同じ大学の知り合いから、先輩が怪我したって聞いて。いても立ってもいられなくて、大学に行ってみたの。
でも言われちゃった。ファンの子には、連絡先は教えられないって。
そうなんだよね。私と先輩って、結局何でもなくて、ただの先輩と後輩以下なの。
そう思ったら悲しくなっちゃって。逃げるように戻ってきた駅で、成くんとすれ違ったの。
いっそ萌子に頼みこんで聞こうかとも思った。でもそうしたら、卒業式のことは誰にも言わないってした先輩との約束を破ることになるから、私―」
「萌子は知らないよ。福山さんの連絡先」
成の言葉に、思わず祥子は顔を上げる。成は、気まずそうに答えた。
「福山さんに頼まれたんだ。でも俺は知ってるから、今度教えるよ。祥子に」
「いいの？」
成は頷いた。いっそのこと、誰かに渡してしまえば、気が楽になれると思った。
「それじゃ、帰ろうか」
立ち上がった成に、祥子はゆっくりと首を振る。
「私…もう少しここにいる。海を、見ていたいの」
そう言って成を見送るように手を振る祥子を見て、成は小さく息を吐くと、さっきまで座っていたベンチにまた腰を下ろした。
「女の子一人じゃ危ないよ。それじゃ、俺ももう少しいる」
成の言葉に、祥子はくすくすと笑った。
「成くんてね、やっぱりそうだ」
やっぱり？と首を傾げる成に、祥子は答える。
「初めて見かけたとき思ったの。この人は、一緒に海を見ていたい人だって」
その時強く風が吹き荒れた。だが次の瞬間、ほんの数秒だけ風がぱたりと止む。
『…このまま、時が止まってくれたらな…』
そう萌子に言われたことを、ふいに成は思い出した。一年の頃だから、あれからもう二年も経つ。その間に、色んな出来事があった。本当に、いろんな事が。
あの時と今とでは、少しは萌子は幸せなんだろうか。
それとも…？
底なしのように暗い夜の海を見ている成に、祥子がふいに口を開く。
「私…諦めないで頑張ろうと思う。先輩のこと」
祥子はそう言うと、くるりと振り返って、成を指さした。
「だから、成くんはしっかり萌子のこと捕まえてて。ね？」