Maybe Blue 第三部 誰かのために
薫風4
「萌子っ」
呼ばれて振り返ると、グラウンドの片隅に祥子が立っていた。放課後の部活の時間。部に所属していない祥子なら、下校しているはずの時間だ。萌子は石橋がこの場にいないことを確認すると、祥子に駆け寄って行った。
「どうしたの？祥子。珍しいね」
うんと言い、祥子は微笑む。
「教室で勉強してたんだけど、元気な声が聞こえてきて。
何だか勉強してるのがばからしくなっちゃって。で、息抜き」
一般受験で四大を受ける祥子は、去年から塾にも通っている。大きく伸びをして、祥子はグラウンドに視線を走らせた。
「足の具合はどう？」
「うん順調。もうあと二、三日ってところかな」
全治二週間とは言われたものの、それほどはかからなさそうだった。
その時グラウンドから萌子にお呼びがかかる。どうやら、二年生が怪我をしたらしい。
「ごめん、私行くね」
萌子はそう言って、祥子に大きく手を振った。残された祥子は、ゆっくり歩いて行く萌子の背中を見つめていたが、再び大きく伸びをすると、踵を返して校舎へと戻って行った。
「川瀬先輩。あの人、誰ですか？あの、萌子さんと話してた人」
少し離れたところでスコアを付けてた一年生マネージャーの大野まりはそう言って、グラウンドから消えていく祥子を指さした。
まりの隣でストレッチをしていた厳己は、振り返ってその姿を確認して答える。
「萌子の友達だよ。同じクラスの菅原祥子」
スガワラショウコ、と名前を繰り返すまりに、厳己は笑いかける。
「知ってる？」
まりは中等部あがりの内部生だから、その伝手で祥子を知っていたとしてもおかしな話ではない。しかしまりは首を振った。
「いいえ。でも名前聞いたことがあるような…」
「ああ、それはきっと、今年の卒業式のことだよ」
「卒業式？」
「ＯＢの福山朔哉先輩って知ってる？」
厳己の問いかけに、まりは興奮気味に答えた。
「そりゃあもう！中等部でも人気ありましたもんっ」
まりの反応を見て、厳己はくすりと笑いながら、これから自分が口にしようとしていることが、このサッカー部においては禁句に近い状態になっていることを思い出し、少し声をひそめて言った。
「その福山さんと、卒業式の日一緒に学校を出て行ったんだ。彼女」
「えっ」
まりはそう叫ぶと、思い切り後ろを振り返った。まりは今年の卒業式、このグラウンドで何が起こったのか、聞いている。
祥子はグラウンドの片隅を、堂々と歩いている。
まるで、自分は何も悪いことなどしていないとでも言うように。
「…私、あの人きっと嫌いです」
小さな声で、だがはっきりとそう言うと、まりは声をかけてきた厳己を無視して、グラウンドを歩いて行った。
「おい、新田！ボケっとしてんなよっ」
ケンに背中をどつかれて、慌てて樹生は目の前に転がっているボールに走って行くと、そのボールを蹴った。無人のゴールにボールは突き刺さったものの、樹生はその様子を確認することなく、またよそ見をしている。
「次俺なんだからっ、早くどけっ」
ケンにそう言われて、樹生は追い立てられるように列の後ろに再び並ぶ。それでも視線の先には、グラウンドの片隅を歩いている祥子がいた。萌子と話していた祥子は、そのまま一人で帰るようだ。
自分の番が終わり、樹生の後ろに再び並んだケンを捕まえ、樹生は尋ねる。
「あれ、誰すか？」
「誰って菅原祥子だよ。名前くらいお前も知ってるだろ？」
その先は聞かなくてもわかる。
卒業式の日、朔哉の新しい恋人として登場した女子生徒だ。
だが樹生が驚いた理由はそれだけではない。
昨日、駅で見かけた成と一緒にいた女性。後姿だけで確信は持てないが、祥子にすごく似ていた気がした。
でもどうして朔哉先輩の新しい彼女が、成さんと仲良さそうに歩いてて、でもって萌子さんとも話してるわけ？
頭が混乱したままに、樹生は浮かんだことをそのまま口に出して尋ね続けた。
「なんで、萌子さんと話してるわけ？仲も良さそうだったし」
「そりゃ友達だからだろ。クラスでも仲いいぞ」
ケンの答えに、樹生は思わず声を上げる。
「友達？朔哉先輩のこと、萌子さんから奪った女なのに？」
「お前の口からそれが出るとはな。
まあ萌子も吹っ切れたってことじゃねぇの？
それに今の萌子には、成っていうお前の大好きな先輩がいるわけだし。
お前の思惑通りの展開だろ？あ、ほらお前の番だぞ」
ケンに背中を押され、よろける様にして前に歩きだした樹生の前に、パスされたボールが転がってきた。慌てて蹴った足ではボールの芯を捉えることができずに、ボールはゴールポストを大きく外して飛んでいく。
「ばかやろっ、どこに蹴ってんだ！」
パスを出していた和美が怒鳴り声をあげた。すみません、と頭を下げて樹生は飛んで行ったボールを追いかけた。
いくら萌子だって、無理だよね。
うん、無理無理。
…でも。
そう考えながら少し先で動いている萌子を見ていた美都は、その萌子が自分の方に向かってくるのに気づき、慌てて広げていた消毒液やガーゼを、箱に戻す。バタバタやっているうちに萌子がやってきて、美都に尋ねた。
「美都、そこにテーピングない？」
「ぇっ？えっと…あ。ない、から、部室かな」
「そう。ありがとう」
萌子はそう答えると、すっと美都の脇を通り抜けた。どうやら部室までテーピングを取りに行くらしい。つられるようにして、美都は振り返って萌子の背中を見つめる。
と、突然萌子が足を止めて振り返った。
「ねえ、美都。私、背中に何か張り紙でもついてるの？」
「へ？ううん、別に」
「それじゃ顔に何かついてる？」
萌子に心を見透かされるほどじっと見つめられて、美都は慌ててううんと大きく首を振った。
「そう、ならいいけど。…もしかして、何か話があるとか？」
美都はびっくりしたように目を見開くと、慌しく首を左右に振る。
「ううんっ、別に、ない」
「そう。…わかった」
そう言って萌子は歩き出す。だが、その背中には、美都の視線を強く感じていた。
話はないと言ってはいたし、何かあるなら、もう一度言ってくれるはずだ。
萌子はそう信じて、振り返りはしなかった。
篤志はグラウンドへと急いでいた。放課後、進路のことで担任に呼び出されたため、部活には遅れての参加だった。慌てて校舎を飛び出して、グラウンドへと 続く角を曲がったところで、突然現れた人影に、篤志は驚きながら体を倒す。相手も慌てて篤志を避けたものの、僅かに肩がぶつかりあった。
「ごめん」
「ごめんなさい」
お互いにそう言ったところで、相手を見て篤志はあっと声をあげそうになる。祥子も、同じように篤志の顔を見て、少し息をのんだのがわかった。篤志は祥子と話したことはない。が、お互いにそれとなく面識があるということなのだろう。
朔哉さんから、俺のこと聞いてるとか？
だが祥子は、軽く頭を下げると、校舎へと戻って行く。慌てて去っていくようなその背中を見て、思わず篤志は声をかけた。
「あの…さ。朔哉さん、元気？」
足を止め、少ししてから祥子が振り返る。その表情からは何も読み取れず、篤志は笑顔を作って尋ねた。
「全然こっちに連絡くれないからさ。心配してたって伝えてよ」
実際にも、朔哉は寮にすら連絡を入れていない。連絡先は聞いているのだから、篤志から連絡をすればいいだけなのかもしれないが、心にひっかかることがあ る以上、連絡をできずにいた。そして、その『ひっかかること』の要因の一人が、目の前にいる。にこやかに言った篤志に、祥子は小さく頷いて答えた。
「わかった。でも、今怪我してるから」
「怪我？」
「そう。でもそんなにひどくはないって」
わざとらしいくらいに声をあげた為か、祥子は篤志を落ち着かせるように穏やかに言った。篤志は、大きく肩をなで下ろすようにして、答える。
「よかった。それじゃ」
篤志がそう言ってグラウンドへと顔を向けると、背後からため息が聞こえた気がした。振り返り、歩き始めた祥子の背中を、篤志はじっと見つめる。
何だ。知ってるんだ、朔哉さんの怪我のこと。
だとしたらやっぱり、二人は付き合っているのかもしれない。
つまりは、俺の深読みのしすぎなのかもしれない。
そうは思うものの、篤志の視線はなかなか祥子から離れられなかった。
和美が他の部員たちと珍しく寄る所があるとかで、今日の美都は一人で帰っていた。
いつもより少し早い時間だし、せっかくだからと街を歩いていると、「あ」という大きな声がして、美都は振り返った。そこには前に会った和美の中学校の同 級生がいた。和美もいないし、美都は気まずいと思いながらも、無視をするわけにもいかずに、頭を下げる。すると、向こうも同じように頭を下げて、美都のと ころにやってきた。
「この前、北内と一緒にいた子だよね」
美都は無言で頷く。怯えている美都とは対照的に、彼女・森田は親しそうに美都に話しかけた。
「この前、ごめんね。北内と会うの久しぶりだったからさ、ちょっと盛り上がっちゃって。あ、うちら中学の同級生なんだ。あ、北内から聞いてるか」
正確には相手はアミのことを美都が聞きだしたわけだが、和美は答えたのだから結果は同じだと、美都は小さく頷く。すると、森田は意外だという表情を見せた。
「やっぱり、北内変ったんだね。中学の時は、自分のこと全然話さないし、超扱いづらい奴だったのに」
その言い方に、美都は嫉妬を覚えて思わず言い返していた。
「今は、そんなことないわ。…アミさんのことだって、聞いてる」
すると森田はますます驚いたという表情をしてから、ははっと笑った。
「やっぱ、つきあってるんだ。あいつ否定してたけど、彼女なんでしょ？」
美都はゆっくりと頷く。なるべく自信たっぷりにと思うが、うまくできた自信はない。
「…そっか、聞いたんだ。アミのこと」
森田はそう呟くと、少し声のトーンを落として答えた。
「つきあったのは、一カ月くらいだったけど。愛海はほんと北内のこと好きだったからさ。この前、愛海が今の彼氏と別れた時に、北内のこと気にしてたからさ。どうしてるのかなって。そんな時に偶然北内に会ったからさ、驚いたんだよ」
その話に、美都は何も答えられなかった。
やっぱり。
ただのクラスメートなんかじゃなかった。
黙り込む美都に、森田は「北内によろしく」とだけ言うと、そのまま笑顔で去って行った。
その日の夜。
「亮子ー、待ってろよー今から会いに行くからなー」
夕食も食べ終わり、いつもの電話タイムと電話へと手を伸ばしかけたケンの手を、篤志が掴む。
「何だよ、アッチ」
「ケン、昨日も一時間以上長電話したろ？」
「数分の誤差だ」
「立派な寮の規則違反だぞ」
「見逃してくれよ、なあアッチ。だいたい、俺が使う以外で、誰が電話使うんだよ」
「お前が使ってるから、皆使えなくなってるんだろう？」
「な、頼むよアッチ」
そう頼みながら掴まれていない方の手をケンは受話器へと伸ばす。が、直前でその手も篤志が掴んだ。
「だーめっ」
両手を掴んだ状態で睨みあう二人の間で、その時電話が突然鳴った。
「おっ、ほらっ、亮子からだって。あいつ待ち切れなくてかけてきたんだよ」
「じゃないかもしれないだろっ、ああっ成！電話出てくれよ」
篤志はちょうど通りかかった成に声をかける。戸惑った成だったが、腕が絡み合っている二人を見て、何も言わずに電話に出た。
「はい」
ケンが必死の形相で、成に「亮子だろう？」と聞いてくる。受話器からは、女性の声が聞こえてきた。
「…もしかして、成くん？私よ、私。菅原祥子」
その声を聞いて、成はケンに違うと首を振る。ガクッとするケンの肩を篤志が叩いて、外で電話してくるようにと勧めている。
「成くん？」
不安そうな声が受話器から聞こえてきて、お金を取りに階段を上って行くケンと、一仕事終えて家に戻って行く篤志を見ていた成は慌てて電話口で答えた。
「ああ、そうだよ。どうかした？祥子」
すると、よかったと安堵の息をつく祥子の声が聞こえてきた。
「…今、暇？
ちょっと、出てこれない？アルジャーノンの前にいるの」
寮にある自転車を借りれば、十分ほどの距離だ。今は九時過ぎで、門限までには十分に戻ってこれる。
「わかった。十分くらいで行くから待ってて」
樹生はちょうど、風呂に入ろうと下におりてきたところだった。
階段の下から、間違いなく成の声が聞こえていて、樹生はまるで主人を見つけた仔犬のように階段を駆け降りようとした。だが、次に聞こえてきた成の声に、思わず階段に身を潜めた。
「どうかした？祥子」
祥子？
菅原…祥子？
だがそんな樹生の疑問に成が答えることもなく、一度頷いた後に、成は答えた。
「十分くらいで行くから待ってて」
逢引き？
もしかして、まさか？
慌てて成を引き留めようとした樹生だが、階段を降りようとしたところでケンに首根っこを掴まれた。
「おい新田。小銭持ってねぇ？公衆電話使いたいんだけど、細かいのなくて。貸してくれよ」
「え？ないっすよ」
「何だよー、お前使えないなあ。それじゃ、イズにでも聞いてみるか」
うるさいんだよ、そんなことより俺にはやらなきゃならないことがあるんだ。
そう言い返そうとしたところで、玄関のドアがバタンと閉まる音がした。
「ん？誰か買い出しか？」
ケンはそう呑気に答えている。
誰かじゃなくて成さんだし、買い出しじゃなくて逢引きだ。
慌てて追いかけようとした樹生の脇を、すたすたと知朗が通り抜ける。
「悪いなミッキー。風呂は俺が先に入る」
「えっ？あっ」
その時、外から自転車のベルの音が僅かに聞こえた。
もう行っちまったか。
行先はわからなかったから、追いかけることもできない。
少しして、風呂のドアが閉まる音もする。
樹生は大きくため息をつくと、そのまま階段に座り込んだ。
萌子は便箋を取り出した。
そしてペンを手に取り、ゆっくりと書く。
『拝啓、福山朔哉様』
少し悩んでから、そのまま続きを綴る。
『さよなら』
たった四文字の言葉。
けれど、なかなか書くことのできなかった言葉。
自分で書いたその文字をしばらく見つめていた萌子だったが、思い立ったように折りたたむと封筒に入れた。これでよかったんだろうかと、一瞬動きが止まる。が、すぐに引出しを開けると、今まで書き綴っていただけの手紙と一緒に輪ゴムでまとめる。
最近はもう、朔哉に手紙を書くこともなくなっていた。
出せない手紙を、いつまでも持っている理由はない。だから怪我が治ったら、手紙を捨てようと思っていたのだ。
たぶん、成とはうまくやっていける。そう思う。
今朝も、そして帰りも、成は萌子を送ってくれた。もうほぼ怪我は治っているけれど、それでも成はきっと傍にいてくれる。
今日の帰り、二人が歩いていると、突然クラクションの音がして、車がスピードも落とさずに住宅街を走ってきた。突然のことで身をすくめてしまった萌子の腕を、成が強く引っ張ってくれたから、問題はなかったけれど、すぐ脇を車が走りぬけ、しばし萌子は放心状態になった。
「大丈夫？」
萌子の腕を掴んだまま、成が尋ねる。
「うん」
そう答えると、成は萌子の腕から手を離そうとした。咄嗟に萌子は離れそうになった成の手に、自分の手を絡める。静かに成が息をのむのがわかった。いつも ならそんな時、萌子は謝りながらその手を離していただろう。だがこの時は、離してはいけない気がした。離したくないと思った。萌子は何も言わずに成の手を 強く握る。成は、それに応えるように握り返すことはなかったが、それでも手を離すことなく、歩き始めた。それが、成の気持ちなのだと萌子は思った。
私のことを好きかどうかはわからないけど、成は私の傍にいてくれようとしている。
そんな成に相応しくなるためにも、これはもう捨てなきゃいけない。
しかし、朔哉宛の手紙の束をいざゴミ箱に捨てようとしたところで、萌子はまた躊躇した。
本当にいいのだろうか。
もう自分は朔哉を頼ることはないのだろうか。
それでも萌子は今日の成の手の温かさを思い出すと、えいっと思い切ってゴミ箱に投げ入れた。バサッと音がして、手紙の束はゴミ箱の中に消えていく。
しばらくはそのゴミ箱を見つめていた萌子だったが、部屋を出て行こうとして、ふとドアの前で足を止めた。そして、振り返ると、ゴミ箱に手を伸ばし、今さっき捨てたばかりの手紙の束を取り出す。
ゴミ箱が満杯になるから、ゴミの日に捨てよう。
それまでは、まだ…。
そしてその手紙の束を、元あった引き出しに戻す。
結局、手紙が一通増えただけだった。
アルジャーノンの前を通りかかると、すぐに祥子は見つかった。
祥子の希望で、成は少し歩いたところの海浜公園へと向かう。
時間も時間なためか、公園は静かで、他に人はいなかった。祥子をベンチに座らせると、成は買ったジュースの一つを祥子に渡した。祥子はそれを受け取ったものの、なかなか話しだそうとしない。
「悩みって、福山さんのことだろ？」
切り出したのは成だった。その質問に、祥子は自嘲気味に微笑む。
「成くんに相談できるようなことじゃないのにね」
私ね…と言って、祥子は立ち上がる。
「皆に嘘、ついてるの。
本当は、福山先輩とつきあってなんかないの。先輩は、たぶん私の顔なんかもう覚えてないんじゃないのかな」
そう言って振り返った祥子は、成の顔を見て僅かに目を見開いた。
「驚かないの？」
成はゆっくりと頷く。
「何となく、そうじゃないかなって思ってたんだ。
そう言う風に、福山さんに頼まれたんじゃないかって」
祥子の表情が強張ったものに変わり、自分の言ったことが間違っていないのだと成は気づく。
二人はそのまましばらく無言で見つめ合っていた。
呼ばれて振り返ると、グラウンドの片隅に祥子が立っていた。放課後の部活の時間。部に所属していない祥子なら、下校しているはずの時間だ。萌子は石橋がこの場にいないことを確認すると、祥子に駆け寄って行った。
「どうしたの？祥子。珍しいね」
うんと言い、祥子は微笑む。
「教室で勉強してたんだけど、元気な声が聞こえてきて。
何だか勉強してるのがばからしくなっちゃって。で、息抜き」
一般受験で四大を受ける祥子は、去年から塾にも通っている。大きく伸びをして、祥子はグラウンドに視線を走らせた。
「足の具合はどう？」
「うん順調。もうあと二、三日ってところかな」
全治二週間とは言われたものの、それほどはかからなさそうだった。
その時グラウンドから萌子にお呼びがかかる。どうやら、二年生が怪我をしたらしい。
「ごめん、私行くね」
萌子はそう言って、祥子に大きく手を振った。残された祥子は、ゆっくり歩いて行く萌子の背中を見つめていたが、再び大きく伸びをすると、踵を返して校舎へと戻って行った。
「川瀬先輩。あの人、誰ですか？あの、萌子さんと話してた人」
少し離れたところでスコアを付けてた一年生マネージャーの大野まりはそう言って、グラウンドから消えていく祥子を指さした。
まりの隣でストレッチをしていた厳己は、振り返ってその姿を確認して答える。
「萌子の友達だよ。同じクラスの菅原祥子」
スガワラショウコ、と名前を繰り返すまりに、厳己は笑いかける。
「知ってる？」
まりは中等部あがりの内部生だから、その伝手で祥子を知っていたとしてもおかしな話ではない。しかしまりは首を振った。
「いいえ。でも名前聞いたことがあるような…」
「ああ、それはきっと、今年の卒業式のことだよ」
「卒業式？」
「ＯＢの福山朔哉先輩って知ってる？」
厳己の問いかけに、まりは興奮気味に答えた。
「そりゃあもう！中等部でも人気ありましたもんっ」
まりの反応を見て、厳己はくすりと笑いながら、これから自分が口にしようとしていることが、このサッカー部においては禁句に近い状態になっていることを思い出し、少し声をひそめて言った。
「その福山さんと、卒業式の日一緒に学校を出て行ったんだ。彼女」
「えっ」
まりはそう叫ぶと、思い切り後ろを振り返った。まりは今年の卒業式、このグラウンドで何が起こったのか、聞いている。
祥子はグラウンドの片隅を、堂々と歩いている。
まるで、自分は何も悪いことなどしていないとでも言うように。
「…私、あの人きっと嫌いです」
小さな声で、だがはっきりとそう言うと、まりは声をかけてきた厳己を無視して、グラウンドを歩いて行った。
「おい、新田！ボケっとしてんなよっ」
ケンに背中をどつかれて、慌てて樹生は目の前に転がっているボールに走って行くと、そのボールを蹴った。無人のゴールにボールは突き刺さったものの、樹生はその様子を確認することなく、またよそ見をしている。
「次俺なんだからっ、早くどけっ」
ケンにそう言われて、樹生は追い立てられるように列の後ろに再び並ぶ。それでも視線の先には、グラウンドの片隅を歩いている祥子がいた。萌子と話していた祥子は、そのまま一人で帰るようだ。
自分の番が終わり、樹生の後ろに再び並んだケンを捕まえ、樹生は尋ねる。
「あれ、誰すか？」
「誰って菅原祥子だよ。名前くらいお前も知ってるだろ？」
その先は聞かなくてもわかる。
卒業式の日、朔哉の新しい恋人として登場した女子生徒だ。
だが樹生が驚いた理由はそれだけではない。
昨日、駅で見かけた成と一緒にいた女性。後姿だけで確信は持てないが、祥子にすごく似ていた気がした。
でもどうして朔哉先輩の新しい彼女が、成さんと仲良さそうに歩いてて、でもって萌子さんとも話してるわけ？
頭が混乱したままに、樹生は浮かんだことをそのまま口に出して尋ね続けた。
「なんで、萌子さんと話してるわけ？仲も良さそうだったし」
「そりゃ友達だからだろ。クラスでも仲いいぞ」
ケンの答えに、樹生は思わず声を上げる。
「友達？朔哉先輩のこと、萌子さんから奪った女なのに？」
「お前の口からそれが出るとはな。
まあ萌子も吹っ切れたってことじゃねぇの？
それに今の萌子には、成っていうお前の大好きな先輩がいるわけだし。
お前の思惑通りの展開だろ？あ、ほらお前の番だぞ」
ケンに背中を押され、よろける様にして前に歩きだした樹生の前に、パスされたボールが転がってきた。慌てて蹴った足ではボールの芯を捉えることができずに、ボールはゴールポストを大きく外して飛んでいく。
「ばかやろっ、どこに蹴ってんだ！」
パスを出していた和美が怒鳴り声をあげた。すみません、と頭を下げて樹生は飛んで行ったボールを追いかけた。
いくら萌子だって、無理だよね。
うん、無理無理。
…でも。
そう考えながら少し先で動いている萌子を見ていた美都は、その萌子が自分の方に向かってくるのに気づき、慌てて広げていた消毒液やガーゼを、箱に戻す。バタバタやっているうちに萌子がやってきて、美都に尋ねた。
「美都、そこにテーピングない？」
「ぇっ？えっと…あ。ない、から、部室かな」
「そう。ありがとう」
萌子はそう答えると、すっと美都の脇を通り抜けた。どうやら部室までテーピングを取りに行くらしい。つられるようにして、美都は振り返って萌子の背中を見つめる。
と、突然萌子が足を止めて振り返った。
「ねえ、美都。私、背中に何か張り紙でもついてるの？」
「へ？ううん、別に」
「それじゃ顔に何かついてる？」
萌子に心を見透かされるほどじっと見つめられて、美都は慌ててううんと大きく首を振った。
「そう、ならいいけど。…もしかして、何か話があるとか？」
美都はびっくりしたように目を見開くと、慌しく首を左右に振る。
「ううんっ、別に、ない」
「そう。…わかった」
そう言って萌子は歩き出す。だが、その背中には、美都の視線を強く感じていた。
話はないと言ってはいたし、何かあるなら、もう一度言ってくれるはずだ。
萌子はそう信じて、振り返りはしなかった。
篤志はグラウンドへと急いでいた。放課後、進路のことで担任に呼び出されたため、部活には遅れての参加だった。慌てて校舎を飛び出して、グラウンドへと 続く角を曲がったところで、突然現れた人影に、篤志は驚きながら体を倒す。相手も慌てて篤志を避けたものの、僅かに肩がぶつかりあった。
「ごめん」
「ごめんなさい」
お互いにそう言ったところで、相手を見て篤志はあっと声をあげそうになる。祥子も、同じように篤志の顔を見て、少し息をのんだのがわかった。篤志は祥子と話したことはない。が、お互いにそれとなく面識があるということなのだろう。
朔哉さんから、俺のこと聞いてるとか？
だが祥子は、軽く頭を下げると、校舎へと戻って行く。慌てて去っていくようなその背中を見て、思わず篤志は声をかけた。
「あの…さ。朔哉さん、元気？」
足を止め、少ししてから祥子が振り返る。その表情からは何も読み取れず、篤志は笑顔を作って尋ねた。
「全然こっちに連絡くれないからさ。心配してたって伝えてよ」
実際にも、朔哉は寮にすら連絡を入れていない。連絡先は聞いているのだから、篤志から連絡をすればいいだけなのかもしれないが、心にひっかかることがあ る以上、連絡をできずにいた。そして、その『ひっかかること』の要因の一人が、目の前にいる。にこやかに言った篤志に、祥子は小さく頷いて答えた。
「わかった。でも、今怪我してるから」
「怪我？」
「そう。でもそんなにひどくはないって」
わざとらしいくらいに声をあげた為か、祥子は篤志を落ち着かせるように穏やかに言った。篤志は、大きく肩をなで下ろすようにして、答える。
「よかった。それじゃ」
篤志がそう言ってグラウンドへと顔を向けると、背後からため息が聞こえた気がした。振り返り、歩き始めた祥子の背中を、篤志はじっと見つめる。
何だ。知ってるんだ、朔哉さんの怪我のこと。
だとしたらやっぱり、二人は付き合っているのかもしれない。
つまりは、俺の深読みのしすぎなのかもしれない。
そうは思うものの、篤志の視線はなかなか祥子から離れられなかった。
和美が他の部員たちと珍しく寄る所があるとかで、今日の美都は一人で帰っていた。
いつもより少し早い時間だし、せっかくだからと街を歩いていると、「あ」という大きな声がして、美都は振り返った。そこには前に会った和美の中学校の同 級生がいた。和美もいないし、美都は気まずいと思いながらも、無視をするわけにもいかずに、頭を下げる。すると、向こうも同じように頭を下げて、美都のと ころにやってきた。
「この前、北内と一緒にいた子だよね」
美都は無言で頷く。怯えている美都とは対照的に、彼女・森田は親しそうに美都に話しかけた。
「この前、ごめんね。北内と会うの久しぶりだったからさ、ちょっと盛り上がっちゃって。あ、うちら中学の同級生なんだ。あ、北内から聞いてるか」
正確には相手はアミのことを美都が聞きだしたわけだが、和美は答えたのだから結果は同じだと、美都は小さく頷く。すると、森田は意外だという表情を見せた。
「やっぱり、北内変ったんだね。中学の時は、自分のこと全然話さないし、超扱いづらい奴だったのに」
その言い方に、美都は嫉妬を覚えて思わず言い返していた。
「今は、そんなことないわ。…アミさんのことだって、聞いてる」
すると森田はますます驚いたという表情をしてから、ははっと笑った。
「やっぱ、つきあってるんだ。あいつ否定してたけど、彼女なんでしょ？」
美都はゆっくりと頷く。なるべく自信たっぷりにと思うが、うまくできた自信はない。
「…そっか、聞いたんだ。アミのこと」
森田はそう呟くと、少し声のトーンを落として答えた。
「つきあったのは、一カ月くらいだったけど。愛海はほんと北内のこと好きだったからさ。この前、愛海が今の彼氏と別れた時に、北内のこと気にしてたからさ。どうしてるのかなって。そんな時に偶然北内に会ったからさ、驚いたんだよ」
その話に、美都は何も答えられなかった。
やっぱり。
ただのクラスメートなんかじゃなかった。
黙り込む美都に、森田は「北内によろしく」とだけ言うと、そのまま笑顔で去って行った。
その日の夜。
「亮子ー、待ってろよー今から会いに行くからなー」
夕食も食べ終わり、いつもの電話タイムと電話へと手を伸ばしかけたケンの手を、篤志が掴む。
「何だよ、アッチ」
「ケン、昨日も一時間以上長電話したろ？」
「数分の誤差だ」
「立派な寮の規則違反だぞ」
「見逃してくれよ、なあアッチ。だいたい、俺が使う以外で、誰が電話使うんだよ」
「お前が使ってるから、皆使えなくなってるんだろう？」
「な、頼むよアッチ」
そう頼みながら掴まれていない方の手をケンは受話器へと伸ばす。が、直前でその手も篤志が掴んだ。
「だーめっ」
両手を掴んだ状態で睨みあう二人の間で、その時電話が突然鳴った。
「おっ、ほらっ、亮子からだって。あいつ待ち切れなくてかけてきたんだよ」
「じゃないかもしれないだろっ、ああっ成！電話出てくれよ」
篤志はちょうど通りかかった成に声をかける。戸惑った成だったが、腕が絡み合っている二人を見て、何も言わずに電話に出た。
「はい」
ケンが必死の形相で、成に「亮子だろう？」と聞いてくる。受話器からは、女性の声が聞こえてきた。
「…もしかして、成くん？私よ、私。菅原祥子」
その声を聞いて、成はケンに違うと首を振る。ガクッとするケンの肩を篤志が叩いて、外で電話してくるようにと勧めている。
「成くん？」
不安そうな声が受話器から聞こえてきて、お金を取りに階段を上って行くケンと、一仕事終えて家に戻って行く篤志を見ていた成は慌てて電話口で答えた。
「ああ、そうだよ。どうかした？祥子」
すると、よかったと安堵の息をつく祥子の声が聞こえてきた。
「…今、暇？
ちょっと、出てこれない？アルジャーノンの前にいるの」
寮にある自転車を借りれば、十分ほどの距離だ。今は九時過ぎで、門限までには十分に戻ってこれる。
「わかった。十分くらいで行くから待ってて」
樹生はちょうど、風呂に入ろうと下におりてきたところだった。
階段の下から、間違いなく成の声が聞こえていて、樹生はまるで主人を見つけた仔犬のように階段を駆け降りようとした。だが、次に聞こえてきた成の声に、思わず階段に身を潜めた。
「どうかした？祥子」
祥子？
菅原…祥子？
だがそんな樹生の疑問に成が答えることもなく、一度頷いた後に、成は答えた。
「十分くらいで行くから待ってて」
逢引き？
もしかして、まさか？
慌てて成を引き留めようとした樹生だが、階段を降りようとしたところでケンに首根っこを掴まれた。
「おい新田。小銭持ってねぇ？公衆電話使いたいんだけど、細かいのなくて。貸してくれよ」
「え？ないっすよ」
「何だよー、お前使えないなあ。それじゃ、イズにでも聞いてみるか」
うるさいんだよ、そんなことより俺にはやらなきゃならないことがあるんだ。
そう言い返そうとしたところで、玄関のドアがバタンと閉まる音がした。
「ん？誰か買い出しか？」
ケンはそう呑気に答えている。
誰かじゃなくて成さんだし、買い出しじゃなくて逢引きだ。
慌てて追いかけようとした樹生の脇を、すたすたと知朗が通り抜ける。
「悪いなミッキー。風呂は俺が先に入る」
「えっ？あっ」
その時、外から自転車のベルの音が僅かに聞こえた。
もう行っちまったか。
行先はわからなかったから、追いかけることもできない。
少しして、風呂のドアが閉まる音もする。
樹生は大きくため息をつくと、そのまま階段に座り込んだ。
萌子は便箋を取り出した。
そしてペンを手に取り、ゆっくりと書く。
『拝啓、福山朔哉様』
少し悩んでから、そのまま続きを綴る。
『さよなら』
たった四文字の言葉。
けれど、なかなか書くことのできなかった言葉。
自分で書いたその文字をしばらく見つめていた萌子だったが、思い立ったように折りたたむと封筒に入れた。これでよかったんだろうかと、一瞬動きが止まる。が、すぐに引出しを開けると、今まで書き綴っていただけの手紙と一緒に輪ゴムでまとめる。
最近はもう、朔哉に手紙を書くこともなくなっていた。
出せない手紙を、いつまでも持っている理由はない。だから怪我が治ったら、手紙を捨てようと思っていたのだ。
たぶん、成とはうまくやっていける。そう思う。
今朝も、そして帰りも、成は萌子を送ってくれた。もうほぼ怪我は治っているけれど、それでも成はきっと傍にいてくれる。
今日の帰り、二人が歩いていると、突然クラクションの音がして、車がスピードも落とさずに住宅街を走ってきた。突然のことで身をすくめてしまった萌子の腕を、成が強く引っ張ってくれたから、問題はなかったけれど、すぐ脇を車が走りぬけ、しばし萌子は放心状態になった。
「大丈夫？」
萌子の腕を掴んだまま、成が尋ねる。
「うん」
そう答えると、成は萌子の腕から手を離そうとした。咄嗟に萌子は離れそうになった成の手に、自分の手を絡める。静かに成が息をのむのがわかった。いつも ならそんな時、萌子は謝りながらその手を離していただろう。だがこの時は、離してはいけない気がした。離したくないと思った。萌子は何も言わずに成の手を 強く握る。成は、それに応えるように握り返すことはなかったが、それでも手を離すことなく、歩き始めた。それが、成の気持ちなのだと萌子は思った。
私のことを好きかどうかはわからないけど、成は私の傍にいてくれようとしている。
そんな成に相応しくなるためにも、これはもう捨てなきゃいけない。
しかし、朔哉宛の手紙の束をいざゴミ箱に捨てようとしたところで、萌子はまた躊躇した。
本当にいいのだろうか。
もう自分は朔哉を頼ることはないのだろうか。
それでも萌子は今日の成の手の温かさを思い出すと、えいっと思い切ってゴミ箱に投げ入れた。バサッと音がして、手紙の束はゴミ箱の中に消えていく。
しばらくはそのゴミ箱を見つめていた萌子だったが、部屋を出て行こうとして、ふとドアの前で足を止めた。そして、振り返ると、ゴミ箱に手を伸ばし、今さっき捨てたばかりの手紙の束を取り出す。
ゴミ箱が満杯になるから、ゴミの日に捨てよう。
それまでは、まだ…。
そしてその手紙の束を、元あった引き出しに戻す。
結局、手紙が一通増えただけだった。
アルジャーノンの前を通りかかると、すぐに祥子は見つかった。
祥子の希望で、成は少し歩いたところの海浜公園へと向かう。
時間も時間なためか、公園は静かで、他に人はいなかった。祥子をベンチに座らせると、成は買ったジュースの一つを祥子に渡した。祥子はそれを受け取ったものの、なかなか話しだそうとしない。
「悩みって、福山さんのことだろ？」
切り出したのは成だった。その質問に、祥子は自嘲気味に微笑む。
「成くんに相談できるようなことじゃないのにね」
私ね…と言って、祥子は立ち上がる。
「皆に嘘、ついてるの。
本当は、福山先輩とつきあってなんかないの。先輩は、たぶん私の顔なんかもう覚えてないんじゃないのかな」
そう言って振り返った祥子は、成の顔を見て僅かに目を見開いた。
「驚かないの？」
成はゆっくりと頷く。
「何となく、そうじゃないかなって思ってたんだ。
そう言う風に、福山さんに頼まれたんじゃないかって」
祥子の表情が強張ったものに変わり、自分の言ったことが間違っていないのだと成は気づく。
二人はそのまましばらく無言で見つめ合っていた。