Maybe Blue 第三部 誰かのために
薫風2
「萌子が捻挫？」
寮に帰ってくるなり、そうケンに言われた成はそう声をあげた。湊は入浴中で、部屋には成しかいなかった。
「別に大したことはないって」
そう言ってから、ケンは萌子の言葉を成に伝えるべきか悩んだ。黙り込むケンの肩を掴み、成は次々と質問を浴びせる。
「どうして？」
「ロッカーの上の段ボール取ろうとして、椅子がひっくり返ったらしい」
「捻挫だけ？」
「後から段ボールが落ちてきて来たけど―」
「段ボール？中身は？萌子、大丈夫なのか？」
「中身はコールドスプレーだったらしいけど、由太が庇って萌子は大丈夫だ。由太も打ち身で済んだし、問題ない」
ようやく成は掴んでいたケンの肩から手を離した。掴まれた肩が痛む。ケンはさすりながら、肩をなで下ろしている成を見つめながら、口を開いた。
「そんでもってさ、俺からのアドバイス」
途端に成の表情が変わる。
「ケンのアドバイスはもう受けないよ」
「この前は悪かったと思ってる。だから、そのお詫びだ。
その、よく言うだろ？女は優しい男が好きだって。だけど、そういう奴は、本当に優しい男なんかに見向きもしない。
結局言いたいのは、自分だけに優しい男ってわけ」
「で？」
だから何？とでも言いたそうな成に、ケンはだからさ、と落ち着かせるようにゆっくりと話した。
「だからお前もさ、萌子にだけ優しくしてやれよ。
萌子のことだけ見て、いつも萌子の側にいてやれ。
たまに褒めてやること忘れんな。女ってのは、そう言うのに敏感だから。
あいつだってさ…辛いんだぜ。考えても見ろよ、いきなり振られて、それからまだ一か月ちょっとなんだから、さ。
必死に忘れようとしてるんだ、福山さんのこと」
必死だと呟いた萌子の言葉がケンの頭を過る。ケンは、萌子が必死になって朔哉のことを忘れようとしているのだと思った。
黙り込んでいる成を見て、ケンはフォローするように言った。
「…まあ、お前のできる範囲でいいと思うし、そのうち萌子も忘れて、お前のこと見るようになる。
今は試練の時なんだ、きっと。
お前が耐えて、萌子を待つ時期なんだ」
ケンのその言葉に、だが成は答えることなく、ただ俯いていた。
翌日、朝練前に萌子が体育教官室にいる石橋に怪我のことを伝えると、まず言われた。
「担当チームを変える」
「私できます。マネージャーは選手じゃないし、怪我くらい」
萌子は慌てて言った。それほどの大きな怪我じゃないと思っていた。しかし、石橋はため息をつきながら言う。
「だが、重い荷物は持てんだろう。それに歩くのに時間がかかるとなれば、使い走りもできない。使うこっち側も、お前に気を遣う」
石橋の言葉はどれも正しく、萌子は黙り込んでしまった。その様子を見て、石橋は組んでいた腕を外しながら答えた。
「Ａチームには、小池か椎名のどちらかをつける。空いたチームと一年の指導はお前が担当だ。
それと、今日は新人マネージャーの面接だったな」
「…はい」
押し殺した声で萌子はそう答える。
昨日の混乱で、新人マネージャーのことなどすっかり忘れていたのだ。見透かされたように石橋がくぎを刺す。
「マネージャー候補の方は大丈夫か？朝、小池からには新しいマネージャーはいらないと怒鳴りつけられて、それからずっと睨まれ続けているが」
「…はい、大丈夫です」
部室に行く前に石橋のところに来た萌子は、まだ理香と顔を会わせていない。石橋に対する態度にしても、理香はまだ認めてないのだろう。そんな中で、新しいマネージャーを選び、入部させる。
頭が痛くなりそうだと萌子は思った。そして、任せたぞと言って出て行こうとする石橋に、思わず呟くように言っていた。
「…理香はきっと、戸惑っているだけと思います。新しい人が入って、押しだされるように自分たちが卒業するってことを、頭では分かっていても、まだ遠い先のことだと思ってたというか。
あの…監督は、毎年見ているから、もう慣れていると思いますけど」
萌子の言葉に、石橋は足を止める。そして、深いため息をついて萌子を振り返ることなく答えた。
「毎年三月になると考えるぞ。
こいつらを結局国立に連れていくことができなかった。大事な高校三年間をサッカーにばかり費やせてしまったのにと、いつも後悔する。しなかったのは、一度だけだ。
だが、後悔していても何も始まらない。彼らは卒業し、新入生が入ってくる。
だから、その悔しさを入ってくる新入生を育て上げようとする気持ちに変えた。
それでも、毎年悔しい気持ちになる。いくら経験しても、それに慣れることなどない」
そう言うと、石橋は振り返り、萌子を見据えて言った。
「自分たちの代わりではなく、自分たちの意思を引き継ぐ人間だ。そう思って、選べ」
「萌子、足大丈夫？」
グラウンドに出ると、萌子を見つけた美都が駆け寄ってきた。部員たちはすでに各々のウォーミングアップを終えて、グラウンドの中でボールを蹴り始めてい る。理香はどうやらグラウンド外の仕事をしているらしい。それが、理香の気持ちを表しているような気がして、萌子は更に重たい気持ちになった。
「無理しないでね」
「ありがとう」
準備を始める萌子の隣で、美都は俯いたまま何かを言いだそうとしているようだ。萌子が何？と尋ねると、待ってましたとばかりに美都が顔をあげた。
「あのね、萌子。進路のことなんだけど…」
「何となく、監督から聞いてる」
萌子がそう答えると、美都はふっと肩の力を落とした。
「やっぱり、知ってたんだ」
考えてみれば、卒業後のことをきちんと美都と話すのは初めてだった。
「いつまで？」
「インターハイが終わるまでは、頑張るつもり。萌子は？」
少し考えて、萌子は答える。
「私は…。最後まで、かな」
凪高に入学した時から、萌子の中の最終目標は選手権で優勝することだった。その前に引退するなど、考えたこともなかったのだ。
萌子の答えを聞いて、美都がくすりと笑った。
「変な感じ。卒業まで、まだ一年くらいあるって言うのに」
だがその日は、そう遠い未来のことではない。きっとすぐ来るとは、萌子は口にしなかった。
すっとグラウンドを見つめる萌子を見て、美都はふと思った。
萌子に相談してみようか。あの、アミって人のこと。
「あのね、萌子―」
決心して美都が口を開いた時、正面から萌子を呼ぶ成の姿が見えた。成の声に気づいた萌子は、待つようにと手を軽く上げると、何？と美都に向き直る。
「あ…の」
露骨に見せているわけじゃないが、それでも萌子が成のところに早く行きたいのが、美都にもわかる。そわそわして、美都をちゃんと見ていない。
「…何でも、ない」
そうはいっても、いつもならば萌子は不審に思って、聞いてくるはずだ。
ついさっき、何？って聞いてくれたみたいに。
そう思う美都に反して、萌子は笑顔で答えた。
「そう。なら、いいけど」
そして萌子は成の方に向かって歩き出す。それに気づいた成が、怪我している萌子を気遣ってか慌てて走ってきた。そんな二人を見守りながら、美都は自然と笑顔が消えていくのがわかった。
「知っての通り、沢木が怪我した。回復までの一か月ほど、担当のチーム替えをする。
沢木はＢチーム、Ａチームは椎名だ」
放課後の練習前のミーティングで、石橋がそう告げた途端、集まっていたサッカー部員たちはざわめきだした。
だが一番戸惑ったのは美都だ。
確かに朝練の後、石橋から呼び出され、萌子が怪我でＡチームの担当を外れることは聞いていたが、代わりに担当するのは理香だと思っていたのだ。
「えっ、でもっ」
必死に抗議しようとするが、その声は周りのざわめきにかき消され、石橋にも、
「週末には、遠征試合もある。頼んだぞ、椎名」
と、力強く言われてしまった。
「あ、あのっ」
無理です、私には絶対無理です。
そう言おうとする美都だが、石橋は無視して話を続ける。
「その間、沢木と小池は、一年の教育もしてくれ」
「はい」
萌子は返事をしたものの、理香はぷいと横を向いて返事もしない。
萌子は理香に何とか返事をさせようと思ったが、ふと隣の美都の顔が青ざめていることに気づき、励ましの声をかけた。
「大丈夫よ、和美がいるじゃない」
だが美都は無言で勢いよく頭を左右に振るだけだ。確かに美都はおっとりとしたところや多少抜けているところはあるが、それでも立派にＢチームを担当しているのだから、何も変わらないのだと萌子が言おうとすると、石橋がざわめきを鎮めてから続きを話す。
「それから、今日はマネージャーの面接の日だな。高岡、沢木と小池をフォローしてやれ。椎名は早速Ａチームにつけ」
「えっ」
石橋の言葉に驚いたのは、理香だ。慌てて声を上げる。
「監督！私も普通に仕事しますってば」
「小池は面接だ」
「でもっ―」
「ミーティング終了。練習だ」
石橋は、そう言って手を叩き、部員たちに練習を始めるよう命じる。
理香の頑なな気持ちは、石橋にもちゃんと伝わっているはずだった。
なのに、どうして？
理香の視線の先では、石橋に資料を渡されている萌子が見える。そして、萌子のところに駆け寄ってくる由太の姿も。
呆然と立ち尽くしていると、厳己がタオルを持って駆け寄ってきた。
「理香ちゃん、あのさ―」
だが理香は、厳己を見た瞬間、昨日の一馬の話が頭をよぎった。
『厳己も、一学期が終わるまでだ』
裏切り者。
理香は小さく呟くと、厳己を無視して走り出した。
「え？理香ちゃん？」
どうしたのかという厳己の声が後ろから聞こえてきたが、理香は無視して走り続けた。
裏切り者だよ。
イズミちゃんも、一馬っちも、
新しいマネージャー入れようとしてる萌子もっ。
ベンチで、磨くべきボールを手にしたままで放心状態のようにして佇んでいる美都の隣に座ると、ワンテンポ遅れて気づいた美都が、慌てて立ち上がった。
「理香？！」
そんなに驚くことないじゃん。私はお化けじゃないっての。
尖った気持ちは、治まることなく、むしろその鋭さを増していく。
「何よ、美都。もっと別の仕事しなくていいの？」
ボール磨きも確かにマネージャーの仕事の一つではあるけれど、Ａチームの担当となれば、他にも仕事はたくさんある。
ボール磨きなんか、一年生にやらせればいいのに。
意地悪い気持ちでそう言うと、美都は頷いた。
「今はまだ、引き継ぎも兼ねて萌子がやってくれるって」
「でも萌子は、すぐに面接始めるよ。さっき由太チャンと話してたもん」
あれだけ反対してるのに。
ひどいよ、萌子も、由太ちゃんも。まあ、由太チャンが冷血な奴だってことは、前から知ってたけど。…でも、私の気持ちもわかってくれる奴だと思ってたのに。
そう思いながら、籠から汚れているボールを拾って、ゴシゴシと乱暴に磨き始めた。
そんな理香の様子を見つめながら、美都は言葉をゆっくりと選びながら声をかける。
「あのね、理香。ちゃんと、話した方がいいと思って」
「話？何？」
「私ね…私。行きたい学部があるの」
「美都なら推薦で行けるじゃん」
昨日からこんな話ばかりだと、理香はムッとしながら答える。
どうして皆、先のことばかり考えるんだろう。
どうなるかなんて、その時になってみないとわかんないのに。
だったら今のことだけ考えて、今を楽しんだ方がずっといいに決まってる。
素気なく答えた理香に、でもと美都は話を続ける。
「でもその推薦枠、うちにはないの」
「…美都なら、大丈夫だよ。今のまんまで一般も受かるって。頭いいじゃん」
そう言ってはみたものの、自分でも無理なことを言っている自覚は理香にはあった。だが、一度吐き出した言葉は、取り返しがつかない。
その意識があるからこそ、理香は本当に言いたい言葉は言えなかった。
最後まで、一緒に頑張ろうよ。
その言葉が、真面目な美都をどれだけ縛ってしまうものなのか、理香にはよくわかっていた。
ずっと二年間、一緒に過ごしてきたのだ。この二年間は親よりも一緒にいた時間は長い。だからこそ、何を考えているのか、理香にはわかる。
美都のことも、
萌子のことも。
「ごめん…、今のは言いすぎた」
ほろりと零れ落ちた涙のようにそう呟くと、美都は小さく首を振った。
「わかってる。
私、理香には、すごく感謝してるの。
覚えてる？私たちがこのグラウンドで初めて会った時のこと。
友達がこれなくなって、一人でこのグラウンドに来た時、声掛けてくれたの、理香だったでしょう。
心細くて、やっぱり自分には無理だから帰ろうって思ってた時だったから、すごく嬉しかった。
だからね、一緒にいられる時間は、大事にしたいと思うの」
理香にもわかっていた。
刹那的に今を楽しむことは、今をただ浪費していることに近い。だが時間には限りがある。
そうやって高校生という限られた三年間を、中でも最後の一年間を意識して、大事に過ごすことの方が、何倍も意味のあることじゃないのだろうか、と。
黙り込んだ理香に、美都はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「新しいマネージャーのことも、ごめんね。
萌子が受け入れたの、たぶん私の為と理香の為なの。三人が二人になったら、お仕事大変でしょう？それを気にして私が辞められなくならないようにって、思ってくれたんだと思う」
そうなんだ、萌子はいつもそう。
私より先に、何かに気づいて、大事なことは自分の中だけで答えを見つける。
だけどそれって、秘密主義だからとかじゃない。
余計なことで、私や美都を傷つけたくなかったってだけなんだ。
「椎名ーっ」
グラウンドの奥から、そう副キャプテンの興仁が叫ぶ。
慌てて立ち上がったくせに、自分の方を振り返って立ち止っている美都を見て、理香も立ち上がると、
「…行きなよ、美都。私は、私の仕事しに行くから」
と答えた。
面接会場となったミーティングルームのドアが閉まったところで、小さく息を吐くと萌子は隣に座る由太に尋ねた。
「今の子は？」
「体が弱いのが気になる」
「そうよね。マネージャーって体力勝負なところあるし、あの様子だとご両親には話してないっぽいし。
その前の背の高い子は、どう？マイペースなところがいいかなって思ったんだけど」
正直、ピンと来るような生徒はいなかった。
それでも、なんとなく印象に残った子を、萌子は挙げてみる。
「出る時、ドアノブをつかみ損ねて衝突してたぞ」
「じゃあ、二番目の方の小さい子。見た目は小学生みたいだったけど、はきはきして元気だったじゃない」
「余計な口出しするタイプだ」
だが呆気なく由太はそう言い放つ。
もともと由太は他人にも自分にも厳しいのだ。
小さくため息をつくと、フォローのつもりか由太が尋ねた。
「…次は？」
「今の子で最後よ」
結局二十八人も面接したのに、萌子と由太がいいと思う合格者はいなかったのだ。
「該当者ナシ…か」
ぽつりと呟いた由太に、萌子は腕組みをして答える。
「できれば、それは避けたいんだけど」
あの二人、由太がいいって言ってくれたらよかったのにな。
萌子は手元のリストから、気になった二人の名前をなぞる。だが、完璧主義で、男尊女卑な由太からすると、二人を合格にはしないだろう。
でも誰でも、初めっから完璧な人なんていないのに。
あの子たちなら、それでも頑張ってくれそうだし、サッカーも好きそうだし、一生懸命な感じがするんだけどなあ。
萌子が小さくため息をつこうとしたところで、急にドアが開く。
もしかして、もう一人いたとか？
期待する萌子の前に現れたのは、理香だった。だが、理香は、一歩入ってドアをしめたものの、そこから萌子たちのところにやってこようとしない。
監督が言ったから、仕方なく来たってこと？
萌子が理香の様子を黙って見ていると、俯いていた理香が、すっと顔をあげた。
「私なら、背が高いショートボブのこと、背の小さいポニーテールの子にするけど」
「理香」
萌子の顔が綻ぶ。理香は照れているのか、へへっと小さく笑うと、由太に向かって言った。
「今日はもう帰れって言ったんでしょう？でも、あの二人は、まだ見学してたよ。
他の一年生にも聞いてみたけど、評判悪くないみたいだし」
その声に、萌子はくるっと由太の方を見て、
「二対一、決まりね」
と言った。
仕方ないというように、由太は深くため息をついて、ああと答える。その返事を聞いて、理香が張り切って答えた。
「女のことは女が一番わかってるもんねっ」
そして理香は萌子の前まで歩いてくると、手元の資料を持ち上げて、
「大きい子が小森千鶴ちゃんで、小さい子が大野まりちゃんね。了解っ」
と言い残し、二人に結果を伝えるべく、部屋を出て行った。
二人は石橋の了解も得て、無事マネージャーとして入部することになった。
部員たちに紹介したり、詳しい仕事の説明をしたり、これからのスケジュールの話をしたりして、二人を先に帰した頃には、さすがに萌子も疲れていた。
着替えを終えたところで、ミーティングルームのドアがノックされて、成が顔を出す。
「帰ろう、萌子」
萌子は話をしていた理香と美都にごめんねと言って鞄を掴み、いそいそと成のところへ向かった。ドアの前で振り返り、それじゃあお先にと萌子が二人に声をかけていると、成が無言で萌子の鞄を掴んだ。
「持つよ」
「そんなに重くないし、いいよ」
「いいから」
成はそういうと、鞄を萌子と反対の方向に持ち帰る。そうまでされては、萌子も断る理由がなかった。
昨日の夜から、成はどこかいつもと違う。
萌子が家に帰ってから少しして、成から怪我のことを気遣う電話があった。大丈夫だと言っても心配だといい、朝も迎に行くと萌子の反対を無視して、本当に成はやってきた。その時も、重いからと萌子の鞄を取り上げた。以来、教室でも、成は萌子の側にいて、何かと手を差し伸べてくれている。
怪我の功名、とでも言うのかな。
いつもの成じゃないみたい。
でも…嬉しい。
今も成は、萌子を気遣い、いつもより歩くスピードを落としてくれている。見上げると、その横顔はどこか無表情に近いが、それでも萌子にとっては嬉しいことだった。
『私だって…、必死だよ』
昨日そうケンに言った言葉が、嘘のようだ。
必死で成の側にいようとしていたはずが、どうしてか成の方から萌子の側にいてくれるのだ。
「それじゃ、週末の遠征には萌子は来れないのか」
週末は栃木の方に練習試合の為に遠征することになっていた。翌日は県下で練習試合。黄金週間と言われるこの期間は、例年練習試合で凪浜は忙しくなる。Ａ チームは凪浜にはほとんどおらず、常に練習試合を他校としており、逆にＢとＣチームは、凪浜で練習をすることが多い。去年は県外での試合が多かったが、今 年は県内での試合がほとんどだった。その為、泊まりでの遠征はないにしても、移動時間などを考えると、逆にハードなスケジュールになっていた。
「遠征には美都が参加することになってるから、大丈夫。私は下手についていくと迷惑だろうし。成は、頑張ってきてね」
にっこり笑う萌子に、成も笑顔で答える。
「ああ」
気づけばそこはもう萌子の家の前だった。
もう別れなければならないと思うけれど、もう少しこうしていたいと受け取った鞄を握りしめて、萌子は思った。
「あ、これ。いつも私が持ってるんだけど」
萌子は思い出したように鞄から取り出したものを成に手渡す。それは、赤いお守りだった。
「怪我しないようにね」
成は意地悪く質問する。
「これって昨日も持ってた？」
「うん…あ、ご利益、ないかな」
萌子は自分の足を見つめる。成は笑って、お守りをポケットにしまった。
「いいや。捻挫程度で済んだんだから、ご利益あるんだよ。
ありがとう。肌身離さず、持ってる」
成はそう言うと、手を挙げて歩き出そうとした。思わず萌子は引き留めた。
「ね、成。上がってく？お母さんが会いたがってるんだけど―」
この前のこともあるし、今日の成ならば、会ってくれるかもしれない。
だが萌子の淡い期待は、成の笑顔でかき消された。
「怪我した萌子に無理に気遣いさせたくないし、今日は帰るよ」
「わかった」
数メートル歩いたところで、成は振り返った。
ちょうど萌子が家に入って行くところだった。それを確認して、成はまた向き直り、寮へと歩き始めた。
知らず知らずのうちにため息が出る。
きっとこれでいいんだと思う。
優しいふりして、ただ側で笑っていれば。