Maybe Blue 第三部 誰かのために
薫風5
名前を呼ばれ萌子が振り返ると、グランドで走り込みをしているはずの一年生の吉田が立っていた。
「練習は？」
「ケガしちゃって」
吉田はそう言って、すりむいたらしい肘を見せる。萌子は仕方なく目を通していた用紙を置いて、救急箱を取り出した。
「そのくらいで練習休んでたら、上のチームにはいけないわよ」
吉田ははいと答えてから、ちらりと萌子が見ていたマネージャー志望の女の子たちの名簿を見ると、周りに聞こえないように小声で萌子に言った。
「ところで、新しいマネージャーって、萌子さんが決めるんすか？」
「私だけじゃなくて、理香と美都も一緒にね。でも監督がうんと言わないと駄目」
明日は、マネージャー希望者の面接の日だった。石橋との行き違いがあって、マネージャーの入部の日だけ、一週間ほど遅れていた。その為萌子は手元の資料を見ながら見学している女子生徒たちをさり気なく観察していた。自分たちの時のような内々なテストは、話しあってやらないことにした。その分、どこで判断すれば いいのかは、萌子たちにかかってくる。
石橋のオーダーは、三人まで。ただし、人数合わせで入れるくらいなら、該当者なしでも構わないと言われていた。とはいえ、誰も選ばないとなると、笠間やそれ以前のように、部員の中からマネージャーを選ぶことになる可能性がある。そう思うと、部員たちの為にもきちんとしたマネージャーを選んでおいた方がい いと萌子は考えていた。
監督か、と呟いて吉田は萌子の顔を真剣に見つめた。
「渡辺由起子ってのが、いると思うんだけど」
「だーめ」
即答されて、吉田は舌打ちをする。その様子が可愛らしく思え、萌子は尋ねた。
「頼まれたの？それとも個人的な感情？友達だから？」
「いや。顔しかしらないけど、可愛いって評判だから」
期待はずれの言葉が返ってきて、萌子はため息をつく。機嫌を損ねたと思ったのか、吉田は話題を変えた。
「それにしても早坂先輩、モテモテっすね」
「そう？」
萌子はできるだけ素気なく答える。グラウンドではマネージャー志望で来ている新入生の何人かが、自分たちの方に転がってきたボールを追いかけてきた成を見て、キャーキャーと騒いでいた。実際に、成の一年生からの人気は、右京の次だと理香が言っていたこともある。
「俺の知り合いにもファンだって女、いましたよ。でもまぁ、俺が言ってやりましたけどね。
早坂先輩には、萌子さんっていう立派な彼女がいるんだから、諦めなってね」
萌子は何も答えなかった。
成と萌子の関係は、恋人同士なのだと、凪浜の誰もが思っていた。今更のようにそれを否定しても、余計自分が惨めになるだけだ。
「けど、いいよなぁ。ほとんど一日中一緒でしょ？
クラスも一緒で、部活も一緒。ほんっと羨ましいっすよ」
ずっと一緒。
だから疲れることもある。
萌子はまだ黙り込んだままだ。だが吉田はそうと気づいていないのか、一方的に話を続けた。
「まあその前に彼女見つけろって言われそうだけど。でもだから、渡辺がマネージャーなってくれたらなって思って。
俺も前からマネージャーといい仲になりたいって思ってたんっすよ。
でもねぇ、中学の時のが、もう最悪で―」
「やめてっ」
気がついたらそう言っていた自分に、萌子は驚いた。しかもその声は部員たちにも聞こえるほどに大きかったらしい。何人かが萌子たちの方を見ている。目の 前の吉田は、突然怒鳴られたことに戸惑っているようで、背を丸めて目をきょろきょろとさせている。萌子は冷静になろうと、早口で吉田にだけ聞こえるように 言った。
「今は、部活の時間でしょう。私語は謹んで。
それから、私と成のこと、そういう風に茶化さないで」
温和だと思っていた萌子に怒鳴られた吉田は、自分の何が悪いのかがわからなかった。
渡辺の話を出したから？
それとも怪我をしたって練習を抜けたから？
戸惑っている吉田に気づいた萌子は、慌てて説明した。
「皆がいい気持ちしないでしょう？マネージャーは、皆に公平じゃなきゃいけないのに、そんな風に言われたら。それに、お互いにやり辛くなる。わかった？」
「すみませんでした」
吉田は素直にそう答えると、グラウンドに戻って行った。一人きりになり、萌子は小さくため息をつく。
皆がいい気持ちしないから。
本当の理由は、そんな綺麗なものじゃない。
もっと利己的だ。冷やかされるほどの関係じゃないことに、不安や、嫉妬や、そういった負の気持ちに包まれることが嫌だっただけだ。
美都は練習後、部室の前で和美が戻ってくるのを待っていた。アミという女の子のことを聞いてみようという勇気が出てきたのだ。和美は、集団の先頭を、一人で歩いてやってきた。相変わらずの一匹狼っぷりだ。
美都が立っていることには気づいたが、その足を止めることなく和美は通り過ぎていく。美都の方も、小さな声を上げただけで、待ってくれとも言えずにいた。しかし、和美の後ろをケンと一緒に歩いていた湊が、和美に声をかけてくれた。
「北内。椎名が、話あるって」
和美は面倒くさそうに湊を見てから、美都の方に歩いて戻ってきた。
「何だよ」
部員たちに見られることを気にしてか、和美の足は部室の裏へと向かう。美都も黙ってそれに従った。
「あの」
和美の足が止まったところで、美都はそう声をかけたものの、それ以上は何も言えなかった。
絶対に怒られる。もしかしたら、嫌われるかもしれない。別れると言われるかもしれない。
そう思うと何も言えなくなる。
付き合ってもう二年になるというのに、美都には相変わらず和美の気持ちが見えなかった。ただ、どういったことで腹を立てるのかは、経験で分かっているつもりだった。例えばそう、こういった女の子絡みの色恋沙汰は特に。
「言いたいことがあるなら、早く言えよ。こっちは着替えたいんだよ」
流れる汗を拭いながら和美がいう。美都は、勇気を出して言った。
「アミさんって、誰？」
和美がじろりと美都を睨みつける。それでも美都は、引かずに和美を見つめ返す。
「…盗み聞きかよ」
軽蔑したような言い方に、美都は何も言えなくなる。和美は怒った顔のままで、美都に背を向けると、さっさと部室に戻り始めた。美都が謝ろうと口を開きかけた時、和美の声が背中越しに聞こえてきた。
「中学ん時のクラスメートだよ」
そう言い残し、和美は部室へと入っていく。和美が答えてくれたことが嬉しいと思う反面、クラスメートというごく表面的な返事に、美都は満足することができなかった。
「吉田」
新入生の一番大事な業務と言ってもいいグラウンド整備をしようと、トンボを体育倉庫の裏から持ってきた吉田は、突然由太に名前を呼ばれて驚いた。
「はいっ」
緊張で声が上ずる。
「ちょっと、話がある」
「はいっ」
吉田は慌ててトンボを他の新入生に預けると、由太の後について行った。無言の由太の足がグラウンドの隅で足が止まり、吉田は少し安心した。
ないとは思ってはいたが、苛められるんじゃないかと思ったのだ。由太は、一年生にとっては脅威の意味も混じった尊敬されるキャプテンだった。一方、吉田 はちょっと生意気な新入生として先輩部員たちに思われている。生意気と言っても、可愛いと思われる範囲で、吉田もそれを理解していた。だから結構言いたい 放題にやってきていたし、実際にそれも許されていた。
だから、今日萌子に怒鳴られたことは、吉田にとって少しショックなことであった。
そして今。キャプテンである由太に、呼び出されている。
背中を向けていた由太がくるりと振り返り、じっと吉田を睨むように見ている。思わず吉田はごくっと唾を飲み込んだ。
「吉田。お前、今日の練習中、萌子に何を言われた」
何となく予測はしていたことだ。吉田は、緊張した面持ちではいっと返事をしてから、一呼吸置いて答えた。
「怪我の手当てをしてもらおうと思ったんですが、この程度で練習を休んでいたら、上にあがれないと言われました」
「それから」
まるで萌子が怒った理由が他にあることを見込んでいるかのような、由太の言葉に、吉田は思わず言葉を詰まらせて答える。
「し、私語は慎むようにと言われました。萌子さんと早坂先輩のことを、冷やかしたので。それで、雰囲気が悪くなるからそう言うことは言わないように注意されました」
黙り込んだ由太を見て、吉田は本当のことを言えと、無言の圧力をかけられているように感じた。
そもそも今の自分は、スポーツ推薦で入るような実力もなく、ようやく入部を認めてもらった身なのだ。せっかく入ったサッカー部のキャプテンを怒らせて、追い出されたらたまったものではない。吉田は腹をくくると、勢いよく頭を下げて言った。
「すみませんっ。マネージャーにしてほしい女子がいると言いましたっ。萌子さんが選考してるって聞いたんで、頼めば少しくらい融通きかせてくれるかなと思って」
下を向いた吉田の眼に映るのは、グラウンドに映った由太の影だけだ。しかし由太は腕組みをしたまま動くことも、声を発することもしない。不思議に思って吉田が顔を上げようとすると、ようやくあの低音が響いた。
「わかった。戻っていい」
吉田は元気よく返事をすると、一目散に駆け出して行った。その後姿を見て、由太はため息をひとつつく。
吉田はわかっていなかったが、由太にはどうして萌子が声を張り上げたのかがわかった。
怪我のことでもない。ましてや、マネージャーのことでもない。
成のことだ。
ふとグラウンドに視線を馳せると、ベンチのあたりでため息をついている萌子が見えた。
「どうしても選ばなきゃいけないわけ？それに前は入部するのは引退した後って話だったのに、来週からって話が違うじゃない」
着替え終わったミーティングルームで、そう理香が声を張り上げた。萌子は机にマネージャー希望者の名簿を広げながら、ため息をつく。
「話が違うのは、私の勘違いだったの。監督は、決めたらすぐに入れるべきだって。
それに誰か選ばないと、私たちが引退した後、部員の面倒を見てくれる人がいなくなるわけだし」
「私、引退しないもん。最後まで頑張るし、卒業しても、次の一年生が入ってくるまでは手伝いに来る」
「理香」
「萌子だって、美都だって、そのくらいできるでしょう？」
理香の言葉に、萌子がちらりと美都を見ると、美都は俯いていた。
萌子も、石橋の話に初めから素直に従ったわけではない。石橋が新しいマネージャーをすぐ入部させると言った時は、せめて自分たちが引退するまでは待って ほしいと頼んだ。それは、今マネージャーの数が増えても仕事がないということもあるが、理香と同じように自分たちの場所を奪われるような気がしたからだっ た。無論、それは石橋には言わなかったものの、仕事量のことを言われて石橋はこう返した。
「お前は進路のこと、どう考えている？」
萌子は、運よく希望の大学の学部の推薦枠があるので、それでもって進学しようと思っていた。成績も、今のところ問題ないレベルだ。推薦入学できるのであれば、部活は今の三年生の引退の時まで、つまり選手権で負けるまで続けられる。そう説明すると、石橋はなるほどと返してきた。
「だが、他の二人はどう考えていると思う？
小池は無理せず推薦で入れる短大を希望してるみたいだったが、椎名は一般入試を受けるようだぞ」
そう言えばと萌子は思い返した。美都の希望している大学の推薦枠が凪浜にはないのだと、以前ちらりと聞いたことがあった。
「椎名の学力からすれば、すぐに受験勉強に励む必要はないが、秋になったら部活をしている時間はないだろう。二人だけで、今の部員を支えられるのか？その時のことも考えて、今選んでくれ」
石橋の言葉は的確で、萌子は何も言い返すことができなかった。何とか頼んで、選考だけ他の部員たちと一週間遅らせた。だが、当然状況が変わるわけではない。
理香の気持ちはわかるが、自分たちの都合で、美都を引き留めることはやはりできないと萌子は思った。
「皆それぞれの道があるのよ。審査は明日だから、一応この中から候補者を―」
「どうして萌子はそんなに余裕でいられるの？
だってまるで、その子たちが入ることで私たちが追い出されるみたいじゃない。
今まで一生懸命やってきた仲間なのに、どうして最後まで一緒にやり遂げさせてくれないの？」
机を叩いて声を上げる理香の脇で、美都は縮こまっている。今の理香に、自分は秋が来る前に引退するのだとは言えないのだろう。
萌子はため息をついて理香を諭す。
「そう言うことじゃないわ。普通に、部員と一緒よ。後輩ができるって思えば―」
「私は、反対。審査は萌子一人でやればいいじゃん」
理香は萌子の言葉を遮ると、美都の手を引っ張った。
「行こう、美都」
そして戸惑う美都を引っ張って、出て行ってしまった。
静まり返った部屋でため息をつくと、萌子は広げていた名簿をしまった。
新しいマネージャーを選ぶことは、美都や部員たちの為でもあるのだからとは思うが、素直にそう理香に言えば、美都との関係がぎくしゃくするかもしれない。
最近の理香は少し気分の浮き沈みがあるから、もっと言葉を選べばよかったのかもしれない。
机に伏せるようにしてもう一度ため息をついた萌子は、もう一つの後悔を思い出した。
吉田のことだ。
どうしてあれほど吉田に強く言ってしまったのだろう。
今日成は歯医者に行く為、練習が終わるとすぐに学校を出ていた。一人になれるその分だけ、あの時のことを思い返してしまいそうだ。気分転換と萌子が大きく伸びをしたところで、ふいにロッカーの上にあるコールドスプレーの段ボールが見えた。
そういえば、コールドスプレーが切れたんだった。補充しないと。
萌子は取り出すためにと椅子を持ってきて、その上に乗る。だが、ほんの僅かに身長が足りず、手は届くものの重さのある段ボールはなかなか引き出せない。 隣の部室には部員たちもいるのだが、着替え中であることに気づき、萌子は再びため息をつく。そして、決意してつま先立ちで立ちあがると、段ボールを掴むこ とができた。引き寄せたところで安堵のため息をついた瞬間、椅子がぐらっと揺れ、萌子は自分の身が投げ出されるのを感じた。
美都を連れて学校を出た理香は、そのまま二人でアルジャーノンに入って行った。カウンターの中には、バイト中の一馬もいる。
「今日の萌子、おかしかったよね。部活の時も、いきなり吉田君怒鳴りつけたし」
注文したアイスティーを飲みながら、理香は隣で俯いて座る美都にそう言うと、一馬が洗い物をしながら話に加わってきた。
「吉田はお調子者だから何か余計なこと言ったんだろう、萌子に」
「でも、萌子が怒鳴るなんて珍しいと思わない？一馬っち」
「…だからその呼び方はやめろって」
苦い表情を浮かべる一馬を無視して、理香は話し続ける。
「ほんと、おかしいよ。萌子。だって、マネージャーだって、私達の引退後に入部って言ってたのに、急に来週からは入部させるだなんてさ」
「でもそれは…、監督と行き違いがあったって―」
美都がそう口をはさんだが、それを遮るようにして理香がでもっと声を張り上げる。
「今までの萌子なら、そんなこと認めなかったはずでしょ？」
キャプテンが由太チャンじゃなかったら、巻き込んで監督に反対させるのにと呟く理香に、美都は自分の思いを伝えなきゃと感じた。
気持ちでは、美都も新しいマネージャーを迎えたくない。きっとそれは、萌子だって同じ気持ちだと思う。
だがその一方で、現実を考えると、美都としては新しいマネージャーを迎えざるを得ない。理香は、最後まで、つまり選手権まで頑張ると言っていた。それは 最長で、来年の一月上旬だ。推薦で大学入学を狙っている人間と違い、美都のように一般入試を狙うものからすれば、その約一週間後にはセンター試験が待ち構 えている。今までの遅れを取り戻す必要だってある。そうなれば、今年の夏くらいまでが部活に参加できる期限なのだ。
萌子の口ぶりでは、それも意識しているようだった。萌子には話したことはないが、石橋に進路を聞かれ、美都はそれとなく答えたことがあるから、萌子は石橋から聞いたのかもしれない。
ちょうど話すタイミングを考えていたこともあった。だが、理香の様子に、美都はあの時何も言えなくなったのだ。
「でも…萌子の言ってることも正しいと思うよ。だって私たちが引退したら、急にその子たちが皆の面倒みるのって、大変じゃない？今までのやり方もあるし。笠間先輩から、ゆっくり教わったみたいに、私たちのやり方もゆっくり教えていけば」
「嫌よ、絶対嫌っ。やり方なんて、自分たちでみつけりゃいいじゃんっ」
「理香…」
頑なに理香はそう言うと、美都からも顔を背けた。そして、肩を落として、呟くように言った。
「私は、ずっとこのままがいいの。皆と一緒に、ずっと国立目指して頑張っていきたいの。
それなのに…新しい子たち来たら、嫌でも意識するしかないじゃん。引退とか、卒業とか、そういうこと」
理香の気持ちは痛いくらい、美都にもわかった。
美都だってそうなのだ。
引退などしたくない。
ずっとこのままでいられたら、と思う。
でも。
理香にどういえばいいのか悩んでいると、一馬が口をはさんだ。
「俺は、夏が終わったら、引退するぞ」
突然の告白に、理香はぱっと顔を一馬に向けた。一馬は淡々と話し続けた。
「親と決めたことなんだ。一年の頃から、もう決めていた。
親には、大学に行かせてくれるだけ感謝してる。だから、浪人したりして、金銭的な迷惑は、もうこれ以上かけられない。
厳己も、一学期が終わるまでだ。夏休みになったら、夏季講習に通うことになってる」
「理香っ」
突然立ち上がり、店を出ていこうとした理香を、美都は呼んだが、理香は振り返ることもなく、アルジャーノンを出て行った。
小さくため息をつくと、一馬が洗い物を止めて呟いた。
「俺たちは、いつまでも子供のままじゃいられない。いつまでも、このままじゃいられないんだ。
だからこそ、今が大事だ。俺は、そう思ってる」
黙り込む美都に、一馬は話し続けた。
「今は興奮してるけど、あいつ、すぐに冷静になって、反省して、明日には萌子に怒鳴ったことを謝ると思う。
すぐに感情で動くけど、ちゃんとわかってくれる奴だから。
だから椎名も、自分の進路の話、ちゃんとあいつに話せ。他の奴らから聞く方が、あいつにとって辛いと思う」
私もわかってる。
理香がそういう人だってこと。
そう思い、美都が頷くと、一馬が呟いた。
「けど、相変わらず金にはルーズだよな。出てくなら、ちゃんと払ってってくれよ」
萌子と成は、うまくいっていないのかもしれない。
それはここ数週間で、由太も気付いてはいたことだった。
あの卒業式の後から、いつも二人は一緒にいる。だが、四月になってから、二人は前ほど笑わなくなった。その原因が、萌子にあるのか成にあるのか、由太にはわからない。ただ、二人はうまくいって欲しいと思っている。
萌子の為にも、由太の為にも。
たまに萌子は一人になると、寂しげにため息をついている時がある。そんな時、由太は萌子の傍に行きたい衝動に駆られてしまう。
だがそうすれば、萌子に一歩踏み入れることになる。そうなれば、自分はもう抜け出せない。そんな気がして、由太は萌子との距離と萌子が気づかぬように取っていた。
以前は、朔哉という存在が、由太にとって重石になっていた。
萌子には朔哉がいて、萌子は幸せそうだった。だから、自分が入っていく隙はない。
そう思って、自分に諦めさせていた。
だが、朔哉と別れ、成と一緒にいるようになってからの萌子は、そうは見えない。隙だらけにも思える。
だからこそ、その隙に自分が惑わされないためにも、由太は切に萌子と成がうまくいってくれることを祈っているのだ。
しかしそれでも、ベンチでため息をついていた萌子のことが頭を過る。
…もしかしたら、成とは関係ないことで、悩んでいるのかもしれない。だとしたら、キャプテンである自分は相談に乗るべきだ。マネージャーを入れる話は、当然由太も聞いている。もしかしたらそのことかもしれない。
今萌子は隣のミーティングルームにいる。微かな気配と声で、ついさっき理香が美都を伴って出ていくのがわかった。その後に続いた萌子のため息は、自分の幻聴かもしれないが、どうやら理香と萌子が仲たがいをした様子も、由太は気づいていた。
他の部員たちは、何も気にする風もなく、だらだらとおしゃべりをしている。
成は歯医者で今日はもう出ている。萌子とじっくり話すなら、今日しかないかもしれない。
その時、隣から、どすんと何かが落ちる音がした。咄嗟に、由太はミーティングルームのドアを開けた。マネージャーの更衣室も兼ねているミーティングルームは、着替えが終わると鍵を開けることになっていた。そこには、足を押さえた萌子が、床にうずくまっていた。
「どうした、萌子」
駆け寄ろうとした由太は、その時上から段ボールが落ちてくるのが見えた。萌子はまだうずくまっているままだ。
「危ないっ」
とっさに由太は両手を広げると、包み込むようにして萌子を庇った。萌子が驚いて顔をあげた時、重い段ボールが由太の上に落ちてきた。由太の肩に段ボール の角があたり、うっと由太が小さく声をあげた。そして次の瞬間、カランカランと音がして床に何本ものコールドスプレーが転がった。
「由太―」
「大丈夫か？」
自分のことより先にと、由太が心配そうに萌子を見つめて尋ねる。萌子が大丈夫と答える前に、バタバタと音がして部員たちが顔を出した。
「捻挫ね」
紗依は萌子の足に包帯を巻きながら言った。
「全治二週間ってところ。捻挫と言っても程度は軽くないから、無理はしないこと。甘く見ては駄目よ、癖になるから」
「あの、由太…高岡君は？」
保健室まで萌子はケンと厳己の肩を借りてやってきた。ちょうど紗依が保健室のドアを閉めたところだったが、事情を説明して、中を開けてもらったのだ。初めは由太が萌子に肩を貸そうとしたのだが、肩に手が触れた途端、顔を歪めたのだ。紗依は、後ろのカーテンの引かれたベッドを指さすと、安心させるような温 かい声で言った。
「大丈夫よ。高岡君はただの打ち身だから。湿布を一週間ほど張れば治るわ。今着替えてる」
よかったと萌子はほっと肩をなで下ろす。紗依は続けて言った。
「体育は見学すること。部活も本当は休んでほしいんだけど」
「できません」
すぐに関東大会が始まるのだ。紗依はため息をついたが、
「そう言うと思ったわ。
でも体育は見学するのよ。それから、本当に無理しないで。わかった？」
「はい」
そこに着替え終えた由太が顔を出した。
「大丈夫か？」
慌てて萌子は立ち上がりそうになったが、由太に止められた。
「座ってろ」
「ありがとう。肩は、大丈夫？」
「ああ」
すると、そこに萌子と由太の鞄を持ったケンが顔を出した。
「二人とも準備できたか？鞄、持ってきたから帰ろうぜ」
由太とケンに挟まれるようにして、萌子は学校を出た。
「全く、マネージャーが怪我するなんて、何考えてんだよ」
「ごめん」
「三年になっても、意外とドジなとこは変わらずだな、萌子も」
「隣で大変なことになってるのに、気付かない鈍感なところは、ケンも変わってないわね」
「おっ、言ったな」
ケンが萌子の背中を叩こうとして、萌子は思わず逃げようとしたが、その時足に痛みが走った。
「いたっ」
思わず蹲りそうになった萌子の腕を、由太がとって支える。
「無理するな」
「ごめん」
萌子がそう言うと、由太はそっと腕を離した。前を向いて歩きだした由太に、萌子は話しかけた。
「でも、本当にありがとう、由太。由太が助けてくれなかったら、もっとひどいことになってたと思う。
肩、本当に大丈夫？」
「…ああ」
少し前を歩きながら由太がそう答える。
怪我したのが肩とはいえ、試合を控える由太にとっては、いいことではない。サッカーは足でボールを蹴るスポーツではあるが、相手選手と競り合う時に、肩がぶつかったりもするのだ。
「ごめんね」
「お前の方がひどいんだ。気にするな」
萌子はそれでも、小さくごめんと呟いた。思い出したようにケンが口を開く。
「由太もよく気付いたよな。あのうるさい中で」
部室は、着替える部員たちのお喋りで相当うるさかったはずだ。
だから、突然由太がミーティングルームのドアを開けた時には、驚いたし、騒音でそれすら気づいていない部員もいた。
だが由太が隣の状況に気付いた理由を言えるわけもなく、偶然だと流すように答えた。
それぞれの分かれ道になって、由太は萌子を送ろうと口を開こうとしたところで、ケンに先を取られた。
「しゃーねぇな。成もいないし、今日は俺が萌子を送ってやろう」
「家に来ても、おいしいお菓子ないわよ」
「んなもん食べたくもねぇよ。つーか、家に上がったってばれたら成に殺されそうだし」
言い返そうとした萌子だが、ケンの最後に言った言葉に何も言えなくなった。黙っていると、ケンが由太にさっさと手を挙げていた。
「じゃな、由太」
「ほんと、ありがとね。由太。お大事に」
萌子にまでそう言われて、由太もこれ以上萌子と一緒にいる理由はなかった。
由太と別れてしばらく歩いたところで、ケンは慎重に話を変えた。
「成のことだけどさ」
成と聞いて、萌子はどきりとする。ケンと成が仲がいいことは萌子も分かっている。何を言われるんだろうと思って身構えた萌子に、ケンは実はさ、と話を続けた。
「実はこの前の、…俺が、アドバイスしたんだ」
「この前？」
「お前の家行っただろう？あいつ」
はっきりと言わないケンが何を指しているのか、萌子は理解した。
この前、成が家にやってきた時の出来事だ。成は、萌子の気持ちを無視して、強引にキスをしようとしてきたことだ。
確かに成らしくない行動だった。
萌子が驚いているのを見て、ケンは素直に頭を下げた。
「すまん」
「最低」
ため息交じりにそう言って、萌子はケンから鞄を奪うと、ひとり足を引きずりながら歩きだした。
「もういい。一人で帰るから」
「だから、あいつは悪くないんだ」
後ろからケンの声が聞こえてくる。
「あいつの気持ちもわかってやれよ」
その一言が、萌子の気持ちを不安定にする。
成の気持ち？
どんな気持ち？
好きでもない相手に無理やりキスをしようとする気持ち？
そんなの、わかるわけない。
萌子はケンを無視してどんどん先に歩いてく。そんな後姿を見て、ケンは戸惑った。
ケンもケンなりにずっと悩んでいたのだ。自分のアドバイスが、こんな方向に進んでしまうとは思ってもいなかった。そもそも、成はそこまでしないだろうと 思ったのだ。発奮剤になればいいと、ただそう思った。それだけ成も追い込まれていたんだということは、後になってから気づいた。
「必死なんだよ、あいつも」
その言葉に萌子は足を止め答えた。
「私だって…、必死だよ」