Maybe Blue 第三部 誰かのために
花曇6
着替えを終えて控室を出ると、萌子たちは乗ってきたバスに乗り込むため、駐車場に向かった。いつもなら、専用のマイクロバスがあるのだが、今日はバスケ 部にそのバスを貸してしまっていた為に、別のバスを石橋が手配していた。選手以外にもバスに乗って帰れるとあって、バスの前にはスタンドで応援していた部員たちの一部も集まっていた。
「やっぱさ、天才だよな。右京ってば。川城の塚本なんか目じゃないって」
「あのボレーシュート！思わず惚れそうになった」
そう言う興仁に、ケンが答える。当の右京は、いつもならばさっさとバスに乗り込んで眠りについているというのに、今日はどうしてか後ろの方に立ち、キョロキョロとあたりを伺っている。
「ばーか。興仁が右京に惚れても、右京の方が相手にしねぇよ」
途端に笑い声が上がる。
川城に二点目を決められ、知朗の退場により十名で試合を行うようになってからの凪浜は、今までの不調が嘘のように積極的な攻めに転じた。起点となってい たのは右京で、自身も積極的にシュートを打った。そんな中、右京のボレーシュートが決まったのは、後半残り五分という場面だった。強引に攻め込んだ和美の シュートは、川城のディフェンダーに阻まれたものの、クリアし損ねたところに、右京が駆け込み、そのままジャンピングボレーシュートを決めたのだ。
その時を思い出し興奮している部員たちに、冷や水をかけるような由太の声が響いた。
「はしゃいでる場合じゃない。負けたんだ、俺たちは」
その一言に、その場は静まりかえった。結局、右京の芸術的なボレーシュートが決まり、その後攻め続けたものの、凪浜は一対二で、川城に負けてしまったのだ。従って関東大会の第一代表の枠は、川城となった。
更に和美が追い打ちをかけるように言う。
「おまけに知朗は、次の試合出場停止だし」
静まり返った中で、知朗の声が響く。
「すまん」
珍しく沈んだその声に、二年の青山望が必死に答える。
「友近先輩は悪くないです。先に、喧嘩吹っ掛けてきたのは川城の塚本の方なんだから」
巧の悪行は、ベンチにいた望からも見えていた。息の荒い望に、キャプテンである由太が諭すように言う。
「だが先に手を出したのは、知朗だ」
どんなに挑発されても、先に手を出した方が悪い。
そう後輩に伝えたかった言葉に、知朗がもう一度謝る。
「すまなかった」
知朗の方も、由太が言いたいことも分かっているし、応戦した自分が悪いことはわかっている。だが、素直にそう謝られて、由太も何も返せなくなってしま い、落ち込む望と三人で、そっと俯くしかなくなった。再び静まり返った中で、雰囲気を変えるようにと萌子の明るい声が響く。
「もういいわよ、知朗。皆だってわかってるし。
ね、ほら。皆も乗って乗って」
話に夢中でやってきたバスに乗っていなかった部員たちの背中を、萌子はそう言ってバスへと押し込む。萌子は遠くでぽつんと立っている右京を見つけると、 声をかける。だが右京はゆっくりと歩いてくるものの、相変わらず周囲を見回している。どうしたんだろうと、その様子をじっと見ていると、萌子に押されてバ スのタラップに乗った知朗に名前を呼ばれた。
「萌子」
「何？知朗」
確かめるように、知朗はじっと萌子を見つめて口を開く。
「お前、本当に関係ないんだよな。あいつと」
「塚本巧？関係ないわよ。話したことだってないもの」
萌子がそう答えたところで、知朗の視線が鋭くなって遠くへと向かう。つられたようにして、萌子も、その後ろで最後にバスに乗ろうとしていたケンも振り返った。
「あいつ、川城の…」
知朗がそう呟く。視線の先には、足を止めてあたりを見回している史央が見えた。
何かを探しているらしい、と思ったところで、ふいに萌子は史央と目が合った。史央は、小さく息を吐くと、心を決めたようにまっすぐにこちらに向かってやってくる。
うちに用事でもあるのかな。
思わず立ち尽くす萌子の背を、後ろにいたケンが押した。
「行くぞ、萌子」
「え？でも―」
「右京も、何やってんだよっ。早く来いっ、ほらっ」
そう言うとケンは近くまで来ていた右京の肩を掴み、戸惑っている萌子と一緒に乱暴にバスに押し込んだ。そして、運転手に向かって「出してください」と冷たく言い放つ。バスのドアが閉まる中で、萌子は思わず言い返した。
「ちょっと、ケン。待ってよ、今川君が―」
「あいつらと話なんかする必要ねぇよ」
ケンはそう鋭く言うと、それ以上萌子の声には耳も貸さず、萌子を動き始めたバスの後ろの席へと追いやる。走り出したバスを見て、立ち尽くす史央の姿をガラス越し見つめながら、萌子は小さくため息をついた。
成に送られて萌子が家に帰ってくると、母親の元子がキッチンから顔を出した。
「おかえり、萌子。試合はどうだった？」
揚げ物のいい匂いと音がする。萌子は鞄を床に置くと、小さくため息をつきながらソファに座って答えた。
「負けちゃった。関東大会には出場できるけど」
「そう。それじゃ、その関東大会は頑張らないとね」
野菜を切っているのか、一定のリズムを刻むトントンという音が心地よい。じっと目を閉じると、体の重さで疲れているのがわかる。ソファに身を任せて、もう一度萌子がため息をついたところで、ふいに元子が口を開いた。
「そういえば、萌子。
近頃朔哉君じゃない子に送ってもらってるみたいだけど。
別れたの？朔哉君とは」
朔哉は、萌子を送る時はたいてい家にも立ち寄っていたから、元子ともよく顔を合わせていた。元子が朔哉のファンと自称するだけあって、夕食には度々朔哉も招かれていた。だが成は、萌子を家まで送り届けると、任務終了とばかりにそのまま寮に戻っていく。当然、元子と顔をあわせたこともないはずだ。早めに自ら、両親に挨拶をした朔哉とは、違う。
朔哉に別れようと言われてから二ヶ月ほど。姿を見せない朔哉にいつから元子が気づいていたのかわからないが、心配をかけていたんだと、萌子は素直に謝った。
「うん…。
ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「だって、お母さん…朔哉さんのこと好きだったでしょう？」
いつだったか、朔哉と元子が話していたことを思い出す。いつか萌子を迎えに来てもいいかと、将来のことを見据えて元子に話していた朔哉。
あの時、元子はそれを許可したはずだった。実際、人当たりのいい朔哉は、萌子の両親にも好かれていた。心のどこかで、朔哉が息子になる日を待っていたかもしれないと思うと、萌子は胸が痛んだ。
ところが、元子はどうして？と声をあげて笑い返した。
「私が好きでも嫌いでも、つきあうのは萌子でしょう？まあ、嫌いな子だとちょっと意地悪したくなるかもしれないけど、でも萌子の選んだ人なら、好きになると思うわ。
それに、今の子もなかなか素敵そうな子じゃないの」
「だけど…」
成は、お母さんに挨拶もしてくれないし、
私が聞きたい言葉も言ってくれない。
それに、私のこと好きでもないみたいだし。
言いたくなった言葉を、全部心に押し込めたところで、元子の優しい声が聞こえてきた。
「大丈夫よ。朔哉君でも、今の子でも、運命の人とは、一度くらい別れても、この先また何度でも巡り会えるわ」
運命の、人？
思わず萌子が顔を上げると、元子は、
「母さんと父さんみたいにね」
と片手にお玉を持って微笑んでいた。
運命の人。
一度くらい別れても、この先また何度でも巡り会える。
私にとって、運命の相手は？
忘れられない相手の朔哉さん？
それとも、いつも心の支えにしていた成？
その答えを聞きたくなった萌子は、小さく震える声で元子を呼んだ。
「お母さん…」
だがその萌子の声を遮るようにして、電話が鳴りだす。はいはいと言いながら、お玉を持ったままの母親が出ると、すぐに受話器から耳を外して、萌子に言った。
「萌子によ。今川君って子から」
二階の部屋にあがり、子機で電話に出ると、史央の落ち着いた声が聞こえてきた。
「もしもし。沢木？」
「うん。今日はお疲れ様」
脳裏に、試合会場でバスを追いかけようとしていた史央の姿が過る。
やっぱり何か話があったんだ。そう思う萌子に、史央の暗い声が聞こえてきた。
「今日は、すまなかった。試合」
「どうして？勝ったことを謝ってるなんて言わないよね」
笑った萌子に、史央は真剣な声でそうじゃないと答えた。
「巧のこと。
あれはどう考えても煽った巧が悪い。
ごめん」
「今川君が謝ることでもないよ」
だからといって、巧のことも責める気になれずに萌子がいると、受話器の向こうで、でもという史央の声が聞こえてきた。
「でも、俺はキャプテンだから。試合前から様子がおかしいかったんだから、注意していればよかったんだ。
巧も、あんな風貌だけど、中身は結構熱いっていうか、…本当はいい奴なんだ。誤解されやすいけど」
そこまで言うと、史央は小さく息を吸った。
「とにかくごめん。せっかくいい試合だったのが、ぶち壊しになった」
「それを言うなら、こっちだって。
謝りに来てくれてたんでしょう？帰る時。
それなのに無視して…ごめんなさい」
「いいんだ。そっちの気持ちもわからなくはないから。
もしかして俺の電話、迷惑かな」
「どうして？」
思わず萌子が聞き返すと、史央はそれは…と言葉を詰まらせながら答えた。
「チームメートに何か言われてるのかと思ったからさ。
沢木はすごく守られてるなって思うから。他校の人間と話してると、怒られたりするのかと思って、さ」
「そんなことないよ。マネージャーだもの。守られてるだなんてそんなお姫様みたいな扱いは受けてないし、それに私と今川君のことは、他の部員には関係ない。
ずっと会いたかったんだもの、今川君に。また会えて、こうして話できるの、すごく嬉しいし」
高校入学と同時に凪浜に引っ越して、厳しい部活に入った萌子にとって、振り返ると高校三年間はほとんど凪高サッカー部一色だった。それが寂しいとは思わない。けれど、祥子や史央のように、そこから少し離れた人と触れ合うのは、自分の世界が広がるようで、嬉しかった。
「なら…いいけど」
とはいうものの、史央の口調はどこか納得がいかないようだ。短い沈黙の後に、史央は口を開いた。
「沢木？」
「何？」
「どうかした？」
「え？」
突然の言葉に、萌子は戸惑う。
「…声、元気ないし。今日も試合前、何度もため息ついてたろ」
思わず吸い込んだ息を笑いに変えて、萌子は慌てて答えた。
「そんなことないよ。敢えて言うなら、試合に負けちゃったから、かな」
「そう、か」
萌子の無理やりな言い訳に、納得したかに思えた史央だったが、ふいに語気を強めて言った。
「頑張りすぎるなよ。昔から沢木の、悪い癖だから」
その言葉に、萌子は鼻の奥がツンとするのを感じた。
頑張らないと、自分に負けそうだから。
もう駄目だって言ったら、それが本当になってしまいそうだから。
いつも萌子は、前を向くようにしていた。本当は、後ろ向きな性格であることがわかっているから。
だけど、それを頑張りすぎるな、と史央は言う。
昔からの悪い癖だから、と。
だとしたら、もう諦めてもいいのだろうか。
成のことを。成を必死につなぎ止めようとすることも。
そうやって、朔哉のことを忘れようとしていることも。
だが口を開きかけようとした萌子の耳に、電話の向こうで子供が泣き始めた声が聞こえてきた。うるさいと叫ぶ女の子の声も聞こえる。フミ兄どうにかしてよ、とその声は史央を呼んでいるようだ。史央も受話器を抑えて、わかったからと答えた声が、漏れて萌子の耳に届く。
「悪い、沢木。ちょっと電話切ってもいいかな。かけておいてなんだけど、ちょっと家の中がばたついてて」
「ううん。わかった」
「何かあれば、電話してくれて構わないから。今日はほんとにごめん」
「もういいよ。それじゃね、ばいばい」
萌子はそう答えると、電話を切った。
ベッドに身を投げ出したところで、押さえていた涙がわっと溢れて出す。だがそれを拭いもせずに、声も出さずにしばらく萌子は涙を流し続けた。