Maybe Blue 第三部 誰かのために
花曇3
「お邪魔、します…」
日曜日の部活帰り、成は萌子を送りながら、そのまま家に上がった。
所在なさげに萌子の後をついてリビングに入った成は、きょろきょろと見回して口を開く。
「萌子、一人？」
「うん。いつものごとく、お父さんは仕事、お母さんは近所のおばさんたちと舞台見に行ってる」
萌子の母親は、仕事はやめたものの、最近は近所の主婦たちと楽しそうにいろんな事をしている。この前は、父も萌子も家において、温泉旅行に行ってしまったほどだ。
結局、家でじっとしているのが無理な人なのだな、と萌子は思っていた。
そう、と成は自分の鼻の頭を指でかく。
「上に行ってて。コーヒー、持っていくから」
成が階段を上っていく足音を聞きながら、お茶を入れていた萌子は、ふいに自分がため息をついていたことに気づいた。
祥子にも言われるが、最近の萌子は特にため息が多いらしい。
去年の自分は、こんな風にため息をついていたんだろうか。
そう、朔哉が隣にいてくれた時は。
「あっ」
カップから溢れた湯が、萌子の指にかかった。軽い火傷だ。
流水で冷やしながらも、自分が朔哉のことを思い出していることに、萌子は気づく。
このところ、気付けばいつも、そんな感じだ。
そして必ず、成と朔哉を比べてしまう。上なのはいつも…と思って、萌子は頭を強く振った。
勝ち負けなんか、関係ない。
私が好きなのは、成なのだから。
さっさとコーヒーを持っていこう。
萌子は急いで二階に上がって行った。
「アッチー！何してるの？」
ノックもなしにドアが開いて、慌てて篤志はベッドの上で見ていた手紙をしまい、ボタンをポケットに入れようとした。だが、うまくいかずにボタンは転がり 落ち、手紙も封筒と一緒にパラパラとシーツの上に舞落ちる。咄嗟に薄水色の便箋と封筒を拾い上げたところで、ベッドの床に落ちたボタンが見えた。流石にボ タンが取れたのが三度目ともあれば、理香も疑い始めるかもしれない。おまけに制服は、ボタンが全部ついた状態で、今壁につるされている。
「何隠してんの？あー、えっちな本なんでしょ」
と理香が言って部屋にズカズカと入り、自分の方に向かってやってくる。篤志は慌ててベッドから手を伸ばし、理香がボタンに気づく前に自分の手中に収めた。ほっとしたのも一瞬で、バランスを失った体が、ごろんと床に投げ出された。
「…ってぇ」
「大丈夫？」
心配そうな理香の声がする。強く打ちつけた肩をさすりながら、篤志がまあまあと答えようと顔をあげたところで、持っていた便箋と封筒を床に落としてしまっていることに気づいた。急いで手を伸ばし、封筒は掴んだものの、便箋は寸前のところで理香がそれを取り上げた。
「…ラブレター？」
怪訝そうな理香の声は、篤志に対する不安感も含んでいた。実際のところ、このところ篤志の様子が変だったのは、篤志にこのラブレターを送ってきた相手のせいなのだとも思った。
だが、便箋を開いたことで、そのすべてが間違っていたことに気づいた。
「これ…」
強張っていく理香の表情を見ながら、篤志は無言で俯く。
「慌てて拾ったものは何？」
有無を言わせぬ強さだ。隠しきれないと思い、篤志はボタンを理香に差し出した。
そのボタンを見て、理香も何かぴんと来たらしい。
「これ、どうしたの？」
と静かにきつい口調で尋ねた。
嘘はつけないと思った篤志は、正直に全て話すことにした。
「…卒業式の、遠征のバスの中で、萌子が学ランを落とした時に、拾っ―」
誰のとは言わなくてもわかると思った。
「何で萌子に渡さないの？」
篤志が言い終わる前に、理香が声を大きくして言う。それが当然とでもいう言い方に、思わず篤志はムッとして言い返す。
「何だよ、ノックもなしに部屋に入ってきて、説教かよ」
「今はそういう話をしてるんじゃないでしょ。どうして、萌子に渡さないのよ。萌子のものじゃない」
理香の口調は珍しくきつい。その原因が、篤志の部屋にあることなど気付きもせず、篤志は理香から顔を逸らすと、
「その方がいいだろ」
と呟くように言った。その答えに、理香は立ち上がると、声と共に目を吊り上げた。
「そっちの封筒も頂戴。あたしが、萌子に渡してくる」
篤志が答える前に、理香の手が篤志に向かって伸びてくる。篤志は慌てて体を逸らした。
「今の萌子には、渡すべきじゃないよ」
感情的な理香につられてか、声は張り上げないものの、篤志は珍しく感情的に言っていた。だが、篤志の答えを聞いた理香は、更に激昂した。
「アッチがどうしてそんなこと言えるの？
これは、萌子のものだし、萌子の問題でしょうっ。それに萌子はっ―」
理香はそう言ったところで、思わず口を閉ざした。
それは、単に理香が感じているだけのことだったが、誰かに話すのは躊躇われることだったのだ。だが、篤志にはむしろ言うべきなのだと思った。
「…萌子は、朔哉さんのこと忘れてないんだよ。まだ朔哉さんのこと好きなんだからっ」
夕陽の差し込み始めた部屋に、理香の部屋が響く。その声に煽られるように、篤志の声も自然と大きくなった。
「けど別れたろっ。
これは、俺が預かる。預かるだけだっ。
萌子の為にも…この方がいいに決まってる」
「渡した方が萌子のためになる」
一歩も引かない理香を、気付けば篤志は思い切り怒鳴りつけていた。
「渡したら、あいつどうする？
朔哉さんところに行くに決まってる！
そうしたら…そうしたら、成が、可哀そうだろう？」
本当は違う、そんな理由じゃない。
成のことは、友人としても好きだし、サッカー面では尊敬もしている。
だが、萌子のことで思い悩む成を見て、篤志は可哀想だと思ったことはない。いや、辛そうだなとは思ったことはある。だが、卒業式のグランドで感じたのは、何より成に対する嫉妬だった。
朔哉に選ばれたのが、自分ではなく他の人間だという、嫉妬だ。
考え込んで篤志が黙っていると、理香の震える声が小さく聞こえてきた。
「…あたしって、篤志にとって何なのかな」
「え？」
思わず顔を上げると、手紙とボタンを握りしめて、理香はぽろぽろと涙を流していた。
「成くんに言ったんでしょ？つきあってるって、あたしたちは恋人同士だって。
でも、アッチが考えてるのは、いつもあたしじゃないっ。
いつだって、別の誰かのことっ。
…朔哉さんの制服のボタン握りしめて、アッチは誰のこと考えてたの？」
その答えを篤志が見つけ出す前に、理香は手に持っていた薄いブルーの便箋と、ボタンを篤志に向かって投げつけると、くるっと踵を返した。篤志は慌てて言った。
「萌子にこの手紙のこと言うなよ」
その瞬間、理香は振り返ると、
「バカッ！」
と叫び部屋を出て行った。ドアが大きな音を立てて閉まる。
部屋に一人残された篤志は、深いため息をついた。
「はい、コーヒー。
でも勉強って、どこか分からないところがあったの？
それとも、テストで赤点取ったらまずいとか？それにしても、中間テストはまだ一か月も後だけど」
部屋に戻った萌子が、そう言いながら、ローテーブルにコーヒーカップを乗せる。が、成は、窓の外の景色を眺めていたようで、鞄から教科書やノートを出そ うともしない。ちなみにサッカー部は赤点を取ると、レギュラー選手は勉強に専念するという意味でレギュラーを外されるのだ。萌子はそれを不思議に思いなが らも、尋ねた。
「勉強、するんじゃないの？」
すると成は、慌てたように振り返って、萌子の向かいに腰を下ろす。
「あ、ああ、うん。でもほら、練習後で体がまだきついからさ、ちょっと休憩。
そうだ、ワールドサッカーの今月号、ある？」
成に言われて、萌子はラックの中から言われた雑誌を取り出し、ページをぱらぱらとめくった。
「今月号ね、すごいの。菊地さんが載ってるのよ」
大学を休学して、ドイツにサッカー留学してきた凪高OBの菊地光一は、今年の春日本の大学に戻ってきたのだという。その記事には、光一の成長ぶりについて詳しく書かれていた。
「ほら、ここ…」
目的のページを探しあて、指を指したところで、萌子はふと成がテーブルから身を乗り出していることに気づいた。少し傾むけたその顔は、萌子の鼻先から二十センチも離れていなく、成は目をそっと閉じようとしている。
「ちょ、っと…どうしたの？成」
そう言いながら、萌子は自然と体を後ろへと下がろうとしたが、ベッドがあってそうすることはできなかった。萌子が戸惑う間でも、成は萌子との距離を縮めていく。
「どうしたって…そりゃ…」
ハッとしたように顔を戻して成が目を開けて萌子を見つめた。恥ずかしそうに、僅かに口元から笑みがこぼれる。
もしかして、キス、しようとしたの？
だがそれを、どう成に伝えようかと萌子が悩んでいる目の前で、成は何かを決意したように小さく息を吐くと、左手を萌子の肩にあて萌子を引き寄せつつ、再 びそっと目を閉じようとした。伏し目がちな成のまつ毛は、黒々と繁っている。その表情にドキドキしながらも、萌子は条件反射のように答えた。
「ちょっと、待ってよ。待って」
「待てない…」
成はそういうと、完全に目を閉じた。まつ毛の影が頬に映る。もうあと五センチというところになって、萌子は覚悟を決めたかのようにぎゅっと目を閉じた。
だが次の瞬間、ぱっと目を開くと、
「やめてっ」
そう叫びながら、成を思い切り突き飛ばしていた。不意を衝かれた成は、そのまま床へと転がった。弾みで本棚に手が当たり、雑誌が何冊かこぼれおち、床に散らばる。
「…てぇ」
成はうめき声を上げながら、起きあがると、打ちつけた腕をさすった。
「な、何なの？成？
勉強って嘘なの？」
そう口早に尋ねる萌子の前で、成は答えられず、黙り込んで俯いた。ふと散らばった雑誌の中に、朔哉の笑顔が一ページ載っているものを見つけ、咄嗟に視線を逸らす。と、視線の先にいくつもの封筒が散らばっていることに気づき、それをひとつ拾い上げた。
「どうしちゃったの？嘘つくなんて、それにっ、こんなことするなんて、成らしくない―」
成が手にした封筒を見て、思わず萌子は言いかけていた言葉を飲み込んだ。成は、無言の萌子の前で、封筒の中から便箋を取り出す。そして、素早くその手紙を読むと、呟くように言った。
「俺…らしくない？…萌子」
成はそう言いながら、次々と封筒を開けていく。中には、ルーズリーフに書かれたものもあった。
だが全ての宛名が同じだと気づくと、成はそれを床に投げつけて叫んだ。
「違うんじゃないのか？
俺らしくない、じゃなくて、福山さんじゃない。
萌子はそう言いたいんだろう？」
「ちが―」
きちんと反論しようとした萌子だったが、行動は裏腹に手が口を押さえていた。
「じゃあ、何だよ。これは？この手紙は何だよ。
全部福山さん宛の手紙じゃないかっ、住所知らないから出せないでここに溜まってるだけだろうっ？
やっぱりお前、まだ福山さんのこと―」
「違うわっ」
今度ははっきりと否定した。だが萌子の声は、震えていた。口にあてられていた手は、そのまま自分の体を包み込むように胸の前で交差され、背中に触れていた。
「朔哉さんじゃなくたって…こんなこと、しない。
私の気持ち、まるっきり無視じゃない。…そんな…」
ぽたりと落ちる萌子の涙を見て、成は自分のした行為、言葉を後悔した。
だが、取り返しのつくものではなかった。
「帰って…。今日は、帰って」
「萌子―」
「帰って！」
張り上げた声が、しずかな部屋に響き渡る。
成は鞄を掴むと、そのまま何も言わずに萌子の家を出て行った。
ベッドで寝転がっていると、ドアがノックもされずに開き、姉の環が顔を出した。
「ノックしろよ、姉ちゃん」
「あんた、また理香ちゃん泣かしたの？」
買い物から帰ってきた環は、玄関で理香とすれ違ったのだ。泣いているのに気づいて、その理由を尋ねようかと思ったが、理香は環の手をすり抜けるようにして日比野家を出て行ってしまった。
ベッドから起き上がった篤志は、一瞬だけ体を起こしたが、環の話を聞くと、また体を深く沈めていた。
「姉ちゃんには関係ないだろ」
環はため息を深くつく。
「勘違いしてるみたいだけどね、あんたみたいな男をね、あれだけ一途に好いてくれる女の子なんて他にいないのよ？なのに、あんたがはっきりしないから、理香ちゃんも可哀想に。いい？いつか愛想尽かれても知らないわよ。逃した魚は大きかった、なんて思っても、女の子は見限った男なんて振り返りもしないからね」
「うっせーな」
篤志はそう言うと、枕を環に投げつける。だが、すぐに枕は何倍もの力で篤志に向かって投げ返されてきた。
「女を泣かす男は最低。
あんたの崇拝する朔哉も言ってたでしょう？
それから、母さん遅くなるらしいから、夕食の準備手伝ってくれる？下で待ってるから」
理香に続いてドアが荒々しく音を立てて閉まる。篤志は枕を掴むと、胸の前で抱えながら呟いた。
「けど、朔哉さんだって、萌子を泣かしたじゃないか」
成は暗くなった道を、肩を落として歩いていた。
確かに言われた言葉を真に受けて、萌子に無理やりキスをしようとしたのは、よくなかった。
だがそんなことよりも、頭の中には、さっき見た萌子の手紙のことでいっぱいだった。
『拝啓 福山朔哉様
お元気ですか？
怪我はしていませんか？
今、幸せですか？
私は』
手紙はそこで終わっている。萌子は続きを書いていなかった。
何かがあって、手紙を書くことが続けられなかったのか？
それとも、その続きを朔哉宛の手紙には、書けないと思ったのか？
答えは萌子しかしらない。
だが、成から見ても、この頃の萌子はあまり元気がないように思う。
むしゃくしゃした気持ちを、落ちていた小石にぶつける。蹴られた小石は、そのまま落ちていた空き缶に当たったが、それでも気持ちに変わりはなかった。
朔哉から渡された新しい住所は、今も成の机の一番奥に置いてある。
いっそ、あれを萌子に渡してやればいいのか？
そう思ったところで、成は足を止める。
だけど、渡したら…もう萌子は戻ってこない。
「…ちくしょうっ」
足元にはもう小石もなかった。成は小さくそう叫ぶと、地面を蹴りあげた。
萌子は気持ちがようやく落ち着いたころで、床に散らばった雑誌を本棚に片付けると、深いため息をつきながらベッドに横たわった。
『やっぱりお前、まだ福山さんのこと―』
…忘れてない。
もしあの時、萌子が叫んだりしなければ、成はそう言っていたはずだ。
自分でもわかっていた。朔哉のことを忘れきれていない自分がいることに。最近では、特にそうだ。
ふとした時に、朔哉を思い出し、隣にいる成と比べている自分…。
忘れられないということは、好きという気持ちと同じなのだろうか。
しかし自分は成のことが、好きななのだ。。
だがその成は、萌子の気持ちに望むように応えてはくれない。
『そんなんじゃ、ない』
史央に質問されたのが朔哉だったら、どうなのだろうかと思う。きっと、まだ二人の関係が曖昧だったとしても、あれだけはっきり萌子を突き放すようには答えていなかったはずだ。
朔哉は、いつだって萌子の気持ちの一歩先を読み、萌子を傷つけるようなことはしない人だったから、と。
そう答えを見つけた萌子はまたも大きなため息をつく。
でも成が好きなのに、どうして自分は成がキスをしようとしたのを、拒絶してしまったのだろうか。
突然のことで、驚いたのは確かだ。
でもそれでも、珍しく強引な成に心を惹かれて、心のどこかで待っていた自分もいた。
そして、覚悟を決めて目をつぶった時、どうしてかあの成の言葉を思い出したのだ。
『そんなんじゃ、ない』
気づけば、成の体を押し返していた。
感じたのは、好きじゃない相手にもこんなことができる成への不信感だった。
そう、成は、萌子の隣にはいてくれるものの、萌子と付き合っているつもりはないのだ。
朔哉と一緒にいるときは、今思えば幸せだった。でも、その時はそれが当たり前のことになっていて、あまりそう実感していなかった気がする。
成と一緒にいるときは、もちろん楽しい時もある、幸せだと感じた時も。でも、そうじゃない感情に戸惑うことも多い。不安や、嫉妬、猜疑心、それに気づ き、萌子は自己嫌悪に陥る。この繰り返しだ。それは、朔哉が一緒の時には感じたことのない感情で、だからこそ萌子は戸惑うのだ。
だけど、戻ることはできない。
朔哉には振られたし、それに祥子という恋人がいる。
そう思う一方で、萌子は心の底にある疑問を見逃すことができない。
本当に、朔哉と祥子は付き合っているのだろうか。確かに、卒業式の日、二人は肩を組んで学校を出て行った。でもそれが二人が付き合っているという証拠になるのだろうか？
そう心の中ではっきりと思ったところで、萌子は慌てて体を起こした。
「何…考えてんだろう」
気持ちを切り替えたくて、萌子はベランダに出た。沈みゆく夕陽の残像が、幽かに空に残っている。シャツ一枚ではまだ肌寒い空気の中で、萌子はベランダに凭れかかり大きくため息をついた。
皆が萌子を幸せだと言っているし、そう思われている。そうして、朔哉のことはもう吹っ切れたのだと。
でも、そんなことはない。
祥子と一緒にいるのは、祥子自身と気があうからであるし、それにふとした時に朔哉の近況を聞けるのではないかという期待も、少しだけある。
だが、萌子がそんなことは口にできない雰囲気が、今の凪浜にはある。
誰でもいい。
萌子は思った。
話を聞いてくれるだけでいい。
それだけで、いいから。
萌子はそのままベランダでうずくまった。