Maybe Blue 第三部 誰かのために
花曇1
一人素早く着替えを済ませた理香が、今にも飛び出しそうな勢いでドアを揺らしている。
「早くっ。早くってば」
部室の窓からは、桜の花がサラサラと風にそよいで舞っているのが見えた。始業式と言うことでいつもより軽めの朝練が終わった途端に、理香はマネージャーの更衣室となっているミーティングルームに駆け込むと、素早く着替えて、萌子たちが入った頃には髪の毛も丁寧に整えていた。
「先に行ってていいってば。全く理香はせっかちなんだから」
萌子はゆっくりと着替えをロッカーにしまいこむ。隣の美都も、いつもとは違い、ほとんど準備を済ませている。のんびりしているのは萌子だけ、ということらしい。
「だって、三年のクラス発表だよっ。
アルバムも同じページだし、同窓会もあるし。
何たって高校最後のクラスなんだからねっ。遠足も、文化祭も、それに体育祭だって。
大事な発表なのに、萌子がのんびりしすぎてんのっ」
今日からは学校行事の全てに『高校最後』という冠がついていくのだ。
それは当然、部活にも同じことが言える。
最後の合宿。
最後の選手権。
ラストチャンス。
来年はないのだと、萌子はその言葉を胸に刻みながら、ボタンをゆっくりと留める。
「あーもーいいっ！先に言ってるからっ」
待ち切れず、飛び出した理香を美都はくすくすと笑う。
「萌子知ってる？理香ね、日比野君と同じクラスになるために、お百度参りしたんだって」
萌子は半分は呆れながらも、理香らしくて可愛いとほほ笑んだ。
どんなことでも篤志のことなら、一生懸命で、ひた向きで、前進あるのみで。羨ましい。
…羨ましい？
今自分が思ったことを、萌子は一瞬疑問に思った。
どうして？何が？そう考え込みそうになり、萌子は慌てて自分の頭をストップさせる。そして気持ちを切り替えようと美都に言った。
「それじゃ、私たちも行こう。また三人で同じクラスになってるといいけど。
あ、まさか美都までお百度参りしたとか言わないでよね」
「うん…そこまでは」
顔を赤らめ俯いた美都を見て、萌子はくすっと笑う。お百度ではなくても、おまじないくらいはってことなのだろう。
ドアを開けると、春の風が桜の花びらを連れて、部屋に舞い込んできた。花びらに視線を奪われ、自然とミーティングルームを萌子はぐるりと見回す。去年のインターハイで優勝した時の写真が目に入った。中央にいるのは、笑顔でカップを持つ朔哉がいる。
萌子は軽くため息をつくと、ドアを閉め、鍵をかけた。
新しいクラスが張り出されている昇降口前には、沢山の人だかりができていた。その中から、理香が急いで飛び出してきた。
「聞いてっ、聞いてっ。あのね、アッチと同じクラスになれたっ」
笑顔の理香に、二人は思わず顔を見合わせる。お百度参りはどうやら効果があるらしい。
「よかったね、理香。それで私たちは？」
「ごめん、見てない。で、アッチ見なかった？」
「見て、ないけど…」
萌子たちが出てくるとき、隣の部室にはまだ部員が着替えているのか、ざわついている音が聞こえた。すると理香は探しに行くと言って、また駆けて行った。
そんな理香の後姿を見て、萌子は思う。理香は、幸せだな、と。
美都から聞いたのだが、篤志が人前で堂々と理香のことを恋人だと言ったらしい。その自信がますます理香を輝かせていた。
小さくため息をついていると、隣で美都が微笑みながら言った。
「お互いの名前見つけたら、教えてね」
二人は左右に別れて、掲示板を見つめる。
萌子は右側、一組からだ。
一組に由太と厳己、三組に右京…。
何となく部員の名前を見つけていく中で、美都が声を上げる。
「どうしたの？」
「和美君と、同じクラス。理香と日比野君も一緒」
えへへと嬉しさを隠しきれないと言った表情の美都を見て、萌子も微笑む。お百度参りもおまじないも、結構効果はあるようだ。
美都におめでとうというと、美都も口を開いた。
「で、萌子は？」
「え？」
「早坂君。一緒のクラスになれた？」
美都には悟られないように、萌子は視線を落として答える。
「まだ自分がどのクラスかもわからないのに、成のクラスまで気が回らないわよ」
そう答える萌子の声に、春の浮ついた空気はない。一人だけ取り残されている、そんな気持ちがした。
「あ、あったよ。萌子、七組だって」
美都に腕を引かれ、顔を上げると、確かに七組のところに自分の名前がある。
「私と理香は八組だから、体育とか一緒だね。あと七組は…湊君だ。あと、友近君と名取君も」
何だか騒がしそうなクラスだな、と萌子が思ったところで、美都が小さく声を上げた。
「あ、早坂君」
近くに成がいるのかと、萌子が思わず顔をあげて、遠慮がちに周囲を見回していると、美都が掲示板を指さした。
「ほら、七組のところにあるよ。早坂成…でしょ？」
美都の指さす方向には、確かに成の名前がある。萌子は戸惑い、顔を強張らせるが、気付かない美都がはしゃいだ声をあげた。
「よかったね、萌子。あ、友近君」
美都が後ろに向かって手を振る。つられて振り返ると、そこには知朗と、その後ろには偶然だろうが湊と成がいた。
「椎名は、何組だったの？」
湊の質問に、美都は笑顔で答える。
「私は八組。それでね、萌子が―」
七組と言う前に、知朗が声を上げる。
「言うなっ。今から俺が探すんだからっ」
そして無理やり人をかき分けると一番前に立ち、右側の一組からじっくりと探し始める。
相変わらずだとため息をつく湊だが、その隣の成は手持無沙汰というように、足元の土を蹴っている。萌子はそんな成を見つめて、知朗に言われた言葉を思い出した。
『部活も学校も全部忘れて、ただ好きだと言えないお前らが、むかつくって言ってんだよ』
あのあとも、結局萌子は成に好きだと言われてはいない。
つまり、それが成の気持ちと言うことなのだろう。
『そんなんじゃ、ない』
それが成の本当の気持ちなんだろう。
萌子のことが好きではない。だから一緒にいても、付き合ってはいない。
そういうことなのだ。
そう思いながら成を見ているだけでも苦しくて、顔を俯かせようとした萌子に、湊が話しかける。
「それで、結局萌子は何組だったの？」
答えようとする前に、前の方で知朗が大声を上げる。
「ぃやったーぁ！三年目にして、初のクラスメートだぞっ、なっ萌子！」
恥ずかしさで逃げ出したくなる萌子のもとに、知朗はまた人の波に逆らってやってくる。
知朗は相変わらずだ。揺るがない。その気持ちが報われようと報われなかろうと、関係ないのだと、いつだって胸を張って正直に生きている。
そんな知朗を羨ましい、と萌子はまた思う。
背伸びをするように少し先の掲示板を見ていた湊が、声を上げた。
「あ、何だ。俺らも一緒だよ、成」
その声に、成も顔を上げ萌子に尋ねた。
「そうなの？」
「うん、七組」
会話する二人を見て、美都は嬉しそうに湊に話しかけた。
「それでね、私と和美君、理香と日比野君は、八組なの」
「へえ。よかったな」
にこにこと笑う美都を見て、萌子はぽつりと呟くように言った。
「…よかったね。美都も、理香も」
すると美都が驚いたように萌子を見つめ返した。
「何言ってるの？萌子だってそうでしょう？よかったでしょう？一緒のクラスで」
美都と湊、成の三人にじっと見つめられ、萌子ははっと我に返る。言葉に詰まってしまった萌子の腕を、戻ってきた知朗が引っ張る。
「萌子っ。早く教室行こうぜ」
有無を言わせぬ強さで、そうして知朗は萌子を下駄箱へと連れて行く。一瞬、成の方を見たが、成は湊と一緒になって掲示板を見ていて知朗を止める様子はない。声をかけようとした萌子だったが、その口からはため息がこぼれるだけだった。
「はぁ」
理香は、新しい教室で、窓際に一人で珍しく静かに外を眺めている篤志を見つけて、後ろからわっと驚かせた。思った以上に篤志は驚き、突然椅子から立ち上がると、犯人が理香であることに気づいて、何だよと言った。
「急に驚かせるなよ」
「だってアッチが一人で黄昏てるんだもん。今は春だよ、春。もっと陽気に行かなきゃ」
そう答えたところで理香は、床に制服のボタンが転がっていることに気づいた。
「ボタン、また取れたの？」
気づいた篤志が、理香より早くボタンを拾う。その素早さに理香は驚きながらも、にっこりと笑って言った。
「糸が弱くなってるのかな。またつけてあげないとね」
「後でいいよ」
でも、と理香が言おうとした時、新しいクラスの担任が入ってきた。理香は仕方なく前の方の自分の席に戻ったが、振りむくと篤志は窓の外を眺めていた。
理香が自分の席に戻るのを見ると、篤志は自分の制服のボタンをひとつ無理やりとった。
これでよし。
この前は一番下のボタンだったから、今度はその一つ上のボタンにした。
理香の疑り深い性格は、身にしみてわかっていたから、前と同じ場所だったりすると、おかしいと思うに違いない。
そうしたところで、篤志はじっと握りしめていた掌をゆっくりと広げる。そこには、朔哉の第二ボタンがあった。制服の胸には朔哉からの手紙。どちらも萌子宛のものだが、拾ってしまってから篤志は毎日持ち歩いている。
担任の挨拶を聞き流しながら、篤志は頬杖をついて窓の外を眺める。微かに見える海は、穏やかだ。
萌子に返そうとはずっと思っていた。けれど、最近の篤志の気持ちは複雑だ。渡したら、萌子は朔哉の元に戻ってしまう。何となくそんな気がしていた。篤志はそれを引き留めたい気持ちに気づいて、思わず息をのむ。篤志にとって朔哉は、憧れの存在だ。その恋人だった萌子も、いってしまえば同じ。
だとしたら、二人がよりを戻すことは、篤志にとっては喜ぶべきことなのだ。だが、今の自分は、そうしてはいけないような気がしている。
朔哉さんが、萌子のことを考えて、成に萌子を託したからか？
でもそれは、心の底では萌子をまだ想っている朔哉の気持ちの表れでもあるのだ。
そこまでして、萌子に幸せになってほしかったんだ。朔哉さんは。
けれど…、と篤志は大きく息を吸い込む。
二人は朔哉さんの思うように進んでいないのかもしれない。
厳己の言うとおりだと思う。恋人という枠に無理やりはめ込まれて、萌子も成もどこか窮屈そうだ。そんな時にこの手紙を渡せば、萌子は成のもとを去り、朔哉のところへ行ってしまうに違いない。
そう、やっぱりこれは萌子に渡すべきじゃないんだ。
朔哉さんの意思を、継がなければ。
だがそう思った篤志は、ふとその矛盾に気づく。そもそもこの手紙は、萌子に渡されているはずのものだったのだ。
あーくそっ。
篤志は机に伏せると頭をかきむしった。ずっとその答えだけが出ないのだ。
どうして朔哉がこの手紙を萌子に渡そうとしたのか。
成に萌子を頼んでおきながら、どうして。
「おい日比野」
急に呼ばれて慌てて顔を上げると、クラス中がこっちを見ている。
「自己紹介、お前の番だぞ」
前の席の新しいクラスメートに言われ、篤志は慌てて立ち上がる。理香が心配そうに自分の方を見ていた。
真新しい教室で、萌子は前の方に座っている成の後姿を見つめながら考えていた。
成の気持ち。成との関係。
はっきりとした言葉にはなったことがない。
そもそも、振られた萌子を成が慰めてくれたのが今の状態になったきっかけだった。そして次の日から、成は萌子の送り迎えをするようになった。
周囲はそれで二人が付き合っているのだと言い始めた。萌子も、成が隣にいてくれることが嬉しかったから、それに成が好きだとわかり始めた頃だったから、素直にそれを受け入れた。
それでも成は何も言わなかった。シャイな性格だから改めて言うのも、と考えているんだろうと萌子は思っていたのに、その淡い期待を打ち壊したのは、他ならぬ成だった。
『そんなんじゃ、ない』
あれから数週間。それなのに、成はまだ萌子の隣にいる。
どうして？
理由は？
何度もそう聞きたかったが、それを口にすれば、今度こそ成が自分の隣から去ってしまう気がして、結局萌子は聞き出せないままでいた。
だからもう、このことについては考えるのはやめよう。
何度も何度もそう思うのに、気付いたらこのことばかり考えてしまう自分がいる。
そして最後には、朔哉のことを思い出している。
だから決めたのだ。
そうなりそうになったら、答えが見えないことを考え始めたら、考えること自体をやめてしまえばいいと。
ため息をつきそうになったところで、隣の席のケンが萌子の腕をつついた。
「萌子。お前の番だぞ」
新しいクラスメートたちの自己紹介が始まっていたのだ。萌子は慌てて立ち上がる。
「沢木萌子です。部活はサッカー部のマネージャーしています。趣味は…」
だがどんなに一生懸命声を張り上げても、成が振り返ることはなかった。
新しい委員などが一通り決まると、今日の授業は終わりになった。
「それじゃ、クラス委員。この資料、後で職員室に届けるように」
担任はそう言うと、さっさと教室を出ていく。教卓の上には、何枚もの書類が三十センチほどの高さに積まれている。萌子は、同じく推薦でもう一人のクラス委員となった湊に声をかけた。
「湊、二人で分けて運ぼう」
「あ…」
その瞬間、湊が困惑した表情を浮かべる。
「ごめん、実は…。監督に呼び出されてるんだ。新入生のことで」
今日から寮にやってきた新一年生も、練習に参加する話は萌子も聞いていた。どうやらその世話係を湊にするらしい。
「そっか。うん。じゃあ大丈夫。私一人でも運べるし」
「他の奴に手伝ってもらえばいいよ。成とか、ケンとかさ」
名前を出されたケンはギクッとして二人の方を見つめると、ひっそりと教室を出て行こうとした。湊は仕方ないというように成を呼ぼうとしたところで、
「それじゃ私が手伝うわ」
と女子生徒の声がした。顔を向けた萌子は思わず息をのむ。
「あ…菅原サン。でも、結構重いと思うよ」
湊までも声を詰まらせる。そこには菅原祥子が立っていたのだ。
卒業式に朔哉と一緒に出て行ったあの頃ショートカットだった祥子の髪は、ショートボブにまで伸びていた。
成のことで頭がいっぱいで萌子は気づいてなかったが、祥子も新しいクラスメートなのだ。
気遣う湊の声に、祥子は明るく答えた。
「大丈夫。私結構力持ちなの。ね、行こう。沢木さん」
祥子はそう言うと、さっさと書類を半分ほど持ち上げて萌子に渡すと、残りをさっさと持ち上げて、呆然としている湊に言った。
「ごめん、ドア開けてくれる？和泉君」
「失礼します」
職員室を出たところで、萌子は祥子に礼を言った。
「ありがとう、菅原さん。助かった」
「ううん。だってこれから一年間は同じ教室にいるわけじゃない。お互い助け合わないとね」
そう言って祥子はにっこりと笑う。
無表情だと色白でどこか冷たい印象を受ける祥子だが、笑うと途端に愛嬌が出た。
本来であれば、恋人だった朔哉を奪ったわけで、萌子にとっては憎むべき相手でもあるはずなのだが、その笑顔を見てるとそんな気持ちにはならなかった。
むしろ心の片隅で、なるほどな、とまで思ってしまったくらいだ。
やはり、朔哉が選んだ人なのだ、と。
つられて萌子も微笑むと、祥子は少し照れた様子で言った。
「それから、祥子って呼んで」
「え？」
「名前。私も、萌子って呼んでもいい？」
「あ…うん」
気さくな雰囲気も好印象だった。
祥子はうーんと腕組みをすると、小さくため息をついた。
「それにしても、名取君ってば逃げ足速いのね。今度こういうことがあったら、真っ先に彼に頼まなきゃ」
「あーダメダメ。ケンってば、そういうことだけは嗅覚が鋭いから、速効で逃げるの」
「確かに逃げ足速そう」
「サッカーでもそうだといいんだけどね」
思わずそう答えると、祥子は萌子を指さして言った。
「流石マネージャー」
「そんなことは―」
ないという前に、萌子は自分の前に差し出された手に気づいた。
「よろしくね、萌子」
思えば去年は隣に理香と美都がいて、何より朔哉がいたから、他のクラスメートと仲良くするような時間がなかった。
新たな出会いに胸を弾ませながら、その手を握り返して、萌子も答える。
「こちらこそ、祥子」
午後の練習はいつもより早く上がった。ダラダラと長時間練習をするよりは、短時間で集中して練習するという石橋のモットーは変わらない。
少し早くにミーティングルームに戻った萌子が部誌をつけていると、練習から上がって部室で着替えている部員たちの声が響いた。どうやら、二つの部屋を行き来するドアが僅かに開いているらしい。そのままにしておくのも何なので、閉めようと立ち上がった萌子に、中の声が聞こえてきた。
「お前のクラスの女、どうよ」
そう聞いているのはケンだ。
「まあまあってとこかな。で。ケンは？」
答えたのはどうやら興仁らしい。まったく、と萌子がため息をついていると、
「俺んとこにゃ、あの沢木萌子嬢がいらっしゃるから」
と冗談めかしたようにケンが答え、部室に笑いが起こった。萌子が文句の一つでも言ってやろうとドアに手をかけようとしたところで、ケンが気になることを口にした。
「そういえばお前、今日の成見たか？あのやつれよう」
「確かに…なんか元気なかったなぁ。何かあったわけ？」
「知らねぇけどさ。やっぱ辛いんじゃねぇの？萌子とクラスまで同じになって」
驚いた萌子と同じように、興仁も「どうしてだよ？」と聞き返した。
「だって考えてみろよ。朔哉さんの後だぞ。嫌でも意識するだろうよ。他の奴らだって、萌子だってさ。
それであいつ無理してんだよ。負けまいとさ。朝だって萌子の為に早く起きてんだぜ。
それなのにさ、部活もクラスも一緒なんて、疲れるに決まってるだろ？」
思い出せば、確かに成はいつもため息をついているし、少し疲れた表情も見せている。
朝…やっぱり無理してたんだ。
「でも仕方ないだろ？あいつは萌子のことが好きなんだから」
無理するのは当然だというように、一馬の声が聞こえてきた。しかしそれにケンは反論する。
「成はそうでも、萌子はどうかわかんねぇじゃん。
成り行きがそうだったけど、あいつだって朔哉さんにふられて、朔哉さんを忘れるために成と一緒にいるんじゃねぇの？やっぱり」
萌子は伸ばしていた手をひっこめた。そしてじっと唇をかみしめると、くるりとドアに背を向け、ミーティングルームを出て行った。
「俺はそんな風に思わないけどなぁ」
最後に言った興仁の言葉は、萌子には届かなかった。
「このシャツ、洗濯したの誰だよ」
部員の洗い物を理香と美都がとりこんでいると、そう言って和美がピンク色のＴシャツを持って怒鳴りこんできた。
「あたしじゃないよ」
理香はそう言うと、持てるだけのタオルを持って、部室へと向かう。残されたのは美都だ。
「お前か？」
美都は小さく頷いた。チッという舌打ちがあってから和美が言った。
「色もんと洗うなって言ってるだろっ。こんな色になっちまったじゃねぇかよ」
和美はそう言うと、乱暴に美都の足元にそれを投げ付ける。洗いたてのＴシャツに土がついて、美都は小声でごめんなさいと言った。しかしそれでも、和美は美都を怒鳴りつけた。
「前もやっただろ？ガキじゃねぇんだから、一度言われたら二度もやんなよ。
いいかげん、甘えんのやめろっ」
そうして言いたいことだけ言うと、和美は泣きそうになっている美都を無視して、踵を返して去っていく。
美都は、足元のＴシャツを拾った。
でも、ピンクもかわいいよ。
その時スパイクが土を蹴る音がして、美都は慌てて涙を拭った。
「椎名？監督が呼んでる」
湊だった。持っていたＴシャツで顔を拭う美都に気づきながらも、湊はそれには何も触れずに言う。
「そのＴシャツ、いい色してるよ」
ゆっくりと顔を上げた時、目の前には湊はいなかった。美都はＴシャツを、ぎゅっと握りしめた。
「はい、できた」
理香から学ランを返されて、篤志はサンキュと答えた。他の部員たちはもう帰っていて、ミーティングルームには篤志と理香しか残っていなかった。ボタンをつけ直した理香は、部用のソーイングセットをしまいながら、ねぇと篤志に話を切り出した。
「何かあったの？この頃おかしいよ、アッチ」
やはり理香は鋭いと、篤志は思う。
でも、ばれちゃいけないんだ。
言わばこれは、篤志と朔哉と萌子の、三人の秘密。
それだけで篤志の心はわくわくした。
「何でもないよ」
「本当に？」
理香がじっと篤志を見つめる。長年の付き合いで、嘘がばれてしまいそうな気がして、篤志は咄嗟に答えた。
「進路のことだよ。これから、大学に行くのか、店継ぐのか。ちょっと考えてたんだ」
実際、考えていることではある。だが、篤志を悩ませるほどではない。理香が探るように尋ねてきた。
「やっぱりお店継いでほしいっておばさん言ってるの？」
「好きにしろとは言ってる。でも、ウチの状況と俺の頭じゃ、学行っても意味ないし、ねぇちゃんはあんなんだし、継ぐんなら俺だと思うし」
「花屋さんか…。うん、それもいいな」
理香の呟きが篤志には聞こえなかった。何と聞き返すと、理香は何でもないと答える。
「篤志はどうしたいの？何になりたいの？」
そう聞かれて篤志は答えにつまる。
将来の夢、それは小さい頃からずっとサッカー選手だった。でも今はわかっている。自分の実力が、プロになるには絶対的に足りないことを。
「…わかんねぇよ」
篤志はそう答えると、理香は楽しそうに言った。
「あたしはずっと、幼稚園の頃から変わってないんだ」
「何？」
弾みで聞いて篤志はしまったと思った。だが、取り消せるわけもなく、理香は照れながら嬉しそうに答える。
「お嫁さん」
最近の理香は、どうも重荷だと篤志は感じた。
「今川、何か言ってたか？」
帰り道、無言のままで歩いていると突然成がそう聞いてきた。
ケンの話を聞いてしまい、一人で先に帰ろうとした萌子だったが、そうしようとしたところで部室に入ろうとする成と鉢合わせになった。無視されるかと思ったら、着替えが済むまで待ってほしいといわれ、こうして一緒に帰ることになった。
だからと言って話すこともなかったはずが、急に史央の名前が出てきて、萌子が思わず聞き返すと、
「ほら…朝、今川がどうとか言ってたから」
とどこかはっきりしない答えが返ってきた。
「別に、試合のこと以外は大したことじゃないわ」
萌子がそう答えると、そっかと成が答えた。
そしてまた、沈黙が続く。
数週間前のあの浮かれた気持ちが、嘘みたいに思えるほど、その沈黙は重い。
一緒にいることが、苦しいなんて、あの時の萌子は思いもしなかった。
それでもなお、萌子は成に傍にいてほしいと思う。
傍にいて、自分の居場所はここなのだと、成に言って欲しい。
自分の隣こそが、萌子の居場所なのだ、と。