Maybe Blue 第三部 誰かのために
儚春5
重苦しい雰囲気の中で、四人は宿舎に帰ってきた。
一人先に部屋へと上がってく成の後姿を萌子が見つめていると、その成とすれ違うようにして知朗が階段を駆け下りてきた。
「萌子っ、萌子ぉっ」
「何？知朗。どうしたの？」
しかし知朗は萌子の話は聞かずに、その両肩を掴むと、興奮した様子で尋ねた。
「殴ってやったのか？今川のこと」
「え？」
「川城のキャプテンの今川史央。小学校の頃、あいつに苛められてたんだろう？その仕返しに行くって聞いたぞ。もっと前に聞いてたら、俺も加勢したのに―」
「誰がそんなこと言ってたの？」
怪訝そうな表情を浮かべ、萌子が知朗にそう尋ねると、知朗は、
「ケン」
と言って、右の方を指さした。そこにはドアの影に隠れるようにして立っていたケンがいた。諦めたのか、ケンは素直に萌子たちの前にやってくると、
「俺はアッチから」
と篤志を指さす。萌子が篤志を見ると、
「いや、そうでも言わないと、ついてきそうな勢いだったからさ…」
とあたふたと返事が返ってきた。どういうことだとお互いを睨みあっている知朗とケンに、萌子は大きくため息をつきながら答えた。
「違う。
確かに今川君とは同じ小学校だったけど、むしろ苛めっ子からは守ってくれた人よ」
そこに理香が口をはさんだ。
「っていうか、萌子の初恋の相手。おまけにカッコよくて紳士的」
「なにっ？」
顔を歪めた知朗を見て、萌子は理香の方を振り返って言った。
「理香ってば、余計なことはいいから。
ごめん、知朗。ちょっと疲れちゃって。
横になりたいから、部屋に戻ってもいいかな」
萌子のその声に、理香と篤志が視線を交わす。言われた方の知朗は、ちらりと萌子を見ると、
「…ああ。わかった」
と素直に答えた。
小さくため息をつき、重い体を引きずるようにして萌子は階段を上がっていく。
その姿を見つめていた理香と篤志に、思わずケンが尋ねた。
「何かあったのか？萌子。何か、沈んでるけど」
「うん…ちょっとね」
そう理香が答えると、いきなり知朗が叫んだ。
「絶対倒す！打倒川城！！」
篤志がため息交じりに言う。
「だから知朗、落ち着けってば」
一人、萌子たちから逃げるように自分の部屋に戻った成は、そのまま逃げるようにして風呂に入る。
だが後輩たちの中に一人いることが気まずくて、ゆっくり湯船につかることもなく、成は髪をぬらしたままで部屋へと戻った。
部屋ではすでに枕投げが始まっていたが、成はそれに参加する気になれず、一人タオルを首にかけて、屋上へと続く階段に腰掛けていた。屋上には鍵がかかっていて上がることはできなかったが、その階段の前には高い窓があって、細い三日月がよく見えた。
「何たそがれてんだよ」
声のする方に視線を落とすと、篤志が立っていた。余計にさっきのことを思い出し、成は無意識で息を大きく吐くと、顔を上げた。無視したというのに、それでも篤志は階段を上り、成の隣に座ると、手に持っていた缶を開けて、一口飲んでから話を続けた。
「どうしてつきあってるって、言ってやらなかったんだよ。
萌子、ショック受けてたぞ」
むろん成は答えない。
自分もあの時の自分の答えを、こうしてじっと考えているところだったのだ。
答えは間違ってはいない。だが、あの時の萌子の反応を思うと、もっと違う言い方があったのではないかと思う。
じゃあ、どんな風に言えばよかったのか？
終わったことを悶々と考え、成はため息をつく。
さっきからその繰り返しだ。
答えない成を気にする風もなく、篤志は淡々と話を続ける。
「毎朝一緒に学校に来て、昼も一緒に食べて、部活が終われば家まで送る。
お前らいつも一緒。
おまけにあの卒業式。公衆の面前で、泣いてる萌子を抱き寄せて。
誰が何と言っても、付き合ってるに決まってるだろ？」
力強くそう言う篤志に、成はぽつりと答えた。
「…勝手なこと言うなよ」
「勝手じゃないよ。俺は、お前と萌子のことを考えて―」
「誰も考えてくれなんて言ってないだろっ。
だいたい篤志の方こそ、小池とはどうなんだよっ、
付き合ってるのか？恋人だって言えるのか？」
何かが成の中ではじけて、気がつけば成はそう篤志に怒鳴り返していた。
「…それは」
口を閉ざす篤志を見て、成はまた自己嫌悪に陥る。二人の複雑な関係は、成だってわかっているはずだった。
そんなことを言いたいんじゃない。
俺は、そうじゃなくて。
だけどその思いは言葉にはならずに、成は苛立ちを抱えたままで篤志を置いて、階段を降りようとした。だが、そんな成を篤志の言葉が引き留めた。
「つきあってるよ。俺と理香は、恋人同士だよ」
そういう成はどうなんだ？
挑むような篤志の言い方に、そう問いかけられた気がして、成は息をのんだ。だが、答える言葉も見つからず、そのまま素直に部屋へと戻ることにした。
篤志の言葉が胸に響いて、これ以上、篤志と一緒にいれば、また言ってはいけないことを言い、傷つけてしまいそうだった。それならば、枕が飛び交う中で、横になって、たまに枕をぶつけられた方がまだましに思えた。
去っていく成の後姿を見つめながら篤志がため息をつくと、
「成が怒鳴るなんて珍しいね。やっぱり、気にしてるんだ」
と声がした。厳己が成と入れ違うように階段の下に立っていた。
「気にしてる？何を？」
そう聞き返す篤志に、厳己は階段を上って篤志の数段下に腰掛けると顔を俯かせて答えた。
「あのさ…僕、聞いちゃったんだよね。偶然。
卒業式の前の日、朔哉さんと成の会話」
「もしかして、追い出し会の時？」
ピンときた篤志がそう言うと、厳己はこくんと頷いた。
「庭でたまにご飯やってたら、二人の声が聞こえてきて。真上が朔哉さんの部屋で、どうも窓が開いてっぽくて」
「何話してたんだよ」
「卒業式が終わったら、グランドに来てくれって。それで、萌子のこと頼むって。自分は萌子のことを傷つけるから。
それで、次の日、ああいうことになって」
声を落とした厳己を、篤志はまるで励ますように声を張り上げて答えた。
「別に問題ないだろ？朔哉さんに頼まれても頼まれなくても、成は萌子のことが好きだったんだから。
萌子だって。…遅かれ早かれ、あいつらは付き合ってたはずだろ？」
少しだけ胸が疼いた。だがそれに気づかぬふりをして、篤志は語気を強めて厳己に言った。だがそれでも、厳己は沈んだ声のまま答えた。
「そうかな。僕は、あの二人のことだから、今のタイミングではまだ付き合ってなかったって思う。
萌子だって朔哉さんから成に気持ちをすっと切り替えられるほど器用なわけじゃないし、成だってそんな萌子を強引に、とは思わないだろうし。
頼まれたとしてもさ…そうやって、気持ちがあるだろう？成にも、萌子にも。
それなのに追い込むみたいに、あんな風に全校生徒の前で、あたかも新カップル誕生、みたいにされてさ。
追いついてないんだと思うんだ。二人の気持ちが。
普通ってきっと、相手のこと好きになって、好きになって、告白して、付き合うんだと思うんだけど、
二人の場合は、初めから決められた恋人っていう型に置かれたっていうか…。もちろん、お互いのこと好きだとは思う、でもその気持ちを強く感じる前に、その関係にされたように思えるんだ」
朔哉を悪く言われている気がして、思わず篤志は言い返していた。
「当たり前だろ？それが朔哉さんの希望で、だからこそ朔哉さんは萌子のことを考えて、わざとああやって自分が悪者になって―」
「だからさ。
そこまで朔哉さんの深い気持ちを見せつけられたら、成だったらどう思うとアッチは思う？」
だが勢い込んだ篤志に、厳己が冷静な声でそう聞き返した。
成だって、萌子のことが好きなはずだ。
けれど、自分を犠牲にするほどの朔哉の深い愛情を見せつけられたら。
…俺だったら、負けたって思うかも、しれない。
それに、萌子の隣にいるのは、自分じゃなくて、朔哉さんが正しいんじゃないかって。
なのに、現実には自分がいる。
周りには、そうすることの方が正しいことのように思われている。
本当は…違うのに。
篤志は、史央に答えた時の成の表情を思い出した。
苦渋に満ちた表情は、決して隣に好きな女の子がいてくれることに幸せを見出しているものではなかった。
ふと気づき、篤志は厳己に尋ねた。
「萌子は…知ってる？その話」
「成が朔哉さんに頼まれたってこと？知らないと思うよ。それに知らない方が、いいと思う。二人のためには」
厳己の意見には、篤志も賛成だった。
「イズ、この話、誰にも言うなよ」
立ち上がり、篤志はそう言い残すと、階段を下りて行った。
消灯時間が過ぎて、もうずいぶんと時間が経ったように思う。
けれど、瞼は全く重くならない。余計なことを考えたくなくて、早く眠りについてしまいたいというのに、ますます頭が冴えて、考えたくないことを考えてしまう。がさがさという音がして、誰かが部屋を出ていったのがわかった。
美都なのか、理香なのか。いずれにしても、きっとそれぞれの相手と逢引するつもりなのだろう。
追いかけるつもりもなく、萌子は寝がえりをうち、窓の外を布団の中からじっと見つめた。
空には限りなく新月に近いほっそりとした三日月が輝いている。
『だって付き合ってるんだろう？二人』
頭の中では、史央の声が響いている。史央は疑う様子もなく、そう言った。だが。
『そんなんじゃ、ない』
成の言葉が、しんしんと萌子の心に積もり、その重さに息苦しさを感じ、思わず大きく息を吐いた。
朔哉を失ったその時から、成は常に萌子の傍にいてくれた。
今までなら一歩引いていた成が、萌子を守るようにして一歩前に立ち、傍にいてくれることが、萌子は嬉しかった。
告白らしき言葉はなかったけれど、それでもいつかは恋人同士になれることを疑ってもいなかった。それは、知朗に問いただされた時もだ。
だけど、成は違った。
いつからなのだろうか。
知朗に言われた時から。
それとも、そのずっと前から。
もしかして…初めから、私のことなんて何とも思っていなかったの？
…そうだとしたら、バカみたいだ。
一人ではしゃいで、喜んで。成の気持ちにも気づかないで。
自然と涙があふれて、枕をぬらした。思わずしゃくりあげそうになったところで、背後から誰かの安らかな寝息が聞こえてくる。
声をあげたら、起こしてしまう。そうしたら、泣いていたこともばれてしまう。
理香と美都の性格から、その理由も当然問い詰めるだろう。
だけど、言えない。
そう萌子は思った。
理香も、美都も、萌子が成と付き合っていると信じているし、二人は幸せなのだと思っている。理香なんかは帰り途中ですら、「あれは照れ隠しだからね」と 何度も力強く言ってくれていたほどだった。それに、朔哉のことで二人には心配をかけていた。何より成が一緒にいるようになったことを、喜んでくれていたの はあの二人なのだ。
二人には、心配かけたくない。
それに…成には、私の隣にいてほしい。
朔哉さんを傷つけてまでして、ようやく気付いた気持ちなのだから。
そう思ったところで、萌子はずっと押さえていた朔哉への想いが、一気にあふれるのを感じた。
朔哉さん…元気にしてるのかな。
大学には慣れたのかな。
サッカー、頑張ってるのかな。
彼女とは、うまくいってるのかな。
朔哉さん…。
会いたいと思ってはいけないことはわかってる。
会えないことも。
でも…。
最後の言葉を噛みしめながら、萌子は涙を流した。
屋上へと続く階段に座り、篤志はため息をつくと、ポケットからボタンを取り出した。
そのボタンは、篤志のものではなく、持ち主は萌子だ。だが、当の萌子はこのボタンが自分に贈られたことすら知らない。
渡すべき何だろうか、萌子に。
渡したら、どうするのだろうか、萌子は。
過去の思い出として、受け取るのだろうか。それとも―。
「ボタン、とれたの？」
いきなり話しかけられて、顔を上げると、篤志の顔を覗き込むようにして正面に理香が立っている。
「何してんだよ」
篤志は声をひそめてそう答えると、慌ててポケットにボタンを戻す。腰を浮かせ、下の様子を伺うが、理香の声に先生たちが見回りに来る気配はなかった。篤志は小さくため息をつくと、隣に座った理香に、諭すように言った。
「消灯時間とっくに過ぎてるぞ。部屋に戻らないと、ばれたら怒られるし。
そもそも、どうして三階に来たんだよ。理香たちは二階―」
「どうしてなんて、アッチに会いに来たにきまってるでしょう？」
月明かりの下で、心なしか理香の頬が赤くなっている気がした。そして理香はふふふと笑いながら恥ずかしそうに身をよじると、
「聞いたんだ。厳己チャンから。アッチが、あたしと付き合ってるって恋人同士だって、はっきりと言ったって」
「あれは―」
成に対する売り言葉に買い言葉みたいなものだ。
そう言えば、成も萌子と付き合っているんだと言い返してくると思ったのだ。…実際には無視されたに等しいけど。
そう言う前に、理香が素早く顔を寄せてきた。逃げる余裕もなく、篤志は自分がキスされたのがわかった。初めてではなかったけれど、漂ってきたシャンプーの香にドキッとした。だが、そのまま体を離そうとしない理香の肩を押し返し、思わず篤志は言う。
「こんなところでやめろって」
「どうして？」
素直にそう聞かれて、篤志は戸惑いながら答える。
「だって。その。
監督に見つかりでもしたら、大目玉だぞ。これから遠征にも連れてってもらえなくなる」
「それでもいい」
「理香」
篤志が責めるように名前を呼ぶと、理香は不満そうにしていたが、諦めたのか腰を落ち着かせて、小さくため息をついた。
「ほんとのこと言うとね、ちょっと不安だったの。
文化祭から結構経ったけど、アッチってば相変わらずだったし。
私もね、今日の萌子みたいなことがあったら、アッチに同じように答えられるのかなってちょっと不安だったんだ」
だから萌子のことが他人事には思えなくて、必死に励ましていたんだとは篤志には言えなかった。代わりに大きく深呼吸をして、理香は腕をからませ篤志の体に身をゆだねる。
「ねえ、アッチはどう思う？」
「どうって？」
「だからあの二人のこと。萌子と、成くん」
二人の名前を出されて、篤志は口ごもりながら答えた。
「…照れ隠しであんな言い方しただけだよ、成は」
本心を言えば、そんな風には思えなかった。そんな余裕すら、成にはないように思えた。篤志の答えを聞いた理香は、でもと続けた。
「でも。萌子はちゃんと言ってほしかったと思うよ。
付き合ってるんだって、恋人同士だって。
そんなんじゃない、なんて。全否定しなくてもよかったのに。だから、萌子も何も言えなくなっちゃって。
ほら、萌子も自分の気持ちには意地っ張りっていうか、素直じゃないっていうか、そういうところあるじゃない。
そう言われたら、そんなことないなんて、言えなくなるでしょう？」
確かに理香の言うとおりだった。それに、成にああ言われて、そんなことはないと成に言い返せるタイプでもない。むしろ自分の気持ちを押し通すことなどせずに、ひっそりと身を引くタイプだ。
「やっぱり…朔哉さんの方がいいのかな」
「え？」
ぽつりと呟いた理香に、思わず篤志は聞き返した。
「萌子には、やっぱり朔哉さんの方がお似合いじゃないかなって。朔哉さんなら、そういう萌子の気持も汲み取って、萌子のこと許して、優しくリードできるじゃない。
でも成くんは、そんな萌子の意地っ張りなところもそのまんまで受け止めちゃうから―」
「そういうこと、言うなよっ。
それに…そんなことないだろ。
萌子は…成のことが好きなんだろ？」
気がついたら、篤志は立ち上がって、声をあげていた。流石に誰かが気づいて様子を見にくるかと、階段の上で身を潜めてみたが、階段を上ってくる足音は聞こえないようで、ほっと安心して座り込んだ。ため息をつくと、理香が小声で言った。
「そうだね。…ごめん」
とはいえ、このまま誰も見回りに来ないとは限らない。篤志は理香に戻ろうと言った。
階段を降りかけたところで、
「ね、さっきのボタン。制服のでしょう？あたし、つけてあげるよ」
と理香が篤志を引き留める。相変わらず目ざといなと思いながら、篤志は答えた。
「ああ。明日な」
寝る前に、ボタンをひとつ取っておかないと、と篤志は心の中でひとりごちた。
大きく欠伸をしながら、成は湊と一緒に洗面所へと向かう。
結局昨日はあまり眠れなかった。おかげで、体も重い。
とはいえ今日はリーグ戦の最終日。その結果で、明日のトーナメント戦の相手も変わってくる。
顔を洗おうと水道の前に立つと、正面の鏡に映った自分の情けない顔が目に付いた。それから逃げるように、成は蛇口をひねると、思い切り水を顔に叩きつけるようにかける。冷たい水に、身も心も引き締まった気がした。
「成」
名前を呼ばれて、タオルで顔を拭きながら顔を上げると、鏡越しに自分の後ろに立っている知朗が見えた。
「ん？おはよう」
「お前に言っておきたいことがある」
「何？今日の試合のこと？」
今日の試合の相手は、平均身長が高い。今までの戦い方では、点を取るのに苦労しそうだとは成も思っていたことだった。
振り返った成を睨みつけるようにして、知朗は口を開く。
「俺は、萌子が好きだ。
昔も今も、これからも、ずっと」
突然の告白に、驚いたのは成だけではなかった。
周りで顔を洗っていた部員たちが、一斉に二人に視線を向ける。成の隣にいた湊も、どこか心配そうに成を見つめていた。
ざわめく中で、それでも自分の正面に立ち、知朗は成をじっと見つめている。その揺るぎないまっすぐな視線の前に、成は何も答えられずに、大きく息を吸い込むと、そのまま逃げるようにして洗面所を出て行った。
「おい、成っ」
ケンが呼び止めたが、成が足を止めるはずもない。あーくそと、ケンは頭をかきむしると、何事もなかったかのように顔を洗い始めた知朗を怒鳴りつけた。
「知朗！お前どうしてそうやって波風立てるようなことばっかするんだよ！
そりゃ、お前が萌子のこと好きだから、割って入りたいのはわかるけど―」
ケンの言葉を遮るように、知朗は顔を上げる。そして、タオルで顔を拭きながら答えた。
「このくらいで壊れるようなら、きっとそれまでだ」
ざわつきが大きくなる。だが、知朗の表情は変わらない。
「え？おい？」
知朗の答えに顔を強張らせたケンを無視して、知朗も洗面所を出て行った。
試合が終わり、グランドから引き上げてくる途中で、今川史央は後ろから肩を叩かれた。振り返るとチームメイトの巧がにやりと笑っている。
「お前絶好調じゃん」
確かに全国でも名の知れた高校相手に、ハットトリックを取るなんて、そうそうあることではない。
だが、相手は本調子ではなった。それに自分のミスも多かったのだ。
「そうでもない」
さらりとそう答えて先に行こうとする史央の肩を、巧は引き寄せると、耳元でささやく。
「っつって。あれだろ？昨日沢木萌子に会ったことが影響してんじゃね？
で、どうだった？どこまでいった？」
史央はため息をつきながら、巧の腕を軽く振り払う。
「誤解するなって巧。そんなんじゃないし、それに他にも凪高の部員が来てた」
「何だソレ？
相変わらず周りのガードが固いってわけか？
くだらねぇ。
で、連絡先くらい聞いたんだろ？」
言われてはっと気づいた。
昨日の夜から、萌子の寂しげな表情ばかりを思い出してばかりで、連絡先のことなどすっかりと忘れていた。
「あ…いや。忘れた」
「忘れた？」
呆れたような巧の声に、はたと史央は気づいて言いなおす。
「あ、でもないけど」
「何だそれ」
その時、川城の監督が巧を呼んだ。声の感じからして、叱りそうな感じだ。巧が、試合中スタミナが切れて歩いていたことを指摘するように思えた。間の抜けた返事をしながら、監督の方に向って歩いてく巧の後姿を見て、史央はため息をひとつついた。
もっと真剣に練習をやれば、凪浜の藤原にも負けないプレーヤーになれるのに。
だが、その巧のおかげで今の川城があることも、史央にはわかっていた。
同じようにグランドを引き上げていく選手の中で、ふと史央は同じ学年でもあるミッドフィルダーの御木本を見つけて、声をかけた。
「そうだ、御木本。お前、この前凪浜のマネージャーと早坂が付き合ってるって言ってただろう？
あれ、本当なのか？」
御木本の妹の友人が、実は凪浜にいるらしく、萌子と成が付き合っているという話も、史央は彼から聞いていたのだ。萌子に話しかける前にも、史央は二人が 歩いているのを見たのだが、楽しそうに話をしていたから、二人は本当に付き合っていると思った。だからこそ、あの時成に言ったのだ。まさか、違うと返事が 返ってくるとは思ってもいなかった。
「ん？俺はそう聞いたけど」
そう答える御木本に嘘はなさそうだった。史央は気になっていたことを尋ねる。
「でもマネージャーは福山さんと付き合ってただろう？そっちは、問題なく別れたのか？」
「って言われても、俺も別に詳しいわけじゃないし。だけど、そのマネージャーは振られたって聞いたよ。そこに、早坂が慰めて、付き合うことになったって。何か人前で派手にやったらしくてさ、妹が電話口で盛り上がって、キャーキャーうるさかったぜ」
「…そうか」
人前で派手に、というところが成や萌子らしくないとは思いながらも、史央はそう答えた。
更衣室代わりの教室に戻ってきたところで、史央はふと思い出し、ブレーカーのポケットを探った。
あった。
そこには理香から渡されたコースターが確かにあった。
春の風に、潮の匂いが混ざる。
この先の道を五分も歩けば、正面には海が広がる。そしてその右手には、学校が見える。
無言のままで歩いていた成は、萌子の言葉にふと気づいたことを口にした。
「今川に、連絡先教えてたんだ」
軽く言ったつもりだったのに、萌子は慌てたように答えた。
「あ、違うの。理香が教えた小池軒にかけて、理香から聞いたんだって。ほら、あの時、理香ってばお店の番号を渡してたらしくて…」
そう言いながら萌子は口ごもる。
あの時、というのは春休みの遠征の時に、成と萌子たち四人と、史央が会った時のことだ。
流石というか、やっぱりというか、小池は抜け目がないな。
篤志は…不安になるようなことはないんだろうか。
『つきあってるよ。俺と理香は、恋人同士だよ』
あの日の夜、成の暴言にも、篤志はきちんとそう答えた。
何年も、ずっと足踏み状態の二人だったはずが、それでもちゃんと前に進んでいる。
俺は…いつか、篤志のようにはっきりと答えられる日が来るんだろうか。
はっきりと、萌子と恋人同士だって。
『どうしてつきあってるって、言ってやらなかったんだよ』
あの日、成はきちんと篤志の問いかけに答えることができなかった。
だって、答えられるわけがない。
萌子にはっきりと否定されるのが怖くて、自分が先に答えたのだ、とは。
情けないとは思う。
弱虫だとも思う。いっそのこと、後ろから蹴り飛ばしてやりたいくらいだ。
けれど、あの時の成は、そんな風に客観的に自分を見る余裕もなかった。
『そんなんじゃ、ない』
そう答えた後も、怖くて萌子の表情を見ることができなかった。
店を出ようとした時に、一瞬萌子の強張った表情が見えて、自分の言った言葉を反省した。けれど、言った言葉はもう取り返せない。
深く刻まれた心の傷も、そう簡単には治ってくれない。
それに。
成は小さくため息をついた。
あんな萌子の表情を見たら、どうしたって、考えてしまう。
やっぱり萌子はまだ福山さんのことが好きなんだ、って。
それは僅かな時間だったけれど、気付いた成は、思わず息を止めて萌子を見つめていた。
史央の口から名前が出ただけで瞳を見開いて潤ませ、篤志が書きとめた連絡先は見てはいけないものだと必死で目をそむけていた。
実のところ、成も朔哉本人から連絡先をもらっている。だが、萌子が連絡先を知らないことを成に教えたのは篤志だった。
「萌子に知らせないっていうのは朔哉さんの意思なんだよね。でも、成に直接渡したってことは、成が決めていいってことだよ」
何を？と尋ねると、篤志はだからと真剣に言った。
「だから、萌子に知らせるかどうかは、お前次第ってこと」
萌子は…きっと知りたいのだと思う。
何より、朔哉に会いたいのだと。
だから、と成は心を決める。
だから、俺は渡さない。
福山さんとも約束したんだ。
萌子は、俺が守る。
例え…心は俺になくても。
一人先に部屋へと上がってく成の後姿を萌子が見つめていると、その成とすれ違うようにして知朗が階段を駆け下りてきた。
「萌子っ、萌子ぉっ」
「何？知朗。どうしたの？」
しかし知朗は萌子の話は聞かずに、その両肩を掴むと、興奮した様子で尋ねた。
「殴ってやったのか？今川のこと」
「え？」
「川城のキャプテンの今川史央。小学校の頃、あいつに苛められてたんだろう？その仕返しに行くって聞いたぞ。もっと前に聞いてたら、俺も加勢したのに―」
「誰がそんなこと言ってたの？」
怪訝そうな表情を浮かべ、萌子が知朗にそう尋ねると、知朗は、
「ケン」
と言って、右の方を指さした。そこにはドアの影に隠れるようにして立っていたケンがいた。諦めたのか、ケンは素直に萌子たちの前にやってくると、
「俺はアッチから」
と篤志を指さす。萌子が篤志を見ると、
「いや、そうでも言わないと、ついてきそうな勢いだったからさ…」
とあたふたと返事が返ってきた。どういうことだとお互いを睨みあっている知朗とケンに、萌子は大きくため息をつきながら答えた。
「違う。
確かに今川君とは同じ小学校だったけど、むしろ苛めっ子からは守ってくれた人よ」
そこに理香が口をはさんだ。
「っていうか、萌子の初恋の相手。おまけにカッコよくて紳士的」
「なにっ？」
顔を歪めた知朗を見て、萌子は理香の方を振り返って言った。
「理香ってば、余計なことはいいから。
ごめん、知朗。ちょっと疲れちゃって。
横になりたいから、部屋に戻ってもいいかな」
萌子のその声に、理香と篤志が視線を交わす。言われた方の知朗は、ちらりと萌子を見ると、
「…ああ。わかった」
と素直に答えた。
小さくため息をつき、重い体を引きずるようにして萌子は階段を上がっていく。
その姿を見つめていた理香と篤志に、思わずケンが尋ねた。
「何かあったのか？萌子。何か、沈んでるけど」
「うん…ちょっとね」
そう理香が答えると、いきなり知朗が叫んだ。
「絶対倒す！打倒川城！！」
篤志がため息交じりに言う。
「だから知朗、落ち着けってば」
一人、萌子たちから逃げるように自分の部屋に戻った成は、そのまま逃げるようにして風呂に入る。
だが後輩たちの中に一人いることが気まずくて、ゆっくり湯船につかることもなく、成は髪をぬらしたままで部屋へと戻った。
部屋ではすでに枕投げが始まっていたが、成はそれに参加する気になれず、一人タオルを首にかけて、屋上へと続く階段に腰掛けていた。屋上には鍵がかかっていて上がることはできなかったが、その階段の前には高い窓があって、細い三日月がよく見えた。
「何たそがれてんだよ」
声のする方に視線を落とすと、篤志が立っていた。余計にさっきのことを思い出し、成は無意識で息を大きく吐くと、顔を上げた。無視したというのに、それでも篤志は階段を上り、成の隣に座ると、手に持っていた缶を開けて、一口飲んでから話を続けた。
「どうしてつきあってるって、言ってやらなかったんだよ。
萌子、ショック受けてたぞ」
むろん成は答えない。
自分もあの時の自分の答えを、こうしてじっと考えているところだったのだ。
答えは間違ってはいない。だが、あの時の萌子の反応を思うと、もっと違う言い方があったのではないかと思う。
じゃあ、どんな風に言えばよかったのか？
終わったことを悶々と考え、成はため息をつく。
さっきからその繰り返しだ。
答えない成を気にする風もなく、篤志は淡々と話を続ける。
「毎朝一緒に学校に来て、昼も一緒に食べて、部活が終われば家まで送る。
お前らいつも一緒。
おまけにあの卒業式。公衆の面前で、泣いてる萌子を抱き寄せて。
誰が何と言っても、付き合ってるに決まってるだろ？」
力強くそう言う篤志に、成はぽつりと答えた。
「…勝手なこと言うなよ」
「勝手じゃないよ。俺は、お前と萌子のことを考えて―」
「誰も考えてくれなんて言ってないだろっ。
だいたい篤志の方こそ、小池とはどうなんだよっ、
付き合ってるのか？恋人だって言えるのか？」
何かが成の中ではじけて、気がつけば成はそう篤志に怒鳴り返していた。
「…それは」
口を閉ざす篤志を見て、成はまた自己嫌悪に陥る。二人の複雑な関係は、成だってわかっているはずだった。
そんなことを言いたいんじゃない。
俺は、そうじゃなくて。
だけどその思いは言葉にはならずに、成は苛立ちを抱えたままで篤志を置いて、階段を降りようとした。だが、そんな成を篤志の言葉が引き留めた。
「つきあってるよ。俺と理香は、恋人同士だよ」
そういう成はどうなんだ？
挑むような篤志の言い方に、そう問いかけられた気がして、成は息をのんだ。だが、答える言葉も見つからず、そのまま素直に部屋へと戻ることにした。
篤志の言葉が胸に響いて、これ以上、篤志と一緒にいれば、また言ってはいけないことを言い、傷つけてしまいそうだった。それならば、枕が飛び交う中で、横になって、たまに枕をぶつけられた方がまだましに思えた。
去っていく成の後姿を見つめながら篤志がため息をつくと、
「成が怒鳴るなんて珍しいね。やっぱり、気にしてるんだ」
と声がした。厳己が成と入れ違うように階段の下に立っていた。
「気にしてる？何を？」
そう聞き返す篤志に、厳己は階段を上って篤志の数段下に腰掛けると顔を俯かせて答えた。
「あのさ…僕、聞いちゃったんだよね。偶然。
卒業式の前の日、朔哉さんと成の会話」
「もしかして、追い出し会の時？」
ピンときた篤志がそう言うと、厳己はこくんと頷いた。
「庭でたまにご飯やってたら、二人の声が聞こえてきて。真上が朔哉さんの部屋で、どうも窓が開いてっぽくて」
「何話してたんだよ」
「卒業式が終わったら、グランドに来てくれって。それで、萌子のこと頼むって。自分は萌子のことを傷つけるから。
それで、次の日、ああいうことになって」
声を落とした厳己を、篤志はまるで励ますように声を張り上げて答えた。
「別に問題ないだろ？朔哉さんに頼まれても頼まれなくても、成は萌子のことが好きだったんだから。
萌子だって。…遅かれ早かれ、あいつらは付き合ってたはずだろ？」
少しだけ胸が疼いた。だがそれに気づかぬふりをして、篤志は語気を強めて厳己に言った。だがそれでも、厳己は沈んだ声のまま答えた。
「そうかな。僕は、あの二人のことだから、今のタイミングではまだ付き合ってなかったって思う。
萌子だって朔哉さんから成に気持ちをすっと切り替えられるほど器用なわけじゃないし、成だってそんな萌子を強引に、とは思わないだろうし。
頼まれたとしてもさ…そうやって、気持ちがあるだろう？成にも、萌子にも。
それなのに追い込むみたいに、あんな風に全校生徒の前で、あたかも新カップル誕生、みたいにされてさ。
追いついてないんだと思うんだ。二人の気持ちが。
普通ってきっと、相手のこと好きになって、好きになって、告白して、付き合うんだと思うんだけど、
二人の場合は、初めから決められた恋人っていう型に置かれたっていうか…。もちろん、お互いのこと好きだとは思う、でもその気持ちを強く感じる前に、その関係にされたように思えるんだ」
朔哉を悪く言われている気がして、思わず篤志は言い返していた。
「当たり前だろ？それが朔哉さんの希望で、だからこそ朔哉さんは萌子のことを考えて、わざとああやって自分が悪者になって―」
「だからさ。
そこまで朔哉さんの深い気持ちを見せつけられたら、成だったらどう思うとアッチは思う？」
だが勢い込んだ篤志に、厳己が冷静な声でそう聞き返した。
成だって、萌子のことが好きなはずだ。
けれど、自分を犠牲にするほどの朔哉の深い愛情を見せつけられたら。
…俺だったら、負けたって思うかも、しれない。
それに、萌子の隣にいるのは、自分じゃなくて、朔哉さんが正しいんじゃないかって。
なのに、現実には自分がいる。
周りには、そうすることの方が正しいことのように思われている。
本当は…違うのに。
篤志は、史央に答えた時の成の表情を思い出した。
苦渋に満ちた表情は、決して隣に好きな女の子がいてくれることに幸せを見出しているものではなかった。
ふと気づき、篤志は厳己に尋ねた。
「萌子は…知ってる？その話」
「成が朔哉さんに頼まれたってこと？知らないと思うよ。それに知らない方が、いいと思う。二人のためには」
厳己の意見には、篤志も賛成だった。
「イズ、この話、誰にも言うなよ」
立ち上がり、篤志はそう言い残すと、階段を下りて行った。
消灯時間が過ぎて、もうずいぶんと時間が経ったように思う。
けれど、瞼は全く重くならない。余計なことを考えたくなくて、早く眠りについてしまいたいというのに、ますます頭が冴えて、考えたくないことを考えてしまう。がさがさという音がして、誰かが部屋を出ていったのがわかった。
美都なのか、理香なのか。いずれにしても、きっとそれぞれの相手と逢引するつもりなのだろう。
追いかけるつもりもなく、萌子は寝がえりをうち、窓の外を布団の中からじっと見つめた。
空には限りなく新月に近いほっそりとした三日月が輝いている。
『だって付き合ってるんだろう？二人』
頭の中では、史央の声が響いている。史央は疑う様子もなく、そう言った。だが。
『そんなんじゃ、ない』
成の言葉が、しんしんと萌子の心に積もり、その重さに息苦しさを感じ、思わず大きく息を吐いた。
朔哉を失ったその時から、成は常に萌子の傍にいてくれた。
今までなら一歩引いていた成が、萌子を守るようにして一歩前に立ち、傍にいてくれることが、萌子は嬉しかった。
告白らしき言葉はなかったけれど、それでもいつかは恋人同士になれることを疑ってもいなかった。それは、知朗に問いただされた時もだ。
だけど、成は違った。
いつからなのだろうか。
知朗に言われた時から。
それとも、そのずっと前から。
もしかして…初めから、私のことなんて何とも思っていなかったの？
…そうだとしたら、バカみたいだ。
一人ではしゃいで、喜んで。成の気持ちにも気づかないで。
自然と涙があふれて、枕をぬらした。思わずしゃくりあげそうになったところで、背後から誰かの安らかな寝息が聞こえてくる。
声をあげたら、起こしてしまう。そうしたら、泣いていたこともばれてしまう。
理香と美都の性格から、その理由も当然問い詰めるだろう。
だけど、言えない。
そう萌子は思った。
理香も、美都も、萌子が成と付き合っていると信じているし、二人は幸せなのだと思っている。理香なんかは帰り途中ですら、「あれは照れ隠しだからね」と 何度も力強く言ってくれていたほどだった。それに、朔哉のことで二人には心配をかけていた。何より成が一緒にいるようになったことを、喜んでくれていたの はあの二人なのだ。
二人には、心配かけたくない。
それに…成には、私の隣にいてほしい。
朔哉さんを傷つけてまでして、ようやく気付いた気持ちなのだから。
そう思ったところで、萌子はずっと押さえていた朔哉への想いが、一気にあふれるのを感じた。
朔哉さん…元気にしてるのかな。
大学には慣れたのかな。
サッカー、頑張ってるのかな。
彼女とは、うまくいってるのかな。
朔哉さん…。
会いたいと思ってはいけないことはわかってる。
会えないことも。
でも…。
最後の言葉を噛みしめながら、萌子は涙を流した。
屋上へと続く階段に座り、篤志はため息をつくと、ポケットからボタンを取り出した。
そのボタンは、篤志のものではなく、持ち主は萌子だ。だが、当の萌子はこのボタンが自分に贈られたことすら知らない。
渡すべき何だろうか、萌子に。
渡したら、どうするのだろうか、萌子は。
過去の思い出として、受け取るのだろうか。それとも―。
「ボタン、とれたの？」
いきなり話しかけられて、顔を上げると、篤志の顔を覗き込むようにして正面に理香が立っている。
「何してんだよ」
篤志は声をひそめてそう答えると、慌ててポケットにボタンを戻す。腰を浮かせ、下の様子を伺うが、理香の声に先生たちが見回りに来る気配はなかった。篤志は小さくため息をつくと、隣に座った理香に、諭すように言った。
「消灯時間とっくに過ぎてるぞ。部屋に戻らないと、ばれたら怒られるし。
そもそも、どうして三階に来たんだよ。理香たちは二階―」
「どうしてなんて、アッチに会いに来たにきまってるでしょう？」
月明かりの下で、心なしか理香の頬が赤くなっている気がした。そして理香はふふふと笑いながら恥ずかしそうに身をよじると、
「聞いたんだ。厳己チャンから。アッチが、あたしと付き合ってるって恋人同士だって、はっきりと言ったって」
「あれは―」
成に対する売り言葉に買い言葉みたいなものだ。
そう言えば、成も萌子と付き合っているんだと言い返してくると思ったのだ。…実際には無視されたに等しいけど。
そう言う前に、理香が素早く顔を寄せてきた。逃げる余裕もなく、篤志は自分がキスされたのがわかった。初めてではなかったけれど、漂ってきたシャンプーの香にドキッとした。だが、そのまま体を離そうとしない理香の肩を押し返し、思わず篤志は言う。
「こんなところでやめろって」
「どうして？」
素直にそう聞かれて、篤志は戸惑いながら答える。
「だって。その。
監督に見つかりでもしたら、大目玉だぞ。これから遠征にも連れてってもらえなくなる」
「それでもいい」
「理香」
篤志が責めるように名前を呼ぶと、理香は不満そうにしていたが、諦めたのか腰を落ち着かせて、小さくため息をついた。
「ほんとのこと言うとね、ちょっと不安だったの。
文化祭から結構経ったけど、アッチってば相変わらずだったし。
私もね、今日の萌子みたいなことがあったら、アッチに同じように答えられるのかなってちょっと不安だったんだ」
だから萌子のことが他人事には思えなくて、必死に励ましていたんだとは篤志には言えなかった。代わりに大きく深呼吸をして、理香は腕をからませ篤志の体に身をゆだねる。
「ねえ、アッチはどう思う？」
「どうって？」
「だからあの二人のこと。萌子と、成くん」
二人の名前を出されて、篤志は口ごもりながら答えた。
「…照れ隠しであんな言い方しただけだよ、成は」
本心を言えば、そんな風には思えなかった。そんな余裕すら、成にはないように思えた。篤志の答えを聞いた理香は、でもと続けた。
「でも。萌子はちゃんと言ってほしかったと思うよ。
付き合ってるんだって、恋人同士だって。
そんなんじゃない、なんて。全否定しなくてもよかったのに。だから、萌子も何も言えなくなっちゃって。
ほら、萌子も自分の気持ちには意地っ張りっていうか、素直じゃないっていうか、そういうところあるじゃない。
そう言われたら、そんなことないなんて、言えなくなるでしょう？」
確かに理香の言うとおりだった。それに、成にああ言われて、そんなことはないと成に言い返せるタイプでもない。むしろ自分の気持ちを押し通すことなどせずに、ひっそりと身を引くタイプだ。
「やっぱり…朔哉さんの方がいいのかな」
「え？」
ぽつりと呟いた理香に、思わず篤志は聞き返した。
「萌子には、やっぱり朔哉さんの方がお似合いじゃないかなって。朔哉さんなら、そういう萌子の気持も汲み取って、萌子のこと許して、優しくリードできるじゃない。
でも成くんは、そんな萌子の意地っ張りなところもそのまんまで受け止めちゃうから―」
「そういうこと、言うなよっ。
それに…そんなことないだろ。
萌子は…成のことが好きなんだろ？」
気がついたら、篤志は立ち上がって、声をあげていた。流石に誰かが気づいて様子を見にくるかと、階段の上で身を潜めてみたが、階段を上ってくる足音は聞こえないようで、ほっと安心して座り込んだ。ため息をつくと、理香が小声で言った。
「そうだね。…ごめん」
とはいえ、このまま誰も見回りに来ないとは限らない。篤志は理香に戻ろうと言った。
階段を降りかけたところで、
「ね、さっきのボタン。制服のでしょう？あたし、つけてあげるよ」
と理香が篤志を引き留める。相変わらず目ざといなと思いながら、篤志は答えた。
「ああ。明日な」
寝る前に、ボタンをひとつ取っておかないと、と篤志は心の中でひとりごちた。
大きく欠伸をしながら、成は湊と一緒に洗面所へと向かう。
結局昨日はあまり眠れなかった。おかげで、体も重い。
とはいえ今日はリーグ戦の最終日。その結果で、明日のトーナメント戦の相手も変わってくる。
顔を洗おうと水道の前に立つと、正面の鏡に映った自分の情けない顔が目に付いた。それから逃げるように、成は蛇口をひねると、思い切り水を顔に叩きつけるようにかける。冷たい水に、身も心も引き締まった気がした。
「成」
名前を呼ばれて、タオルで顔を拭きながら顔を上げると、鏡越しに自分の後ろに立っている知朗が見えた。
「ん？おはよう」
「お前に言っておきたいことがある」
「何？今日の試合のこと？」
今日の試合の相手は、平均身長が高い。今までの戦い方では、点を取るのに苦労しそうだとは成も思っていたことだった。
振り返った成を睨みつけるようにして、知朗は口を開く。
「俺は、萌子が好きだ。
昔も今も、これからも、ずっと」
突然の告白に、驚いたのは成だけではなかった。
周りで顔を洗っていた部員たちが、一斉に二人に視線を向ける。成の隣にいた湊も、どこか心配そうに成を見つめていた。
ざわめく中で、それでも自分の正面に立ち、知朗は成をじっと見つめている。その揺るぎないまっすぐな視線の前に、成は何も答えられずに、大きく息を吸い込むと、そのまま逃げるようにして洗面所を出て行った。
「おい、成っ」
ケンが呼び止めたが、成が足を止めるはずもない。あーくそと、ケンは頭をかきむしると、何事もなかったかのように顔を洗い始めた知朗を怒鳴りつけた。
「知朗！お前どうしてそうやって波風立てるようなことばっかするんだよ！
そりゃ、お前が萌子のこと好きだから、割って入りたいのはわかるけど―」
ケンの言葉を遮るように、知朗は顔を上げる。そして、タオルで顔を拭きながら答えた。
「このくらいで壊れるようなら、きっとそれまでだ」
ざわつきが大きくなる。だが、知朗の表情は変わらない。
「え？おい？」
知朗の答えに顔を強張らせたケンを無視して、知朗も洗面所を出て行った。
試合が終わり、グランドから引き上げてくる途中で、今川史央は後ろから肩を叩かれた。振り返るとチームメイトの巧がにやりと笑っている。
「お前絶好調じゃん」
確かに全国でも名の知れた高校相手に、ハットトリックを取るなんて、そうそうあることではない。
だが、相手は本調子ではなった。それに自分のミスも多かったのだ。
「そうでもない」
さらりとそう答えて先に行こうとする史央の肩を、巧は引き寄せると、耳元でささやく。
「っつって。あれだろ？昨日沢木萌子に会ったことが影響してんじゃね？
で、どうだった？どこまでいった？」
史央はため息をつきながら、巧の腕を軽く振り払う。
「誤解するなって巧。そんなんじゃないし、それに他にも凪高の部員が来てた」
「何だソレ？
相変わらず周りのガードが固いってわけか？
くだらねぇ。
で、連絡先くらい聞いたんだろ？」
言われてはっと気づいた。
昨日の夜から、萌子の寂しげな表情ばかりを思い出してばかりで、連絡先のことなどすっかりと忘れていた。
「あ…いや。忘れた」
「忘れた？」
呆れたような巧の声に、はたと史央は気づいて言いなおす。
「あ、でもないけど」
「何だそれ」
その時、川城の監督が巧を呼んだ。声の感じからして、叱りそうな感じだ。巧が、試合中スタミナが切れて歩いていたことを指摘するように思えた。間の抜けた返事をしながら、監督の方に向って歩いてく巧の後姿を見て、史央はため息をひとつついた。
もっと真剣に練習をやれば、凪浜の藤原にも負けないプレーヤーになれるのに。
だが、その巧のおかげで今の川城があることも、史央にはわかっていた。
同じようにグランドを引き上げていく選手の中で、ふと史央は同じ学年でもあるミッドフィルダーの御木本を見つけて、声をかけた。
「そうだ、御木本。お前、この前凪浜のマネージャーと早坂が付き合ってるって言ってただろう？
あれ、本当なのか？」
御木本の妹の友人が、実は凪浜にいるらしく、萌子と成が付き合っているという話も、史央は彼から聞いていたのだ。萌子に話しかける前にも、史央は二人が 歩いているのを見たのだが、楽しそうに話をしていたから、二人は本当に付き合っていると思った。だからこそ、あの時成に言ったのだ。まさか、違うと返事が 返ってくるとは思ってもいなかった。
「ん？俺はそう聞いたけど」
そう答える御木本に嘘はなさそうだった。史央は気になっていたことを尋ねる。
「でもマネージャーは福山さんと付き合ってただろう？そっちは、問題なく別れたのか？」
「って言われても、俺も別に詳しいわけじゃないし。だけど、そのマネージャーは振られたって聞いたよ。そこに、早坂が慰めて、付き合うことになったって。何か人前で派手にやったらしくてさ、妹が電話口で盛り上がって、キャーキャーうるさかったぜ」
「…そうか」
人前で派手に、というところが成や萌子らしくないとは思いながらも、史央はそう答えた。
更衣室代わりの教室に戻ってきたところで、史央はふと思い出し、ブレーカーのポケットを探った。
あった。
そこには理香から渡されたコースターが確かにあった。
春の風に、潮の匂いが混ざる。
この先の道を五分も歩けば、正面には海が広がる。そしてその右手には、学校が見える。
無言のままで歩いていた成は、萌子の言葉にふと気づいたことを口にした。
「今川に、連絡先教えてたんだ」
軽く言ったつもりだったのに、萌子は慌てたように答えた。
「あ、違うの。理香が教えた小池軒にかけて、理香から聞いたんだって。ほら、あの時、理香ってばお店の番号を渡してたらしくて…」
そう言いながら萌子は口ごもる。
あの時、というのは春休みの遠征の時に、成と萌子たち四人と、史央が会った時のことだ。
流石というか、やっぱりというか、小池は抜け目がないな。
篤志は…不安になるようなことはないんだろうか。
『つきあってるよ。俺と理香は、恋人同士だよ』
あの日の夜、成の暴言にも、篤志はきちんとそう答えた。
何年も、ずっと足踏み状態の二人だったはずが、それでもちゃんと前に進んでいる。
俺は…いつか、篤志のようにはっきりと答えられる日が来るんだろうか。
はっきりと、萌子と恋人同士だって。
『どうしてつきあってるって、言ってやらなかったんだよ』
あの日、成はきちんと篤志の問いかけに答えることができなかった。
だって、答えられるわけがない。
萌子にはっきりと否定されるのが怖くて、自分が先に答えたのだ、とは。
情けないとは思う。
弱虫だとも思う。いっそのこと、後ろから蹴り飛ばしてやりたいくらいだ。
けれど、あの時の成は、そんな風に客観的に自分を見る余裕もなかった。
『そんなんじゃ、ない』
そう答えた後も、怖くて萌子の表情を見ることができなかった。
店を出ようとした時に、一瞬萌子の強張った表情が見えて、自分の言った言葉を反省した。けれど、言った言葉はもう取り返せない。
深く刻まれた心の傷も、そう簡単には治ってくれない。
それに。
成は小さくため息をついた。
あんな萌子の表情を見たら、どうしたって、考えてしまう。
やっぱり萌子はまだ福山さんのことが好きなんだ、って。
それは僅かな時間だったけれど、気付いた成は、思わず息を止めて萌子を見つめていた。
史央の口から名前が出ただけで瞳を見開いて潤ませ、篤志が書きとめた連絡先は見てはいけないものだと必死で目をそむけていた。
実のところ、成も朔哉本人から連絡先をもらっている。だが、萌子が連絡先を知らないことを成に教えたのは篤志だった。
「萌子に知らせないっていうのは朔哉さんの意思なんだよね。でも、成に直接渡したってことは、成が決めていいってことだよ」
何を？と尋ねると、篤志はだからと真剣に言った。
「だから、萌子に知らせるかどうかは、お前次第ってこと」
萌子は…きっと知りたいのだと思う。
何より、朔哉に会いたいのだと。
だから、と成は心を決める。
だから、俺は渡さない。
福山さんとも約束したんだ。
萌子は、俺が守る。
例え…心は俺になくても。