Maybe Blue 第三部 誰かのために
儚春4
「ほら行くよ。萌子」
買だしがあると石橋には説明をして、萌子と理香は宿舎を出た。
「うん…」
張り切っている理香とは違って、萌子の気持ちはどこか複雑だ。萌子は自分の少し先を歩く成の背中に話しかけた。
「ごめんね、成」
「何が？」
「だって、試合で疲れてるでしょう」
成は萌子に背中を見せたままで、小さく呟いた。
「別に…このくらい、平気だよ。
それに…」
そう言って成は言葉を詰まらせ、立ち止まる。萌子も自然と足を止めた。
それに？
俯いた成のその先の言葉を聞きたいと思う萌子だが、その沈黙を理香の声が破る。
「萌子？急がないと遅れちゃうよ」
「…うん」
先を歩いていた理香は、戻ってくると萌子の腕をとり、歩き出す。
すれ違う瞬間、俯いていた成が顔を上げたのはわかったが、萌子にはその表情までは読み取れなかった。後ろを歩く成に気を取られながらも、萌子は理香の話に付き合う。
「それにしても、ライバル校のキャプテンが初恋の相手だって気づかないなんて、萌子ってば肝心なところで鈍感なんだから。
試合中、どこ見てたのよ」
「そりゃ、ボールだよ。理香みたく、敵チームのキャプテン見て声あげたりしないの、萌子は」
萌子に代わって答えた篤志に、理香が楽しそうに言い返す。
「まったくもうっ、アッチってばやきもち？」
「違うって」
萌子は正直に答えた。
「苗字が違ってたの。名前だって、本当に今川シオって名前だと思ってたし。
それに実際に川城と試合したのは、去年の選手権予選の県決勝と、今年の新人戦でしょう？
それまでは、戦ったことなかったし、ノーマークだったじゃない。
新人戦は今川君インフルエンザで出場してなかったし」
偶然なのだろうが、川城との対戦記録は少なくとも去年の試合まで、萌子たちが凪高に入ってきてからはなかった。
会場ですれ違うことはあったかもしれないが、萌子は仕事が忙しかったし、それにこんな場所で顔を合わせるとは思っていなかったのだ。
だが理香は納得がいかないのか、でも、と言葉を続けた。
「でも去年の県決勝は？萌子だって、ベンチにいたじゃない」
「あの時は―」
言葉より先に、萌子は朔哉のことを思い出していた。
去年の秋の県決勝。萌子は、一人責任を背負い込み、怪我を押してまで試合に出そうな勢いの朔哉のことが心配で仕方なく、相手チームはおろか、自分のチームのことにも気を配っていなかったのだ。
あの時は、朔哉さんのことで頭がいっぱいで。
だがそう答えてはいけない気がして、萌子が黙り込むと、ちょうどよく篤志が叫んだ。
「ついたぞ！」
指さす先には、史央が地図に書いたのと同じ名前の店がある。
「萌子、行こう！」
理香がそう答えると、萌子の腕を強くひいた。
その理香の言葉に、自然と萌子は史央と顔を合わせた最後の日を思い出していた。
「行こう」
声変わりし始めた声でそう言い、萌子の手を引っ張った史央は、そのまま萌子に自分のコートをかけた。それから脇に置いてあった松葉杖を萌子に持たせると、その反対側に回り込み、萌子の体を支えた。
そこからの記憶は夢のようにおぼろげだ。
病院を出て、やってきたバスに乗って駅へと向かう。そして、やってきた電車に乗り込んだ。そのまましばらく乗っていたが、ふと自分たちを訝しそうに見て いる大人に気づいた史央が萌子の手を引き、電車を降りた。そこは山奥の無人駅で、ホームにもベンチしかなかった。二人はそこに腰かけた。
日が落ちて、裸足のままだった萌子が足先を寒そうに摩っていると、史央が萌子の前に跪き、その膝に萌子の足を乗せて両手で包みこんだ。冬が近い秋の日 だった。コートは萌子に着せたままだったから、史央もセーター一枚で寒そうにしていたのを覚えている。それでも史央は、徐々に萌子の足が温まってくるのを 感じると、嬉しそうに微笑んだ。
日が完全に落ちる頃には、二人して史央のコートにくるまっていた。史央が震えていることに萌子が気づいてコートを脱ごうとしたのだが、それを史央が許す はずもなく、そうなったのだ。周囲に街灯などほとんどない小さな駅だった。二人の吐く息は白く、夜空に舞いあがっていた。この先どうするとか、考えなけれ ばならないと思いつつも、今このままでいたいという気持ちが強く、二人の間にほとんど言葉はなかった。
少しして、電車が止まった。夜も遅くなってきたからか、車内の人の数もまばらになっていた。電車は萌子たちを乗せることなく、ドアが閉まろうとする。その時、ふいにホームに駅員が下りてきて、二人を見つけた。
「君たち…ここで何をしてるんだい？」
連れ戻されると思った史央が慌てて萌子の手を引いた。だが怪我をしている萌子が走れるわけもなく、そうして二人は呆気なく捕まった。
連れて行かれたのは、その隣の駅の警察署。一時間ほどでやってきたのは、萌子の母親と祖母だった。母親は、病院で見た以上に髪も乱れ、化粧もしていない血色の悪い顔をしていた。
「萌子っ」
母親はそう叫ぶと、萌子を思い切り抱きしめていた。
「心配したんだからっ」
そう言うと、声をあげて泣き始める。だが萌子はというと、顔色ひとつ変えずに、されるがままになっていた。
何か答えればいいのに、萌子には言葉が見つからない。すると、突然母親が萌子から手を離し、史央に向かって怒鳴った。
「どこの誰だか知らないけど、ウチの子をどうするつもりだったの？これも立派な誘拐よっ」
お母さんやめて、と萌子が言う前に、母親は震わせながら右手を高く上げた。母親がしようとしていることがわかり、思わず萌子は「お母さん」と言ったが、その掠れた声を遮るように、大人の女性の声が廊下に響いた。
「ふみちかっ」
その女性は、母親の前で覚悟を決めて目を瞑っていた史央の肩を掴むと、自分の方に向かせて、思い切りその頬を叩いた。激しい音がして、史央が床に倒れる。
誰なんだろうと思う萌子の前で、その女性は唖然としていた母親に向かって深く頭を下げている。
「申し訳ございませんでした。うちの子が、ご迷惑をおかけして、本当に本当にすみませんでした。
家に帰ってきちんと言い聞かせますので、どうか許していただけないでしょうか？
もうお嬢さんには二度と会わないように言い聞かせますので」
それが史央の母だと萌子が気づいた時、その人は土下座をして、もう一度母に謝っていた。
違う。
遠藤君は悪くない。
悪いのは、私だ。
怪我をした私だ。
萌子はそう言おうとしたが、母と祖母に無理やりのように連れていかれ、そのまま車に押し込められた。
そうして萌子は家に帰ると、翌日から外出禁止にされ、学校も休んだ。
史央に会わなければならない、史央に謝らなければならない。
そう思うものの、母の監視は厳しくて、電話すらかけられない状況だった。
そうして、ある日突然家の前にトラックが止まったかと思うと、いきなり部屋に引っ越し業者の人がやってきて、萌子は母親とともに母親の実家がある長野に引っ越すことになった。
ずっと思っていた。
いつか会える日が来たら、謝らなければならない。
胸に強く刻んだその気持ちを思い起こしながら、萌子は店に入った。
ドアの開く音がして、史央は弾かれたように入口を見た。
まず現れた人数の多さに史央は戸惑った。
だが、それも当然だと思う。
何せ自分はライバル校のキャプテンで、相手は守るべきマネージャーなのだから。
萌子は小さく手を振りながら、店の奥に座っている史央を見つけるとやってきた。
「ごめんね。遅くなって」
「いや。俺も今来たところだから」
史央がそう答えると、萌子が後ろに立っている三人を紹介した。
「同じサッカー部の人たち」
「マネージャーの小池です」
「三年の日比野。どうも」
差し出された右手を、順に握り返しながら史央も答える。
「川城の今川。早坂は知ってる。県選抜でも一緒だったから」
だよな、という表情で成を見つめると、ああと返事が返ってきた。
県選抜で一緒だったとはいえ、史央はあまり成と話してはいない。ポジションの違いもあるが、それぞれに話すグループが別だった。それに巧は徹底的に凪高を目の敵にしていたから、いざこざが起きないようになるべく近づかないようにしていたというのもある。
「ごめんな。沢木。こんな時に呼び出したりして」
萌子は小さく頭を振った。
「いいの。私も、ちゃんと会って話したかったから。でもほら、お互い忙しいし、顔を合わせるのも試合会場で、話をする雰囲気じゃないでしょう？
だから、嬉しかった。私―」
ずっと心に抱えていた思いをきちんと伝えようとした萌子に、史央は明るく聞き返した。
「沢木、足は平気なのか？」
「…うん。だいたい平気」
「よかった」
史央がふっと微笑む。少し大人になったとは思うけど、安心するようなその笑顔は、昔と変わっていない。
それが余計に萌子の胸を苦しくさせた。
「私、あの時―」
「もういいよ」
史央が萌子の言葉を、今度ははっきりと遮った。
「沢木が言おうとしてる言葉もわかる。だけど、別にいいから」
「でも―」
「昔のことだし。いいんだ、沢木が元気なら」
そう言って微笑む史央を見て、萌子も肩の力を落として、ふっと微笑んだ。
張りつめていた空気が、柔らかいものに変わり、それを待っていたかのように篤志が口を開く。
「そういえば、今日のそっちの試合ってどうだった？」
「ああ。三対〇で勝った」
「すげぇな。相手って今年の選手権出場校だろう？」
山城の対戦相手は、東北の強豪だと聞いていた。
史央は僅かに微笑みながら答えた。
「まあ出場校って言っても、ウチみたいに運がいいだけの場合もあるし。
去年の県大決勝。藤原と福山さんが最初からいたら、ウチは確実に負けてたよ」
ふいに出てきた名前に、萌子は緊張感を覚えた。
だがそれに気づかずに史央は萌子に尋ねた。
「あ、そういえば。福山さんの連絡先って聞いてもいいかな。
借りっぱなしになってるものがあって返したいんだ」
その言葉に萌子はスカートの裾をギュッと握りしめる。
朔哉の去り際は見事なほどで、萌子が知っているのは、大学名と学部だけ。それ以外の連絡先を、朔哉は一切萌子に伝えずに凪浜を出ていったのだ。
追いかける隙も、縋りつく隙もなかった。
「あ、それじゃ。俺が」
慌てて篤志がそう言うと、お店の人にペンを借りて、コースターの裏に文字を書き始めた。その様子が萌子の視界に映る。
だが、それは見ていけないものと言う気がして、萌子は顔を俯かせた。自分に知らせなかったのが朔哉の意思というならば、それを尊重しなければといけないような気がした。
史央は篤志から連絡先の書かれたコースターを受け取ると、萌子の隣に座る成に向かって言った。
「ごめんな、早坂。誤解させるようなことして」
「誤解？」
ああと言って、史央は顔を上げた萌子をちらりと見た。
「だって付き合ってるんだろう？二人。
それなのに他の男に呼び出されたんじゃ、気分が悪い」
その声に、はっとしたように萌子が顔を上げる。
自分と成が恋人同士だと思われていることが、成の気持ちが見えない分だけ嬉しかった。
確かに、付き合ってるわけじゃないかもしれない。
でも、それは今がそうなのであって、この先は違う。
そんな気持ちを込めて、明るく違うと言おうとしたところで、成の乾いた声が響いた。
「そんなんじゃ、ない」
せめて成の声が恥じらうような明るい声だったら、と萌子は思った。自分が言おうとしていたように、それは今だけのことなのだと。
だが聞こえてきた声は、固く、不快感さえ感じるほどで、それが冗談ではないことを告げていた。
そんなんじゃ、ない。
その成の一言は淡い萌子の希望をも打ち砕いたのだ。
史央も予想外だったのか、思わず返す言葉を無くしており、重い沈黙が続いた。
すると突然、思い出したように理香が明るい声を出した。
「ねぇ萌子。そろそろ帰らないとまずくない？ね、アッチ」
「そうだな。行こうぜ、成」
追い立てるように篤志も答える。二人に倣うようにして、史央も腰を上げた。
「ああ、わざわざ悪かった。呼びだすようなことして。
それじゃ、また」
「うん…」
理香と篤志に急かされるようにして、萌子は重い腰を上げた。同じく成も立ち上がり、ぶつかりそうになった二人は一瞬だけ目を合わせたものの、すぐに成が気まずそうに視線を逸らした。視線を逸らされたことが、成の答えのような気がして、萌子は思わずその場に立ち尽くす。
成の答え。萌子にはそれが、恋人同士と思われることが成にとっては嬉しくないことなのだと思えた。
だから、ああもはっきりと答えたのだ。
立ち尽くす萌子の隣で、理香がコースターに何かを書くと、さっと史央に差し出した。
「あ、今川君。これあげる」
「え」
目の前の萌子に気を取られていた史央は、拒否する余裕もなくそれを受け取ると、そこには『小池軒』という店の名前と、電話番号が書いてあった。
「ウチ実家がラーメン屋なの。美味しいから、凪浜来ることがあったら絶対来てね」
理香はそう言ってウインクすると、萌子の腕を引っ張った。
買だしがあると石橋には説明をして、萌子と理香は宿舎を出た。
「うん…」
張り切っている理香とは違って、萌子の気持ちはどこか複雑だ。萌子は自分の少し先を歩く成の背中に話しかけた。
「ごめんね、成」
「何が？」
「だって、試合で疲れてるでしょう」
成は萌子に背中を見せたままで、小さく呟いた。
「別に…このくらい、平気だよ。
それに…」
そう言って成は言葉を詰まらせ、立ち止まる。萌子も自然と足を止めた。
それに？
俯いた成のその先の言葉を聞きたいと思う萌子だが、その沈黙を理香の声が破る。
「萌子？急がないと遅れちゃうよ」
「…うん」
先を歩いていた理香は、戻ってくると萌子の腕をとり、歩き出す。
すれ違う瞬間、俯いていた成が顔を上げたのはわかったが、萌子にはその表情までは読み取れなかった。後ろを歩く成に気を取られながらも、萌子は理香の話に付き合う。
「それにしても、ライバル校のキャプテンが初恋の相手だって気づかないなんて、萌子ってば肝心なところで鈍感なんだから。
試合中、どこ見てたのよ」
「そりゃ、ボールだよ。理香みたく、敵チームのキャプテン見て声あげたりしないの、萌子は」
萌子に代わって答えた篤志に、理香が楽しそうに言い返す。
「まったくもうっ、アッチってばやきもち？」
「違うって」
萌子は正直に答えた。
「苗字が違ってたの。名前だって、本当に今川シオって名前だと思ってたし。
それに実際に川城と試合したのは、去年の選手権予選の県決勝と、今年の新人戦でしょう？
それまでは、戦ったことなかったし、ノーマークだったじゃない。
新人戦は今川君インフルエンザで出場してなかったし」
偶然なのだろうが、川城との対戦記録は少なくとも去年の試合まで、萌子たちが凪高に入ってきてからはなかった。
会場ですれ違うことはあったかもしれないが、萌子は仕事が忙しかったし、それにこんな場所で顔を合わせるとは思っていなかったのだ。
だが理香は納得がいかないのか、でも、と言葉を続けた。
「でも去年の県決勝は？萌子だって、ベンチにいたじゃない」
「あの時は―」
言葉より先に、萌子は朔哉のことを思い出していた。
去年の秋の県決勝。萌子は、一人責任を背負い込み、怪我を押してまで試合に出そうな勢いの朔哉のことが心配で仕方なく、相手チームはおろか、自分のチームのことにも気を配っていなかったのだ。
あの時は、朔哉さんのことで頭がいっぱいで。
だがそう答えてはいけない気がして、萌子が黙り込むと、ちょうどよく篤志が叫んだ。
「ついたぞ！」
指さす先には、史央が地図に書いたのと同じ名前の店がある。
「萌子、行こう！」
理香がそう答えると、萌子の腕を強くひいた。
その理香の言葉に、自然と萌子は史央と顔を合わせた最後の日を思い出していた。
「行こう」
声変わりし始めた声でそう言い、萌子の手を引っ張った史央は、そのまま萌子に自分のコートをかけた。それから脇に置いてあった松葉杖を萌子に持たせると、その反対側に回り込み、萌子の体を支えた。
そこからの記憶は夢のようにおぼろげだ。
病院を出て、やってきたバスに乗って駅へと向かう。そして、やってきた電車に乗り込んだ。そのまましばらく乗っていたが、ふと自分たちを訝しそうに見て いる大人に気づいた史央が萌子の手を引き、電車を降りた。そこは山奥の無人駅で、ホームにもベンチしかなかった。二人はそこに腰かけた。
日が落ちて、裸足のままだった萌子が足先を寒そうに摩っていると、史央が萌子の前に跪き、その膝に萌子の足を乗せて両手で包みこんだ。冬が近い秋の日 だった。コートは萌子に着せたままだったから、史央もセーター一枚で寒そうにしていたのを覚えている。それでも史央は、徐々に萌子の足が温まってくるのを 感じると、嬉しそうに微笑んだ。
日が完全に落ちる頃には、二人して史央のコートにくるまっていた。史央が震えていることに萌子が気づいてコートを脱ごうとしたのだが、それを史央が許す はずもなく、そうなったのだ。周囲に街灯などほとんどない小さな駅だった。二人の吐く息は白く、夜空に舞いあがっていた。この先どうするとか、考えなけれ ばならないと思いつつも、今このままでいたいという気持ちが強く、二人の間にほとんど言葉はなかった。
少しして、電車が止まった。夜も遅くなってきたからか、車内の人の数もまばらになっていた。電車は萌子たちを乗せることなく、ドアが閉まろうとする。その時、ふいにホームに駅員が下りてきて、二人を見つけた。
「君たち…ここで何をしてるんだい？」
連れ戻されると思った史央が慌てて萌子の手を引いた。だが怪我をしている萌子が走れるわけもなく、そうして二人は呆気なく捕まった。
連れて行かれたのは、その隣の駅の警察署。一時間ほどでやってきたのは、萌子の母親と祖母だった。母親は、病院で見た以上に髪も乱れ、化粧もしていない血色の悪い顔をしていた。
「萌子っ」
母親はそう叫ぶと、萌子を思い切り抱きしめていた。
「心配したんだからっ」
そう言うと、声をあげて泣き始める。だが萌子はというと、顔色ひとつ変えずに、されるがままになっていた。
何か答えればいいのに、萌子には言葉が見つからない。すると、突然母親が萌子から手を離し、史央に向かって怒鳴った。
「どこの誰だか知らないけど、ウチの子をどうするつもりだったの？これも立派な誘拐よっ」
お母さんやめて、と萌子が言う前に、母親は震わせながら右手を高く上げた。母親がしようとしていることがわかり、思わず萌子は「お母さん」と言ったが、その掠れた声を遮るように、大人の女性の声が廊下に響いた。
「ふみちかっ」
その女性は、母親の前で覚悟を決めて目を瞑っていた史央の肩を掴むと、自分の方に向かせて、思い切りその頬を叩いた。激しい音がして、史央が床に倒れる。
誰なんだろうと思う萌子の前で、その女性は唖然としていた母親に向かって深く頭を下げている。
「申し訳ございませんでした。うちの子が、ご迷惑をおかけして、本当に本当にすみませんでした。
家に帰ってきちんと言い聞かせますので、どうか許していただけないでしょうか？
もうお嬢さんには二度と会わないように言い聞かせますので」
それが史央の母だと萌子が気づいた時、その人は土下座をして、もう一度母に謝っていた。
違う。
遠藤君は悪くない。
悪いのは、私だ。
怪我をした私だ。
萌子はそう言おうとしたが、母と祖母に無理やりのように連れていかれ、そのまま車に押し込められた。
そうして萌子は家に帰ると、翌日から外出禁止にされ、学校も休んだ。
史央に会わなければならない、史央に謝らなければならない。
そう思うものの、母の監視は厳しくて、電話すらかけられない状況だった。
そうして、ある日突然家の前にトラックが止まったかと思うと、いきなり部屋に引っ越し業者の人がやってきて、萌子は母親とともに母親の実家がある長野に引っ越すことになった。
ずっと思っていた。
いつか会える日が来たら、謝らなければならない。
胸に強く刻んだその気持ちを思い起こしながら、萌子は店に入った。
ドアの開く音がして、史央は弾かれたように入口を見た。
まず現れた人数の多さに史央は戸惑った。
だが、それも当然だと思う。
何せ自分はライバル校のキャプテンで、相手は守るべきマネージャーなのだから。
萌子は小さく手を振りながら、店の奥に座っている史央を見つけるとやってきた。
「ごめんね。遅くなって」
「いや。俺も今来たところだから」
史央がそう答えると、萌子が後ろに立っている三人を紹介した。
「同じサッカー部の人たち」
「マネージャーの小池です」
「三年の日比野。どうも」
差し出された右手を、順に握り返しながら史央も答える。
「川城の今川。早坂は知ってる。県選抜でも一緒だったから」
だよな、という表情で成を見つめると、ああと返事が返ってきた。
県選抜で一緒だったとはいえ、史央はあまり成と話してはいない。ポジションの違いもあるが、それぞれに話すグループが別だった。それに巧は徹底的に凪高を目の敵にしていたから、いざこざが起きないようになるべく近づかないようにしていたというのもある。
「ごめんな。沢木。こんな時に呼び出したりして」
萌子は小さく頭を振った。
「いいの。私も、ちゃんと会って話したかったから。でもほら、お互い忙しいし、顔を合わせるのも試合会場で、話をする雰囲気じゃないでしょう？
だから、嬉しかった。私―」
ずっと心に抱えていた思いをきちんと伝えようとした萌子に、史央は明るく聞き返した。
「沢木、足は平気なのか？」
「…うん。だいたい平気」
「よかった」
史央がふっと微笑む。少し大人になったとは思うけど、安心するようなその笑顔は、昔と変わっていない。
それが余計に萌子の胸を苦しくさせた。
「私、あの時―」
「もういいよ」
史央が萌子の言葉を、今度ははっきりと遮った。
「沢木が言おうとしてる言葉もわかる。だけど、別にいいから」
「でも―」
「昔のことだし。いいんだ、沢木が元気なら」
そう言って微笑む史央を見て、萌子も肩の力を落として、ふっと微笑んだ。
張りつめていた空気が、柔らかいものに変わり、それを待っていたかのように篤志が口を開く。
「そういえば、今日のそっちの試合ってどうだった？」
「ああ。三対〇で勝った」
「すげぇな。相手って今年の選手権出場校だろう？」
山城の対戦相手は、東北の強豪だと聞いていた。
史央は僅かに微笑みながら答えた。
「まあ出場校って言っても、ウチみたいに運がいいだけの場合もあるし。
去年の県大決勝。藤原と福山さんが最初からいたら、ウチは確実に負けてたよ」
ふいに出てきた名前に、萌子は緊張感を覚えた。
だがそれに気づかずに史央は萌子に尋ねた。
「あ、そういえば。福山さんの連絡先って聞いてもいいかな。
借りっぱなしになってるものがあって返したいんだ」
その言葉に萌子はスカートの裾をギュッと握りしめる。
朔哉の去り際は見事なほどで、萌子が知っているのは、大学名と学部だけ。それ以外の連絡先を、朔哉は一切萌子に伝えずに凪浜を出ていったのだ。
追いかける隙も、縋りつく隙もなかった。
「あ、それじゃ。俺が」
慌てて篤志がそう言うと、お店の人にペンを借りて、コースターの裏に文字を書き始めた。その様子が萌子の視界に映る。
だが、それは見ていけないものと言う気がして、萌子は顔を俯かせた。自分に知らせなかったのが朔哉の意思というならば、それを尊重しなければといけないような気がした。
史央は篤志から連絡先の書かれたコースターを受け取ると、萌子の隣に座る成に向かって言った。
「ごめんな、早坂。誤解させるようなことして」
「誤解？」
ああと言って、史央は顔を上げた萌子をちらりと見た。
「だって付き合ってるんだろう？二人。
それなのに他の男に呼び出されたんじゃ、気分が悪い」
その声に、はっとしたように萌子が顔を上げる。
自分と成が恋人同士だと思われていることが、成の気持ちが見えない分だけ嬉しかった。
確かに、付き合ってるわけじゃないかもしれない。
でも、それは今がそうなのであって、この先は違う。
そんな気持ちを込めて、明るく違うと言おうとしたところで、成の乾いた声が響いた。
「そんなんじゃ、ない」
せめて成の声が恥じらうような明るい声だったら、と萌子は思った。自分が言おうとしていたように、それは今だけのことなのだと。
だが聞こえてきた声は、固く、不快感さえ感じるほどで、それが冗談ではないことを告げていた。
そんなんじゃ、ない。
その成の一言は淡い萌子の希望をも打ち砕いたのだ。
史央も予想外だったのか、思わず返す言葉を無くしており、重い沈黙が続いた。
すると突然、思い出したように理香が明るい声を出した。
「ねぇ萌子。そろそろ帰らないとまずくない？ね、アッチ」
「そうだな。行こうぜ、成」
追い立てるように篤志も答える。二人に倣うようにして、史央も腰を上げた。
「ああ、わざわざ悪かった。呼びだすようなことして。
それじゃ、また」
「うん…」
理香と篤志に急かされるようにして、萌子は重い腰を上げた。同じく成も立ち上がり、ぶつかりそうになった二人は一瞬だけ目を合わせたものの、すぐに成が気まずそうに視線を逸らした。視線を逸らされたことが、成の答えのような気がして、萌子は思わずその場に立ち尽くす。
成の答え。萌子にはそれが、恋人同士と思われることが成にとっては嬉しくないことなのだと思えた。
だから、ああもはっきりと答えたのだ。
立ち尽くす萌子の隣で、理香がコースターに何かを書くと、さっと史央に差し出した。
「あ、今川君。これあげる」
「え」
目の前の萌子に気を取られていた史央は、拒否する余裕もなくそれを受け取ると、そこには『小池軒』という店の名前と、電話番号が書いてあった。
「ウチ実家がラーメン屋なの。美味しいから、凪浜来ることがあったら絶対来てね」
理香はそう言ってウインクすると、萌子の腕を引っ張った。