Maybe Blue 第三部 誰かのために
儚春2
信号が赤になってくれたおかげで、萌子はようやく成に追いついた。隣に並んでそっと見上げるが、成は険しい表情で黙り込んでいる。
何を悩んでいるのだろう。
その横顔を見つめながら萌子は思う。
部活のこと？
学校のこと？
将来のこと？
それとも？
尋ねる前に信号が青に変わり、成は歩きだした。慌てて追いかけながら、成を引き留めようと萌子はそういえば、と口を開く。
「そういえば、遠藤…じゃなくて、今川君たちも頑張ってるみたい」
「そう、か」
「お互い関東大会に出ようって」
今川史央（ふみちか）たちの川城高校とは、このままお互いが順当に勝ち上がって行けば県予選の決勝で戦うはずだった。
関東大会での神奈川代表の枠は二つ。つまり決勝に勝ち上がれば、お互いが関東大会に出場することができる。
でも、あの遠藤君が、川城のキャプテンだったなんて。
遠藤は、萌子の小学校の同級生で、初恋の相手だった。だが萌子の両親のこともあって、きちんとした別れもできずにいたところ、つい一週間前に再会することができたのだ。
今は、川城高校でサッカーをしていて、母親の再婚で苗字が今川に変わったと聞いた時には、本当に驚いた。
川城と言えば、去年の選手権県予選の決勝で敗れて以来、県下における最大のライバルであったし、今川と言えばそのキャプテンとして有名だったのだ。
ふいに成が萌子の方をちらりと振り返る。
「今川から、連絡あったんだ」
「あ…うん。昨日電話がかかってきて。
初めて、電話で話したの」
探るような成の言葉に、萌子は『初めて』を強調して返事をする。
もしかして、成は嫉妬したんだろうか。
そう思い弾んだ萌子の気持ちは、だが、
「そう」
という成の短い一言で、呆気なくしぼんでいく。
誰かを利用して、相手の気持ちを測るのは浅ましいことだとは思う。
だけど、そうでもしないと、萌子には成の気持ちがわからなかった。
だからこそ、他の男子と電話で話す自分を、責めてほしかったのだ。
でもそうしないってことは…。
つまりは、やっぱり、成の気持ちは私にはないってこと…？
『つきあってるんだろう？二人』
再会したあの日、二人を前にそう言った史央の言葉が、脳裏をよぎる。
そしてその言葉を遮るように言った、成の声も。
『そんなんじゃ、ない』
頑なな声だった。
そんなんじゃ、ない。
つまり、やっぱり。
私と成は、つきあってるわけじゃないんだ。
少なくとも、成にとっては。
史央と再会したのは、春休みに行われた親善試合であった。
四日に渡って行われるその試合は、凪浜から通うには遠いので、萌子たちは部員とともに前日から宿泊をしていた。
最初の三日間はリーグ戦、最後の一日はリーグ戦の結果を受けてのトーナメント戦。有名校も多く参加することから、親善試合としては規模の大きなものだった。
二日目の今日は、昨日とはまた違う会場になっているせいか、部員同士でも場所を間違えることが多く、おかげで準備が遅れていた。
その中で、萌子はタオルを持ったまま歩いていた。前方から「萌子、はやく！」と叫んでいる理香の声が聞こえるが、目の前に積み上げられたタオルの塔のおかげで、その姿はおろか、前方を萌子は見ることができないでいた。
どうして理香はこの状態で走れるんだろう。
こんなことなら、誰かに手伝ってもらえばよかった。
大丈夫と言ってしまったことを後悔した時、まさにアクシデントが起こった。誰かがどんとぶつかってきたのだ。萌子はあっけなくその場に尻もちをついた。
「いたた…」
腰をさすりながら、起きあがった萌子の前には、綺麗にしたはずのタオルが土まみれになっている光景が広がっていた。
冗談…、だって言ってほしい。
ため息をついた萌子の耳に、くすりという笑い声が聞こえた。
思わず萌子が顔を上げると、そこには茶というよりは金に近い色のウェーブがかった髪を風になびかせる後姿が見えるだけで、その相手は萌子を振り返ったりすることなく、そのまま歩いて行く。その左耳できらりと何かが光ったように思えた。
気のせい、かな。
そんなことより、現実に戻らなきゃ。
凪浜は午後の試合だったが、萌子が持っていたそのタオルは、その試合後に選手が使う予定だったのだ。
仕方ないけど、他の部員たちからタオルを借りなきゃ。
きっと、神経質な右京は嫌がるけど、土がついたものに比べたら、ましだって思うはずだし、泊まりの準備をして来てるくらいだから、きっとタオルもたくさんあるはず。
頭の中でいろんな事をぐるぐると考えている萌子の背後から、さっと誰かが現れて、同じようにタオルを拾い始めた。
「あ、大丈夫です。一人でも、平気ですから」
顔を上げると、白いジャージが見えた。どうやらどこかの学校の選手のようだ。
「いや、気にしないで」
そう言ってタオルを拾い上げる背中には、アルファベットで、KAWASHIROと書かれている。
カワシロ…、もしかして川城高校？
そう言えば確かに参加校の中に川城の名前もあった。だが、同じ県下のせいかリーグ分けは別にされていた。
そうか、同じ会場だったんだ。
萌子がそう考えている中で、その選手は残りのタオルを全部拾い上げると、はい、と萌子に差し出した。その時、タオルの奥に隠れていた顔が見えた。
少し長めの黒髪の奥で、切れ長の瞳が、萌子のことをじっとみつめている。
「ありがとう…ございます」
そう答えながらも、萌子は自分の中で感じているどこかデジャヴに似た気持ちに気づいた。
あれ？
どこかで、会ったことある？
そう思った瞬間、その瞳が細くなってほほ笑んだ。
「沢木、だろ？久し振り」
凛々しい表情が途端に柔らかくなる。それを見て、萌子ははっと気づいた。
「…もしかして。遠藤君？」
小学校の同級生だった遠藤史央とは、萌子が引っ越して以来顔を会わせていなかったから、約六年ぶりの再会になる。
あの時は、大人びた雰囲気だったとはいえ丸みを帯びた顔の輪郭あたりは少年だった史央が、余計な肉はそぎ落とし、完全に大人の顔になっていて、萌子は少し戸惑っていた。
「ああ、今は、今川だけど」
さらりと言ったことに、萌子はさらに戸惑った。
「え？それじゃ、川城のキャプテンの今川シオって、遠藤君なの？」
萌子にとっては、ライバル校のキャプテンとして『川城の今川』という名前を覚えればいいだけだった。
加えて試合中も、かっこいいと騒ぐ理香も『シオ』と読んでいたから、それが名前だと思っていたのだ。
目を見開いた萌子に、史央は笑って答える。
「まあ、シオってのは渾名だけどね。皆フミチカって読めないから。母さんが再婚して、それで今川になったんだ。それで、中一の時、こっちに引っ越してきた」
「それで、手紙が返ってきたんだ」
史央との別れは、突然だった。
父のもとから、まるで夜逃げのように母は萌子の手を引いて長野の実家に向かったのだ。
その前に起こした事件から、母は萌子を監視するようにしていたし、史央とは近づかないようにときつく言われていた萌子は、長野に行って落ち着いてから、史央に手紙を出した。
別れも自分の居場所さえ知らせることができなかった史央に書いたその手紙は、だが宛先人不明で萌子のもとに帰ってきてしまったのだ。
小学校で史央のほかに友達もいない萌子は、そのまま史央と連絡を取ることもできないまま、後悔だけが残っていたのだ。
それにしても、同じ県下で、同じサッカー部で、何度もすれ違っていたはずなのに。
「ごめん、気付いてなくて」
萌子が慌ててそう言うと、くすりと史央は笑って答えた。
「いいよ。でも、俺は。ずっと知ってた」
「知ってたなら、会いに来てくれればよかったのに」
萌子が思わずそう言うと、史央はああと小さく呟いて言う。
「でも、忙しそうだったし、門前払いも食らったし」
「門前払い？」
誰に？どこで？
そう聞こうとする萌子の言葉を遮って、史央はにっこりと微笑んで言った。真剣な表情の時は、きつくも見えるその瞳が、ふわっと柔らかく光る。
「それに、沢木。楽しそうだったから」
だがその笑みが消えた瞬間、すっと史央の瞳に寂しそうな影が宿る。
しかし萌子はそれには気づかずに、答えた。
「私も会いたかったの。ずっと、気になってた」
「俺も。沢木―」
大きく頷いてそう史央が言った時、遠くから理香の声が聞こえてきた。
「萌子！監督が呼んでるよっ。早くそれ戻して」
自分の状況に気づいた萌子は、
「それじゃ、また」
と言うと、史央からタオルを奪うようにして再び塔を作る。
「タオル、一人で大丈夫？」
心配そうに史央が聞いてきたが、萌子は笑顔で答えた。
「大丈夫大丈夫。他の人に手伝ってもらうから」
それじゃあと言い、萌子は駆け出した。
「…ああ」
小さくそう言って振り返り、萌子の背中をじっと見守る史央の視線に、けれど萌子が気づくことはなかった。
小走りにやってきた萌子に、呆然と立ち尽くしていたために追い越された理香は、慌てて追いかけると、甲高い声で尋ねた。
「ねぇ萌子、今のって川城の今川君じゃない？」
「そうみたいだね」
「みたいって…それにしては、親しげだったけど、もしかして知りあい？」
興味津津に聞いてくる理香に、萌子はあっさりと答える。
「うん。小学校が同じだったの」
そうそうそれで？と更に聞いてきそうな勢いの理香に、萌子は小さく呟いた。
「そう、つまり…初恋の相手」
途端に理香が声を張り上げた。
「初恋？」
その日の凪高の相手は、選手権常連校ではないにしても、全国大会には数度出場したことのある有名高であった。
去年練習試合で対戦したこともあったが、その時は凪浜の圧勝だった。
だが今年の結果は、〇対一。前半終了五分前に取られた一点を守り切られて、負けてしまった。
リーグ戦だから、親善試合だから。
そう理由をつけるには、ひどい試合内容だった。
肩を落として、無言のままに会場を出て行こうとする選手たちの後を萌子は歩いていたが、ふとポケットを探して、ハンカチがないことに気づいた。
「あれ？」
立ち止まり、ポケットを探っていると、隣を歩いていた美都が聞いてきた。
「どうかした？萌子」
「ハンカチがないのよ」
二人が立ち止まったことに気づいた理香が、口を開く。
「明日取りにくればいいんじゃないの？」
「明日は別の会場。この会場にはもう来ないはずよ。困ったな、気に入ってたのに」
萌子がそう呟くと、美都がもしかして、と言った。
「もしかして、ベンチにあるんじゃない？待ってるから、探してきたら」
たしかにベンチに座っていた時は、ポケットに入っていたのは覚えている。萌子は美都に荷物を託すと、急いでベンチに向かった。
ところが、ベンチにもハンカチはなかった。
念のためにと身を屈めて見たけれど、ベンチの下にも落ちていない。
困ったな。
そう思っていると、後ろから見知らぬ女子の声がした。
「沢木…さん？」
「はい。…えっと」
答えて振り返ったものの、見覚えのない顔に萌子は戸惑った。
だが白いジャージには見覚えがある。萌子の視線に気づいた相手が、慌てて答えた。
「川城のマネージャーです。
もしかして、これ探してるとか？」
そういうと、萌子が探していたハンカチを彼女は差し出した。
「あ、ありがとう」
その言葉に、彼女は小さく首を振ると、
「キャプテンが拾ったらしくて。
それで、あの…キャプテンから伝言があって」
と言った。
キャプテン、ってことは…、
「遠…今川、くん？」
慣れない呼び名に、彼女は頷くと、ポケットから手帳をちぎったほどの紙切れを萌子に手渡した。
「今夜八時に、ここで待ってるって」
「え、あの」
押しつけるようにそれを萌子に渡すと、彼女はさっさと走って行った。
手のひらに残された紙きれを広げると、そこには簡単な地図と、お店の名前と電話番号があった。
「どういうことだよ、巧っ」
その大声に、宿舎の中をバタバタと走り回っていた川城の部員たちが思わず足を止めた。
史央もその視線に気づき、慌てて叫んだ相手・塚本巧の肩を掴むと、自分たちの部屋に戻る。運よく、他の部員たちはいなかった。
強く掴まれていた手が離れたことで、巧はその肩をさすりながらにやにやした表情で答える。
「どうもこうも。お前がただ見てるだけだから、手を貸してやったんだ」
「そんなこと頼んでない」
史央の声は珍しく荒だっている。
それが史央が本気で怒っている証拠だということは、約六年間の付き合いで十分すぎるくらいにわかっていた。
だからこそ、巧は表情を変えずに言った。
「でも俺が手を貸さなかったら、お前、このまま一生初恋の相手と話せないままだったんだぞ」
女遊びのひどい巧とは対照的に、史央はモテるくせに一途だった。
ずっと探していた初恋の相手が、同じ県下の高校、しかも同じサッカー部だとわかった時は、史央と同じくらい巧も喜んだ。
それ故に、会いに行ったのに門前払いをくらって、しかも当時はまだ無名だった川城高校を馬鹿にされた時には、史央以上に憤りと感じた。
いつかあいつらをぶちまかしてやろう。
二人はそう誓い合ってきて、その夢も去年叶えることができた。
だからお前は、大手を振って、会いに行っていいはずだ。
それなのに、何もしようとしない史央に、巧は苛立っていたのだ。
「だからって、わざとぶつかったり、ものを盗んだり、勝手に俺の名前使って呼び出せとは言ってない」
ばれてたのか、と巧は思う。
目の前を珍しく萌子が一人で歩いているのに何もしない史央を見て、動いたのは巧だった。
軽くぶつかると、相手は呆気なく倒れた。
もちろん助けない。
お姫様を助ける王子役は、俺じゃなくて、史央だから。
史央のところに戻ろうとすると、こっちに向かって慌てて走ってくる史央が見えた。
行きつく先は、俺じゃない。
ずっと探していた相手。
だけど、結局再会をしただけで、それ以上のことはしない。
仕方ない、とぶつかった瞬間にくすねたモノをネタに、巧はマネージャーに頼みごとをした。
史央がここに来いって言ってたって、伝えてくれ。
偶然にも、凪浜の宿舎は川城とそう遠くない場所にあった。
渡してもらった紙に書いたものと、同じことを書き記したものを、巧は史央に差し出した。
そして、何をしたのかを説明したところ、途端に怒鳴りつけたのだ。
頑なに、紙を受け取ろうとしない史央に、巧はため息をひとつつき、それをポケットにしまおうとした。
「…まあいいさ。お前が行かないって言うなら、俺が行く。
かわいいじゃん。沢木萌子。
俺は気に入った」
「おい巧っ」
史央がポケットに入れようとした右手を掴む。
巧の女遊びの派手さを、一番知っているのは史央なのだ。
にやりと笑う巧に、史央は諦めたように手を差し出した。その手に、しまいかけた紙きれが置かれる。
「ゆっくりしてこい。監督には俺がうまく言っておくからさ。
何だったら、朝帰りでもうまく言っておくぜ」
「巧っ」
史央は思わず叫んで、巧を睨みつける。
「俺は…そんなんじゃなくて、それに―」
「わかってるよ。冗談。本気にすんなよ」
史央の真剣な表情とは正反対に、巧はにやりと笑いながら、史央の肩を数度叩くと、部屋を出て行った。