Maybe Blue 第三部 誰かのために
儚春1
薄紅の花びらが、緩やかに流れる風の中で空を舞っている。その中を、広い背中が通り過ぎていく。
震える声で、萌子はその名前を呼んだ。
だがその背中は、止まることなく萌子を置いたまま、どんどん先に進んでいく。
萌子はもう一度呼びかけた。
だが、萌子の声は届いていないのか、二人の距離はますます離れていくばかりだ。
待ってくれと、萌子は再度その名前を力の限り叫ぶ。
それでも、その背中は振り返ることなく、どんどん遠ざかって行く。
慌てて、追いかけようとする萌子を邪魔するかのように、花びらが吹雪となってその背中をかき消す。
朔哉、さん。
そう呟くと、頬に生暖かいものを感じ、萌子ははっと目を覚ました。
ようやく昇った朝日が、カーテン越しに柔らかな日差しを萌子の部屋に届けている。仄白くなった天井を見上げて、萌子はそっと頬を拭った。
夢の中で流したはずの涙が、そこにはあった。
そう、夢じゃない。
本当にあったことなのだ。
あの日、大声で朔哉の名前を呼んだことも。
そうして別れたことも。
あれからひと月経つというのに、それでも萌子はあの日のことを夢に見る。
ここ一週間は特に、だ。
その理由は、萌子もわかっていた。
ピピピ…と、遅れて目覚まし時計が鳴る。萌子がそれを止めたところで、階下からの足音がしてノック音が部屋に響いた。
「萌子？起きた？
今日、始業式だけど朝練あるんでしょう？」
母親の元子がドア越しにそう言う。
新しい学年の始まりだと言うのに、サッカー部には関係なく、毎年朝練は行われる。
「うん。着替えたら、下に降りる」
萌子はそう答えると、ベッドから起き上がった。
窓を開けると、いくらか柔らかくなった外の空気と共に、盛りの過ぎた桜の花びらが、部屋に入ってくる。
今日から、三年生。
この制服を着るのも、朝練があるのも、あと一年。
選手権を目指すのも、今年が最後だ。
制服に着替え、鏡の前に立つと、ふいに視界に一枚の写真が映る。
去年、インターハイで優勝した時の写真だ。
端の方では、萌子が笑っている。
少し離れたところには、黒く日焼けした肌に、白い歯を見せ、笑う成が。
そしてその中央では、カップを持ち、ほほ笑む朔哉がいる。
あの日以来、朔哉とは会っていない。
声も聞いてもいない。
だがここ一週間は、ずっと夢で逢っている。
いってきます。
着替えを終えた萌子は心の中でそう呟くと、そっと部屋を出た。
「行ってきます」
そう声をあげて、萌子は家を出る。
だが、そこにいるはずの姿はない。
諦めて、歩き出そうとしたところで、前の方から走ってくる姿が見えた。
「おはようっ…ごめん。もしかして、待った？」
息も絶え絶えにそう言う成に、萌子は微笑み、返す。
「ううん。今出たところ。
それより成、無理しなくていいのよ。ただでさえ、朝練で早起きしなきゃいけないのに、その前にうちに寄るなんて」
卒業式の次の日から、成は練習がある場合は、毎朝萌子の家に来て、二人は一緒に登校している。
だがそれも最近は、成が遅れることも少なくない。理由がわかるから、萌子も責める気はないのだが、萌子の言葉に、成は首を大きく振った。
「ごめん、明日は遅刻しないようにする」
成はそう言うと、さっさと前を歩き始める。萌子が成のことを心配していることには気づいていないようだ。その背中に、萌子は呟きかける。
「そうことじゃなくて…。
何でもない」
最後の言葉は振り向いた成に向けられた。萌子は成の隣に駆け寄って、二人は歩き始めた。
三年になり、成の身長はまた伸びていた。百八十に届きそうなくらいだ。当然、萌子との歩幅も違う。自分のペースで歩いていると、簡単に成は萌子の先を歩いて行ってしまう。
待って、と思わず手を伸ばしかけた萌子だが、ふいにその手を戻す。
冬から春へと移り変わる季節の中で、萌子と成の関係も少しずつ変わり始めていた。
ひと月前には自然と伸ばすことのできていた手が、今はそうできない。
振り払われたらと思い、ため息をついて、萌子は手をポケットに入れる。
四月になったとはいえ、つい先週は雪交じりの雨が降るほどまだ寒い。だが、重苦しい冬のコートを着る気分にも手袋をする気にもなれなかった。
顔をあげ、前を行く制服の背中を見て、萌子は心の中で一人呟いた。
一緒にいてくれること、それが成の気持ちなのだと思っていた。
でもそうなのだろうか。
成は、私のことを、好きなんだろうか？
それとも…？
そう考えた瞬間、あの時の知朗の言葉が、思い起こされる。
『与えられた役割に満足して、大事なこと忘れてんじゃねぇよ』
それがどういう意味なのか、萌子にはよくわからなかった。けれど、あの時の成は、その言葉を聞いて、何かを感じ取ったようだった。
役割。
一緒にいてくれることは、成にとって役割なのだろうか？
それは、卒業式からまだ一週間も経っておらず、桜も蕾の状態で、コートも手放せなかった頃に遡る。
凪高サッカー部は、まだ肌寒い気温の中で、それでも確かに近づいてくる春の気配を感じ取っていた。
石橋が教育委員会で不在の中、グランドでは紅白戦が行われていた。チーム分けはコーチが決めたもので、レギュラー選手たちは、それぞれに分かれていた。
「赤頑張れ！白負けるなっ！」
グランドに向かってそう叫ぶ理香に、萌子は微笑みながら答える。
「理香ってば相変わらず元気ね」
「だって、アッチは出ないし、どっちのチームにも頑張ってもらいたいんだもん」
実際グランドにいるのは、AかBチームの選手ばかりで、篤志たちCチームの選手は皆グランドの外で中の様子を見守っていた。
「白、頑張って」
隣で小さくそう美都が呟くのが聞こえた。その視線の先には、白チームになっている和美の姿がある。
萌子は真剣な美都の眼差しを見て、ふっと笑みをこぼした。
そして、再びグランドに視線を戻す。グランドでは、赤いビブスを着ている成の姿がある。
赤、頑張れ。
萌子は心の中でそう呟いた。
その声が成にも届いたのか、萌子の方を見ると、笑みを返してくる。思わず萌子も、他の部員にばれないようにと手元でそっと手を振った。
途端にそれに気づいた理香が、萌子にすり寄ってきて脇をつつく。
「なぁにぃ？なんか、ラブラブなムードじゃん」
微笑みながら肩をすくめる萌子を見て、美都が口を開く。
「仕方ないよ、理香。だってまだ一週間も経ってないのよ。
今が一番幸せな時でしょう？」
「そうね。仕方ない、許してしんぜよう」
腕を組んでそう言った理香に、萌子は思わず噴き出して言う。
「しんぜようって、何よソレ、理香」
そうして、三人は顔を突き合わせるとくすくすと笑った。
一週間前の出来事が嘘のように、萌子は笑っている。
その視線の先には、常に成がいて、だからこそグランドからそんな萌子を見つめる他の視線に、萌子は気づけずにいた。
「始めるぞっ」
コーチの佐藤がグランドに散らばっていた選手を集めてそう言った。
元気のいいホイッスルとともに、そうして紅白戦が始まった。
「こっちだ！」
「パスパァースッ！」
四月に入れば、関東大会の県予選がある。代表の二校に選ばれれば、その先に、関東大会が、そして全日本ユース選手権が待ち構えているのだ。
グランドでは、選手たちが声をあげてボールを追い、紅白戦だと言うのに、本番さながらの白熱した試合になっていた。
萌子はその中でも、ただ一人成を見つめていた。
頑張って、成。
卒業式の翌日、萌子を待っていた成は、その次の日も姿を見せた。
朝だけではない。帰りも、最後まで残る萌子を待って、家まで送って行く。気を遣ってか、他の部員たちもいなく、成と二人きりだ。
成もおしゃべりな方ではないから、二人は歩きながら会話が途絶えることもしばしばだった。
だがその沈黙の時間すら、萌子にとっては愛おしい時間になっていた。
グランドでは、ボールを持った白の知朗が駆け上がるところに、赤の成が立ちはだかっていた。
勢いのあった知朗も、目の前に現れた成に、思わず足を止めて、二人はしばしにらみ合った。だが、次の瞬間、知朗は素早くフェイントをかけて、ボールを成の脇へと蹴る。小柄ですばしっこい知朗が、成を抜けるかと思った瞬間、ボールは成の足元にあった。
「あがれっ」
成はそう叫んで、ボールを蹴りだそうとしたところで、その足元に知朗が突っ込んできた。
あっ、と思わず萌子は声を上げる。
ボールはコロコロと転がって行く中、成と知朗はグランドに倒れこんでいた。傍に選手たちが声をかける。
「おい？大丈夫かっ、早坂」
「知朗っ」
先に知朗が立ち上がった。怪我はそれほどでもないのか、肩を回して大きくため息すらついている。だが、成は、足を押さえてうずくまったままだ。
「成っ」
「早坂っ」
すぐにコーチや他の選手が成に駆け寄って行く。萌子も、持っていたタオルを美都に押し付けると、慌ててグランドへと入って行った。
成は、湊に抱えられながらも立ち上がっていた。
「大丈夫です。…ってぇ」
「とりあえず、保健室だな」
コーチのその声に、湊が答えた。
「俺、連れてきます」
「ああ、それじゃ和泉は早坂を支えてやってくれ。俺もついていく。紅白戦はとりあえず中止だ。高岡、セットプレーの練習しておいてくれ」
口早に皆にそう言って、由太に指示をすると、コーチは湊と一緒に成を保健室に連れて行った。
ユース代表候補選手である成は、来月に遠征を控えている。その前に怪我があっては、ユース代表監督に面目が立たないということなのだろう。おまけに、今日は石橋が不在だ。その間の練習を任されたコーチの佐藤としては、大事になっては大変だと思ったのかもしれない。
とにかく、騒がしかったグランドは、そうして三人がグランドから消えた途端に緊張感を失っていた。
「大丈夫かな、成」
ざわつく中で、練習メニューのことで相談をする由太と興仁の脇をすり抜けて、萌子が白いビブスを脱いだ知朗の前に立った。
「何だよ」
知朗を睨みつけながら何も言わない萌子に、知朗が面倒臭そうに尋ねる。それに気づいた部員たちは、口を閉ざして二人の様子を見守り始めた。だが萌子は、そんな周囲の視線など目に入らないようにただじっと知朗を見つめている。
「わざとでしょう、今の」
「わざと？」
顔をしかめる知朗に、萌子ははっきりと答えた。
「そうよ、わざと成の足を引っかけたじゃない」
思わず知朗は手に持っていたビブスを、怒りとともにグランドに投げつけた。
「ふざけるな。試合じゃあのくらい普通だろ」
「紅白戦よ？練習試合。大事な試合がもうすぐあるのに、怪我したらどうするのよ」
「あいつはあのくらいで怪我しないっ」
「だからって、足を引掛けていいわけじゃないでしょう！」
「何だと？」
二人の声は掛け合いながら、どんどん声を荒げていく。思わず興仁が「落ち着けよ、知朗」とその肩に手を伸ばしたが、それを振り払うと知朗は萌子を睨みつけながら言った。
「だいたい、俺がどうしてあいつにそんなことしなきゃいけないんだよ」
「それはっ…」
萌子はそこで口ごもった。
確かに萌子の知っている知朗ならば、わざと足をひっかけたりするはずもない。
冷静に考えればわかること。
だが萌子にとっては、成のことしか見えてなかったのだ。
口を閉ざした萌子に、知朗が言い返す。
「だいたいお前は大事なこと、忘れて浮かれすぎてんだよっ。
お前だけじゃねぇっ、あいつも！
みっともねぇっつーの！」
考えるより先に、萌子の手が知朗の頬を叩いていた。
「…てぇ」
静まり返った中で、小さく吐き捨てるように言った知朗の声が響く。
次の瞬間には、萌子はじんと熱くなった手のひらを握りしめながら、戸惑っていた。
どうして、知朗を叩いてしまったんだろう。
どうして、知朗につっかかっていってしまったんだろう。
立ち尽くす萌子の目の前で、知朗は立ち上がり、背を向けると足早にグランドを出て行った。
謝る機会をなくし、どうしたらいいのかわからずにいる萌子の前に、黒い影が過る。
次の瞬間、萌子の頬に痛みが走った。
叩かれたのだ、そう思った時に、目の前で萌子を叩いた手のひらを握りながら由太が言った。
「やりすぎだ、萌子」
あまりに突然のことで、誰もが言葉を失っている中、萌子が俯いたままで口を開く。
「ごめん。…ちょっと、顔、洗ってくる」
そして、萌子はそのままグランドを出て行った。
そうしてグランドでは、コーチもマネージャーもいなくなり、どこか気の抜けた部員たちがだらだらとボールを蹴っていた。
いつもなら、キャプテンの由太が叱咤するところだが、その由太はどこか落ち着きなくベンチ脇に立っていた。
ベンチに座る理香が、由太を睨みつけて言う。
「最低、女の子叩くなんて」
わかってる、とは思うものの、謝るべきは理香ではなく萌子だと、由太は黙って理香の視線を受け止めていた。
それを見て、黙っていた興仁が口を開く。
「最低、までじゃないけど。やりすぎだと思う。
萌子もそうだけど、お前もだよ、由太」
理香のように感情ではなく、冷静に言われて思わず由太は答えた。
「わかってる」
その言葉を聞いて、理香はさらに由太を睨む。
「わかってるなら、謝ってよね。萌子に」
「わかってる」
「わかってるしか言わないんだから、由太チャン。
もう少ししたら、きっと萌子戻ってくるから。
逃げないでよね」
逃げるわけがない、と言い返そうと一瞬思ったが、自分に非があることを思い出し、由太は再び口を閉ざす。
萌子がグランドを出て行ってから、三十分ほどが過ぎていた。
成の怪我はそれほどでもなかったのだが、念のために病院で検査をすると言って、コーチたちはそのまま病院に行った。後を任されたのは由太と興仁だったが、只管黙り込み後悔し続ける由太をおいて、興仁が全てを指示した。
もうそろそろ日が暮れて、練習も終わりにする時間になっていたが、萌子も、そして知朗もまだグランドに戻ってきていない。
由太は、まだ痺れを少しだけ残している掌を握りしめた。
自分が萌子を叩いたことは、紛れもない事実だ。
だが由太には、その理由がわからなかった。
険悪になった二人を止めなければと思った。だが、それがどうして、萌子を叩くことになったのか、由太は自分自身の行動がわからなかった。
由太が唇をかみしめる隣で、理香が大きなため息をついた。
「それにしても、知くんもひどいよね。成くんに嫌がらせするなんてさ」
その言葉に、思わず興仁が答える。
「嫌がらせ？足引っかけたことが、嫌がらせだって？」
「そうよ。いくら萌子と成くんが付き合い始めて、自分がふられたからって、腹いせに怪我させることないじゃない」
当然だと言う理香に、興仁は言い返す。
「知朗はそんなことするような奴じゃないよ」
「でも―」
理香の言葉を遮って、興仁は表情を強張らせて答える。
「あれは不可抗力だ。
俺は正直、萌子の方がショックだった。
あのくらいで取り乱すなんてさ」
それを聞いた由太は、ようやく気付いた。
どうして自分が萌子を叩いたのか。
知朗に腹が立った萌子と同じように、萌子に腹が立ったのだ。
成だけしか目に入らずに、自分を失っている萌子に。
恋人がいながらも、それでも自分を含めた部員たちに目を配っていたはずの萌子が、成だけしか見つめていないことに。
嫉妬したんだ。
だから、叩いた。目を覚ましてほしくて。
自分の方も見てもらいたくて。
だが、ようやくたどり着いた答えは、由太を余計に不安にさせた。
理性が気持ちに負けて、そうして萌子を叩いた自分は、萌子と同じなのだ。
周囲の目も、自分の立場も忘れ、気がついたら手が出ていたのだから。
それほど、相手が好きだと言うことだ。
萌子は成を、
由太は萌子を。
俯く由太を無視して、理香と興仁は話を続ける。
「そりゃ、彼氏が怪我したら誰だって女の子は取り乱すよ。
アッチが怪我させられたら、私だってその相手のこと張倒すもん」
「でもさ…。今まではなかっただろう？福山さんには」
「それは…」
二人の会話が途絶えたところで、由太が突然踵を返し、歩き始めた。慌てて理香がその背中に声をかける。
「由太チャン？」
「探してくる」
流石に誰をとは聞かれなかった。
「ちゃんと謝るんだよっ」
理香の声が聞こえてきたが、由太はそれを振り切るように駆け出した。
もちろん萌子を探すつもりではあった。だがそれ以上に、取乱した自分を周囲の人間が見ていたことが、由太には耐えられなかったのだ。
グランドを出て、校舎へと向かおうと角を曲がったところで、ぶつかりそうになる。
慌てて体を避けて顔を上げると、萌子だった。
萌子も由太に気づいて、少し恥ずかしそうにほほ笑んだ。
「ごめん。練習、途中で抜け出して」
その気持ちが、今の由太には痛いほどわかった。
まだ赤くなっている頬を見て、由太は思わず顔を逸らす。
「いや。その…すまなかった」
思った以上に簡単に口にした言葉に、萌子も小さく首を振る。
「ううん。悪いのは私だから」
重い沈黙が続き、由太はそれを少しでも軽くしようと口を開く。
「成の方は一応病院には行ったけど、大したことないって」
「そうよね。ありがとう」
その言葉に、萌子も反省しているのだろうと由太が感じたところで、萌子が顔をあげて尋ねた。
「ねぇ、知朗は戻ってきた？」
「いや」
知朗はその後もグランドに戻ってくることはなかった。だが、部室に荷物があったことから、帰ったわけではないようだ。
由太の返事を聞いた萌子は、小さく息を吐き、答えた。
「ちょっと探してくる。理香たちには、先に帰ってくれて構わないって伝えておいて」
そう言って萌子は踵を返すと、小走りでどこかに向かって行った。方向からすると、海を探すのかもしれない。
結局自分のことは、眼中にないのか。
殴られたことを詰るわけでもなく、その理由を求めることもなく、萌子の頭にあるのは、成とそれに関係することばかりだ。
由太は唇をかみしめたままで、小さくなっていく萌子の背中を見つめていた。
練習後の部室に現れた成を見て、ケンが声を上げた。
「成！大丈夫だったか？」
「ああ。大げさだな、ケン」
成はそう言って、自分のロッカーを開ける。練習は終わり、部室では着替える部員たちで混雑していた。
「病院から直接帰るかと思ってたけど」
「うん…ちょっと」
厳己に聞かれて、成はそう答えるとそそくさと着替えを始めた。
コーチの佐藤にもそうするように勧められたが、それでも成は頑なに学校に戻ると言い張った。流石にそれが、萌子と一緒に帰るためだと口にすることはできなかったが。
とにかく遅くなったのは確かで、だからこそ成は慌てて着替えていたのだが、ふと周囲が沈んだ空気に包まれていることに気づいて、ケンに尋ねる。
「…何かあった？」
そういえば、知朗の姿がないな。
それと…由太も。
ちらりと視線を馳せた成に、ケンは声をひそめて答える。
「まあ、な」
思った通り、知朗は防波堤の縁に腰掛けていた。
「知朗」
萌子は声をかけると、振り返りもしない知朗の頬に、冷たいコーラの缶を当てた。
「これで冷やして」
夕焼けでわかりづらくなっているものの、萌子が叩いた頬はまだ赤い。
知朗は怒っているのか、それでもまだ振り返ろうとはしなかった。
「ごめんなさい」
そう萌子が謝ると、僅かに顔が動いて、ちらりと萌子を一瞥する。
「お前…どうした？」
そういうと知朗は、コーラを持つ萌子の手をすり抜けて、自分と同じように赤く腫れている萌子の頬に手を伸ばした。だが、その手が頬に触れる前に、萌子は一歩下がって答える。
「うん。…ちょっと」
真剣な知朗の眼差しに、萌子はコーラを持つ手を下ろした。だが、その腕を、知朗は掴むと、激しく問いただした。
「誰に殴られたんだよ、おいっ」
「いいのよ。私が悪かったんだし。私だって知朗のこと、叩いたし」
「それとこれとは違う！誰だ？俺が代わりに殴ってくるっ」
知朗はそう言うと、萌子を振り切って、学校へと歩き出した。今度は萌子が知朗の腕を掴む番だった。
「もういいってば。
…そうしなければ、場が収まらなかったから、仕方なかったのよ。…由太も」
「由太？」
出てきた名前に、知朗も驚いたのか声を上げる。
萌子も手を挙げたのが由太だったことには、正直驚いていた。
男尊女卑な性格とはいえ、女子に手を挙げるようなタイプではないと思っていたのだ。
そんな由太を怒らせたと言うことは、それだけ自分が悪かったと言うことなのだ。
萌子はそう思いながら、知朗の前に回り込んで頭を下げた。
「もういいじゃない。このことは。
それより、知朗。本当に、ごめん」
萌子の言葉に、知朗はグランドでの出来事を思い出したのか、顔を背ける。それでも萌子は続けた。
「確かに私、おかしかった。ごめんなさい。
だけど…知朗にはわかってほしいの。
私と、成のこと」
朔哉の気持ちがわかり、少しだけ前に進めたのは、知朗のおかげだと萌子は思っていた。同時に、今まで気づいていなかった自分の気持ちに気づいたのも、知朗のおかげだ。
今までも何度もあった。萌子の気持ちが揺れている時、知朗の言葉はいつも的確に萌子の心を突いてきた。それは、優しい言葉ではなかったけれど、結果として萌子の為になることが多かった。
しかし、知朗の気持ちも、萌子には痛いくらいにわかっている。
そんな気持ちをずっと知り続けながらも、成を見つめていた行為が、どれだけ知朗の気持ちを傷つけたかも、萌子なりにわかっているつもりだった。
それでも、いやだからこそ、萌子は知朗に成とのことを認めてもらいたかったし、認めてもらえると思っていたのだ。
知朗の様子をうかがう萌子の前で、知朗は舌打ちをして答えた。
「そんなことわかってる。
俺が言いたいのは、そういうことじゃなくて」
急に知朗が黙り込み、萌子の先を見つめている。萌子がその視線を辿ると、そこには成が立っていた。
遠巻きに様子を見ていた成だったが、覚悟を決めたように二人の前に歩いて行くと、
「痛そうだな。萌子も…知朗も」
と交互に顔を見ながら言った。萌子が恥ずかしそうに俯く中で、知朗が成に取り繕うことなく尋ねた。
「足は？」
「あのくらいでやられるわけないだろ」
にやりと成が笑うと、知朗も「まあ、そうだよな」と笑顔を返した。
その様子に、グランドで見た光景は、単に自分の取り越し苦労だったのだと胸をなでおろす萌子に、成は尋ねる。
「話は、終わった？」
黙って萌子は頷く。
「じゃあ、帰ろうか」
それが暗に送って行くと言っているのだとわかり、萌子は微笑みながら頷いた。
ところが、歩き出そうとしたところで、急に知朗が二人に話しかけてきた。
「確かに俺は、むかついてた。
お前らに。
だけど、その理由は、萌子が思ってるようなことじゃない」
思わず二人は知朗の方を見つめる。
むかついてた、そう言う知朗の顔は真剣そのもので、決して冗談などを言っている様子ではなかった。
二人を睨みつけるでもなく、蔑んでいるでもなく、淡々と知朗は続けた。
「俺がむかついてるのは、お前らが流されてるからだ」
「流されてる？」
わからないといった様子で萌子がそう聞き返すと、知朗は急に激昂したように叫んだ。
「与えられた役割に満足して、大事なこと忘れてんじゃねぇよ」
だが萌子にはそう知朗が言うことがわからなかった。
「どういう…意味？」
思わず聞き返すと、知朗はふんと息を吐いてから答えた。
「部活も学校も全部忘れて、ただ好きだと言えないお前らが、むかつくって言ってんだよ」
知朗はそれだけ言うと、二人の脇をすり抜けて、一人学校へと戻って行く。
わけもわからず取り残された萌子は、ふいに何も言わずにいる成に視線を向けた。
すると成は、表情を強張らせて、虚を衝かれたように立ち尽くしていた。
「…成？」
思わず萌子が声をかけると、成ははっとしたように視線を萌子に戻した。
どうかした？
手を伸ばし、成の腕を掴んでそう尋ねようとする萌子の手から逃げるように、成はくるりと萌子に背を向けると、
「帰ろうか」
と言って、先を歩きだした。
あの日から、もう一か月経ったんだな。
学校へと続く道を歩きながら、成は知朗のことを思い出してた。
あの日以来、知朗が成と萌子のことに口を出すことはない。もちろん二人の仲を裂こうとしている様子はないが、かといって応援している様子も冷やかしている様子もなく、成としては監視されているような気がしていて、以前のように知朗と話せなくなっていた。
それが萌子のせいだとは思っていないけれど、萌子の隣にいることで、今までできたことができないということは、少なくはないなと感じていた。
信号が赤になり、成は足を止めた。隣にいるはずの萌子がいないことに気づく。振り返ると、萌子は成より少し遅れて歩いてきている。
どこか浮かない表情は、やはり自分が遅刻してきたことに怒っているからかもしれないと、成は唇を噛みしめた。
『萌子のこと、頼んだぞ』
朔哉にそう言われた成は、どうしたらいいのかがわからなかった。
とりあえずやらなきゃと思ったのは、朔哉が萌子にやっていたことを踏襲することだった。
送り迎えをすること。
だがこれが、簡単そうに思えてそうもいかない。
もともと朝が弱いところで、マネージャーである萌子の登校時間に合わせるとなると、今までよりも三十分早起きしなければならなかった。朝の三十分は、昼間の一時間にも相当する。成も必死で早起きした。
だがある時、二度寝をして遅刻してしまった。慌てて萌子の家まで駆けつけると、萌子は家の塀にもたれかかりながら、成を待ってくれてはいた。成は駆け寄り「萌子」と名前を呼んだ。「ごめん」と言いかけたその言葉を止めたのはその時の萌子の表情だった。
一瞬目が泳いで、それからはっとしたように成を見ると、おはようと言った。まるで、成の後ろに亡霊を見つけたような表情だった。
その時、思ったのだ。
萌子が待っていたのは、自分じゃないんじゃないか、と。
ふと思ったその言葉は、毒のようにじわじわと成の全身を駆け巡り、成をがんじがらめにしていった。
『与えられた役割に満足して、大事なこと忘れてんじゃねぇよ』
知朗に言われた言葉が、更に不安を煽った。
萌子を守る。
その役を託してきたのは、朔哉であって、萌子ではない。
『部活も学校も、全部忘れてただ好きだと言えないお前らにだよ』
ましてや、萌子に好きだと言われたわけでもないのだ。
知朗の言っている通りだった。
あの時成が言葉を失ったのは、それが正しいと思ったから。
忘れてしまっている大事なこと。
それは、萌子の気持ち。
成はようやく追いついて隣に立つ萌子を横目でちらりと見ながら思う。
それじゃあ、萌子は俺のことを、どう思っているのだろうか。
どうして俺を受け入れてくれるのだろうか。
…あの人を、忘れたいからだろうか？