Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
浅春2
静まり返ったバスの中で、成は深くため息をついた。
困った。
右肩は、じんわりと温かく、そして痺れを僅かに感じる。
そっと右側を見つめた成は、再びため息をついた。
だがそれは、満足した笑みとともにこぼれた。
成の右隣りには、萌子がすやすやと眠っていた。肩が痛いのは、萌子が成に寄りかかっているからだ。
さんざん泣いて叫んだ萌子は、気付けば疲れてしまったのか、すやすやと寝息を立てていた。
それだけ、自分の隣が安心できる場所なのだと思うと、成は胸を張りたい気分になる。
その時ドアが開いて、篤志が顔を出した。
「萌子は？」
「まだ寝てる」
そう答えると篤志は僅かに肩をすくめる。Ｃチームの篤志は、電車に乗って追いかけてくる形になったのだが、萌子の様子はすでに聞いているようだった。
しかし困った、と成は再び小さなため息をつく。
安心して眠っている萌子を起こしたくはない。
が、自分が動けば萌子も起きてしまいそうで、ギリギリまで待ってはみたものの、やはり起きる気配はなかった。
篤志はバスに乗り込んで、一番後ろの席に座る成の前に座ると、
「そのままにしとけって、監督」
と言った。
「でも」
「今日だけって言ってたから。聞いたんじゃないのか、朔哉さんとのこと」
グラウンドでの朔哉と萌子の別れの場面は、告白の時と同様に多くの生徒が見ていた。
もっとも、初めは何が起きているのかよくわからなかったという生徒も少なくはなかったが、去り際に別の女子の肩を組む朔哉を見て、誰もが朔哉の心変わりなのだと思った。
もしくは、以前の朔哉に戻っただけで、萌子と過ごしたこの一年間の方が、朔哉には珍しく一人だけを相手にしていたのだ、と。
そうして気付けば萌子は悲劇のヒロインで、萌子を守るようにして隣にいた成も、本人の知らないところで白馬の王子様扱いをされていた。
「それより、成は試合だろ？もう準備に行かないと」
ふいに篤志がそう言う。
確かに、もうそろそろ着替えないと、練習試合に出れなくなってしまう。
成は着ていたコートを窓側に置くと、そこにそっと萌子の頭を置いた。
起きたらどうしようかと思う成の心配をよそに、萌子はすやすやと眠っている。その頬には、まだ涙の跡が見える。
朔哉からもらった学ランを萌子にかけると、成は満足そうにほほ笑んで、篤志に言った。
「ああ。じゃ、あと頼んだから」
「了解」
慌ててバスを降りていく成を見て、篤志はくすりと笑った。
いっぱいいっぱいだな。成。
ぱさりと音がして、萌子の方を見ると成がかけた学ランが、見事に床に落ちていた。
篤志はため息交じりにそれを拾い上げる。
「まったく、せっかくもらったんだろう？朔哉さんの学ラン」
世界で一つしかない学ランなんだぞ。
篤志はそう思いながら、目の前でそれを広げた。
人気者だけあってか、校章はなく、ボタンも袖のものまで見事なまでに取られている。
しばらく眺めたのち、篤志はそれを萌子にかけようとしたところで、床に落ちている封筒に気づいた。
薄いブルーのそれは、宛名も何も書かれていない。
何だろう？
日に当ててみようとすると、中に何かが入っているのがわかった。
萌子のかな。
ちらりと視線を萌子に送ったが、萌子は寝入っていて篤志の視線になど気付かない。
…開けても、いいかな。
だがその封筒を開こうとしたところで、
「アッチ！」
とバス中に大きな声が響いた。
「り、理香」
どうしたんだと言う前に、理香はズカズカとバスに乗り込んで、篤志の前に立つ。
「やっぱり監督が萌子起こして来いってさ。萌子がいないとわからないことがあるんだって。
で、どう？」
しゃがむ篤志を覗き込むようにした理香から、思わず篤志は手紙をポケットに押し込んで隠す。
「え？」
何のこと？と答える前に、理香が苛立ったように答えた。
「萌子。そういえば、ボタンもらってたみたい？」
「いや？」
どうして？と篤志が聞く前に理香が説明をした。
「それがね、卒業式終わって、朔哉さんが教室出た頃には、もう第二ボタンだけなかったって言うのよ。
だからね、もしかして萌子もらってないかなって思ったんだけど」
そう言ってため息をつくと、理香ははたと気づいて篤志に問いかけた。
「それにしてもまだ寝てるの？」
「あ、…ああ」
篤志がそう答えると、理香はそんな篤志を押しのけて、萌子の肩を揺らした。
「仕方ないなあ。
萌子！起きて。監督が呼んでる。
それに試合始まっちゃうよ」
結果は、三対一。
内容的にもまずまずの試合だった。東京都の新人戦ではベスト16ということだが、楠学園はさらに実力をつけていた。
試合が終わって凪浜に帰ってくると、日もどっぷりと暮れていた。
由太と萌子が荷物の片づけをてきぱきと指示する中、帰りはバス組になった篤志は、萌子に話しかける機会を狙っていた。
ポケットには、あの手紙がまだ入ったままなのだ。
萌子のものかもわからないが、とにかく一番に聞いてみようとタイミングを計っているものの、練習試合中の萌子は忙しく、聞きそびれたままだった。
「それじゃ、お疲れ様」
「明日も朝練あるからな。忘れんなよ」
ようやく片付けも終わり、解散となったところで、篤志は萌子に駆け寄って行った。
「なぁ、萌子。ちょっと、いいか？」
「何？」
平然とした表情で萌子がそう顔を上げる。
つい数時間前までは、ここで泣きじゃくっていたのに。
それが萌子の強さなのかと思いながら、
「あのさ」
とポケットに手を入れたところで、「萌子」と別の方から声がかかった。
篤志も一緒になって声のする方を振り返ると、そこには成が立っていた。
「成」
どうしたの？と萌子は首をかしげている。成は、少し俯いてから、
「送るよ」
と呟いた。萌子の顔が戸惑っているのが、篤志にもわかる。
それは喜びたいけれど素直に喜んじゃいけない、という表情でもあった。
「でも。篤志が話があるって―」
結局萌子はそう断りかけたが、その声を遮って、成は篤志に言った。
「明日でもいいか？篤志。
萌子、疲れてると思うんだ」
「でも―」
そう言ったのは萌子だが、成は篤志に軽く頭を下げた。
「悪い」
遅れて、いいよと篤志は答えたものの、二人にその声は届いていない様子だった。
成は篤志の返事を待つことなく、萌子の荷物を奪うようにして取り上げていた。
「荷物、持つよ」
「いいよ。だって、疲れてるのは成の方じゃない」
萌子がそう言って断るものの、珍しく成は強引にその鞄を持ったまま先を歩き始める。萌子はそんな成と、呆然としている篤志の両方を見て、ごめんと篤志に目くばせすると、急いで成の後を追いかけていった。
「なんかあいつ、変わったな」
その様子を傍で見ていたケンが、そうぽつりと呟いた。
「行ってきます」
翌朝、いつものように萌子は家を出た。
昨日思いっきり泣いたせいか、気分はすっきりしていた。
とはいえ、思わず癖で、家の周囲に目を馳せる。当然だが、その姿はいつもの場所にはない。
いるはずもない人のこと…何探してるんだろう。
小さくため息をついて、家の門を開ける。
閉めようとしたところで、萌子は突然声をかけられた。
「おはよう」
思わず顔を上げると、家の塀に寄りかかるようにして成が立っている。
「…おはよう。成、どうして？」
すると成は、ああ…と俯いてから、少し恥ずかしそうに答えた。
「萌子と、一緒に行こうと思って」
朝日に顔を染めた成が、そっと顔を上げる。目が合って心臓がとくんと跳ね上がるのを、萌子は感じた。
目を見開いた萌子を見て、成は失敗したかな、と思った。
朔哉が毎朝萌子と学校に行っている話は、前から聞いていた。
朔哉のようなナイト役をするならば、自分も同じようにしなければと思って、成も早起きしてきたのだ。
いいとも、嫌だとも言わない萌子に、成は戸惑って、無理やり笑顔を作った。ぎこちないと自分でもわかるくらいの笑顔だ。
すると、萌子がそんな成を見て、くすっと笑った。
つられたように成も、今度は安心して顔が緩む。
春というにはまだ肌寒い空気が、二人の間だけ柔らかく流れていた。
「篤志！あんた遅刻するわよ！いいかげん起きなさい！」
階下から聞こえてきた環のどなり声に、思わず篤志も言い返す。
「起きてるよっ！」
階段を駆け上がる足音がおさまって、篤志はほっと一息をついた。
今この状態で環に勝手にこの部屋に踏み込まれては困る。
篤志は慌てて机の上に広げていた手紙を封筒にしまう。そうして制服のポケットに入れようとして、机の上に取り残されたボタンを見つけた。
凪高の校章が刻まれているそのボタンは、昨日拾った封筒の中に一つだけ入っていた。
封筒には手紙も入っていた。
それを読んで、篤志はこの手紙が朔哉から萌子に送られたものだと確信した。
おまけにこのボタンが、いつの間にかなくなっていた朔哉の第二ボタンだと言うことも。
だけど、と篤志は考え込む。
どうして朔哉がこの手紙を、ボタンを、萌子に渡そうとしたのかが、わからない。
昨日の一件で、朔哉ファンの多くは失望していたが、篤志は違った。
むしろ、感動したくらいだった。
朔哉さんは、本当に萌子のことが好きだったんだ、と。
何も知らない者たちは、朔哉の心変わりを責めていたけれど、実際に朔哉は心変わりしたわけではない。
何故なら、彼女…菅原祥子との噂も、昨日の行動も、全て演技なのだから。
篤志がそう確信する理由は、前に朔哉に聞かれたことにあった。
それはバレンタインの前日。
タマの散歩に行こうと、寮の犬小屋を覗くと、朔哉がタマと遊んでいた。
どんな話をしていたのか、篤志はよく覚えていない。
だが、自分だけが一方的に話していたと、後から振り返って思う。
途切れない篤志の話の合間をぬって、ふいに朔哉が言った。
「篤志…菅原祥子って子知ってるか？」
思いがけない名前に、篤志は思い出しながら答える。
「二年七組の？」
ショートカットのクールビューティーを感じさせる凛とした顔を思い出す。篤志の言葉に、朔哉はああと頷いて質問を続けた。
「どんな子だ？」
「あまり詳しくはないけど…真面目でいい子らしいよ。見た目は冷たそうにも思えるけど、気さくで優しいって。
だけど菅原がどうかしたんですか？朔哉さん」
篤志が考えても、二人の接点はないように思えた。首をかしげる篤志に、
「なんでもない」
と朔哉はあっさりと答えると、さっさと部屋へと引き上げてしまったのだ。
篤志としても、それほど気にしてもいなかった。
朔哉が萌子に別れ話をしたと聞いた時も、厳己が朔哉が萌子以外の女性と腕を組んで歩いていたと聞いても、思い出しもしなかったくらいだ。
だから、グラウンドでの朔哉と萌子の別れのシーンで、すっと現れた菅原祥子を見た時は、ひどく驚いた。
そして、朔哉との会話を思い出したのだ。
朔哉はバレンタインの頃までは、菅原祥子のことを知らなかった。
それが二週間ほどで、恋人のふりをするまでになる。
その間に何かがあったのだと、直感で篤志は思った。
そして気づいたのだ。
朔哉は、萌子が成のことをずっと見ていることを、知っていたのだ、と。
朔哉は、美都の思ったとおり、自分が萌子の気持ちの足枷にならないように、今回のことをすべて仕組んだのだ。
萌子が言い出せないだろうからと、先に別れを告げて、
萌子が気兼ねないようにと、自分に他の恋人ができたように見せかけた。
大勢の前で、あれだけ萌子を傷つけたのも、周りの人間に自分の方が悪いのだと思わせるためだ。
そうしなければ、萌子と成がすぐに付き合いだすことになったら、誰もが萌子の心変わりが原因だと考えるだろう。
そうすれば、誰もが萌子を責める。だがそれが朔哉だったならば、凪浜から遠い地で新しい生活をしている朔哉だったならば、そんな非難の声も聞こえない。
だが萌子だったら？
最後の一年間、周囲からの責める視線に耐え続けなければならない。萌子のことだから、自分を責めて、成とも別れるだろう。
今ならば、厳己の話にも頷ける。そうして他の女とデートを重ねることで、朔哉は萌子を周りから守ったのだ。
そうまでして、萌子の自由にさせようとしていた。
それなのに。
これは、何だと言うのだろうか。
篤志は両手に乗せたそれらをじっと見つめた。
手紙とボタン。
どちらも朔哉の想いが込められているものだ。
その証になるものを、萌子に残すなんて。
自由にさせようとする朔哉の気持ちに、相反している。
それに、と篤志は考える。
どうして選んだのが菅原祥子だったんだろうか。
彼女は、この先も凪高に残る。今回限りの相手にしては、凪浜にいる限り、その嘘がばれないとも限らない。
完璧主義者の朔哉ならば、こういう場合は後腐れのない卒業生から選ぶはずなのに。
その答えがわからずに、篤志は封筒を見つめ続ける。
そして、篤志はもう一度手紙を広げる。
短い文章だが、気持ちを込めるには十分すぎる手紙だった。
「萌子へ
凪より愛を込めて」