Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月9
ひとり病室に戻ってきた右京は、顔を出した途端にいきなり中から声をかけられた。
「お、右京」
「どこ行ってたの？右京くん。あたしたち、ずっとここで待ってたんだよ」
座るはずのベッドには、最初に右京に気づいたケンと理香が座り込んでいる。窓際には厳己と美都が、そして、ベッドサイドには篤志が立っていた。困惑した右京の表情に気づいたのか、篤志が慌てて駆け寄ってきた。
「今日練習が、午前中で終わってさ。ケンとイズと一緒にお見舞いに来たんだ。理香と椎名はおまけだけど」
おまけと言われて、理香が頬を膨らませる。
「ひどいな、アッチ。だって、萌子が急にいなくなっちゃうんだもん。三人で買い物する予定だったのに。どうしようかって思ってたら、三人が歩いてるのが見えて、だったら一緒にって。でも、あたしも美都も、すっごく右京くんのこと心配してたんだよ。ね、美都」
「足の具合、どう？まだ痛む？」
小さく頷き、美都が心配そうに右京の足を見つめた。篤志たちも、心配そうに息をひそめて右京の顔を見つめている。
「…いや」
右京がそう答えると、張りつめていた空気は、一気に和らいだ。ケンがベッドから右京に言う。
「早く治せよ。お前なしに全国勝ち抜けねぇよ」
「今だって、右京くんいなくていっぱいいっぱいだもんね」
「理香」
理香の言葉に思わず篤志が怒ったように名前を呼んだ。
本心を言えば、右京にはすぐにでも戻ってきてもらいたい。けれど、皆がそう言えば、右京が焦る。だから、今日はあくまでも右京を元気づけるためのお見舞いなのだと、行きの電車でさんざん話していたことだったのに。
睨みつけられた理香は、むっとしたように言い返す。
「だって。そうじゃない。この前の深田商業戦だって、つかっちゃんがいなかったら、結構危なかったでしょう」
理香としては、いつもはチャラチャラしている司でも頑張っているのだからと、右京を励ましたかったのだ。フォローするように厳己が言う。
「確かにこの前の試合の功労者は、大槻さんだったよね」
気づいたケンが、理香に尋ねる。
「あれ？理香、許したんだ。つかっちゃんのこと」
「そりゃね、つかっちゃんの女癖の悪さのせいで、あたしとアッチが心を深〜く傷つけられたのは、本当のことだけど。でも、試練を乗り越えたおかげで前よりもっと、ラブラブになれたし。ね、アッチ」
篤志の腕をとり、顔を肩にすりつけてくる理香に、篤志は戸惑って小さく言う。
「理香、みんな見てるだろ」
「アッチ嫌なの？」
また理香の頬が膨らんだ。篤志は自分たちをじっと見つめているケンたちに笑いかけながら、答える。
「どういうことじゃなくてさ、あはは」
くだらない、というようにケンはふんと鼻を鳴らすと、立ち尽くしている右京に聞いた。
「あーうぜーうぜー。なぁ右京。何か食うもんないわけ？俺たち昼飯もまだなんだぜ」
「ここにはない。レストランなら、下にある」
レストランと聞き理香の表情が変わる。
「レストランなら、ケーキもあるよね。それじゃ先にご飯食べてこようよ。右京くんは？」
「いい」
理香にぐいっと腕をひっぱられる形なった篤志が、慌てて右京に言い残す。
「あ、じゃあ、俺ら、ちょっとしてからまた来るから」
右京が小さく頷くと、篤志も安心したのか笑顔になった。ガヤガヤと騒ぎながら、部員たちがいなくなったところで、右京は大きく息を吐く。
「ふぅ」
この一年半でだいぶ部員達には馴染んできたし、右京も彼らが嫌いではない。だが、大勢でいきなり来られると、どうも疲れて仕方ないのだ。
『皆、お前が帰ってくるの、待ってる。それだけを、待ってる』
ふいに知朗の言葉が頭をよぎった。
俺を、待ってる相手。
篤志たちの笑顔を思い出す。
そうすると少しだが、心の奥がじんわりと温まった気がした。
俺の、帰る場所。
初めてできた、俺の居場所。
そう思うと、一刻も早く、グランドを駆け回りたい気持ちに駆られた。
よし、と棚に入れてあるダンベルでトレーニングをしようと思った右京だったが、その床に乱暴に放り出されたケンたちの鞄や、シーツの上にお菓子のカスが落ちているのを見たところで、急にその気持ちが冷めていくのがわかった。ため息をつきながら、シーツを整えていると、コンコンとドアがノックされる。
忘れものでもしていったか。
苛立った気持ちで、勢いよくドアを開けたところで、右京は思わず、あ、と小さく声を上げた。
「こんにちは」
そこには、右京の険しい表情にも戸惑わずに、笑顔を向ける紗依が立っていた。
敵か、味方か。
…もしかして、警察？
そう思ったところで思わず萌子はごくりと喉を鳴らした。
警察ならば、怪我はすることなく、相手も補導されることにはなる。
だが、ここで何をしていたのか追及されることは目に見えているし、もしかしたらさっき撮られた写真も、没収されてしまうかもしれない。
そうなれば、選手権には出られなくなる。
それだけは、嫌だ。
絶対に、嫌だ。
萌子は食い入るように中に入ってくる男の姿を見つめた。
そして、影から浮かび上がるように見えたその姿に、思わず萌子は呟いた。
「…三上…さん」
黒いシャツに黒いズボンという姿の三上良次は、萌子の言葉には答えずに、ずかずかと中に入ってくると、竹田の前に立って言った。竹田はその勢いに押されて一歩後ずさりはしたものの、瑛子たちの視線に気づいて、慌てて背筋を伸ばし、口を開いた。
「誰だよ、お前」
「三上良次。凪の三上って聞いたことねぇか？」
「凪の三上…、あっ」
思い出したのか、竹田は一瞬動揺を見せた。良次はにやりと微笑むと、竹田に向ってすごむ。
「凪浜高校サッカー部ファンの俺にとっちゃ、こんなことされると腹が立つんだよな。ずいぶんと卑怯なまね、してくれるじゃねぇか」
焦った竹田が、声を大きくして周囲の仲間に言った。
「おいっ、そいつらはいいから、こいつが先だっ」
竹田の声に、萌子を捕まえていた手が緩む。
「そう来なきゃな」
そうして、後ろに一歩下がった竹田の前には、萌子たちを捕えていた男たちが皆、鉄パイプを持って良次を取り囲んだ。
「三上さんっ」
「引っ込んでろ。このくらい一人で十分だ」
萌子の呼びかけにも良次は平然とそう答える。
「でも―」
「あんたは知らねぇだろうけど、俺は、喧嘩は日常茶飯事のことだし、負けたことはない。安心して見てればいいさ」
確かに、風格からしても、良次の方が強そうだ。
とはいえ、相手は鉄パイプを持っているんだし。
でも、下手にこっちが手を出すと、試合には出れなくなるし。
どうしよう。
立ちつくしている萌子の手を、朔哉が強く引いた。
「萌子は逃げるんだ」
「朔哉さん、でも」
「怪我でもしたらどうするんだ」
「マネージャーの私より、選手の朔哉さんたちの方が、怪我したら大変でしょう」
「そういうことじゃないっ、いいから早く」
「でも」
手を引っ張って外に連れ出そうとする朔哉に、萌子は逆らっている。成はそんな二人を見て、自分がどうしたらいいのかと悩んでいた。そうして誰もが自分以外の存在に注意が向かっていることに気づいた瑛子は、その場を離れようとした。しかし、そんな瑛子を司の手が止める。
「瑛子ちゃん」
「離してよ、離してってば！」
「教えてくれ。いったいこれは…」
真剣な司の形相が余計に恐ろしく感じた瑛子はそんな司の手を必死でふり払おうとする。だが、司が簡単に放すわけもなく、ついに瑛子は司の胸を突くと、その隙に自分だけ逃げていこうとした。押されたことで一瞬瑛子を掴んでいた手が緩んだ司だったが、それでも逃がすまいとその手に力を入れる。
「離してよっっ！！」
瑛子は再び司の胸をつこうとしたが、二度目は流石に司が避けて体をそらす。だが、運悪く瑛子の手がそのまま怪我した司の肩に当たり、司は思わずうめき声をあげると掴んでいた瑛子の腕を放した。瑛子は必死に肩を押さえて蹲っている司の体を更に突き飛ばす。不意をつかれた形になった司はそのまま後ろに倒れ、壁に立て掛けられていた長い鉄の棒にぶつかった。何本も立て掛けられていた棒は、ぶつかった反動で数本がバランスを崩すと、ドミノ倒しのように次々と倒れ始めた。
「キャッ」
自分に向って倒れてくる鉄の棒に気づいた瑛子が声をあげて逃げようとしたが、驚いたせいで腰がぬけたのか足が動かない。
ぶつかるっ。
そう思った瞬間、瑛子は強く突き飛ばされた。膝と掌に痛みを覚えたところで、鐘の鳴り響くような音が雨だれのように激しく倉庫中に響いた。驚いた瑛子が振り返ると、倒れた何本もの棒の下には、瑛子を助けて逃げ遅れた司が見えた。
「大槻さんっ？」
音に気づいた萌子があたりを見渡すと、いたはずの司と瑛子がいない。すばやく視線を馳せると、少し先で両手を口に抑えて座り込んでいる瑛子と、その視線の先にうつぶせに倒れている司が見えた。そして、その右足には、重く固い鉄の棒が何本ものっている。
「司っ」
朔哉が叫ぶ悲痛な声が、再び静寂に包まれた倉庫に響き渡った。
「こんにちは」
ぎこちない笑みになっていないようにと思いつつ、目の前の右京の表情は明らかに戸惑っていた。
やっぱり、迷惑だったのかな。
そうよね。帰れってついこの前、言われたばかりだったし。
紗依は俯き、髪をかきあげながら謝った。
「…ごめんなさい、急に来て。これ渡したらすぐに帰るわ」
そう言って持ってきた手土産を右京に差し出すものの、右京は受取らない。
手土産は、凪浜でおいしいと評判のケーキ屋『スイートハウス』のケーキだった。右京の趣味がわからないからと、イチゴのショートケーキやモンブランなど、四つほどケーキを買ってきてみたのだが。
「はい。…藤原君？」
恐る恐る顔をあげると、唇をかみしめてそっぽを向いた右京が答えた。
「甘いもの、苦手で」
「え？そうなの？…ごめんなさい。私ったら、ちゃんと確認しなくて―」
またやってしまった。
どうして私ってば、藤原君のこと怒らせてばかりいるのかしら。
ケーキの箱を慌てて引っ込めて、帰ろうとするとふいに右京がその箱を取る。そして、ギブスをつけた足を引きずりながら、テーブルの上に箱を置いた。そして、入口で立ち尽くしている紗依に向って言う。
「だから、食べて。コーヒーならある」
右京がチェストから紙コップやインスタントコーヒーのボトルを出し始める。
拒絶されたわけじゃないと気づいた紗依は、慌てて傍に駆け寄った。
「いいわよ。そんな怪我してる人に。そのくらい、自分でやりますっ」
奪うようにして紙コップを手にした紗依は、ボトルを開けてながら、右京に尋ねた。
「藤原君もコーヒーでいいかしら？」
右京の方が今度は戸惑いながら、それでも小さく頷いた。
拒絶、というよりむしろ、受け入れてくれているような気すらする。…なんて、自意識過剰なだけかもしれないけど。
『藤原は、他人が自分の領域に入ってくることを非常に嫌う、そういう生徒なんです』
昨日そう石橋に言われたことを思い出す。
帰ろうとしたところで怪我した生徒がいたりして、昨日はいつもより遅くまで学校にいることになった紗依だが、ラッキーだと思ったのは石橋と会ったことだった。どこかに行っていたのか、紗依が学校を出るタイミングで、石橋はちょうど学校に戻ってきたのだ。お疲れ様ですとだけ言って帰ろうとした紗依を引き留めたのも、石橋だった。
「田波先生、二年の藤原右京のお見舞いに行っていただいたというのは、本当ですか？」
突然の話に、紗依は戸惑った。
「ええ。沢木さんから、部員もおうちの方もお見舞いにあまり行けないようだから、できれば行ってもらいたいと頼まれまして。あの、家もわりと近くなので…」
でも、嫌われてしまいました。
そう言うことは、なんとなく自分の教師としての力量を問われる気がして、紗依は歯切れの悪いままに言葉を濁す。
石橋は、そうですか、と短く答えると、話を続けた。
「話ができたというのなら、藤原は、先生のことは許しているのかもしれないな」
「許す？」
思わず問い返した紗依に、石橋はええと頷いて言ったのだ。
「藤原は、他人が自分の領域に入ってくることを非常に嫌う、そういう生徒なんです。そういう生徒が、病室に先生を入れたということは、それだけでも許しているということかもしれないな、と。悪い生徒ではないんです。ただ、純粋すぎるというか、許すものと許さないものの差が激しすぎて…まだ、子供だということでしょう」
そう言ってため息をつく石橋を見て、紗依は右京が石橋の言うことを聞かないのだと萌子が言っていたことを思い出した。
「…難しい、生徒さんですね」
「いいえ、そんな身構えることはないんです。ただ、バランスを取るのが難しいというか、そういうことに興味がないんです、藤原は。ご存じないかもしれませんが、藤原のサッカーセンスは抜群です。私が今まで指導してきた中でも群を抜いている。おそらく日本を背負って立つような素質はあると思ってます。ただ、精神面が足りない。いくら技術面が高くても、精神面が低ければ、藤原の将来はそれほど明るいわけじゃない。だからこそ、私はあいつに、ここでそれを学んでほしいと思っているんですが…」
そこで一旦、石橋は言葉を詰まらせた。
「もし、ご迷惑でなかったら、また藤原を見舞ってやってもらえますでしょうか」
「え？」
突然の申し出に、紗依は戸惑った。
「事情は沢木から聞いている通りです。手術は成功しましたが、回復は藤原の精神力にかかわってくる。恥ずかしい話だけれども、藤原無しのチームでは全国制覇はおそらく難しい。全国制覇するためには、藤原の復帰が必要なんです。先生であれば、リハビリについての知識も、普通の方よりもあるでしょうし、そういった面でも、藤原にとって心強い支えになってもらえると思うんです」
今にも土下座してしまいそうな勢いの石橋に、紗依はどう答えていいのかわからなかった。
第一、自分は嫌われてしまったのだ。
帰れと言われたのに、また行くなんて。
「でも、私―」
「お願いします」
石橋はそう言うと、深々と頭を下げた。
よく見れば、石橋の髪にはいくつもの白髪が見えていた。
さっきも言葉を詰まらせた時の、表情。
…いいじゃないの、生徒に嫌われたって。
自分の好きな人が、頼んでくれていることなんだから。
「私に…できるのであれば」
紗依のその言葉をかみしめるように、石橋はそっと顔をあげると、今まで紗依に向けたことのない笑顔で、ありがとうと言った。
笑うと目じりが下がって、しわがたくさんできて。
思い出すだけで、紗依まで笑みがこぼれてしまう。
余計に粉末を入れそうになった紗依は、慌ててその手を止めると両手にコップを持ち、給湯室に行こうとした。
「…あの」
右京に背を向けたところで、呼びとめられて、紗依は慌てて振り返る。
「え？」
すると右京は、僅かに唇をかみしめたかと思うと、ベッドから起き上がって、深く頭を下げた。
「この前、すみませんでした。…八つ当たり、して」
まだ子供だと言っていた石橋の言葉を思い出し、紗依は笑顔のままで首を横に振った。
「そんな、私こそ。ごめんなさい。手術の前日に行くことなかったわよね。ほんと、タイミング考えればわかることなのに―」
「先生」
「はい？」
珍しく右京が紗依の言葉を遮ったかと思うと、右京はそのまま紗依をまっすぐ見据えて言った。
「選手権出たら、見に来てくれますか？」
『全国制覇するためには、藤原の復帰が必要なんです』
紗依の頭の中で、石橋の声が響く。
「ええ、もちろん」
笑顔の紗依の前で、同じように右京も笑顔を浮かべていた。