Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月8
「ねぇ、アメリカンまだ？」
「こっちはオーダー待ってるんだけど」
「はいっ、只今っ」
そう答えたものの、一馬は猫の手も借りたいほどに仕事に追われていた。いつもだったらそれほど混まない時間帯のはずなのに、今日はどうしてか客が多い。おまけにマスターは、買い出しがあるとかで出て行き、店には一馬一人しかいなかった。
畜生、こんな時にっ。
必死で珈琲を作りながらも、一馬の頭の中には、成の声がこだましている。
『ごめん、一馬。俺、行かなきゃいけないから。行かないと、大槻さんがヤバイ』
そう言ってタクシーに乗り込んだ成を追いかけようとして、偶然通りかかった朔哉にその席を譲ってしまったけれど、あの時無理にでも自分も行くべきだったと一馬は後悔していた。だが、慌てて追いかけようとしても自分のバイクは司が持って行ってしまっており、おまけに混雑している店を放り出してはいけない。苛立つ気持ちが冷静さを失って、余計に仕事が進まない。
ああ、畜生！
あふれんばかりに珈琲をカップに注いだところで、誰かの手がそのカップを取り上げた。
「これ、どこに持ってきゃいいわけ？」
「細谷さん」
店に入ったものの、混乱する店内で、席にも案内されずに立ち尽くしていた俊平が、驚いた一馬の目の前に立っていた。思わずそう呟いたまま黙っていると、俊平は早く答えろとでも言うように一馬を睨んだ。
「その窓際の男の人に」
「了解。手伝う代わりに俺らの珈琲代、タダだぞ」
俊平はそう言うと、お待たせしましたと、珈琲を持って行った。
「すみません」
戻ってきた俊平に一馬が謝ると、俊平はにやりとだけ笑って、カウンターの席に見知らぬ男と座った。
誰だろう、あれ。
凄むような鋭い瞳に、金色の短髪。凪浜とは違うが制服を着ているから高校生なのだろうけれど、見たことがない。一瞬目があったが、睨みつけられたような気がして、一馬はさりげなく視線をそらした。
客の観察をしてる暇なんて、今の俺にはないんだし。
「ねえ、それでオーダーしたいんだけど？」
「はいっ、今行きます！」
苛立った客の声に、一馬は急いで手を拭くとカウンターを出てたところで、電話が鳴り響く。一馬は舌打ちをしてどちらを先に選ぶべきかと悩んでいると、俊平がすくっと立ち上がった。
「二杯目もおごりだからな」
そして唖然としている一馬の視線の先で、俊平は苛立っている客に注文を聞いている。
優しいんだか、ケチなんだか。
その横顔を見ながら、一馬は電話を取った。
「もしもし？マスター？」
いきなりの女の声に、一馬はため息交じりに答える。
「マスターは外に出て今いません。忙しいので、後でまたお電話ください」
それだけ言って切ろうとすると、電話の相手は慌てて言葉を続けた。
「あ、ちょっと待ってよ。あんた、渡部？私よ、環っ、篤志の姉っ」
話したことはないが、店によくくる環のことは、一馬も知っていた。弟の篤志によれば、怖い姉だそうだが、今の一馬にはそれよりも目の前の仕事を回すことの方が重要だった。
「そうですけど、すみません。今マスターがいなくて忙しいんでまた後で―」
電話を切ろうとすると、環は更に大きな声を上げた。
「ちょっと待って！そこに誰かサッカー部の奴らいないわけ？篤志でも、ケンでも誰でもいいからっ」
店を見回した一馬は、思わず目の前の俊平と目が合う。
「…細谷さんならいますけど」
「俊平？ちょ、ちょっと代わって！」
ため息をひとつついて受話器を俊平に差し出すと、
「誰？」
と聞かれた。
「日比野の姉って言ってます」
素直にそう答えると、俊平の顔が大きく歪んだ。
「げ。環？」
俊平はそう言うと、面倒臭そうに受話器を取った。
「もしもし？へ？げってそんな変な声、あげてないっすよ、はい。で、どうしたんすか？俺も連れがいて、忙しいんですよ。真琴？違いますよ、野郎です、野郎」
厭々ながらもそう流すように答えていた俊平だったが、ふいに表情を強張らせると言った。
「え？司が？」
屋上から見る青空は、病室からの景色より、ずっと近くに感じられた。ベンチに座らされた右京は、向かいに立つ知朗から蹴りだされるボールを、手術をしていない方の足で蹴り返す。パスのスピードが緩やかなのは、場所と右京に気を使ってのことだろう。ボールを蹴り合いながら、知朗が口を開く。
「どうだよ、調子は？」
「…まあまあ」
「そうか」
「…そっちは」
「こっちは順調順調。決勝も余裕だぜ」
余裕綽々とでも言うように、知朗は笑顔を見せたが、次の瞬間小さく首を横に振った。
「ってのは、嘘。皆、お前が帰ってくるの、待ってる。それだけを、待ってる」
そして、転がってきたボールを止めると、知朗は右京を正面から見据えて答えた。
「お前が必要なんだ。俺たちには」
今までにも、同じようなことは何度か言われたことがあった。だがそれは全て監督やコーチで、チームメイトからは一度もそのように言われたことはない。寧ろ出て行けと言われたことの方が数回はあった。皆、他人を追い抜くことだけに必死だったからだ。
黙り込んだ右京の前に、ボールがコロコロと転がってくる。顔をあげると、知朗が頬を膨らませて言った。
「…ありがとうとか、なんとか言えよ」
「ああ。そうだな」
サンキュ、と言うと、途端に知朗は笑顔になった。
一年の頃から寮が同じ部屋ということもあって、知朗はよく右京に話しかけてくる。返事をしないと怒りだす知朗を、以前はうざいとも思っていた右京だが、最近では知朗と同室でよかったと思っている。礼儀にはうるさいけれど、知朗の言葉は、わかりやすくて嘘がない。
萌子のことにしてもそうだ。一部では、朔哉の恋人になった萌子を、今だに好きだと公言している知朗のことを馬鹿者扱いする部員もいるようだが、右京はそうは思っていない。むしろ、知朗らしいとさえ思う。
きっと、誰よりも強いのだ。
時には二十センチほどの身長差のあるディフェンダーと争いながら、それでもインターハイの得点王になれたのも、その精神力の強さだろう。
そう思うと、膝の怪我で入院し、紗依のことで悩んでいる自分の弱さがますます強く感じられた。
「…お前は、逃げだしたいと思う時ないのか？」
好きな相手がいる。だけど、その相手には他に好きな人がいる。その状況で、行き場のない思いを抱えて、辛くはないのか？逃げ出したくはならないか？
ふいに出た言葉に、知朗は平然と答えた。
「逃げても何も進まねぇだろ。
お前の怪我はすっげぇショックだったけど、でもおかげでいいカンフル剤になった。インターと全日本ユースに勝って、選手権も当然って思ってる連中たくさんいたしな。
お前がいない状況で勝たなきゃいけないってのは、確かにプレッシャーだけど、でも俺はフォワードで、点を取ることが仕事だから。
誰からのパスでも、ちゃんと決めてみせる。まあ欲言えば、お前のが一番いいけどさ」
最後にはにっこり笑った知朗だったが、言葉のない右京を見て、首をかしげた。
「ってサッカーじゃなくて？」
右京は小さくため息をつき、ぽつりと呟いた。
「…萌子」
「萌子？」
知朗が今度は逆に首を傾げる。
右京は言葉を詰まらせながら尋ねた。
「…あいつは、お前じゃない男と付き合ってる。そこから逃げだしたいと、思うことはないのか？」
「ああ」
それがどうしたんだ、とでも言うように知朗はいつものガキ大将のような無邪気な表情に戻る。
「逃げだって、変わらないだろ。好きだって気持ちには」
知朗はそう言うと、足もとのボールをポンと蹴りあげて、リフティングしながら、話を続けた。
「好きになりたくって、好きなれるわけじゃない。
嫌いになりたくって、嫌いになれるわけでもない。
忘れたくったっても、忘れられもしない。
逃げたら逃げるだけ、そう気づいて辛いだけだろ」
逃げれば逃げるだけ、その想いが募る。
確かに、紗依を追い出してから、いつも以上に紗依のことを考えている自分がいる。
「そう…かもしれないな」
右京の呟きに、知朗はそうそうと答える。
「だったら好きだって言った方が前向きだと思わねぇ？」
「そう、か」
「そうだぞ」
知朗はそう言うと、ポンとボールを右京の足もとに蹴りあげる。右京はそのボールを怪我していない右足で受け止めた。
「そうだな」
最後の一人である竹田は、思ったほど強い相手ではなかった。最初に司の右フックを受けると、そのまま床にダウンしてしまったのだ。瑛子の分までもっと痛めつけてやりたい気持ちはあったが、それよりまず瑛子を助けることが先決だった。
「大丈夫か？瑛子ちゃん」
司は椅子に座った状態で括りつけられていた瑛子のロープを外しながら、そう声をかけた。そんな司に、瑛子は感謝するというよりも、驚いた表情を見せていた。
「あっ…ありがと…。大槻さんって、喧嘩、強いんですね」
竹田も入れると、その前の屈強そうな男たちを入れて、十人足らずではあったが、倒したのは司一人だった。とはいえ、司も無傷というわけではない。頬には殴られた痣があったし、蹴られた腹は痛い。だが、それも瑛子を助けた瞬間に、全てを忘れてしまった。目を見開いた瑛子に微笑みかけながら、司はロープを外して瑛子の手を取り、椅子から立ち上がらせる。
「滅多にやんねぇけどな」
そう答えた司はそのまま瑛子の手を握ると、心を決めたようにじっと瑛子を見つめた。
「瑛子ちゃん。…オレ、よくわかんねぇんだけど、君のこと―」
しかし司が言い終わる前に、瑛子は司の手を振り切ると、平然とした表情のままでスカートの裾を自分で軽く払い、唖然としている司を見上げるようにして言った。
「大槻さんって、いい人」
その笑顔に司は思わず言葉を飲み込んだ。
はにかむようにも思える笑顔は、純粋無垢な天使にも思えた。
だがその笑顔は一瞬にして崩れると、艶めいたものに変わり、そして瑛子は目を細めて司を見据えた。
「でも、ちょっとバカかも」
「え？」
どういうことかと尋ねようとしたと同時に、後ろから萌子の声が聞こえた。
「大槻先輩っ、後ろっ」
振り返ると、竹田がよろけながらも鉄パイプを振り上げて、力いっぱい司に下ろそうとしているところだった。
「ぅわっ」
慌てて司は避けたが、気づくのが遅すぎたために、鉄パイプが司の肩を掠めた。司はそのまま肩を押さえながら、床を数回転がった。
畜生、竹田のやつ。倒したはずだったのに、どうして起き上がってるんだ。
司が床に転がりながら、自分を見下ろす竹田を睨む。竹田は余裕の笑みを浮かべていた。
「バカ野郎。俺がそんなに弱いわけねぇっつーの。やられてやったフリしたんだよ」
「何やってるんだっ」
気づいた朔哉が竹田に掴みかかっていく。その勢いに押されてか、竹田が持っていた鉄パイプを落とし、朔哉が拳を振り上げた瞬間に、明るいフラッシュがたかれた。
「…写真…」
萌子が呟く。その視線の先には、瑛子がポケットから出したカメラで、朔哉と竹田を写していた。竹田はにやりと笑うと、茫然としている朔哉の腕を振り払って言う。
「さて、どうするよ。凪浜高校のサッカー部員さん。大事な試合を前にして、こんな乱闘騒ぎが公になったら、困るのはそっちじゃないのか？」
萌子の不安が的中していた。
「…謀ったな」
朔哉はそう呟き、成は瑛子をにらんだ。司はなんとか立ち上がったものの、背中を丸めたまま、肩を押さえている。竹田は萌子たちの様子を見ながら、厭味ったらしく言った。
「むかつくんだよなあ、ただの運動部員がさ、キャーキャー騒がれてるのを見ると。サインなんかして、スター気取り。ふんっ、結局はただの高校生だろ？え？」
萌子は竹田に向って言った。
「騒いでるのは、他の人たちよ。皆は一生懸命サッカーやってるだけっ。あなたたちみたいな無駄な時間は過ごしてないわ、一緒にしないでっ」
「うるせぇ女だな、さっきから」
竹田に睨まれた萌子は、更につっかかっていこうとしたが、朔哉の腕がそんな萌子を止める。
「…朔哉さん」
どうして、と訴えるような萌子の視線を振り払い、朔哉は低く呟いた。
「…なんだ、条件は」
「福山さん…」
成が青ざめた顔で朔哉を見つめる。だが朔哉の表情は真剣そのものだった。竹田はそんな朔哉を見て、にやりと笑う。
「あんた利口だな。福山朔哉。その利口さでもって、弟のこと助けてくれりゃ、俺もこんな話に乗らなかったんだぜ。
あんた夏にカツアゲにあっただろう。そんとき、落ちてた生徒手帳、警察に渡したろう。あれな、俺の弟なんだ。おかげで停学処分くらっちまってさ、大変だったあの後。
でも、残念ながら、遅すぎだ。交換条件は簡単さ。ちょっと痛いかもしれねぇけどな」
竹田の声に、司にやられていたはずの男たちが入ってきた。そして、それぞれ朔哉と成、司を捕まえ、跪かせる。
「何するのよっ」
萌子もそう叫んだが、別の男に後ろから腕を捕まえられ、動けなくなった。竹田はその様子を楽しそうに眺めながら口を開く。
「人間ってのは便利だよな。骨が折れたって、数か月もすりゃくっついちまうんだからよ」
朔哉たちの目が、その言葉に大きく開かれる。
「ちょっとっ…！」
まさか骨を折る気？
萌子は自分を捕まえている男を振り払おうとしたが、その時朔哉が萌子の方を振り返った。その目は、萌子に静かでいるようにと訴えていた。そうしなければ、取引は成立しない。凪高は、試合に出ることができなくなる。
萌子が仕方なく暴れるのを止めると、竹田は床に落とした鉄パイプを拾い上げて、ゆっくりと項垂れている朔哉たちの前を歩く。そして、項垂れている成の前に立つと、鉄パイプを成の顎に付け、そのまま顔をくいっと上に向かせた。
「お前か。二度も瑛子を振ったってのは」
瑛子が竹田に向って、意地悪そうに言った。
「トシ、力いっぱいやってよね」
その声に、司は顔をあげると、成を睨んでいる瑛子を見つめた。その横顔は、司が知っている瑛子ではなかった。双子の片割れだと、言ってくれた方が納得がいく。
瑛子は司に言ったのだ。竹田にまとわりつかれて、困っているのだと。
『優しいんですね、大槻さんって』
そう言って小さく微笑んだあの笑顔は、あの笑顔は、何だったんだ？
司の視線に気づいた瑛子は、同じように司をじっと見ていたかと思うと、急に唇をかみしめて司に言った。
「まだわかんないの？あたしは、あんたのこと騙したの。変な男に付きまとわれてるってのも嘘、他に男友達がいないってのも嘘、助けてもらいたくて早坂君ところにいったのも嘘、全部嘘。誰でもいいから、凪浜のサッカー部員に怪我を負わせて、試合に出れないようにすることが目的だったの。わかった？」
司はその間もじっと瑛子を見つめていた。その顔には、怒りも、落胆も、悲しみもなかった。
ただじっと、瑛子を見つめていた。
その様子に気味が悪くなった瑛子は、慌てたように竹田に叫ぶ。
「トシッ、さっさとやっちゃってっ！」
「わかってるって。それじゃ、いくぜ。まずは、この生意気な奴から行くか」
竹田はそう言うと、成の背後に立ち、床に伸びた足を睨んだ。
やめて、ともう一度萌子が叫ぼうとした時、静かに朔哉の声が響いた。
「待ってくれ」
「何だ？福山朔哉」
竹田は振り上げていた鉄パイプを下して、朔哉に尋ねる。
「…犠牲は一人で充分だろ」
「つまり？」
「…俺で、充分なはずだ」
その言葉に、成は朔哉の方を振り向きながら叫ぶ。
「福山さんっ」
「朔哉さんっ」
重なるようにして萌子が呼ぶ声も聞こえたが、朔哉はそれを無視して話を進めた。
「弟の一件で巻き込んだというのなら、俺のせいだ。だから、俺だけにしてくれ、頼む」
だが成も、必死で叫んだ。
「福山さんっ、それは違う。俺が…俺が、門馬のこと最初から相手にしなければよかったんだ。そしたら、こんなことにはならなかったんだっ」
しかし朔哉は成を無視して言った。
「やれよ。さっさとやってくれ」
「福山さんっ」
二人の様子を見ていた竹田は急に高笑いすると、最後にははんと鼻で笑って朔哉と成を見比べて言った。
「美しき子弟愛？でも悪いけど、そういうわけにはいかねぇんだよ。こっちの事情もあってな。安心しろ、三人公平にやってやるから」
竹田がそういうと、他の男たちも隠し持っていた鉄パイプを手にして、それぞれ朔哉と司の後ろに立つ。
「おい。そのうるさい女、邪魔しねぇようにしっかり押さえとけよ」
竹田はそう言うと、再びパイプを構えた。
「やめなさいよっ、止めてってば！」
萌子がそう叫び、竹田が鉄パイプを思い切り振り上げた時、
「待てよ」
と、低い声が倉庫に響いた。
そして、空いたドアの向こうから、差し込む光の中に一人の男のシルエットが映し出される。
「誰だ、お前？」
だがちょうど顔のあたりに影が出来て、その男の顔はわからない。
敵か？
それとも味方か？
萌子は目をひそめると、祈るようにその方向を見つめ続けた。