Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月10
静まりかえった部室には、萌子と朔哉、そして成の三人がいた。夕暮れとともに、部室にはグランドに響く声が入ってくる。だが、部室に聞こえる声はそれだけで、三人は先ほどから一言も話していない。萌子は中央の椅子に座り、朔哉はテーブルに腰かけている。そして、成は自分のロッカーに寄りかかるようにして立って、それぞれが別の方向を見つめていた。
「朔哉」
ノックもなくドアが開いたかと思うと、石橋が顔をのぞかせた。その表情は険しく、いくらか頬が強張っているのがわかる。
「来い。校長室だ」
「三人でですか？」
萌子が立ち上がってそう尋ねると、石橋は深い溜息と共に首をゆっくりと縦に振った。
「そうだ」
朔哉は立ち上がると、そのまま石橋の前に歩いて行く。続いて成も、体をゆっくりと起こすと、俯いたまま朔哉の後に随った。
「沢木」
いつまでも立ち上がろうとしない萌子に、石橋が多少苛立ちを含んで呼んだ。萌子が確かめるように顔をあげると、朔哉が小さく頷いている。その表情は強い決意に満ちており、大丈夫だと萌子に訴えていた。その真意に気づいているのか、石橋は朔哉の肩に手をのせると、三人に向って言う。
「正直に話せよ、全部」
そうして歩きだした石橋に随って、三人はグランドではなく校舎へと向かった。
『正直に話したとしても、それを信じてもらえたとしても、選手権には出れなくなる。
それが、今言える一番確かなことだ』
あの日の夜、そう言った朔哉の言葉が、深く萌子の心に響いていた。小さくため息をついて顔をあげると、隣を歩く成と目が合った。その表情は、萌子以上に苦渋に満ちていた。
朔哉の話を聞いた萌子が反対した理由は、嘘をつきたくないからだったが、成が反対した理由は、嘘をつく自信がないからだ。誰か一人が嘘をついているとわかれば、その罪を被るのは他の二人も同じ。しかも隠そうとしたことで、真実でさえ、疑われる可能性がある。
大丈夫。
萌子は励ますように、そう心の中で思いながら成に微笑んだ。歩きながら、萌子は一昨日の土曜日の出来事を思い返していた。
「司っ」
轟音と共に鉄の棒が雪崩のように崩れた。舞い上がった埃の中を朔哉は司の名前を呼びながら駆け寄った。
萌子と成も、少し遅れて駆け寄ると、朔哉と一緒になって必死になって司に覆いかぶさっている棒を取り除く。
「大丈夫かよっ、おいっ、司っ」
うつぶせのままで動かない司の体を、焦った朔哉が大きく揺らす。成はこれほどまでに冷静ではない朔哉を見るのは初めてだった。うめき声がしてから、ゆっくりと司が目を開けた。
「揺らすんじゃねぇよ…。余計、いてぇだろ」
少しして司の返事が返ってくる。司は朔哉の手を借り仰向けになると、顔をしかめた。顔に擦り傷はあるものの、鮮血が流れていないところを見ると。切ってはいないようだ。萌子はほっと安心したところで、司の顔に不自然な脂汗が流れていることに気づいた。
「大槻さん、頭は大丈夫？どこが一番痛い？」
鉄の棒は重く、長い。それが司の頭に当たっていないという保証はない。
萌子の言葉に、司は睨みつけた。
「頭大丈夫って、お前なぁ…ってぇ！」
だが立ちあがろうとしたところで、司はそう叫ぶと、再び床に座り込んだ。抑えているのは、右足だ。
「司…お前、まさか」
朔哉がそう呟く。萌子は思わず振り返り、少し離れたところで司たちの様子を見ていた瑛子を見つめた。茫然としていたその表情は、萌子と目が合った瞬間に、はっと驚いた表情へと変わった。
「あ、あたしが悪いんじゃないわっ。もとは、トシが悪いのよ。あたしじゃないわよっ」
ジリジリと瑛子が後ずさりしていると、下から突然竹田の声が聞こえてきた。
「何言ってんだよ、瑛子。お前が言いだしたことだろ？全部」
そして息を切らせた竹田が、萌子たちの前に現れる。
聞こえてくる喧噪から、下では良次たちがまだ喧嘩を続けているようだが、どうやら竹田は物音を聞きつけて様子を見に上がってきたようだった。竹田は額の汗をぬぐいながら、瑛子に近づく。すると瑛子は、今までとは態度を変えて、いきなり竹田を怒鳴り付け始めた。
「トシが悪いんじゃないの。喧嘩強いって言ってたのに、ただのサッカー部員なんかに負けちゃうし、そんなバカみたいな髪して。格好だって。…かっこいいなんて、思うわけないじゃない」
「おい―」
竹田の顔が、一気に白くなる。しかし瑛子はそれを気にすることなく、次々と罵声を浴びせた。
「ばっかじゃないの？本気であたしがあんたに惚れるとでも思ったわけ？冗談じゃないわ。鏡でも見てごらんなさいよ」
白くなった顔が、今度は徐々に赤くなる。そして竹田は、呟いた。
「瑛子…。お前。俺のこと利用したのか？」
一瞬の間があって、瑛子は踵を返すと、慌てて下に降りていこうとした。
「待てよっ瑛子っ」
追いかけようとした竹田だったが、瑛子と入れ替わるようにして、仲間の男が顔を腫らせながら息も絶え絶えにやってきた。
「トシッ、やべぇよあいつ。とんでもなくつぇえ。他の奴らもやられちまった…っうっ」
しかし男は最後まで言い終わらずに、その場に崩れ落ちる。背後には、軽く右手を振りながら、良次が立っていた。
「女が逃げて行ったぞ、仲間割れか？情けねぇなぁ」
「ふざけんなよ。俺が相手してやる」
竹田はそう言うと、拳を振り上げて良次に殴りかかっていった。階段を駆け降りる足音に、慌てて萌子も立ち上がり後を追いかけようとした。
「門馬さんっ」
だがそんな萌子を朔哉が引き留めた。
「萌子、そっちはいい。それより、司を、病院に連れて行かないと。早坂、外にまだ環がいるかどうか、見てきてくれるか？」
「はい」
成はそう答えると、急いで外に飛び出して行った。朔哉は司の肩の下に、自分の腕を入れて置きあがろうとした。
「司、立てるか？」
「一人でも大丈夫だっつーの、お前の手なんか借りなくても…てぇっ」
慌てて萌子が朔哉の反対側に入って司を支えようとしたが、右肩を痛めている為に更にうめき声をあげて、司は力なく床に座り込んだ。どうやら司は右足と右肩を痛めたらしい。普通であれば、右足を支えるためには右の脇の下に腕を入れるのが一番だが、そうすれば右肩が痛む。どうしたらいいのかと朔哉が思い悩んでいると、戻ってきた成が叫んだ。
「福山さん、誰かがこっちに来る」
「え？」
その声を聞いた良次は、竹田を思い切り殴りつけると、朔哉たちに言った。
「おい、逃げろ」
萌子たちが戸惑っていると、苛立ったように良次が叫ぶ。
「サツかもしれねぇぞ、早くしろ」
「…でも」
萌子の言葉を遮って、朔哉がきっぱりと言う。
「司をおいていけない」
良次が必死に叫んだ。
「俺が連れて行くから、早くっ。その窓の外に下に降りる階段がある」
その声に、成が慌てて窓を開けた。良次の言った通り、外には非常階段があり、無事下に降りれそうだった。朔哉は司の前で背を向けてしゃがみ込んだ。
「司、いいから俺の背中にのれ」
身長も体重も、司の方が朔哉よりも大きいが、それでも運べない重さではない。支えられないのであれば、おぶるしかないだろう。しかし、司は手を伸ばしもせず、呟いた。
「もういい、朔哉」
「いいわけないだろっ、怪我してるんだぞ、早く病院に行かなきゃいけないだろっ」
「来てるのがサツなら、そっちが救急車でも呼んでくれるだろ。ほら行けよ、早く」
「司…」
朔哉が振り返ると、司が真剣な表情で答えた。
「お前は、凪高サッカー部のキャプテンだ」
司が何を言おうとしているのか、朔哉は感じたが、それを無視して司の腕を掴む。
「いいから、のれ」
しかし掴んだその手は、力なく朔哉からすり抜けていく。
「…朔哉。俺はサッカー部を辞める」
「何言ってるんだよ」
思わず朔哉は立ち上がると、見降ろすようにして司に叫んだ。
「退部する。だったら、部員じゃなけりゃ、サッカー部の名前に傷はつかない。凪高は選手権にも行ける」
淡々と司がそう語る。頭のどこかで、司の言っていることが正しいと判断している自分に、朔哉は首を振りながら答える。
「…そんな風に言うな」
叫びだしそうになる気持ちを抑えて朔哉は答えたが、司は変わらず淡々と答えた。
「このままお前に病院に連れていかれても、こんな傷だ。理由を聞かれるにきまってる。そうなりゃ俺の起こした喧嘩のこと、話さなきゃなんねぇだろう」
「…やめろ、そう言う風に言うな」
「ほんとのことだろ。それに良次だけに責任全部を押し付けられない。だいたい、俺の問題だ。全部」
その時、遠くの方から人の声が聞こえてきた。
「こっちの方でいいのか？」
「物音は確かにこっちの方向からでしたよね」
「しかしこんな倉庫に入り込んで、いったい何をしようとしてるんでしょうかね」
声を潜めて、良次が叫ぶ。
「早くしろっ、選手権出れなくなってもいいのかよっ」
「でも…」
ぐずるように萌子がそう呟く。良次はそれを無視して、押さえた声のままに言った。
「いいか？
この喧嘩はお前たちには関係ない。名前も知らない奴から、呼びだされて、来てみたら司は中にいて、すでに乱闘が始まってた。司は何も手出しはしてない。ただの事故だ。足の怪我も擦り傷も、全部事故でやられた傷だ。もとは俺が奴らに売られた喧嘩だ。司は俺のダチで、だから巻き込まれた。
いいか、聞かれたらそう答えろ」
「…嘘つけっていうの？」
思わず萌子がそう呟く。
「だって悪いのは向こうじゃないの。それにそんな風に言ったら、三上さんばかり立場が―」
「国立に行くんだろ？優勝するんだろ？お前らの夢は、お前らだけの夢じゃないんだ。どんな事をしても、何があっても、叶えなきゃならない夢なんだ」
「そんな…」
開かれた窓から、最初に外に出たのは朔哉だった。続いて成も出る。萌子だけが一人、司の傍を離れようとしていない。良次は乱暴にその手を取ると、待っている朔哉の方に萌子を突き飛ばした。
「いいから行け、ほら早くしろっ」
慌てて朔哉が萌子を抱きかかえる。その頃には、萌子も抵抗はしなかった。
「君たち何やってるんだ？」
そんな声が響き、思わず萌子は振り返ったものの、強く朔哉に手を引かれ、階段を降りる。その後は、ただひたすら、三人は凪へと走った。
昇降口で、上履きへと履き替える。逃げるわけでもないのに、石橋は三人が履き終えるのを待っていた。下駄箱を前に、立ち尽くす萌子に気づいた朔哉が、声をかける。
「萌子」
その声は、萌子を心配しているようだ。萌子は上履きに履き替えながら、ひっそりと朔哉に尋ねた。
「大槻さんの怪我は…どうなんですか？」
「検査も一応したらしいけど、それほどひどくないだろうって、おばさんが」
心配で昨日、朔哉は一人で司の病室に向かった。司は寝ているとかで会えなかったけれど、司の母親がそう朔哉に伝えてくれた。
「よかった」
萌子がそう呟くと、朔哉はその肩に手を置いて、力強く萌子に囁いた。
「不安に思うことはない。大丈夫だから」
笑顔を見せると、萌子も安心したのか、笑みをこぼした。
あの日、萌子の所に朔哉から連絡があったのは、三人が無言のままに凪浜に戻ってきてから、しばらく経った夜遅い時間だった。
「どうしたの？連絡あったの？大槻さんは？良次さんは？警察につかまったりしてないよね」
堰き止められていた川が、再び流れ出すように、矢継ぎ早に質問をする萌子に、朔哉はくすりと微笑んで答えた。
「いっぺんに色々聞かれても、順番があるだろ」
朔哉の声が明るいことに萌子も気づいた。大きく深呼吸すると、朔哉がひとつひとつ答え始めた。
「まず、司は今日は検査で入院するらしい。それほど怪我もひどくないって話だ」
ふうと萌子は大きく息を吐いた。それが何よりも一番気にかかっていたことだった。よかったと呟く萌子の声を聞いて、朔哉は話を進める。
「三上の怪我はかすり傷程度。ちなみに竹田たちも、それほどひどい怪我じゃないらしい。病院にいったのは司だけだ」
再び萌子は息を吐く。
助けてくれた良次の怪我がひどくては、申し訳ない。
よかったと、もう一度萌子は呟く。
それから、と朔哉は話を続けた。
「あの時来たのは、深田商業の教師。あの倉庫、今は使われてなくて、深田商業の生徒が入り浸ってたらしい。学校でも問題になっていて、その見回りで来てたそうだ」
「じゃあ警察には」
「三上の学校と深田商業とうちとで協議するらしい話をしてるけど、三上が言うには多分平気じゃないかって言う話だ。 それぞれに脛に傷を持ってるから、余計なところに火種を生みたくないだろうって」
萌子は大きく息を吐くと、天を仰いだ。ゆっくりと目をつぶり、思わず受話器を胸の前で握りしめる。
よかった。
本当に、よかった。
もう一度深くため息をついていると、受話器から朔哉の声が聞こえてきた。
「それにどうも竹田が、喧嘩をした相手が三上で、司は巻き込まれただけだって話したらしい」
話半分に聞こえていたことと、予想外の話に萌子は声を上げた。
「え」
「三上が竹田たちのこと脅したのかもしれないけど。竹田も、あの門馬って子のこと、かばったのかもしれない。でもあの子の企み通り、俺たちが試合に出られないようにするまではしなかったけど」
萌子は、あの時倒れている司を見て、動揺していた瑛子を思い出した。それから、罵倒され、悲しそうな表情で瑛子を見つめていた竹田も。
「それに司も、三上に説得されて、話をそろえてくれた」
朔哉のその声に、思わず萌子は答える。
「じゃあ怪我が治れば」
「もちろん、試合には出られる」
「よかった」
安心してそう呟く萌子の声を聞きながら、朔哉も同じことを思っていた。だがそれは、萌子のように単純に司が退部しなくて済むということだけではない。司が良次を庇って、本当のことを話すことも十分に考えられた。しかしそうすれば、皆で守ろうとやってきたことが崩れて、選手権には絶対に出場できない。その事態を避けられたことに対しても、安心していたのだ。
おそらく、三上はそうやって司を説得したに違いない。
だが、山場はこれからだ。
朔哉は小さくため息をついた。
「監督には、これから知らせる」
「…話すの？」
自然と萌子の声が強張った。
「司のことがあるから、俺たちが何もしなくても監督には話がいく。それに、竹田の仲間の一人が、俺たちがいたことを話したらしいから、きっと話も聞かれるだろうし。
その前に話すよ。俺と早坂は、誰かに呼び出されて、あの倉庫にいった。萌子は、俺と一緒にきた。そうしたら、三上と竹田が喧嘩してたって」
「…監督には。正直に話してもいいんじゃないのかしら」
そう言った萌子に、朔哉は固い声で続けた。
「正直に話したとしても、それを信じてもらえたとしても、選手権には出れなくなる。
それが、今言える一番確かなことだ。俺たちは、応援してくれている人たちの為にも、選手権に出場しなければならない」