Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月7
深田通運と書かれた倉庫が立ち並ぶ敷地に入ったところで、萌子は環に車を止めてもらった。
「ありがとうございましたっ」
目の前には司が乗り捨てて行ったバイクが転がっている。走りだそうとしたところで、車から降りてきた環に引き留められた。
「ちょっと！萌子ちゃん！何があったの？バイク乗ってたの、司でしょう？」
結局バイクは追い越すことはできずに、環が見続けていたのはその背中だけだったはずなのに、相変わらず鋭いと思いながら萌子は答える。
「何もありません。ないけど、ちょっと気になるから。ごめんなさい、環さん。友達の所に行く途中だったんですよね」
「萌子ちゃんっ？」
環を無視するように答えながらも倉庫に向かう萌子を環が呼び止める。だが萌子は足を止めるわけにはいかなかった。車が追い付けないくらい、司はバイクを飛ばしていたのだ。萌子はそれほど必死な司を、試合以外で見たことがない。しかも、一週間後には大事な試合を控えている。事故でも起きたらその出場さえ危ういだろう。
そこまで司が必死になること。
試合以上に大事なこと。
確実なことは何もないのに、萌子の胸騒ぎは大きくなるばかりだった。
「大丈夫です。帰りは、大槻先輩に送っていってもらいますから」
萌子はそれだけ言うと、環に背を向けて走り出した。自分を呼びとめる声が聞こえたけれど、振り返ることはなかった。第三倉庫と書かれた古びた倉庫の僅かに開いたドアに手をかけ、そこから萌子は顔をのぞかせる。
「大槻先輩？」
だが司の返事はなく、ただ薄暗い倉庫に萌子の声が響く。
でも、バイクはこの倉庫の前に投げ捨てられてたし。
それに、ドアが開いていたのも、この倉庫だった。
萌子が目を凝らして中を覗くと、奥の方に開け放たれたドアが見える。
ごくり、と唾を呑む込むと、萌子は倉庫の中に入っていった。
秋晴れの、気持ちのいい空だった。
激しいリズムの音楽をヘッドフォンから聞きながら、右京は開け放たれた窓から見えるその空を見上げている。
『先生のこと、好きなんでしょう？』
『逃げないで』
『その想いから、逃げないで』
昨日そう言った萌子の言葉が、右京の心の中から消えていかない。
無性に声が聞きたくなったり、
笑顔を見たくなったり、
その手に触れたいと思う。
その気持ちが、好きだというのなら、そうなのかもしれない。
…だけど。
石橋を見つめる紗依を思い出すと、途端に右京の体は強張って、その先にあるものを探すのを止めようとする。
『逃げないで』
目をつぶったところで、萌子の言葉が響き、右京は目を開ける。
『その想いから、逃げないで』
昨日萌子が石橋に紗依のことを尋ねた真意は、右京にもわかっていた。
この想いに、石橋の存在は関係ない。
そして石橋は、紗依のことをただの同僚以上には思っていない。
紗依の片思いだ。
きっとそれは、紗依もわかっているはずだ。
石橋には妻子がいるのだ。
それでも、と右京は石橋を見つめていた時の紗依を思い出した。
それでも、好きなのだろう。
それほど、強い想いなのだろう。
自分は、それを優るほど、強く想っているのだろうか。
あの人を。
「よぉ。右京」
いきなり音楽が消え、耳が涼しくなったかと思うと、目の前にヘッドフォンを手にして笑う知朗が立っていた。
「ぉ…」
突然のことで、思わず固まる右京の目の前で、知朗はヘッドフォンから漏れ聞こえてくる音楽に、顔をしかめる。
「相変わらずわけわかんない音楽聴いてんだな、お前」
右京は音楽を止めると、知朗に尋ねた。
「…練習は？」
「ん、今日はもう終わったんだ。だから見舞いに来た」
あっさり知朗はそう答えると、床に置いていたサッカーボールを手に持って、にやりと右京に笑いかけた。
「歩けるだろ？松葉杖使えば。ちょっと、出ようぜ」
吸い込まれるように暗闇に消えて行った萌子の背中を見つめながら、環はため息をついた。友人に車を返さなければならない時間は、確かに近づいていた。こうして寄り道もしてしまったから、急いで行っても間に合うかどうかだ。
この車でデートに行くといっていたから、時間どおりに返せなかったら怒るに違いない。
だけど、それよりも大事なことがある。
環が一歩、進みかけたところで、後ろから車のエンジン音がした。振り返ると、タクシーが環の乗ってきた車の隣にぴたりと止まった。そうして中から降りてきた朔哉が、驚いた表情で環の名前を呼んだ。
「環？」
「朔哉。…珍しい組み合わせじゃないの」
続いて降りてきた成に気づいて、環はそう言う。成は環を気にすることなく、あたりを見回すといきなり走り出した。
「たまには。それより、どうしてここへ？」
「街を運転してたらさ、バイクに乗った司が通り過ぎてってさ。それを見た萌子ちゃんと追いかけてここまで」
「萌子が？」
途端に朔哉の表情が強張る。
どうやら、お互いの動きを知らないみたいだね。
小さくため息をつく環の背後で、成が大きく声を上げた。
「福山さん、ここだ。第三倉庫。ドアが開いてるし、バイクもあるっ」
わかったというように手をあげて、朔哉が環に尋ねる。
「萌子は？もしかして？」
「そう、司のやつ追いかけてそこに入っていった」
「ったく…」
朔哉はあげていた手をそのまま頭に押し当てるようにして強く目を瞑った。そんな朔哉を無視するように成が叫んだ。
「俺、先に行ってますっ」
「あたしも」
歩きだそうとした環の手を、朔哉が掴んだ。
「環は、ここにいてくれ」
その表情は真剣だった。しかし環も引くわけにいかなかった。事情を調べずに、ここまで萌子を連れてきてしまったのは自分なのだ。
「だけど何か良くないことが起きてるんだろう？司や萌子ちゃんや、あんたたちの身に。だったら、大人であるあたしが、あんたたちを守らないと―」
だが環の言葉を遮って、朔哉が言いきった。
「萌子は俺が守る。何があっても」
「朔哉…」
その声に朔哉は力強く頷いた。
「環には、ここにいてほしいというのも嘘じゃない。もし一時間しても、誰も戻ってこなかったら、その時警察を呼んできてもらいたいから」
朔哉はそれだけ言うと、掴んでいた環の手を放す。
「ちょっと朔―」
しかし走り出した朔哉はそのまま振り返ることも立ち止まることもなく、成に続いて倉庫の闇に消えて行った。
暗闇の中を進んでいくと、萌子はふいに人の争うような声を聞いた。声のする方からは、僅かだが明かりがこぼれている。萌子は走り出して、明かりのこぼれていたドアの隙間から、勢いよく中に入っていった。
「大槻先輩っ」
そこには五人ほどの男に囲まれて司が立っていた。相手はどこの高校だかわからないが制服を着ていた。が、その手には煙草があり、あたりには煙が立ち込めていた。何より、司とその男たちとの間には、只ならぬ空気が流れていて、中でも司は殺気が漂うほどだった。
「先輩っ、やめてっ」
萌子はそう叫ぶと人をかき分けて、後ろから司に飛びついた。その声にようやく気付いた司は、驚いて振り返る。
「お前どうして…」
「大槻さんがバイクで猛スピードで走っていくのが見えて、追いかけてきたんですっ。何してるんですかっ。帰りましょうよっ」
司は何か言いかけたが、すぐに目つきを変えると、荒々しく萌子を自分の体から剥がす。
「どいてろっ」
床に転びそうになりながらも、萌子は司に言い寄った。
「でもっ」
司の周りには、空気が流れていた。これから、喧嘩が始まるのだという空気が。
でもダメッ。
喧嘩なんてっ、絶対に！
すると、一番奥にいた金髪の男が、ガムを噛みながら萌子に言った。
「そのスケコマシの言うとおりだぜ、あんたどいてた方がいい」
「私は先輩と話してるのよっ。邪魔しないでっ」
萌子の噛みつきそうな言い方に、男はカチンときたのか、萌子を指差すと冷ややかな声で他の男たちに命令した。
「おい、その女出しておけ」
男たちの一人が、萌子を後ろから羽交い絞めにすると、ドアの外に萌子を連れ出した。
「放してよ、大槻先輩っ」
萌子の叫び声に、司はちらりと振り返ると、すぐに腕を振り上げて金髪の男に掴みかかっていった。
「竹田っ、てめぇっ」
しかし竹田は襟元を司に絞めあげられながらも、平然とした様子で司に言った。
「その女には手は出さねぇ、安心しろ。それより、いいのか？」
竹田はそう言うと、親指を自分の上に向ける。キャットウォークのようになった二階には、ロープで縛られた瑛子がいて、司に向って叫んでいた。
「助けてっ、大槻さんっ」
遠くから聞こえてきたその声に、思わず萌子は動きを止めた。
門馬、瑛子…。
きっと、これは。
罠だ。
「ダメッ、大槻先輩っ。やめてっ」
だが萌子の叫びは司の耳に入ることなく、司は小さく呟いた。
「…瑛子ちゃん…。この、やろ…」
司が腕を振り上げたところで、竹田は司の手を振り払うと同時に、素早く司から体を離す。代わりに取り巻きの男たちが竹田との間を割り込む様に、司の前に立ちはだかった。
「止めてっ。大槻先輩っ、やめてってばっ」
僅かに開いたドアの隙間から見える様子に、萌子は一層声をあげる。
今はサッカー部にとって大事な時期なのだ。何か問題が起きれば、試合には出られなくなる。
そうすれば、選手権にも出られなくなるっ。
「大槻さんっっ」
すると、萌子を捕まえていた男が言った。
「随分といきのいいネェチャンだな。ちょっと遊んでやろうか？」
ニタリと笑ったその男が油断した隙に、萌子は態勢を変えると、すぐさま男の腕をねじり上げた。
「いててて…何だ、この女」
男は大きくうめき声をあげると、萌子から離れる。
「真琴さん直伝の痴漢撃退法よっ」
しかし男はやられた腕をさすりながらも、じりじりと萌子に歩み寄ってくる。
その時、萌子ははたと気づいた。
どう、しよう…。
教えてもらったのは、あくまでも逃げることが目的の撃退法で、攻撃するためのものじゃなかった…。
後ずさりしていた萌子だったが、その時背中が壁にぶつかってその足が止まった。おまけに、行き止まりだ。
「おい」
男の手が、そう言って萌子に伸びる。思わず萌子が目をつぶりかけた時、男はいきなりうっと声をあげると、その場に倒れた。
「…ふぅ」
そう言って男の影から現れたのは、朔哉だった。その後ろには成もいる。
「朔哉さん…成。どうして？」
驚いている萌子に、朔哉はいたって冷静に答える。
「萌子と一緒だ。萌子、どうして一人で来たんだ？危ないだろう」
心配を通り越して、明らかに怒っている朔哉に、萌子は大きく頭を下げた。
「ごめんなさい、でも―」
しかし成が、二人の間に割って入った。
「福山さん。それは後にして。萌子、大槻さんは？」
「中にいる」
萌子のその声に、成が勢いよくドアを開けた。しかし、そこにいるのは、倒された男たちだった。人数から言って、先ほどの司を取り囲んでいた連中のようだ。しかし、司と金髪の男がいない。加えて言うなら瑛子もいない。
「いったい、どこに？」
その時萌子は、隅にある階段を見つけて見上げた。二階のドアから明かりがこぼれているのがわかる。
「朔哉さん。あそこ」
そして、その中には瑛子が待ち構えている。三人は急いで階段を駆け上がっていった。
こんなことなら、煙草でも持っておくべきだったかな。
腕組みをしながら、三人の消えた倉庫を見つめて環はそう考えていた。朔哉には一時間待つようにと言われたものの、すでに三分過ぎたあたりから、待ちきれない気持ちになっていた。目の前にある倉庫は、どう贔屓目に見ても、綺麗とはいえず、むしろ壁には落書きが目立つ。
『一時間したら警察を呼んでくれ』
あの時環が気になったのは、その言葉だった。
先生を呼ぶ、ではなく警察。
であるなら、それだけヤバイのではないか。
仮に自分が踏み込んでも、却ってそれが迷惑になったりするんじゃないだろうか。
「あーもうっ」
環は声をあげると、車に乗り込みエンジンをかける。倉庫だらけで、このあたりには公衆電話などありそうにもなかった。
一時間経ってないけど、警察じゃなかったら、いいんでしょう？
数分もかからないところで、環は公衆電話を見つけると車を脇に寄せた。