Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月6
「失礼しました」
朔哉はそう言うと、静かに校長室のドアを閉めた。練習前に、石橋から練習後に校長室に行くようにと言われていた。理由を尋ねてはみたが、石橋も知らないらしい。
おそらくは、また選手権に対する期待と滔々と語るのだろう。
目立ちたがりでミーハーな校長の今の関心は、サッカー部が選手権で優勝して、インターハイ、全日本ユースとあわせて三冠を果たすことだった。萌子にその間待ってもらうことだけが気がかりだったが、先に萌子から今日は理香たちに買い物に誘われたと言われ、笑顔でそれを見送った。
校長の話は、思ったとおり選手権の話だった。校長の話は、夏から変わっていない。最近、県内の他高の野球部で不祥事が起きたとかで、活動を自粛するという動きがニュースを騒がした。かつて甲子園に出場したこともある伝統高であっただけに、その波紋は大きかったらしい。
『くれぐれも、頼むよ』
せめて、一言でも右京の怪我を心配する言葉があるとか、試合に対する激励のようにサッカー部を心配しているという気持ちを聞ければ、これほど気持ちが荒立つことはないだろうにと、朔哉はドアに向かってため息をつく。
だが、こんなこと、他の部員に言えるはずもない。
なんとなく、このまま寮に帰っても気持ちが切り替わらないように思えて、朔哉はアルジャーノンで珈琲を飲もうと坂道を登り始めた。
そうだ、珈琲を飲んで落ち着いたら、萌子に家に寄ってみよう。もしかしたら帰っている頃かもしれない。
そう思うと自然と笑みがこぼれた。
足取りも軽やかに、アルジャーノンが見えてきたところで、そのドアが突然開き、成と、続いて一馬が飛び出してきた。
「待てよっ、成。どうしたんだよ」
「ごめん、一馬。俺、行かなきゃいけないから。行かないと、大槻さんがヤバイ」
「ヤバイって今の電話関係してるのかよ。第三倉庫とか、関係あるのか？」
突然成の口から飛び出した司の名前に、朔哉は少し驚いた。そして、思いだす。
そう言えば、妙に真面目な表情で、司が早坂を誘って学校出て行ったっけ。
すると成の前の方からタクシーが通りかかり、成は慌てて大きく手を振った。
「すみませんっっ」
「成っ」
タクシーに乗り込んだ成を止めようとする一馬だが、店から呼ばれたらしく、何度も振り返った。朔哉は駆け寄り、その一馬の肩に手を置くと、少し押しのけるようにして、その奥でタクシーに乗った成に向って言った。
「司がどうかしたか？早坂」
「…福山さん。いえ…あの。何でも、ないです」
朔哉を見て、成は俯き、口ごもりながらそう答えると、いきなり頭を下げて言った。
「すみません。俺、急いでるんで」
成はそういうと、無理やりタクシーのドアに手を伸ばし、自ら閉めようとした。だが朔哉も同じように手を伸ばし、ドアが閉められないようにと力を込める。
一瞬、成と目が合った。
次の瞬間、朔哉はすばやくドアと車体の間に体を割り込ませると、無理やりタクシーに乗り込んだ。
「ふ、福山さんっ」
「俺も行く」
「でも―」
「司はサッカー部の部員で、俺はサッカー部のキャプテンだ。おまけに、俺たちは親友だ。そいつがヤバイって言われて放ってはおけない」
睨みつけるようにそういうと、成は諦めたのか、奥に席を詰めた。
「運転手さん、お願いします」
朔哉のその一言で、唖然としている一馬を置いてタクシーは走り出した。
バイクは順調に、目的地まで走り続けていた。黄色信号もぎりぎりのところで通り抜けて、思ったより早く深田通運の倉庫にたどり着けそうだった。
畜生、こんなことなら、あん時しめとくんだった。
司は、一人心の中でそう呟く。
あの時、そう二日前。
駅で偶然瑛子と会った司は、瑛子が成に約束をすっぽかされた話を聞かされた。女の涙は毛嫌いしているはずだったのに、その時の司がしたことは、瑛子を連れて学校に戻るということだった。
もしかしたらまだどこかにいるかもしれないし、そうじゃなくてもいつものようにアルジャーノンに行っているかもしれない。
司がそう提案すると、瑛子は黙って司につき従った。だが結局、成は学校にもアルジャーノンにもいなかった。
「すみません。わざわざ来てもらったのに。学校にも、いきつけのお店にもいなくて」
「いつもだったら仲間の野郎もここでバイトしてるんだけど、そいつのバイクないし、今日は休みみたいだから、あいつらでどこかに行ってるのかもしれない」
結局二人は、アルジャーノンでお茶をすることになった。見渡す限り知っている顔はなく、バイトしているはずの一馬もいなかったから、これ以上成の行き先を司が調べることはできなかった。すみませんと頭を下げる瑛子に、司はオーバーなほど手を振る。
「いいって、気にすることないから、さ。はは」
瑛子が相手だと、どうしてか言葉もいつものように行かない。そのもどかしさにいらだち、司が次の会話に悩んでいると、
「よう、瑛子じゃねぇか」
とどすの利いた声がした。司が顔をあげると、瑛子の肩に手を置く、金髪でいかにもガラの悪い男がそこには立っていた。
誰だこいつ？
そう思う司の前で、瑛子はその男から逃れるように背を向けて黙り込む。
「…知りあい？」
遠慮がちにそう尋ねると、いいえ、と瑛子は答えた。その答えに、金髪の男はおいおいと声を上げた。
「おいおい、そりゃ冷てぇんじゃねぇの？」
男はそう言って瑛子の肩をぐっと掴んだものの、瑛子はそれを振り払って答えた。
「関係、ありません。…ごめんなさい。大槻さん」
最後は囁くようにそう言うと、瑛子は席から立ち上がり店を出ていこうとしたが、その手を司より早く金髪の男が捕まえる。
「おい待てよ、瑛子」
「離してっ」
そこに司が入り、男の腕を掴む。
「離せっつってんだから、離せよ」
男は一瞬司を睨むと、そのまま瑛子に視線を移した。それから、いやらしそうな視線を司に戻す。
「あんたは黙ってな。なあ、瑛子。これからドライブでも行こうぜ」
しかし瑛子は大きく首を振っている。
「やめろよ」
司はそう言うと、男を睨み返した。男はそんな司をしばらく睨み返していたが、周囲の好奇に満ちた視線に気づいたのか、
「わかった。今日はこれで帰るぜ。また遊ぼうぜ、瑛子」
と言って、二人の前を去っていった。
残された司は、立ち尽くした瑛子の背中に呼びかける。
「瑛子ちゃん…？」
だがその声を聞くと、瑛子は張りつめていた糸が切れたように、床に座り込んだ。その横顔には、またも涙が流れていた。涙が止まるのを待って、司は瑛子から話を聞きだした。
中学校の時、瑛子が成とつきあっていたこと。
けれど、さっきの金髪の竹田という男が瑛子に付きまとうようになり、成が瑛子が二股をかけたんだと思って、瑛子をふったこと。
怖くなった瑛子が、警察に頼み込んだため、しばらくの間竹田は姿を現さなかったのに、ここ一か月前から再び瑛子の前に現れるようになったこと。
「怖いんです、私…。だけど、女子高だし、男の子の友達いないし、だから早坂君しか頼る人いなくて。それで、凪浜に来たんです。
でも、早坂君まだ私のこと疑ってるみたいで。
私、怖いんです。あの男。何を考えているのかわからないし、何されるかもわからなくて…」
「警察には？」
司の問いかけに瑛子は静かに首をふる。
「前に注意してるし、実際何をしてるわけでもないから動きようがないって」
瑛子はそう言って、また瞳を潤ませた。司は黙ってそんな瑛子を見つめていたが、自然と口が開いた。
「オレでよかったら、力になるよ」
瑛子は驚いたように顔をあげると、かすかに浮かべた笑顔で言った。
「優しいんですね、大槻さんって」
司は照れたように微笑んだ。優しいと言われたことなど今までなかったし、言われたくない言葉だった。だが、瑛子に言われると素直に嬉しいと思うことができた。
その日も、司は瑛子の自宅があるという駅まで送っていった。次の日も、学校まで瑛子を迎えに行って、買いものがあるという瑛子に付き合い、駅で別れた。朔哉にあったのはその時だ。
瑛子はもう一度だけ、成に会いたいと言った。せめて誤解を解きたいのだという。だから、司はその場をセッティングすることにした。練習の後、成をこのアルジャーノンに連れてくる。少し遅れて瑛子も来るはずだった。
それなのに。
「へ」
司は、びっくりした表情を浮かべるばかりで話の通じない成に苛立っていた。
「へ、じゃねぇよ。お前、あの時彼女が一人だったらどうするつもり―」
怒鳴り返すとその司を遮って、成は冷静な表情で聞き返してきた。
「大槻さん。その男の名前って、佐山ですか？」
「サヤマ？誰だそれ。野郎は、竹田だっ」
身を乗り出したのが効いたのか、成はいくらか強張った表情で呟くように司に言った。
「…大槻さん、落ち着いて聞いてください」
「なんだ？」
「大槻さん、電話、入ってます」
一馬のその声に、苛立ちながらも司は電話に出た。電話は遠く、声は聞きとりずらかったが、相手が誰なのかわかったとき、司は思わず声を上げた。
「お…つきさん？」
「瑛子ちゃん？」
繋がったとわかると、瑛子の声もはっきりしたものに変わった。
「助けて、大槻さんっ。あの男が私のこと待ち伏せしてて―」
「わかった。今どこだ？」
「たぶん、深田通運の倉庫。…第三って書いてあったと思う。
大槻さん。お願い、急いできて、私怖いの」
「わかった、今からすぐ行くからっ」
電話を切ると、司は一馬のバイクに飛び乗った。
そして、今に至る。
目の前には、深田通運と書かれた大きな看板と、その奥に立ち並ぶ倉庫が見えてきた。司にとって、女はあくまでも使い捨てか、ゲームの相手だった。相手の為に何かをするのではなく、自分がしたいことをするだけの相手だった。相手の気持ちなど常にお構いなしだった。
そんな司に腹を立てて、別れて行った女ももちろんいる。だが、そんな女の代わりはすぐにいくらでも見つけることができた。だけど、どうしてか、自分の為にならないというのに、気がつけば瑛子の為に動いている。
『その子のことが好きなんだろ、司』
ふいに朔哉に言われた言葉を思い出す。
そうなんだろうな。
きっと。
こういう気持ちが、好きってことなのかもしれない。
司は僅かに開いた門の隙間を見つけると、すり抜けるようにして通り、バイクのスピードを落とした。
深田通運、第三倉庫。
目指す場所はすぐ目の前に見つかった。
司はバイクを止めると、すぐさまそのドアに向って走り出した。
「司がヤバイってどういうことだ、早坂」
成が行き先を告げ、タクシーが走りだした途端に、朔哉はそう尋ねた。成は言いづらそうにしていたが、心を決めると口を開いた。
「…門馬の話は、樹生から聞いてましたよね」
「一応は」
「門馬が、大槻さんを騙そうとしてるんです」
「司を騙す？何の為に？」
そう尋ねられると、成は答えようがなかった。
理由はわからなかった。
だが、司の状況が思わしくないことだけは確かだ。
成はそう心で強く頷くと、さっきまで司と話していた内容を聞かせた。
「とにかく門馬が大槻さんにしてる話は、嘘なんです。大槻さんが言っている相手は、俺と二股かけていた時の相手じゃない。別の相手だ。
あいつは、何かを企んでて、それに大槻さんを巻き込もうとしてる」
成の強い言葉に朔哉は頷きながらも呟いた。
「…けどなあ、目的がわからない。第一、初めのターゲットはお前だったわけだろ？」
成は大きく頷いた。
成と司をつなぐもの。
そして、二人ははっと気づいたように視線を合わせた。
「…サッカー部？」
でも、だとしたら、サッカー部をどうしようと言うんだ。
そもそも、彼女とサッカー部がどういうつながりがある。
腕組みをして黙り込む朔哉の隣で、成が口元を引き締めながら言った。
「福山さん…。これは、湊にも樹生にも言ってない話なんですけど」
「何だ？」
「実は、昔、門馬に怪我されられそうになったことがあって」
「怪我？」
思わず上ずった朔哉の声に、成も慌てて言葉を和らげた。
「いや、実際は怪我しなかったんで、大丈夫だったんですけど。でも、振り返ると、もしかしたらそうだったのかなってことが」
「だけど、どうしてお前を怪我させようとしたんだ？」
朔哉の問いかけに、成は俯いて答えた。
「わからないですけど…。階段から突き落とされそうになったんです」
デートの最中だった。階段を降りようとしたところで、成はいきなり突き飛ばされた。幸い持って生まれた運動神経が活躍して、階段は数段飛ばしただけで転がり落ちることはなかった。だが、落ちる時には、成の後ろには瑛子以外誰もいなかった。未遂に終わったことと、その頃にはすでに樹生たちは瑛子の二股を怪しんでけなすだけだったから、火に油を注ぐだけだと成はあえて言わなかったのだ。
「…試合が近かったか？」
真剣な表情で朔哉が問いかける。
「いいえ。もう引退してましたから。あーでも。そういやあの時、スポーツ推薦の話があって、怪我したらまずいなってひやりとした覚えがあります。でも結局その話が進む前に、凪高の話が来て、断ったんだけど」
「もう一人の男は、サッカーやってたのか？」
「いいえ。そんな話聞いたことないです」
すると、朔哉は大きくため息をついてから答えを導き出した。
「じゃ、他にもう一人いたのかも知れないな。男」
「まさか…」
そう答えた成だったが、否定できない自分に気づいた。
二股のもう片方だった佐山という男を成はよく知らない。樹生の言う話だと、成とはタイプがまったく違っていて、まるで瑛子のボディガードのように瑛子には全く頭があがらないようだと言っていたようには思うが。
「それはそうとして。今回は…、そこまですることか？」
朔哉は信じがたいというようにそう口にした。
そこに成は、自分と朔哉との違いと感じた。小さく深呼吸をして、成は朔哉の問いかけに答える。
「こういういいかたしたくないけど。あいつは一人でそこまで動くようなタイプじゃないです。バックはたぶん別にいる。だけど、門馬は、門馬自身も…そういうやつなんです」