Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月5
結局石橋は、右京の謝罪の言葉を聞くと、戸惑いながらも帰っていった。やはり練習が気になったらしい。
萌子は篤志とそれからしばらく病室にいて、右京の夕食が運ばれてきたところで病院を後にした。張りつめた空気の中で気を使った為か、二人とも少し疲れて帰りの電車に揺られるうちに、無口になっていった。
このまま帰れば七時前には駅に着くだろうと思いつつも、萌子が考えていたことは今日の放課後のことだった。授業が終わったら病院に篤志と一緒に行くことになっていた萌子は、待ち合わせをした部室の前で篤志を待っていた。練習時間の前だから、当然のごとく部員達は着替えに準備にと忙しい。
「あれ？萌子。今日はお見舞い行くんじゃなかったっけ？」
「うんこれから」
「手術、無事に終わったんだよな」
「右京によろしく言っといてくれよ、萌子」
「了解」
部室から次々と出てくる部員たちが萌子に気づくとそう声をかけてきた。だが忙しさの余り、何かを萌子に頼む者もいなければ、立ち話を続ける者もいない。
当然だ。自分は右京のところに行かなきゃいけないんだから。
小さくため息をついて、鞄を持ち上げようとしたところで、萌子はふと部室から出てくる成と目があった。が、萌子は慌てて踵を返し、部室の前を去っていこうとしたところで、急に肩に手をかけられた。
「萌子」
振り返るまでもなく、その声は成の声だった。成は萌子が足を止めると、すぐにその手を引っ込めた。
「気のせいだったらいいんだけどさ。萌子…、俺のこと避けてない？」
真正面から言われると思っていなかった萌子の顔は、瞬く間に赤くなる。その横顔を見て、成は小さく、やっぱり、と答えた。
「…軽蔑されたのかなって、思って」
萌子は鞄を握りしめながら、そう答えた。
あの日、成の昔の話を聞いてから、気づけば萌子は成と向き合うことができなくなっていた。
好きな相手じゃないと付き合わないと決めた成は正しくて、ただ一緒にいてほしいからと付き合いだした自分は、ひどく不純な気がしていたのだ。
俯いた萌子に、成は明るく答えた。
「俺が？萌子を？どうして？」
だって、と言って言葉を詰まらせる萌子に、成は小さくあっと声を上げた。
「…あれは。俺の話だし、それに萌子は、何となくつきあうことにしたわけじゃないだろう？」
それは違う。一緒にいてほしかったから、付き合いを受け入れた。朔哉を支えていきたいと思ったから、今も一緒にいる。
強い想いを胸に顔を上げた萌子を見て、成はそうだろ？とにっこりとほほ笑んだ。
「っていうかむしろ、尊敬してる」
「そんな―」
「本当だよ」
強い言葉を優しく言う成の笑顔に、思わず萌子が見つめていると、ようやく篤志がやってきて、成はその後グランドに向かって行った。
尊敬。
そんな私、尊敬されるような偉いところなんかない。
むしろ萌子は自分がずっと嫌いだった。
そんな私を、成は、尊敬してるだなんて。
萌子は上を仰ぎ見ながら息を吐いた。コツンと電車の窓ガラスに自分の頭がぶつかった。
「なあ、萌子。さっき学校でさ、成と何の話してた？」
ふいに隣の席に座った篤志が萌子にそう話しかけてきた。自分の頭の中を見透かされたような気がした萌子は慌てて視線を篤志に戻す。
「別に…大したことじゃないけど。どうして？」
篤志は少し頭をぽりぽりとかくと、
「この前さ、成に悪いことしたなって思って」
と答えた。
篤志は夏からずっと成に誰かと付き合うことを勧めていた。篤志も篤志なりに思うところがあったのかもしれない。
萌子は笑顔で答えた。
「大丈夫。成なら、もう気にしてないと思う」
「なら…よかった」
浮かんだ篤志の笑顔は、しかし萌子が正面に向き直ると同時に真面目なものへと変わっていった。
あれ？司。
朔哉はそう思うと、じっと駅の改札を見つめた。司は改札の前に立ち、にこやかに笑いながら、駅の構内に手を振っている。無邪気な司の笑顔など見たことのない朔哉は、それが本当に司なのかどうか、一瞬わからないほどだった。しかし、肩まで伸びたスポーツマンらしくない茶髪の男子高生は、確かに司だった。
長い間手を振り続けていた司だったが、くるりと背を向けたところで、自分をじっと見つめている朔哉に気づいた。
「あれ？朔哉じゃん。俊平は？」
「宮尾と約束があるって先に帰った」
約束の時間になると、俊平はきっちり恋人である真琴との待ち合わせ場所に向かっていった。幸せそうな俊平を見ていて、朔哉は帰るのをやめると、そのまま駅前でぶらぶらと時間をつぶしていた。
もしかしたら、病院から戻ってきた萌子が現れるかもしれない。
安直かも知れないが、そう思った。萌子に会いたいと、数時間前に別れたばかりだというのに、そう思ったのだ。
宮尾の名前を聞いた司は、ふぅんと答えてにやりと笑った。
「いいねぇ。ラブアンドピースな感じで」
やっぱり何かが違う。
司を見ながら朔哉はそう思った。
いつもなら、
『あいつも尻にしかれてんな。俺ならもっと色気のある女を選ぶ』
くらいの毒舌は吐くはずだ。
朔哉はふと先ほどの司が手を振っていたことを思い出して尋ねた。
「デート？」
「デートってほどじゃねぇよ。別に」
頭をかきながらそう答える司はそう言って、足もとを蹴りあげるふりをした。
照れ隠し？
そう思うと、朔哉は俊平が気にしていたことを思い出した。
「お前さ、新しい彼女ができたわけ？」
はぁ？と声を少しあげて司は答える。だが、その表情にはどこか喜びが見え隠れしている。
「彼女ってわけじゃねぇよ、別に。彼女は…、あの子はやることが目的の女じゃねぇし、なんつーかもっと、崇高っつーか、聖母マリアみたいな存在っつーか、まっ白い雪の草原って感じ？」
「雪の草原？」
あっけにとられた朔哉が思わずそう繰り返すと、司は恍惚とした表情で答える。
「汚しちゃいけないっつーの？」
「はぁ…」
「守ってやらなきゃなんねぇ存在なんだ」
司はそういうと、ギュッと握りこぶしを作る。今までならば、まっ白な雪の草原を見たら、まっさきに足跡をつけるはずの司の言葉に、思わずぷっと吹き出して、朔哉は司ににやりと微笑んだ。
「ようは、その子のことが好きなんだろ、司」
すると、司は握りしめていた拳をふっと緩めて、ぽつりと呟いた。
「…そう、かもしれねぇな」
朔哉はくすりと笑うと、肘で司をつついた。
「かもしれない、じゃないだろ。今度紹介しろよ」
司は照れ隠しのように、軽く顎を手でさすりながら、あふれ出てくる笑みをこぼしながら答えた。
「おう、落ち着いたらな」
土曜日は、試合もなく、練習も午前中で終わりだった。その代り、明日は少し遠征して練習試合が組まれている。
「おい早坂」
素直に寮生たちと帰ろうとしていた成は、ふいに司に呼び止められた。
「はい」
「お前、このあと暇か？」
「…ええ、まあ」
まさかまた、コンパとかじゃない、よな。
ひきつりながらそう答える成の肩を軽く叩き、
「じゃ、俺に付き合え」
と声をかけると、司はそのまま無言で歩きだした。
連れてこられたのは、アルジャーノンで、先に部室を出て行った一馬も、バイトとしてカウンターに入っていた。コーヒーふたつと勝手に注文した後、隅のテーブルにどかっと座った司は、何のふりもなく唐突に話を始めた。
「お前、この前瑛子ちゃんとの約束破っただろう」
「え？」
司と瑛子のつながりが見えず、成の頭の中は一瞬でぐちゃぐちゃになった。
だが目の前の司は、至って真剣な表情でいる。
頭の片隅では、そのつながりが気になりつつも、瑛子との約束ということを考え出したところで、それが一度約束したものの、成から断った話なのだと気づいた。
「あれは―」
しかし司は、成の説明を遮って、答える。
「話は彼女から聞いたよ、全部。お前と付き合ってたことも、振られたことも」
「あの―」
司と瑛子の関係を聞こうとする成が声を挟んだが、司はそれも無視してテーブルにドンと手をのせると、身を乗り出して成に言う。
「だけどお前もな、もっとあの子の話聞いてやれ。あの子は二股なんてかけてなかったんだぞ」
「え」
いきなりの話に、成は戸惑った。
二股かけてない？
そんなの嘘だ。そりゃ正面切っては門馬は認めなかったけど、実際に二人が歩いてるところだって見たし、話してるのだって聞いてる。
なんだって門馬は大槻さんにそんな嘘を、その前にどうして俺の話を大槻さんと？
「相手の男が一方的に、あの子にのぼせあがってるだけだったんだ。それをお前と新田が早とちりするから―」
一方的に話し続けていた司に、思わず成は立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってください。大槻さん、門馬からどう話を聞かされたんですか？」
話を遮られた為か、むっとしたように司は答えた。
「お前と付き合ってた時、別の男から言い寄られた。断ったけど、しつこくてしつこくて、それで誤解されたお前に振られた。
だけどな、相手の男は、今だに彼女につきまとってるんだぞ。お前が彼女を振ったのをいいことに、更にしつこく言い寄ってる。この前も、約束の場所にお前が来なくて、偶然俺が見つけて話聞いてたんだけど、その最中にその男がやってきて、彼女を脅してたんだ―」
「へ」
成の頭は更に混乱しかけた。
この前成にした話では、まずあの時の男とはもう別れたと瑛子は言っていた。
つきまとっているのは、別の男だ。
だけど今の司の話だと、あの男が付きまとっていることになっている。
素っ頓狂な成の声に、司は明らかにムッとして掴みかかる勢いで成に言った。
「へ、じゃねぇよ。お前、あの時彼女が一人だったらどうするつもり―」
「大槻さん。その男の名前って、佐山ですか？」
突然成は冷静にそう尋ねた。面食らったのは司の方で、掴みかかったその手を思わずテーブルに戻した。
「サヤマ？誰だそれ。野郎は、竹田だっ」
タケダ、と呟いて、成は大きく息を吐くと、テーブルに身を乗り出して言う。
「…大槻さん、落ち着いて聞いてください」
「なんだ？」
テーブルを挟んで、真剣な表情のまま二人が顔を近づけたところで、カウンターの中から一馬の声が響いた。
「大槻さん、電話、入ってます」
「俺？誰だよ」
面倒臭そうに、司は振り返るが、一馬は小さく首を振るだけだった。
「さあ、何か聞き取りづらいんすよ」
司は大きくため息をつくと、ちょっと待ってろと言い残し、カウンターに向かった。
「誰？」
そして、まるで脅しをかけるような声で電話に出る。隣に立っている一馬が、大きくため息をつきながらグラスを拭いていた。その目が、お前も大変だなと成に訴えている。
その時、店中に響き渡るほど大きな司の声がした。
「瑛子ちゃん？」
思わず成が立ち上がった。が、司は周りを気にすることなく、二言三言話しかけている。嫌な予感がして成はカウンターの所に向かおうとしたところで、司は、
「わかった、今からすぐ行くからっ」
と言うと、叩き斬るように電話を切った。
「大槻さん―」
「悪い、早坂。話はまた今度にしてくれ」
明らかに司の形相は違った。
何か良くないことが起きている。
直観がそう言っていた。
だけど瑛子が絡んでいるのならば、自分は言わなければならない話がある。
「あの―」
だが司は成のその声を遮るほどの大声をあげて、一馬に話しかけた。
「渡部。お前のバイク、店の裏か？悪いっ、貸してくれ」
「ねぇねぇ、あとでスイートハウスでケーキ食べて帰らない？」
「いいね。久しぶりだし」
「何食べよっかなあ。イチゴのショートもいいでしょう？でもモンブランも捨てがたいし」
「だったら二個食べちゃいなよ、美都」
「えー」
その頃萌子は、理香と美都と一緒に駅前の商店街に向って歩いていた。久しぶりに土曜の午後が空いたことで、三人はショッピングに繰り出すことにしたのだ。篤志はケンと厳己を伴って、また右京のところにお見舞いに行くとかで、浮足立って学校を出て行っていた。和美の予定は聞いてはいないが、たまにはこうして女の子だけで集まるのも楽しいと、萌子も二人と一緒にショッピングすることにしたのだ。
突然振られた朔哉も、それでもきっと俊平あたりとどこかで遊んでいるにちがいない。
「萌子は何個食べるケーキ？」
「何個って、ひとつで十分よ」
萌子がそう答えたところで、自分の脇の道路を、見覚えのあるバイクがものすごいスピードで駆け抜けて行った。
「大丈夫？萌子。危ないなあ」
思わず立ち止まった萌子に、心配した理香がそう話しかける。
「…大丈夫、だけど」
見覚えのある背中。
ヘルメットからかすかに覗いていた襟足の長い茶髪。
…大槻、先輩？
けれど、司があれほど必死になっている姿など、萌子はサッカー以外では見たことがない。
でも、そう言えば。朔哉さんが最近の大槻先輩の様子がおかしいとか言ってたっけ。
ここ最近、司とは会話をしていないが、その様子は萌子からするとそれほどおかしいようにも思えなかった。
その時、クラクションが鳴り、萌子たちは思わず振り返った。
「やっほう。萌子ちゃん、理香ちゃん」
「環さん！」
理香が嬉しそうな声をあげる。真っ赤なビートルからは、篤志の姉・環が顔をのぞかせていた。
「どうしたんですか？この車」
「荷物運ぶのに友達に借りたんだ。これから、返しに行くところだけど？
萌子ちゃん？」
理香に答えていた環だったが、突然助手席に乗り込んできた萌子に気づいて声を上げた。
「ごめんなさい環さん、あのバイク追ってくれませんか？」
「バイク？」
環が萌子の指さす方向を見つめると、ちょうどバイクが信号を曲がったのが見えた。
「お願いしますっ」