Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月4
このところ、どうも司の様子がおかしい。
練習に思い切り集中していたかと思えば、突然訳もなく笑いだす。
かと思うと、遠くの方をぼーっと見つめていたりする。
そうして練習が終わると、そそくさと帰っていくのだ。
俊平はそう話してから、鞄を手に持つと大きくため息をついて言う。
「コンパ誘っても、用事があっていけねぇとか言うんだぜ、司」
そう言って、二人は部室を後にした。萌子は右京の見舞いの為に、今日の練習は休んでいる。朔哉は帰りに俊平と買い物をすることになっていた。
「試合が近いからじゃないのか？」
「冗談言うなよ、朔哉。あいつは遠征先でもナンパしている男だぞ」
さらりと答えた朔哉を、俊平は即座に否定した。遠征先でのことを思い出し、それもそうだと朔哉は別の理由を考える。
「じゃあ、新しい彼女ができたとか」
「それをお前に聞きたいんだよ、俺は」
どうやら俊平にも、司は教えてないらしい。朔哉は数日前のことを思い出して、口にする。
「ちょっと前に、うちの学校の子と腕組んでたのは見たけど」
「ああ、一年の子だろ？あれはもうとっくに別れてる」
そう言われると、朔哉の思い当たる女子はいない。
司は、相手に他の彼氏がいようと、他に付き合っている女子がいようと、そのことを朔哉たちに隠すことはしない。
それでも言わないとなると、相当ヤバイ相手なんじゃないか。
俊平がそう言いたいのが、朔哉にもわかった。
そう考えると、確かにここ数日の司はおかしいかもしれない。
ふと朔哉はそう思った。
その時、後ろから二人は肩を小突かれた。振り返った瞬間に、二人の間を割って入るように司が走り抜けて行った。
「おう、おつかれー」
「おい、司？」
思わず朔哉が引き留めると、司も足を止めて振り返る。
「何だ？あれ？そういやいつも隣にいる口うるさい女がいないぜ」
「萌子は藤原の病院だ。今日の午前中に手術だって話、監督もしてただろう？」
ムッとして朔哉が答えたが、司の表情は変わらなかった。
「へぇ。そうなんだ」
俊平が、朔哉の脇を小突く。
新しい彼女のことを聞けということらしい。
「司―」
「まあ、淋しいだろうけど、浮気なんかすんじゃねぇぞ」
「へ？」
予想外の言葉に驚いたのは、朔哉だけでなく、俊平もそうだった。
どうしたんだ、司。
何があった。
そう尋ねる前に、司は軽く指を鳴らすと、それを朔哉に向けてにやりと笑った。
「それから朔哉。お前の言ってたこと、俺にもわかったぜ」
「え」
俺が言ったことって？
朔哉がそう尋ねようと思う前に、司はさっさと二人の前を歩いて、学校を出て行った。
「でさ、ケンのやつ慌てて隠したんだけど、姉貴の鼻って犬並だからさ、すぐばれて、食べられてやんの。おまけに嘘ついた罰とかで、尻叩かれて、あおむけで寝れないんだぜ、ケンの奴」
そう言って篤志の笑い声が病室に響く。思わず萌子も、花瓶を窓辺に置きながらくすりと笑う。その隣には、この前来た時にはなかった花が飾られていた。
笑い声が収まったところで、肝心の右京が笑っていないことに気づいた篤志は、不安そうに右京を見つめた。
「…つまんねぇか、こんな話」
「いや…。相変わらず、みたいだな」
優しい言葉に顔をあげると、どことなく微笑んで自分を見ている右京と目があった。篤志は照れて頬を赤くすると、声を大きくした。
「ほんっと、相変わらずバカばっかだよ。でも、右京も相変わらずで良かった。手術も成功したし」
絶対安静ということで、右京の足には大きなギブスがはめられ、ベッドからは動けないようになっていたものの、右京の表情は暗くはない。
萌子は笑顔になって振り返る。
「相変わらずじゃ困るわよ。黙って何も言わないから、看護婦さんがかえって手を焼いてるんだから」
そう呟くと、右京にじろりと睨まれた。だが、右京の様子はいたって元気そうだ。
よかったと、心の底から萌子は思った。
しばらくは松葉杖の生活にはなるが、それでもあと二週間ほどで退院できそうだった。
凪高も、来週の準決勝を勝てば、二週間後に決勝が待ち構えている。試合に出ることはできなくても、右京が応援に来ることができれば、きっと選手たちの士気も上がるに違いない。
よかった。本選にも、これなら間に合いそうだ。
萌子はもう一度そう心の中で呟くと、深く息をついた。
「あれ？コーラないの？」
部屋についている小さな冷蔵庫を開けた篤志が声をあげる。
「下の売店に売ってるわよ」
「じゃ、ちょっと俺買ってくる。萌子は？」
「お願い。あ、途中まで一緒に行く。お花のお水変えないと」
萌子はそう言うと、元から置かれていた花瓶を手にとって病室を出た。
廊下に出た途端、篤志は嬉しそうに声をかけてきた。
「なあ萌子。気のせいかもしれないけど…、ちょっと右京、雰囲気変わったと思わないか？
なんつーか。ちょっと、心開いてくれるようになったっつーか。あれで笑ってくれたりすると、イチコロなんだけどなぁ」
胸に手を当ててギュッと目を瞑る篤志に、思わず萌子は言い返す。
「篤志が右京に恋してどうするのよ」
理香がミーハーなように、篤志は自分の中のヒーローを誰かに見出す癖があることに、萌子は最近になって気づいた。
身近なところでは、朔哉や右京である。
もしそれが、自分に自信がない裏返しだとしても。
萌子はそっと隣で顔を真っ赤にして違うと叫んでいる篤志を見つめた。
篤志のいいところはちゃんとあるし、それをわかってくれてる人も、ちゃんといるのにね。
「違うってばっ。
ああ、もう萌子はわかってなさすぎなんだよ。右京は将来、絶対日の丸背負うような選手なんだからなっ。
サインもらうんなら、今のうちなんだぞっ」
「はいはい。あ、オレンジジュースよろしくね」
それ以上放っておくと、長々とどれほど右京がすごい選手なのかを語り出しそうな勢いに、萌子は笑顔でそう答えると、途中にあった給湯室に逃げ込んだ。
花瓶の水を入れ替え、茎を少し短くしてやると、ほんの少しだが花も元気を取り戻したように思えた。
右京の叔母夫婦は、今朝から病院にやってきて、術後に問題がないと担当医から聞くと、病院を出て行ったらしいから、この花は別の誰かが持ってきたものだろう。
白い花びらの淵が藤色をしているトルコ桔梗。
思い当たる人は、一人しかいない。
萌子が花瓶を持って病室に戻ると、右京は体を起こしたままで、窓の外をじっと眺めていた。その先に何があるのか、誰を待っているのか。萌子はそれに気づかぬようにテーブルに花瓶を置くと、徐に尋ねた。
「…ねぇ右京。どうして、田波先生にあんなこと言ったの？帰れ、なんて」
ぴくんと僅かに右京の肩が動く。だが、右京は、萌子の方を振り返ろうとはしなかった。
「嫌われちゃったみたいって、言ってたわよ」
すると、右京が小さく声を上げた。
「それは、俺のセリフだ」
やっぱり気にしてたんだ。
萌子はそう思うと、花瓶をもう一度手にして窓辺に立ち、右京の視界の中に入る。右京が怪訝そうに萌子を見つめている。
「先生は、右京が手術前で気が立ってたんだろうって」
そう言った途端、右京の顔に僅かだが安堵の笑みがこぼれた。だが、それに気づくと右京は大慌てで手で顔を覆うと、萌子から逸らした。
あんな表情、今まで見たこともなかった。
確信した萌子は、花瓶を置くと、一歩右京に近づいた。
「ねえ、右京。
先生のこと、好きなんでしょう？」
その言葉に右京は萌子から視線を逸らす。夕陽が右京の陶器のようになめらかな頬を照らしていた。
「逃げないで」
その頬がぴくりと動く。僅かに見えた右京の本心を逃さないようにと、思わず萌子は右京の肩を掴むと、必死で口にしていた。
「その想いから、逃げないで」
篤志が言っていたことを、萌子自身も感じていた。
今までは氷のように頑なに周囲のものを拒んでいた右京が、徐々にその壁を溶かし始めている。
そのきっかけが、紗依という存在だとしたら、その想いを持ち続けることで、右京は自分で作ってしまった孤独という繭から抜け出せるのかもしれない。
そのためには、まず自分の気持ちを認めることが大事だと、萌子は感じていた。
お願い。
その気持ちが萌子に強く右京の肩を掴ませる。そして右京は俯くと、サラサラと伸びた前髪の奥に瞳を隠して口を開いた。
「だけど、あの人には―」
突然ノック音が病室に響くと、石橋が入ってきた。思わず萌子は右京から手を放す。石橋はそういった萌子に気遣うことなく、右京に声をかけた。
「どうだ調子は、藤原」
石橋は萌子に目礼すると、そのままベッド脇の椅子にどっかりと座りこんだ。
「医者には話を聞いた。手術は成功したし、経過も順調だと言ってたぞ」
練習が終わってから病院に来ると言っていたにしては、石橋の来る時間があまりに早い。
もしかして、練習を途中で切り上げたのかと萌子は思い石橋を見つめたが、無精ひげの伸びたその表情は、疲れもあるが、どこか固い。その原因である右京は、石橋が椅子に座った途端、その顔を窓側にいる萌子の方に俯かせた。
黙り込み続ける右京の表情は、明らかに戸惑っていた。仮に右京が石橋のことを嫌いだというのならば、そもそも凪高には来なかったはずだ。実際右京が、石橋に反抗するようになったのは、怪我をしてからだし、部員の誰からしても、石橋は右京の恨みを買うようなことはしていない。
あえて言うのであれば、試合に出場したがったのは右京であり、それを止めて手術を受けるよう説得したのが石橋だ。
だが、手術を受ける決意をしたのは右京だったし、その手術も今日無事に終わった。
二人の間には、何もないはずだった。
長い沈黙の後、深いため息をつき石橋は口を開いた。
「なあ、藤原。お前、俺に言いたいことあるだろう。そうじゃなきゃ、俺にはお前にこれほど無視される覚えはない。気の利く方じゃないから、俺が気づいてないこともあるだろう。
だったら、言ってくれ。悪いと思ったら謝るが、理由がわからなければ、謝ることもできん。違うか？」
一瞬だけ右京の視線が泳いだ。
萌子がその先を追うと、さっき水を入れ替えたトルコ桔梗があった。そこで萌子は、思わずあっと声をあげそうになった。
もしかして…。さっきの右京の言葉。
『だけど、あの人には』
あのあと右京は何を言おうとしていたんだろう。
『あの人には、好きな人がいる』
もしかして、じゃない。
そして、萌子は自分だけが何となく感じていたことが、そこできちんと形を成していくことに気づいた。
『あの人には、好きな人がいる』
『田波先生には、石橋監督という好きな人がいる』
だから、右京は監督のことを、うまく受け入れないでいる。
初めて好きになった人が、今愛している人だから。
その時、開けはなれたドアの向こうから、篤志の大きな声が聞こえてきた。
「萌子、ごめん。オレンジジュースなくてさ、コーラなんだけどいいかな？
あ、監督！練習もう終わったんですか。早いっすね」
石橋に気づいた篤志がそう声をかける。石橋は返事をしない右京をじろりと睨んでから、苛立ったように篤志に答えた。
「佐藤に任せて車で来たからな」
「なるほど！監督も何か飲みます？ここの冷蔵庫ミネラルウォーターしかないから、俺買ってきますよ」
篤志がそう明るく話しかけるものの、張りつめた空気は変わらない。無理やりな篤志の笑顔も少しこわばり始めていた。
萌子は篤志の言葉を遮るように石橋に話しかけた。
「あの、監督」
「何だ」
邪魔するなと言いたげな石橋に怯むことなく、萌子はわざと明るい声を出した。
「紗依先生、来ますか？」
「サエ先生？」
全くわからないのか、石橋が思わず顔をあげて萌子を見つめた。同じように、右京は驚いたように萌子を見つめる。
その目が余計なことは言うなと訴えていた。
萌子の一言に、鎮まるはずの空気が余計にかき乱されて、篤志が慌てて声をあげる。
「それって田波先生のこと？」
そうですと萌子が答えると、石橋は明らかに不愉快な表情を浮かべて萌子を睨んだ。
「知らん。何で俺がそんなことを知ってなきゃならんのだ」
「いえ、学校出る時にでもお会いしたかな、なんて」
苦笑いを浮かべる萌子を一瞥すると、石橋の表情は不審そうな表情へと変わる。
「校舎には立ち寄ってないで来たから、会ってなんかないぞ。そもそも、どうして田波先生が見舞いに来るんだ」
「そうだよ、萌子」
便乗するように篤志までがそう萌子に言う。相変わらず睨みつける右京を無視して、萌子は答えた。
「夏の合宿、手伝ってくれたじゃないですか。あれから先生もサッカーが好きになったみたいで。この病院、わりと先生のおうちから近いんで、私たちもあまり来れないし、暇な時に来てくださいって頼んだんです」
すると、石橋は大きなため息をついた。
「沢木。田波先生は、あくまで学校の保健医だ。部のことにあまり巻き込むんじゃない」
「わかりました。でも、先生が自分で来たいっておっしゃったら、いいんですよね」
にこりと微笑む萌子に、石橋は一瞬目を丸くすると、再び大きくため息をついて答えた。
「…構わんが。迷惑はかけるな」
「わかりました」
萌子はそう答えると、篤志にお金を差し出した。
「篤志、ありがとう。コーラで十分よ」
一瞬ぼうっとしていた篤志だったが、慌ててそのお金を取ると、コーラを萌子に渡した。
「ああ。あ、すんません。監督の分これから買ってきます。えっと何が―」
篤志の言葉を遮り、その時右京の声が石橋を呼びとめた。
「監督」
驚く三人の視線の先では、右京がベッドの上でだが、深々と頭を下げていた。
「すみませんでした」