Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月3
「ただいま」
寮に響いたその声に、樹生は慌てて玄関へと向かう。
「…成さんっ」
樹生をちらりと見た成は、あぁとだけ返事をすると、階段を上って行った。樹生も慌ててその後についていく。
その様子を、リビングで萌子はじっと見ていた。
「萌子？」
その様子に気づいた朔哉が名前を呼ぶが、萌子が寮に来た理由は、成にある。
「ごめん、ちょっと」
萌子はそういうと、階段を上り、成の部屋のドアをノックした。
「誰？」
「私…。入っても、いい？」
少ししてどうぞという声が聞こえ、萌子が部屋に入ると、中央に座り込んでいる樹生とベッドに座っている成がいた。
成は萌子が部屋に入ると、まず謝った。
「ごめん、萌子。樹生が変なこと頼んで」
「ううん。いいのよ、私は別に」
「福山さんには俺が謝っておくから。
お前も変な気回さなくていいんだよ。俺だって、そこまで馬鹿じゃない」
成にそう言われた樹生が、でもと言い返していたが、成はそれ以上話すつもりはなかったらしく、大きく伸びをするとベッドに寝転がった。
少しだけ重い空気の中、萌子は床に座ると成に尋ねた。
「それで、相談したいことって、何だったの？」
樹生も真剣な表情で成の様子を見つめていた。萌子から話を聞かされた時の樹生は、すぐにでも学校付近の喫茶店を探し廻る勢いがあった。それよりも、寮で待っていた方がいいという朔哉の説得で寮に帰ってきたものの、成が帰ってくるまでは全神経を、樹生は玄関に集中させていたのだ。
ひとつ息を吐くと、成は起き上った。
「大したことじゃない。
俺と同時に付き合ってたって方の男とは別れたらしい。で、俺が忘れられないから、よりを戻したいんだって」
「あいつっ―」
樹生が突然立ち上がるが、成の冷静な声がそんな樹生を落ち着かせるように部屋に響く。
「断ったよ。もちろん。
そうしたら、今度は、変な男に付きまとわれてるから、助けてほしいって。
本題は、そっちだったみたいだけど」
「それで成は？なんて答えたの？」
思わず萌子が尋ねる。
成のどこか抜けたような人の良さを、萌子もわかっていた。
わかっていたからこそ、樹生の無茶な願いも聞き入れることにしたのだ。
それに、今日の瑛子の表情を見てわかったのだ。
簡単な嘘で騙せるような簡単な相手じゃない、と。
成は、うんと小さく答えてから、少し声のトーンを落として答えた。
「初めは…、断ろうかと思ったんだけど…、泣きだすし、かわいそうだし」
「…やっぱり」
深いため息を樹生がつく。成はそれで、と話を続けた。
「週末に会う約束して一旦別れたんだけど、忘れものに気づいて取りに戻ったら、門馬はどこかに電話をかけてたんだ。声をかけるかどうか悩んでたら、それが俺の話をしてるらしいってのがわかって。
…それでやっぱり、俺を騙そうとしてたみたいだって思ったから、電話かけ終わって席に戻った門馬に、やっぱりもう会うのはやめるって言った。
今は大事な時期だから、サッカー以外のことは考えられない。それにもう二度と会わない、会うつもりはないって」
力強く成がそう言ったところで、萌子は大きく安堵のため息をつく。その隣で樹生は思い切り怒鳴り声をあげていた。
「まったくっ、なんて女なんだよ、あいつはっっ」
最低だ、最悪だ、と壁に向かって叫んでいる樹生を横目に、萌子は成を見ていた。
小さくため息を吐く成の表情は硬く、口に出さないまでも怒っているのがわかる。
「成ー」
「せいくーん」
その時、ドアの外から能天気に成を呼ぶ声がした。
「何だ？」
樹生がそう言って振り返ると、ドアが開いてケンと篤志が顔を出す。
二人はニヤニヤと笑いながら、ベッドの成を見つけると、口を開いた。
「聞いたぞー。今日、御園女子の子とデートしたらしいじゃん」
「しかも、超かわいい子なんだって？」
相手が瑛子のことを言っているのは明らかだ。
成は疲れた様子で答えた。
「違う、そんなんじゃない」
しかし、ケンも篤志も単に成が恥ずかしがっているのだとしか見えないらしい。
「照れるなって。だから、言ったじゃん。つきあってみればいいんだって」
「ほら、萌子も何とかいって―」
「違うって言ってるだろうっっ」
突然立ち上がり叫んだ成に、二人は思わず動きを止めた。
成は二人を気にすることなく、そのまま怒鳴り続けた。
「試しにつき合え？簡単に言うなよ。
相手のこと何も知らないのに、表面だけ見て、気に入って、つきあって、心許して、何でも話して。
だけど裏では相談してたことバカにされてた、そういう気持ち、わかるのかよっ、
篤志にっ、ケンにわかるのかよっ」
成が激しく息を吐く音が、部屋に響く。
滅多にみないその光景に、篤志もケンも、目を見開いて立ち尽くしていた。
「成…」
荒だった心を落ち着けるように萌子が名前を呼ぶと、成は脱力したようにベッドに再び座った。
「…ごめん」
成の激昂ぶりに驚いていた篤志とケンだったが、成の言葉に、はっと気づいたようにして答えた。
「いや…。俺も言いすぎた」
「悪かったな。成」
静かに二人が部屋を出て行く。ドアが閉まったところで、樹生が成の前で深く頭を下げていた。
「…成さん、すみません。俺―」
「お前も、もういいから、樹生。門馬と引き合わせたことも、自分に責任感じなくていいから」
その言葉に、萌子はこれほどまでに責任を感じている樹生の気持ちを理解した。
取り持ったのは自分だと、樹生は言っていた。
あれほどまでに成のことに執着するのは、成を尊敬していることもあったけれど、そのうえに自分の仲介がきっかけで成を傷つけてしまったことがあるからかもしれない。
萌子の見つめる先で、樹生はじっと成を見つめていた。
「でも―」
首をふる樹生の声を遮って、成ははっきりと答えた。
「あいつと付き合うことを決めたのは、俺自身だ。
だからお前は気にすることない。
それに、全部嘘だったんだって、今日わかったから。付き合ってる頃、看護婦目指してるって言ってたんだ、門馬。母親が看護婦らしくてさ、自分も母親みたいになりたいって。だから高校は専門のところ行くんだって言ってたのに御園にはそんな学科ないし、看護婦になろうとも思ってないみたいだった。
俺、…バカだよな。
その嘘全部信じて、そういう門馬を好きになれると思ったんだ。色々裏切られたけど、今日会うまで、門馬の夢だけは本当だと思ってた」
僅かに唇をかみしめる成を見て、萌子はずっと成の抱えてきた傷の深さに気づくと同時に、自分が成のことをあまり知らなかったのだと感じていた。
心のどこかでは、成のことはわかってるってそう思っていたのに。
沈み込んだ空気の中に、ドアをノックする音が響く。
「成？早いけど晩御飯の準備で来たって。食べる？」
顔を出した厳己に、成はわかったと答える。厳己も頷くと、思いだしたように廊下に顔を戻して言った。
「あ、朔哉さんも大丈夫ですよね？」
廊下で佇んでいた朔哉は、無言のままに頷いた。
小さくため息をつくと、白い吐息が湯気と共に空気に消えて行った。寒さはそれほどでもないのだが、由太は浴室の窓をあけて風呂に入るのが常だ。体と共に緩むよりも、頭はいつもスッキリさせておきたいというのがその理由である。マンションの五階だから、誰かに覗かれるということもない。
顔にバシャバシャと湯をかけ、再びため息をついたところで、ふいに今日の学校での出来事を思い出した。
ちょうど、昼休みが終わり、五時間目に入るところだった。
移動教室で廊下を歩いていると、正面から亜紀子が歩いてきたのだ。
同じ学校ではあるのだから当然と言えば当然のことだが、別れてからまともに顔を向き合わせたのは初めてだった。
なるべく顔を会わせないようにと思っていたのは、由太だ。
どんな顔をして会えばいいのか、挨拶はするのか、それとも無視した方がいいのか、わからなかったのだ。
一度サッカー部の連絡で、一年の階に行かなければならなった時も、由太は苦々しい顔でそれを篤志に頼んだ。
結局篤志に問い詰められて、その理由を説明することになった時、篤志は変な顔をしていた。
「振られたのは由太の方だろう？なのに、なんで振った相手に気を使うんだよ」
どっちが振って、振られたのか。
それがどれほどの意味があるのか、今の由太にはわからなかった。
わかっているのは、悪いのは全て自分だということだ。
だから正面切って、顔を合わせられないのだとは、その時の篤志には言えなかった。
亜紀子は、茶道部の友達と二人で歩いていた。一馬に告白したというその友達のことを、だが由太はよく知らない。
亜紀子と会う時はいつも二人だけで、他の誰かが一緒にいることなどなかった。
思わず足を止め、そのまま歩こうかどうしようかと由太が悩んでいると、亜紀子がそんな由太に気づいた。
そうなれば、由太は逃げることはできなかった。
小さく息を吸うと、静かに歩きだす。表情が強張るのが、自分でもわかった。しかし、亜紀子の表情はいつもと変わらない。
あの時のようだと、由太はさりげなく手を握りしめながら思った。
そう、最後に亜紀子と話した時のように。
「先輩、今までありがとうございました」
呼び出された教室には、二人だけだった。
一馬との誤解が解けたところで、騒がしく響いていたバンドの演奏が終わった。
フォークダンスが始まると、無言で由太が亜紀子の手を取った時だった。
亜紀子は、その手をするりとかわすと、唖然としていた由太の前で、深々と頭を下げてそう言った。
「どういう意味だ？」
渇いた喉から、ようやくその言葉が出たが、亜紀子はさらさらと次の言葉を口にする。
「今までの二年間、すごく楽しかったです」
「佐々―」
呼びかけようとしたところで、亜紀子は顔を上げた。
夕日に映し出されたその表情は柔らかかった。
「私はもう、大丈夫です。
怪我も治ったし、誰かにいじめられてもいない。
先輩が私に責任感じることはないんです。…一人でも、平気です」
亜紀子の言いたかった意味を、由太が否定しようとしたところで、先に亜紀子が口にする。
「別れましょう」
「佐々木―」
「別れてください。お願いします」
きっぱりとした言い方に、由太は返す言葉がなかった。
黙り込んだ由太の間を埋めるように、亜紀子は話し続ける。
「いつまでも、先輩が自分を苦しめることはないです。私もこれ以上、先輩のこと縛り付けていたくないから」
別れましょう、と亜紀子はもう一度口にした。
ちょっと待て。
そう言おうとしたが、由太のプライドがそれを遮った。
亜紀子の言っていることが違っていたとしても、自分を捨てて行こうとする女を引き止めるなんて、男のすることじゃない。
だけど。
ぐっと奥歯をかみしめ自分の中の葛藤と戦っていると、亜紀子はそれじゃあ、と踵を返し、由太に背を向けた。
「亜紀子―」
咄嗟に名前を呼ぶ。そんな自分に由太は戸惑い、そして次の言葉を失った。
静まりかえった教室に、聞き馴染んでいるフォークダンスの音楽が流れる。
何も言わない由太に、亜紀子は振り返らずに言った。
「先輩。もっと、自由に生きてください」
その言葉に、由太はもう一度声をあげようとした。
お前は誤解してる。
だがあの時、結局由太は亜紀子を引き留められなかった。
以来、亜紀子とは会話はおろか、顔も会わせていない。
『でも、亜紀ちゃん。由太のこと、お願いしますって。ああ見えて不器用だからって、そう言ったのよ』
ふいに萌子の声が由太の脳裏を過る。
やっぱりお前。
そう思った由太の視界の先に、亜紀の上履きが見えた。自然と顔を俯かせていたことに気づきあげると、亜紀子は由太に一礼して去って行った。自分の横を通り過ぎた風を追いかけるように由太が振り返ると、何事もなかったかのように友達を話している亜紀子の背中がそこにあった。
由太はひとり取り残されたように、しばらくその背中を見つめていた。
バシャバシャと音を立てながら、由太はもう一度顔に湯をかける。
それでも、ぼんやりとした頭の中には、あの萌子の言葉が響く。
…やっぱり、気づいていたんだな。
気づかれてない自信はあった。というよりも、由太の中でも、その気持ちは本当に小さく、気づけば忘れてしまっている程度のものだと思っていた。
いや、そう思いたかった。
『ほんと、大バカだよ、由太チャン』
今さらになって、理香の言葉が由太の胸を突き刺した。
「お兄ちゃん？お風呂まだ？」
その時、ドアの向こうから、妹の好実の声が聞こえてきた。いつもはすぐに出てくるのに、中々由太が出てこないからしびれをきらしたようだ。
「今出る」
由太はそう答えると、湯船から出て冷たい水で顔を洗い直した。
練習の後、司は駅に向かっていた。
これからデートなのだが、約束の時間はすでに遅れていた。相手は映画を見たいと言っていたけれど、もう映画は始まっているだろうから、きっと食事でもするのだろう。が、そんなことは司にとってはどうでもいいことだ。
司の頭の中にあるのは、今日のデートのことではない。
だったら断ればいいのかもしれないが、デートの相手は年上の社会人で今日はお金を支払うこともないし、ただ言う通りについていけばいい、楽な相手で、むしろ断る方が、面倒なことだった。
ポケットに手を突っ込むと、ここ数日持ったままのハンカチに手が触れる。
小さくため息をつきながら顔をあげたところで、司は思わず声を上げた。
「あれ？瑛子ちゃん？」
改札の前で立っていた瑛子は顔をあげて、司に気づき、あっと声をあげた。
「…でも、どうして名前…」
「新田がそう呼んでたからさ。俺は、大槻。大槻司」
名前も言ってなかったのかと気づき慌てて司は自己紹介をする。それから思い出したように、司はポケットから手を出した。
「そうそう。あ、これ。返そうと思ってたんだ」
「ハンカチ…」
美都に頼んで洗ってもらったハンカチは、アイロンも綺麗にかけられていた。
司は軽く髪をかきあげなら話を続ける。
「この前、御園女子の校門前行ったんだけど、すっげぇお嬢様学校なんだな。立ってるだけで不審者扱いされたよ」
あははと笑う司に、笑顔を見せていた瑛子だったが、ふいに真剣な表情になって尋ねる。
「…あの、今日の練習は？」
「終わったけど？」
「…そう。ですか」
瑛子は明らかに肩を落として答える。それから、勇気を振り絞って、というように再び顔をあげて司に尋ねた。
「あの、早坂君は練習に？」
「来てたけど？」
成はいつものメンバーたちと、部室を出て行ったことを思い出しながら司は答える。それがどうかしたのか？という司の視線から、瑛子は逃げるように俯いて呟いた。
「…いえ、何でもないです」
唇をかみしめて、僅かに肩を震わせる瑛子に、もしかしてと司は聞き返した。
「待ち合わせしてたのか？」
瑛子はそれには答えずしばらく俯いていたが、ぱっと顔をあげると司に無理やりな笑顔を見せて答えた。
「嫌われちゃったみたい」
瑛子の頬には、すっと涙がこぼれおちた。
寮に響いたその声に、樹生は慌てて玄関へと向かう。
「…成さんっ」
樹生をちらりと見た成は、あぁとだけ返事をすると、階段を上って行った。樹生も慌ててその後についていく。
その様子を、リビングで萌子はじっと見ていた。
「萌子？」
その様子に気づいた朔哉が名前を呼ぶが、萌子が寮に来た理由は、成にある。
「ごめん、ちょっと」
萌子はそういうと、階段を上り、成の部屋のドアをノックした。
「誰？」
「私…。入っても、いい？」
少ししてどうぞという声が聞こえ、萌子が部屋に入ると、中央に座り込んでいる樹生とベッドに座っている成がいた。
成は萌子が部屋に入ると、まず謝った。
「ごめん、萌子。樹生が変なこと頼んで」
「ううん。いいのよ、私は別に」
「福山さんには俺が謝っておくから。
お前も変な気回さなくていいんだよ。俺だって、そこまで馬鹿じゃない」
成にそう言われた樹生が、でもと言い返していたが、成はそれ以上話すつもりはなかったらしく、大きく伸びをするとベッドに寝転がった。
少しだけ重い空気の中、萌子は床に座ると成に尋ねた。
「それで、相談したいことって、何だったの？」
樹生も真剣な表情で成の様子を見つめていた。萌子から話を聞かされた時の樹生は、すぐにでも学校付近の喫茶店を探し廻る勢いがあった。それよりも、寮で待っていた方がいいという朔哉の説得で寮に帰ってきたものの、成が帰ってくるまでは全神経を、樹生は玄関に集中させていたのだ。
ひとつ息を吐くと、成は起き上った。
「大したことじゃない。
俺と同時に付き合ってたって方の男とは別れたらしい。で、俺が忘れられないから、よりを戻したいんだって」
「あいつっ―」
樹生が突然立ち上がるが、成の冷静な声がそんな樹生を落ち着かせるように部屋に響く。
「断ったよ。もちろん。
そうしたら、今度は、変な男に付きまとわれてるから、助けてほしいって。
本題は、そっちだったみたいだけど」
「それで成は？なんて答えたの？」
思わず萌子が尋ねる。
成のどこか抜けたような人の良さを、萌子もわかっていた。
わかっていたからこそ、樹生の無茶な願いも聞き入れることにしたのだ。
それに、今日の瑛子の表情を見てわかったのだ。
簡単な嘘で騙せるような簡単な相手じゃない、と。
成は、うんと小さく答えてから、少し声のトーンを落として答えた。
「初めは…、断ろうかと思ったんだけど…、泣きだすし、かわいそうだし」
「…やっぱり」
深いため息を樹生がつく。成はそれで、と話を続けた。
「週末に会う約束して一旦別れたんだけど、忘れものに気づいて取りに戻ったら、門馬はどこかに電話をかけてたんだ。声をかけるかどうか悩んでたら、それが俺の話をしてるらしいってのがわかって。
…それでやっぱり、俺を騙そうとしてたみたいだって思ったから、電話かけ終わって席に戻った門馬に、やっぱりもう会うのはやめるって言った。
今は大事な時期だから、サッカー以外のことは考えられない。それにもう二度と会わない、会うつもりはないって」
力強く成がそう言ったところで、萌子は大きく安堵のため息をつく。その隣で樹生は思い切り怒鳴り声をあげていた。
「まったくっ、なんて女なんだよ、あいつはっっ」
最低だ、最悪だ、と壁に向かって叫んでいる樹生を横目に、萌子は成を見ていた。
小さくため息を吐く成の表情は硬く、口に出さないまでも怒っているのがわかる。
「成ー」
「せいくーん」
その時、ドアの外から能天気に成を呼ぶ声がした。
「何だ？」
樹生がそう言って振り返ると、ドアが開いてケンと篤志が顔を出す。
二人はニヤニヤと笑いながら、ベッドの成を見つけると、口を開いた。
「聞いたぞー。今日、御園女子の子とデートしたらしいじゃん」
「しかも、超かわいい子なんだって？」
相手が瑛子のことを言っているのは明らかだ。
成は疲れた様子で答えた。
「違う、そんなんじゃない」
しかし、ケンも篤志も単に成が恥ずかしがっているのだとしか見えないらしい。
「照れるなって。だから、言ったじゃん。つきあってみればいいんだって」
「ほら、萌子も何とかいって―」
「違うって言ってるだろうっっ」
突然立ち上がり叫んだ成に、二人は思わず動きを止めた。
成は二人を気にすることなく、そのまま怒鳴り続けた。
「試しにつき合え？簡単に言うなよ。
相手のこと何も知らないのに、表面だけ見て、気に入って、つきあって、心許して、何でも話して。
だけど裏では相談してたことバカにされてた、そういう気持ち、わかるのかよっ、
篤志にっ、ケンにわかるのかよっ」
成が激しく息を吐く音が、部屋に響く。
滅多にみないその光景に、篤志もケンも、目を見開いて立ち尽くしていた。
「成…」
荒だった心を落ち着けるように萌子が名前を呼ぶと、成は脱力したようにベッドに再び座った。
「…ごめん」
成の激昂ぶりに驚いていた篤志とケンだったが、成の言葉に、はっと気づいたようにして答えた。
「いや…。俺も言いすぎた」
「悪かったな。成」
静かに二人が部屋を出て行く。ドアが閉まったところで、樹生が成の前で深く頭を下げていた。
「…成さん、すみません。俺―」
「お前も、もういいから、樹生。門馬と引き合わせたことも、自分に責任感じなくていいから」
その言葉に、萌子はこれほどまでに責任を感じている樹生の気持ちを理解した。
取り持ったのは自分だと、樹生は言っていた。
あれほどまでに成のことに執着するのは、成を尊敬していることもあったけれど、そのうえに自分の仲介がきっかけで成を傷つけてしまったことがあるからかもしれない。
萌子の見つめる先で、樹生はじっと成を見つめていた。
「でも―」
首をふる樹生の声を遮って、成ははっきりと答えた。
「あいつと付き合うことを決めたのは、俺自身だ。
だからお前は気にすることない。
それに、全部嘘だったんだって、今日わかったから。付き合ってる頃、看護婦目指してるって言ってたんだ、門馬。母親が看護婦らしくてさ、自分も母親みたいになりたいって。だから高校は専門のところ行くんだって言ってたのに御園にはそんな学科ないし、看護婦になろうとも思ってないみたいだった。
俺、…バカだよな。
その嘘全部信じて、そういう門馬を好きになれると思ったんだ。色々裏切られたけど、今日会うまで、門馬の夢だけは本当だと思ってた」
僅かに唇をかみしめる成を見て、萌子はずっと成の抱えてきた傷の深さに気づくと同時に、自分が成のことをあまり知らなかったのだと感じていた。
心のどこかでは、成のことはわかってるってそう思っていたのに。
沈み込んだ空気の中に、ドアをノックする音が響く。
「成？早いけど晩御飯の準備で来たって。食べる？」
顔を出した厳己に、成はわかったと答える。厳己も頷くと、思いだしたように廊下に顔を戻して言った。
「あ、朔哉さんも大丈夫ですよね？」
廊下で佇んでいた朔哉は、無言のままに頷いた。
小さくため息をつくと、白い吐息が湯気と共に空気に消えて行った。寒さはそれほどでもないのだが、由太は浴室の窓をあけて風呂に入るのが常だ。体と共に緩むよりも、頭はいつもスッキリさせておきたいというのがその理由である。マンションの五階だから、誰かに覗かれるということもない。
顔にバシャバシャと湯をかけ、再びため息をついたところで、ふいに今日の学校での出来事を思い出した。
ちょうど、昼休みが終わり、五時間目に入るところだった。
移動教室で廊下を歩いていると、正面から亜紀子が歩いてきたのだ。
同じ学校ではあるのだから当然と言えば当然のことだが、別れてからまともに顔を向き合わせたのは初めてだった。
なるべく顔を会わせないようにと思っていたのは、由太だ。
どんな顔をして会えばいいのか、挨拶はするのか、それとも無視した方がいいのか、わからなかったのだ。
一度サッカー部の連絡で、一年の階に行かなければならなった時も、由太は苦々しい顔でそれを篤志に頼んだ。
結局篤志に問い詰められて、その理由を説明することになった時、篤志は変な顔をしていた。
「振られたのは由太の方だろう？なのに、なんで振った相手に気を使うんだよ」
どっちが振って、振られたのか。
それがどれほどの意味があるのか、今の由太にはわからなかった。
わかっているのは、悪いのは全て自分だということだ。
だから正面切って、顔を合わせられないのだとは、その時の篤志には言えなかった。
亜紀子は、茶道部の友達と二人で歩いていた。一馬に告白したというその友達のことを、だが由太はよく知らない。
亜紀子と会う時はいつも二人だけで、他の誰かが一緒にいることなどなかった。
思わず足を止め、そのまま歩こうかどうしようかと由太が悩んでいると、亜紀子がそんな由太に気づいた。
そうなれば、由太は逃げることはできなかった。
小さく息を吸うと、静かに歩きだす。表情が強張るのが、自分でもわかった。しかし、亜紀子の表情はいつもと変わらない。
あの時のようだと、由太はさりげなく手を握りしめながら思った。
そう、最後に亜紀子と話した時のように。
「先輩、今までありがとうございました」
呼び出された教室には、二人だけだった。
一馬との誤解が解けたところで、騒がしく響いていたバンドの演奏が終わった。
フォークダンスが始まると、無言で由太が亜紀子の手を取った時だった。
亜紀子は、その手をするりとかわすと、唖然としていた由太の前で、深々と頭を下げてそう言った。
「どういう意味だ？」
渇いた喉から、ようやくその言葉が出たが、亜紀子はさらさらと次の言葉を口にする。
「今までの二年間、すごく楽しかったです」
「佐々―」
呼びかけようとしたところで、亜紀子は顔を上げた。
夕日に映し出されたその表情は柔らかかった。
「私はもう、大丈夫です。
怪我も治ったし、誰かにいじめられてもいない。
先輩が私に責任感じることはないんです。…一人でも、平気です」
亜紀子の言いたかった意味を、由太が否定しようとしたところで、先に亜紀子が口にする。
「別れましょう」
「佐々木―」
「別れてください。お願いします」
きっぱりとした言い方に、由太は返す言葉がなかった。
黙り込んだ由太の間を埋めるように、亜紀子は話し続ける。
「いつまでも、先輩が自分を苦しめることはないです。私もこれ以上、先輩のこと縛り付けていたくないから」
別れましょう、と亜紀子はもう一度口にした。
ちょっと待て。
そう言おうとしたが、由太のプライドがそれを遮った。
亜紀子の言っていることが違っていたとしても、自分を捨てて行こうとする女を引き止めるなんて、男のすることじゃない。
だけど。
ぐっと奥歯をかみしめ自分の中の葛藤と戦っていると、亜紀子はそれじゃあ、と踵を返し、由太に背を向けた。
「亜紀子―」
咄嗟に名前を呼ぶ。そんな自分に由太は戸惑い、そして次の言葉を失った。
静まりかえった教室に、聞き馴染んでいるフォークダンスの音楽が流れる。
何も言わない由太に、亜紀子は振り返らずに言った。
「先輩。もっと、自由に生きてください」
その言葉に、由太はもう一度声をあげようとした。
お前は誤解してる。
だがあの時、結局由太は亜紀子を引き留められなかった。
以来、亜紀子とは会話はおろか、顔も会わせていない。
『でも、亜紀ちゃん。由太のこと、お願いしますって。ああ見えて不器用だからって、そう言ったのよ』
ふいに萌子の声が由太の脳裏を過る。
やっぱりお前。
そう思った由太の視界の先に、亜紀の上履きが見えた。自然と顔を俯かせていたことに気づきあげると、亜紀子は由太に一礼して去って行った。自分の横を通り過ぎた風を追いかけるように由太が振り返ると、何事もなかったかのように友達を話している亜紀子の背中がそこにあった。
由太はひとり取り残されたように、しばらくその背中を見つめていた。
バシャバシャと音を立てながら、由太はもう一度顔に湯をかける。
それでも、ぼんやりとした頭の中には、あの萌子の言葉が響く。
…やっぱり、気づいていたんだな。
気づかれてない自信はあった。というよりも、由太の中でも、その気持ちは本当に小さく、気づけば忘れてしまっている程度のものだと思っていた。
いや、そう思いたかった。
『ほんと、大バカだよ、由太チャン』
今さらになって、理香の言葉が由太の胸を突き刺した。
「お兄ちゃん？お風呂まだ？」
その時、ドアの向こうから、妹の好実の声が聞こえてきた。いつもはすぐに出てくるのに、中々由太が出てこないからしびれをきらしたようだ。
「今出る」
由太はそう答えると、湯船から出て冷たい水で顔を洗い直した。
練習の後、司は駅に向かっていた。
これからデートなのだが、約束の時間はすでに遅れていた。相手は映画を見たいと言っていたけれど、もう映画は始まっているだろうから、きっと食事でもするのだろう。が、そんなことは司にとってはどうでもいいことだ。
司の頭の中にあるのは、今日のデートのことではない。
だったら断ればいいのかもしれないが、デートの相手は年上の社会人で今日はお金を支払うこともないし、ただ言う通りについていけばいい、楽な相手で、むしろ断る方が、面倒なことだった。
ポケットに手を突っ込むと、ここ数日持ったままのハンカチに手が触れる。
小さくため息をつきながら顔をあげたところで、司は思わず声を上げた。
「あれ？瑛子ちゃん？」
改札の前で立っていた瑛子は顔をあげて、司に気づき、あっと声をあげた。
「…でも、どうして名前…」
「新田がそう呼んでたからさ。俺は、大槻。大槻司」
名前も言ってなかったのかと気づき慌てて司は自己紹介をする。それから思い出したように、司はポケットから手を出した。
「そうそう。あ、これ。返そうと思ってたんだ」
「ハンカチ…」
美都に頼んで洗ってもらったハンカチは、アイロンも綺麗にかけられていた。
司は軽く髪をかきあげなら話を続ける。
「この前、御園女子の校門前行ったんだけど、すっげぇお嬢様学校なんだな。立ってるだけで不審者扱いされたよ」
あははと笑う司に、笑顔を見せていた瑛子だったが、ふいに真剣な表情になって尋ねる。
「…あの、今日の練習は？」
「終わったけど？」
「…そう。ですか」
瑛子は明らかに肩を落として答える。それから、勇気を振り絞って、というように再び顔をあげて司に尋ねた。
「あの、早坂君は練習に？」
「来てたけど？」
成はいつものメンバーたちと、部室を出て行ったことを思い出しながら司は答える。それがどうかしたのか？という司の視線から、瑛子は逃げるように俯いて呟いた。
「…いえ、何でもないです」
唇をかみしめて、僅かに肩を震わせる瑛子に、もしかしてと司は聞き返した。
「待ち合わせしてたのか？」
瑛子はそれには答えずしばらく俯いていたが、ぱっと顔をあげると司に無理やりな笑顔を見せて答えた。
「嫌われちゃったみたい」
瑛子の頬には、すっと涙がこぼれおちた。