Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月2
「すみませんでしたっっ」
そう言って土下座した樹生を見て、朔哉は深いため息をついた。
「…もういい、新田。顔を上げてくれ。
それより、理由を話してほしい」
その隣では、萌子は大きく頷いている。
練習後、着替える前に樹生は朔哉たちに呼び出された。樹生の方も覚悟していたのか、嫌がる様子もなく、二人について体育倉庫に入った。
それはそうだろう、と萌子は思い出して深いため息をつく。
朔哉は萌子を気にして練習には身が入っていない状態で、一方、樹生は司が成に近づくたびに、引き離すのに苦労していたのだ。
樹生は顔を伏せたままに、張りつめた声で聞き返した。
「このこと、成さんには絶対に内緒にしてくれますか？」
思わず朔哉と萌子は顔を見合わせる。朔哉は深く頷いた。
「わかった」
「萌子さんも？」
「ええ」
二人の返事を聞いてから、樹生はゆっくりと顔を上げた。
その表情は、怒りというよりも苦悩に満ちていた。
「あいつは…門馬瑛子って言って、成さんの中学時代の彼女なんだ。
学校は違ってたけど、成さんのファンだとか言って、あいつから近づいてきた。
最初に話しかけられたのは俺で、可愛いし、まじめそうだし、家もお嬢様らしくて、同じ学校の奴らに聞いても悪い話聞かなかったから、俺が取り持ったんだけど」
「けど？」
樹生は、そこで声を震わせた。
「あいつ、二股かけてたんだ。成さんのことだって、県選抜に選ばれたりして有名になったから好きになったようなもんで。
裏では成さんのこと、悪口も言ってて。
で、結局それがばれて、成さんがふった。
成さん、いつもはっきり物事言わない人だけど、あの時ははっきり言ってた。
別れてくれ、もう二度と会いたくないって」
静まりかえった倉庫に、萌子の声が小さく響く。
「…そう、だったの」
だから、と樹生は続けた。
「だから成さんは、今も誰とも付き合ってないんだと思う。
サッカーが忙しいとか、ちょっと人見知りだとか、いろいろあるとは思うけど、まだきっと、ひっかかるところあるから、自分が好きになった人じゃないと付き合いたくないんだと思う。
それに、俺わかるんだ。
瑛子は、また成さんが有名になったから近づこうとしてるだけだって。
成さん、お人よしだから、あいつの嘘泣きにでもだまされて、前のこと許しかねないから。
でも、そうしたら、また成さんが傷つくだけだろ？
だから俺は、会わせたくないんだ。あいつと、成さんを」
最後には、自分への決意というように樹生は力強く呟く。
引きあわせたのは自分だと言っていたから、樹生自身もそれを引け目に思い続けているのかもしれない。
そう萌子は思った。
ふぅという深い吐息の音が聞こえて、朔哉が腰に手を当てて、樹生に聞き返した。
「だからってどうして、萌子が早坂の彼女じゃなきゃいけない」
朔哉の横顔は、それでも樹生を許していなかった。
樹生は項垂れて答えた。
「成さんに彼女がいて、今は幸せでいっぱいで、自分の付け入る隙もないって分かれば…そうしたら、瑛子は二度と来ないんじゃないかって思ったんだ」
すみません、と小声で謝るのが聞こえる。
朔哉はもう一度言う。
「…萌子である必要はないだろ」
すると樹生はふっと顔をあげて、萌子を見つめた。
「偶然通りかかったってのもあるけど、でも、瑛子が負けたって思わせるような相手で、成さんのことをよく知っててって思ったら、萌子さんしかいなかった」
その強い意志のある瞳に、萌子は戸惑って朔哉を見つめた。
どうやらこのまま終わりとはいかないらしい。
「ふぅ」
一際大きく朔哉が息を吐く。
それが合図のように樹生がパッと頭を下げる。
「お願いですっ。萌子さんを貸してくださいっ」
「へ？」
戸惑ってそう言ったのは、朔哉ではなく萌子だった。
樹生は早口に続けた。
「あいつに直接言ってもらいたいんだ。自分が成さんと付き合ってて、どれだけ幸せで、他の誰も付け入る隙なんてないって話してもらいたいんだ。
そうしたら、あいつはもうここには来ないから」
二人の反応がないことで、樹生は更に頭を下げる。
「今がどれだけ大事な時期か、俺もわかってるつもりです。今、ここで成さんまでスランプになったら、俺達は全国になんかいけない。
一度だけでいいんです。たった一時間だけでもっ」
「…朔哉さん」
困った表情で萌子が隣で腕組みをしている朔哉を見つめた。
萌子の出している答えに、朔哉は悩み、眉間に皺をよせると、土下座している樹生を見下ろす。
この前の試合が、朔哉の脳裏をかすめる。
畜生。
何でこの時期に。
「…一度だけだぞ」
朔哉は目を瞑ってそう答えると、パッと樹生が顔をあげた。隣の萌子が少しほっとした表情をする。
朔哉は自分の気持ちが変わる前にと、そのまま感情を押し殺した低い声で続けた。
「早坂だけじゃなく、誰にも見つからないようにしろ」
「はいっっ」
「一時間だけだ」
「はいっっ」
樹生が元気よく答えた。嫌味なほどの素直な笑顔を見るのが嫌で、朔哉は天井を見上げた。
心の中でぶつかる感情を抑えながら、朔哉は尋ねる。
「それから、新田。司はどうするんだ？」
運がいいのか、あの場にいたのは、あとは司だけだ。
立ち上がり喜んでいた樹生だが、その言葉にハッと冷静に戻った。
「何とかします。…けど、瑛子のことになると、つかっちゃん何故かむきになるんだよな」
「御園の子と知り合いになりたいってことかしら？」
萌子の言葉に、樹生は真剣な表情で答えた。
「だとしたら、別の探します。何とかして」
右京が転院した病院は、凪浜からは少し離れたところにあった。
県予選の最中ということもあり、部員たちは滅多に見舞いには来ていない。親代わりの叔母夫婦も、それなりに遠くに暮らしており、それぞれに仕事と育児があって来れる状況ではない。
おまけに個室が用意されていて、結果、右京の病室はいつも静かだった。入院当時は、看護婦が必要以上に見回りをしていたものの、無視するようにしていたら、話しかけることはなくなった。
そして手術を三日後に控えた日、珍しく見舞客がやってきた。
「お花、ここに飾っておくわね」
紗依はそう言うと、夕焼けに染まった窓辺に持ってきた花を飾る。
「花瓶も持ってきてよかった。思ったとおり、持ってなかったのね」
殺風景な部屋に置かれた花は、紗依のように右京の心を和ませていた。
紗依は窓から見える外の景色を眺めながら、話を続けた。
「サッカー部の方は、それなりに順調よ。この前の試合も二対〇で勝利。福山くんと大―」
「大槻さんが、点を入れた」
驚いた表情の紗依に、右京は何となく視線を伏せて答える。
「試合の後、萌子が来て、教えてくれた」
だから、安心して。
でも、絶対に戻ってきて。
萌子は力強くそう言っていた。
次にやってくるのは手術が終わった時だ。萌子が置いていったお守りは、引きだしの一番上に置いてある。
「そう。流石ね、沢木さん」
紗依はぽつりとそう呟く。そして、くるりと右京に向き直った。
「中々お見舞いにいけないって言ってたけど、それでも頑張ってやってきてる。
もっと凪浜に近ければよかったのに。そうしたら、皆お見舞いに来れたはずよ」
明るく言った紗依に、右京は静かに首を振る。
「静かでいい。それに、監督が手術するならここがいいって」
「…石橋先生が？」
一瞬の間があって、紗依がそう答える。
小さなため息とともに、視線が右京とは違う方向を見て揺らいだ。
「そう…」
その瞬間、右京は感じた。
突然、見舞いにやってきたその理由。
それは、右京だからじゃない。
右京に付随する、石橋の存在だ。
「手術、三日後なんですってね――」
「…帰れ」
静かにそう遮った右京の声に、はじめ紗依は気づかなかった。
「え」
右京は急に顔をあげ、紗依をきつく睨みつける。
「帰れよっ。さっさと帰れっっ」
怒鳴り声に気づいた看護婦が、ドアの隙間から中の様子を伺っているのが、紗依に見えた。
右京は怒鳴るだけ怒鳴ると、ベッドにもぐりこみ、紗依に背を向けてしまっていた。
「藤原君？」
呼びかけてはみるが、返事はない。
紗依は右京に聞こえないように小さくため息をつくと、鞄を手に持ち、椅子から立ち上がる。
「…ごめんなさい。手術、がんばってね」
静かに閉まるドアの音を聞いてから、右京は更に唇を強くかみしめた。
つい数分前に、紗依が入ってきた時とは全く違う表情だ。
嬉しかった。
ずっと会いたいと思っていたから。
なのに、石橋が来るのではないかと、窓の外を眺めたり、ドアの向こうを気にしたり、そういう紗依を見ていたいとは思わなかった。
帰れと言ったのは、それに耐えられなかったからだ。
だけど、そう言った瞬間、傷ついた紗依の表情を見たときは、帰らないでほしいと真剣に思った。
どっちが本当なんだろうか。
いや、どっちも、本当の気持ちだ。
畜生。
小さな声にならない叫びを、ベッドの中に押し込めながら、右京はずっと唇をかみしめていた。
次の日、昼休みにお弁当を持って保健室に向かった萌子は、紗依の話を聞いて、思わず食べ物をのどに詰まらせそうになった。
「え？右京、そんなこと言ったんですか？」
右京のお見舞いに行ってほしいと頼んだのは、萌子だった。
話が弾むとは思っていなかったが、まさか帰れと追い返すとも思っていなかった。
戸惑っている萌子を見て、紗依は慌てて言い直す。
「手術が近いから、気が立ってたんじゃないかと思うのよ。だけど、それに私が気づかなくて、ペラペラ話ばかりしていたせいだと思うわ」
いや、違う。
紗依が相手なら、そんなこと右京はしないはずだ。
萌子は戸惑いながらも紗依に謝った。
「ごめんなさい、ほんと」
「沢木さんが謝ることじゃないでしょう」
「でもお願いしたのは私で―」
すると、紗依は首を左右に振って、優しく微笑んで答える。
「嫌われちゃったみたいね、私」
「そんなこと―」
むしろ逆だと言いたい萌子だが、流石にその言葉は飲み込んだ。
それにしても、何があったんだろうかと萌子は紗依を見つめた。
見たところ紗依は、右京に言われた言葉を特に気にしている様子もない。
萌子が紗依にお見舞いに行ってもらえるか頼んだ時も、戸惑っているようだった。
右京が会いたがっているなどというわけにもいかず、萌子は病院の場所柄、部員はなかなかお見舞いに行けないし、右京の叔母夫婦も忙しくてあまり顔を出せないのだと言って、納得してもらったのだ。
結局、田波先生にとっては、右京はただの生徒ということなのかもしれない。
だけどもし、右京の気持ちを知ったならどうなるんだろう。
それとも、もう田波先生の心の中には、違う誰かがいる？
萌子は小さく息を吐くと、目の前で棚の整理をしている紗依に目を向けた。
「ねぇ先生。夏の合宿の時は、恋人と別れたばかりって言ってたけど。今はいるの？」
紗依はくすくすと笑いながら答える。
「どうしたの急に」
「ううん。…何だか先生、綺麗になったなあ。なんて思って」
それはお世辞ではない。
ふとした時の表情が柔らかくなったのは、凪高に慣れたせいもあるだろうが、それ以上のものを感じられる。
紗依は扉を閉めると、背中越しに萌子に答える。
「口がうまくなったわね、沢木さん」
「そんなんじゃないですよ。だからね、…恋人が、できたのかなって」
脳裏に、紗依の幸せそうだった笑顔が浮かぶ。
でもまさか、そんなわけはない。
第一、相手には妻子がいるのだ。
だけど、右京が石橋を無視するわけ。
感受性の強い右京が、二人から何かを感じ取ってしまったからじゃないだろうか。
尋問するような言い方に自分を責めながら、萌子はじっと紗依を見つめた。
だが、紗依は大きく首をふり、はっきりと答える。
「まだ十月よ。あれから三カ月も経ってないわ。そんなに次から次へと渡り歩けるほど、器用じゃないわよ」
嘘をついている様子はない。だが伏し目がちな視線が、萌子の中で少し気にかかる。
「それじゃ、好きな人は？」
萌子の質問に、一瞬紗依は顔をあげると、萌子を見つめた。だが、萌子と目が合うと、再び紗依は俯いて、何事もなかったかのように答える。
「いないわ」
「大槻先輩。これ」
差し出された白いハンカチを見て、司はポケットに入れていた手を出すと、それを受け取った。
「おう。サンキュ」
笑顔の司に、美都は心配そうに言う。
「一応、落ちたとは思うんですけど。でも、もとが白いハンカチだったので、全部落としきれたかは、ちょっと」
練習の後、洗濯をしている美都の所に、司はこっそりやってくると、血のついてしまった白いハンカチを渡し、洗ってもらえるかと尋ねた。
部活で使用するものではない限り、美都には断ることもできたが、頼むと言われて、それもできなかった。
軽くやってみたが、血はなかなか落ちず、結局美都は、家に持ち帰って洗濯をすることになってしまった。
きちんとアイロンがけもされたハンカチを眺めながら、満足そうに司は言う。
「上出来、上出来。助かった椎名。今度、何かおごってやるよ」
「大丈夫です。そんなに手間もかかってないし」
謙遜ではなくそう答えると、司がそんな美都の顔を覗き込むようにしてから、にやりと笑った。
「お、何だ？彼氏がうるさいってのか」
二、三度美都が頷くと、司はわざと驚いたような表情を見せる。
「そりゃまあ、おアツイことで」
ほんとサンキュと言い残し、廊下を歩いて行く司の背中を見て、思わず美都は呼び止めた。
「先輩」
怪訝そうな中にも、まだ僅かに笑みの残る表情で、司が振り返る。
その柔らかな雰囲気に、美都も笑顔で尋ねる。
「彼女のハンカチですか？」
すると、司は表情を崩し、満面の笑みを浮かべてから、答える。
「今はまだ違うけどな」
朝から続いていた雨は、午後になっても激しさを増すばかりで、午後の練習はそのまま休みとなった。
朔哉は担任から呼び出されたとかで、萌子は一人帰ることになった。
駅に近い裏門から出ようとしたところで、萌子は呼び止められた。
「沢木萌子さん」
慌ててふりかえると、赤い傘の下から、門馬瑛子が顔を出す。
「あ、ああ…。こんにちは」
突然のことで、萌子は戸惑いながらもぎこちない笑顔で返す。すると瑛子は、笑顔の中にぞくっとするほどの睨みをきかせながら、萌子に一歩近づいてきた。
「あなた嘘つきね」
いきなりの言葉に、萌子は思わず聞き返す。
「え？」
「早坂くんとは付き合ってないんでしょう？」
自信に満ちた笑顔を浮かべる瑛子に、萌子は一瞬驚いたものの、樹生との約束を思い出し、口元を引き締めて笑顔で答えた。
「何言ってるの、私は成と―」
「福山朔哉と二股かけてるっていうんなら、信じてあげてもいいわ」
少し声を張り上げて瑛子はそう言った。横を歩いている生徒たちが、何人か怪訝そうに萌子を見ている。
正門とは違い、裏門は沢山の生徒が通り過ぎるのだ。
はめられた、と萌子が思っていると、瑛子は更に笑いながら、萌子に近づいてくる。
「でもね、早坂君て、そういう女は嫌いなはずよ」
この人、全部わかってるんだ。
わかってて、こういう言い方をする。
それまでの清純な印象が、萌子の中で崩れていくのがわかった。
怖い。
萌子は唇をかみしめた。
その様子に、瑛子はふふっと笑い声を上げた。
「そんなに睨まないでよ。きっと樹生君に頼まれただけでしょう？我侭な後輩を持つと大変ね」
どうしたらいいんだろう。
萌子は傘を持つ手を握りしめて考えていた。
このままここで、成の彼女のふりをしていても、サッカー部の誰かが通れば、そんなことはすぐにばれる。
でも、だからと言って、全部白状してもいいものか。
その時、萌子の後ろから、聞き覚えのある声が響いた。
「あれ萌子？どうし…」
萌子が振り返ると、そこには成が一人で立っていた。言葉を続けようとしていた成だが、すぐに萌子の後ろに立つ瑛子に気づく。
「門馬…」
成はただ黙って、瑛子の方を見ていた。萌子が慌てて瑛子に視線を移すと、先ほどの表情とは打って変わって、少し涙すら浮かべた瑛子が、ただじっと成を一途に見つめている。
「早坂君…」
瑛子は、涙を隠すように無理やり笑顔を作ってみせると、
「久しぶり…。元気、だった？」
と成に話しかけた。
「ああ…どうして、ここに」
「相談したいことがあって。…どうしても、早坂君しか思いつかなくて…」
そこまでいうと、瑛子は顔を俯かせる。
さっき、萌子をじりじりと追い詰めながらそれを愉しんでいたような表情は一切見せていない。
清純そうなお嬢様、そのものだ…。
唖然としている萌子の前で、成は瑛子に答えた。
「…わかった。今日は練習がないから。どこか寄ろうか。
萌子、…じゃあ」
そういって、赤い傘と並んで去っていく成を、萌子には引き留めるすべがなかった。