Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月12
ランニングから帰ってきた成は、すぐにでもシャワーを浴びたいと思ったが、生憎浴室は誰かが使っていて、入ることはできなかった。流れ出る汗を拭うと、成は顔だけでも洗うことにした。無意識で鏡を見つめると、強張った表情の自分が映る。
司が試合に出れなくなったことは、表面的には平然を装っていても確かに部員達に影響を与えていた。だが、樹生のように、だからこそ頑張らないとと気持ちを震え立たせたのも事実だ。それでも、成の気持ちは試合に向き直ることができなかった。
…俺のせいだ。
自分が瑛子と関係がなければ、凪高がこの事件に巻き込まれることにはならなかった。
自分が瑛子をあしらっていれば、司は瑛子と出会わなかった。
俺の、せいだ。
全部、俺の。
ごくりと唾を飲み込むと、成は勢いよく顔に水をかけた。それでも気持ちが覚めることはない。ランニングも頭をからっぽにしたくて出て言ったというのに、逆にあの時のことを思い出すばかりだった。
謝っても、謝りきれない。
どうしたらいいんだ、俺は。
鏡に映る自分が憎らしく、思わず殴りつけようとしたところで、浴室のドアが開いた。
「おつかれ」
中からは朔哉が出てきた。成もお疲れ様ですと答えると、お前も入れよ、とごく普通に答えが返ってきた。
鏡に、朔哉の鍛え上げられた背中が映る。
校長から司の退部を伝えられた時の、朔哉の顔を成は思い出した。その後、石橋に司のことは事故だと伝えてくれと言った時の表情も。
迷惑をかけたのは、福山さんにもだ。
「…すみませんでした」
唇を噛みしめながら成がそう呟くと、体を拭いていた朔哉の手が止まった。
「…？早坂？」
次の瞬間、成は深く頭を下げ、叫ぶように言っていた。
「すみませんでしたっ。俺のせいで、あんなことに…。俺が門馬のこと、きちんと断らなかったからあんな―」
「お前のせいじゃない、早坂」
朔哉の冷静な声が、洗面所に響く。優しさからでるその言葉に成は両手を握りしめて床を見つめた。おそらく萌子に聞いても、一馬に事情を話しても、そう言われただろう。
だが、そうじゃない。
俺のせいだ。
俺のせいなんだ。
いっそのこと、責められた方が気が楽になるのに。
成は朔哉を拒絶するようにぎゅっと目を瞑った。だが、朔哉はこう続けた。
「お前だけのせいじゃない。俺にだって、責任はある」
「だけど―」
思わず顔をあげると、朔哉は成が思っていた以上に、すべての感情を押し殺した表情で答えた。
「竹田が言っていただろう。あいつの弟を警察に突き出したのは、俺だ。竹田は門馬瑛子に誘われただけだ。俺のことがなければ、断っていて、あんなことにならなかったかもしれない」
「でもそれは相手が悪いんであって」
「お前だって悪くない。悪いのは、門馬瑛子とその黒幕だ」
黒幕…。
その名前を、成は朔哉から聞いた。
瑛子の恋人であるという南田。
だが、その男を成は知らない。知らない相手が、それでも確かに自分たちを憎んでいる。恨んでいる。その恐怖からも、成は自分を責め続けていたのだ。
項垂れる成に、朔哉は淡々と話しかける。
「こう考えろ、早坂。
仕方なかったんだ。
どうしようもなかった。
ただ、俺たちは罪を背負った。
この罪を償うためにも、俺たちは選手権で優勝しなければならない。絶対に」
「福山さん…」
成の言葉に、朔哉は視線を成に向けた。
「今日、練習にも集中してなかっただろう。あれじゃダメだ。レギュラーのお前がそれじゃ選手権にすら出れない」
だからしっかりしろ、と朔哉に見据えられて、成は思わず頷いた。それを見て安心したのか、再び朔哉は体を拭き始めた。その様子に、思わず成はぽつりと呟いた。
「…すごい、な」
「え？」
驚いた朔哉が、手を止めて成を見つめ直す。
成はにっこりと笑って答えた。
「福山さんは、やっぱりすごいです。
俺なら無理です。…きっとそんな風に考えられなくて、ずっと自分を責め続けて…、もしかしたらサッカーを辞めることも考えていたかもしれない。大槻さんだけ退部で、俺は居続けられるなんて、耐えられないだろうし。あの時だって、竹田たちにやられそうになった時も、萌子だけじゃなく、俺のことも庇って、自分だけ犠牲になればいいとか。俺、いっぱいいっぱいでそんなこと考えもしなかった。その、なんて言うか、完敗、です」
そう言った後で、成は笑いかけながら朔哉を見直った。すると朔哉は、驚いたというようにぽかんとした表情を浮かべていた。
完敗…ってそもそもライバルにもなりきれてないのに、俺ってば…。
成は、顔を真っ赤にして再び深く頭を下げた。
「って俺、変なこと言ってますね。すみません」
「いや…」
朔哉はそう答えたが、その表情はどこか不安定だった。成は大慌てで答える。
「明日から練習、ちゃんと集中して頑張ります。今日は、すみませんでした」
そう一礼して、洗面所を後にする。ドアに背を向けながら、驚いた朔哉の表情を思い出した。
俺ってどうして、こうボキャブラリーないんだろう。
小さくため息を吐くと、一緒に抱え込んでいた気持ちも出て言ったような気がして少し楽になった。
『俺たちは、選手権で優勝しなければならない、絶対に』
朔哉の言葉を胸に、成は心の中で気合いを入れると、そのまま部屋へと上がっていった。
昼休みに入り、萌子の前の席には理香が座っていた。
机に広げられたのは、決勝トーナメントの表だ。
「今度の相手は、清海大付属か。点取り屋の武原さんも不調だし、うちの勝ちで決まりだね」
かつては朔哉のライバルでもあった清海大付属のストライカー武原だが、決勝トーナメントに入ってからはまだ点が取れていない。武原の不調は、そのまま清海大付属の不調を現していた。シャーペンを指先で軽く揺らしながら萌子が、どこかぼんやりとして答える。
「そう…だといいけど」
だが理香はそんな萌子に気づくことなく、しゃべり続けた。
「かつての四強も、完全に崩れたね。今回は準決勝に上がってこれたのって、うちと清海大だけでしょ。チェックすべきは、川城。今年に入ってから、調子いいもんね。しかも、今川君と塚本君とかかっこいい選手いっぱいいるし！それに比べて、諏訪学園なんて、決勝トーナメントにも出れなかったんだから」
萌子たちが入学した去年、神奈川県のサッカーは四強で全国大会出場を決めていた。凪浜、清海大付属、箕輪高校、そして、諏訪学園だ。しかし今年に入ったあたりからその四強も崩れ始め、ついにインターハイには凪高と相模西高校が出場したのだ。
萌子はふと、授業で習った『諸行無常』という言葉を思い返した。
「諏訪学園もさ、去年まではよかったのにね。結構かっこいい選手いたのに」
言われて思い返してみたものの、諏訪学園の白いユニホームを思い出すばかりで、選手の顔を萌子は思い出せない。その様子を見て理香が呆れたように声をあげる。
「萌子ってば、全然覚えてないの？全く、選手のデータは覚えてても、顔とか名前とかには疎いんだから。ほらいたじゃん、かっこいい選手。南田由紀夫って。背が高くて、ちょっと痩せ型のモデルみたいでさ、ちょっとワイルドな感じの」
「…ミナミ、ダ？」
思いがけず出てきた名前に、萌子は思わず理香をじっと見つめる。理香は大きく頷いて平然と答えた。
「覚えてないの？9番付けてさ、女の子たちにキャーキャー騒がれてたよ」
そう言われると、おぼろげながらに背の高い９番をつけた後姿が頭に過った。萌子は手をとめ、時計を見つめながら口を開いた。
「…理香、五時間目、自習になったんだよね？」
「うん。先生が風邪ひいたとかで、プリント配られるみたいだけど…萌子？」
突然立ち上がり、歩き始めた萌子に、理香がそう尋ねる。萌子は教室のドアの手前で立ち止まると、振り返って理香に言った。
「ごめんっ、そのプリント頼んだからっ」
「萌子っ？」
萌子はそれだけ言い残すと、教室を出ていった。
呼び出しを受けていた朔哉は、昼休みに入ると昇降口の片隅に立っていた。
「よ、朔哉」
声がして振り返ると、呼びだした本人が立っている。人目を避けるようにして下駄箱の陰に立ちながら、男は朔哉の隣に同じように壁にもたれかかった。
「調べといたぜ。例の女のこと」
別に教室で堂々と話をしてもいいのだけれど、誰かに聞かれてはまずいからと、このような形になった。男は、情報通で知られていて、朔哉はその男に門馬瑛子と、その恋人である南田について調べてもらったのだ。
「表向きはおとなしい女の子みたいだけど、裏じゃ結構遊んでるな。でも、本命の彼氏とは、二年はつきあってるみたいだ」
二年と聞き、朔哉は素早く計算する。
早坂と付き合っていた時とも被る。
つまり、南田が本当に本命の彼氏だってことだ。
「なるほどね」
思わずそう呟くと、男はにやりと笑って話を続けた。
「南田由紀夫。諏訪学園のサッカー部三年だ」
「諏訪学園…」
そう言われて、朔哉は試合で対戦したことのある諏訪学園を思い出した。
南田。
あの、派手なわりにプレーはしつこいフォワードか。
かつて四強の一角であった諏訪学園は、去年あたりから次第に試合に負けるようになり、今年の選手権の予選も、決勝トーナメントにすら出れなかったのだ。一方で、凪浜はいまや選手権優勝高の最有力候補といわれ、一歩も二歩も、県下のチームから秀でた状況にある。三年とすれば、この選手権が最後のチャンスだったはずだ。
「そうか、ありがとう。礼は―」
「いいよ。出世払いで」
ポケットから用意していたものを出そうとした朔哉だったが、笑顔でそう言われ、手を引っ込めた。
「サンキュ、恩に切る」
「大変そうだけど、がんばれよ。選手権。俺も陰ながら応援してるからさ」
男はそういうと、ひと足先に廊下を歩いて行った。朔哉はその後ろ姿をしばし見つめていたが、気づいたように慌てて階段を駆け上っていった。そして目的の教室を見つけると、勢いよくドアを開けた。
「朔哉さん、もう授業始まりますよ？私たちは、次自習だけど」
驚いた表情の理香が、朔哉に気づいてそう話しかけてきた。その隣にはきょとんとした表情の美都もいる。
「萌子は？」
だが肝心の萌子がいない。鋭い朔哉からの質問に、理香は戸惑いながら答えた。
「えーっと。…ちょっと用事があるみたいで、出ていきました」
「どこに？」
「どこにって…わかんないけど、急いで出てっちゃって」
困った表情を見ていると、理香も嘘をついていないのがわかる。朔哉は胸騒ぎがして、理香に尋ねた。
「その前にどんな話してたんだ？」
「どんなって…次の試合のことです。あとは、四強時代も終わっちゃったねって」
四強という言葉が気になり、朔哉は直接口にした。
「諏訪学園の南田由紀夫のことは？」
すると理香の表情がぱっと明るくなる。
「あ、やっぱり朔哉先輩も覚えてますよね、あのイケメン選手。なのに萌子ってば。…あ、そうか、そうですよね、だって朔哉先輩がいるのにそんな―」
朔哉の苦い顔をみて、萌子が他の男子に気を取られていたと思われてはいけないと慌ててフォローする理香の言葉を聞かずに、朔哉は深いため息をついた。
「…どうして萌子は…」
その言葉に、理香はやはり朔哉が勘違いしてしまったのだと思った。
「いやっ、あの違いますって、…朔哉さん？」
しかし、必死のフォローも虚しく、朔哉は急いで教室を出て行った。
「ごめん、萌子…」
朔哉の姿が教室から消えたのを見て、理香はがっくりと肩を落としてそう呟いた。
昼休み、成は湊や樹生たち数人のサッカー部員たちと、グランドでボールを蹴って遊んでいた。成がシュートしたボールが見事ゴール代わりの壁にあたる。ハイタッチをしながら喜んでいると、樹生がしみじみと言った。
「よかったなぁ」
「え？」
「成さん、昨日元気なかったから。でも、今日は元気そうだ」
にこにこと無邪気に笑う樹生を前にして、成は少し言葉を濁らせた。
「昨日は…ちょっと体調が悪くて、さ」
「また腹ですか？相変わらず胃腸弱いんですね。ダメっすよ。もっと図太くならなきゃ！誰かさんみたいに」
樹生はそう言うと、一緒にボールを蹴っていた知朗に視線を投げる。楽しそうにしていた知朗だが、ふと樹生の視線に気づいて、思い切り睨み返してきた。それに負けじと、樹生も鬼の形相を作って知朗を睨む。その雰囲気に思わず成はくすりと笑った。
「ほんといいコンビだな。二人とも」
司の代わりに樹生がスタメンに選ばれたのだから、これからの凪高のツートップはこの二人になるのだ。
成の言葉を聞いていたのかいないのか、ふたりは腕組みをしてお互いふんっと大きく鼻息を吐くと、そっぽを向いた。
…こんなんじゃ、先が思いやられるのかも。
成は小さくため息をつくと、休憩とばかりにグランドの隅に座った。すると、ブリックを手にした樹生も同じように成の隣に腰を下ろし、別の手に持っていたブリックを成に渡した。
グランドでは、ゲームが再開したようだ。昼休みだというのに、サッカー部員が本気でサッカーをしているのだ。
どれだけサッカーが好きな連中なんだか。
その様子を見つめながら樹生が口を開いた。
「でもほんと、成さんのいる凪高に来て最高っすよ。俺、別のとこも誘われてたんだけど、やっぱり成さんについてきて正解だったなあ」
「ははは。俺も、監督に出会わなかったら、あのまま諏訪学園に行ってたし。よかったよ、凪高に来て」
その頃は、凪浜はまだまだ新参者で、諏訪学園の方が伝統もあり全国経験も豊富だった。初め成は諏訪学園に行こうと思っていたのだが、ある時石橋に声を掛けられ、凪高の試合を見てから気持ちが変わったのだ。
そういやあの頃、デート中に階段から突き落とされそうになったんだった。
成はふいに朔哉にこの話をしたことを思い出した。
考えても、仮に彼女が本当に俺を押したんだとしても、彼女が俺以外にも恋人がいたのも事実だし、俺を裏切っていたのは本当だから、とあの時はそれ以上考えようとは思わなかったのだ。
『じゃ、他にもう一人いたのかも知れないな。男』
朔哉の言葉を思い出す。
確かに彼女ならそのくらいしていても、俺も、佐山って男も気づいていなかっただろう。
馬鹿だなと思う反面、笑えるようになった自分に、成は気づいた。
そう、あれはもう、終わったことなのだ。
樹生はくすりと笑った成に気づくことなく、話を続ける。
「諏訪学園なんて最悪っすよ。今年は決勝トーナメントにすら出れなかったし、中の雰囲気もよくないらしいっすよ。ほら脇田っていたでしょう？俺の同級生で。あいつ自力で諏訪に入ったらしいんだけど、三年の先輩が超偉ぶってるとかで、全然ボール蹴れないって嘆いてましたもん。
ナンダバカ野郎って」
「何だバカ野郎？」
思わずそう聞き返すと、樹生はくだらないという雰囲気で答えた。
「その意地悪い先輩と、ギャグをかけてそう言って陰で言ってるらしいっす。南田っていうらしんだけど、音読みしたらナンダ、じゃないすか。それで」
「南田…あ」
その名前に思わず成は立ち上がる。
瑛子の本命だという恋人の名前。
諏訪学園に推薦が決まりそうだった成に怪我をさせようとした瑛子。
そして諏訪学園サッカー部三年の南田。
決勝トーナメントに出ることなく敗退したかつての名門校。
すべては繋がった。
「成さん？」
樹生がそう呼びとめたが、成は走り始めた足を止めることなく振り返りながら答えた。
「悪いっ。あと頼んだっ」