Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
神無月11
校長は順番に三人を見つめた後、笑顔のままに言った。
「実は君たち三人に聞きたいことがあってね」
ごくり、と思わず成はつばを飲み込む。校長の隣で石橋の鋭い視線が突き刺すように自分に送られていることを感じながらも、成はまっすぐに校長に顔を向けた。
「一昨日の土曜日。市内にある深田通運の倉庫で、乱闘騒ぎがあった。その場に君たち三人がいたと言う生徒がいてね。本当かね」
「はい、いました」
誰よりも早く、朔哉が答える。校長は、朔哉に視線を向けて尋ねた。
「その場には、他にも深田商業の生徒や、うちの生徒もいたようだが、君たちはどうして？」
緊張で手を握りしめる萌子の横で、朔哉は校長から視線を逸らさず、瞬きさえせずに答えた。一瞬でも逸らせば、答えに詰まれば、校長よりもむしろ黙って様子をうかがっている石橋が、そこを追及してくるとはずだ。朔哉はそう感じた。
「呼び出されました」
「誰に？」
「わかりません。部室に手紙が来てました。僕と、早坂に。名前は書かれてなかったので、相手はわかりません。沢木は、僕についてくる形で」
「その手紙は？」
「捨てました。場所と時間はすぐに覚えたので」
「ふむ」
よどみのない答えに、腕組みをして校長がそう呟く。それから、大きく息を吐いて、身を乗り出すようにしてから校長は朔哉を見つめて尋ねた。
「ではもうひとつ聞くが、大槻くんにこの話はしていたのかね」
石橋はただじっと、朔哉を見つめている。だが朔哉は怖くはなかった。ただ、昨日石橋に話したことと、同じ話をすればいい。
「いいえ。してません。だから…驚きました。大槻がいたことは」
石橋が何かを言おうと口を開きかけたが、校長の方が早く口を開く。
「大槻くんの怪我は、いったいどういうことなんだ？」
「あれは単なる事故です。僕たちが行くと、すでに乱闘は始まっていました。大槻は、端の方で動けないようロープで縛られてました。乱闘の中で、誰かが立て掛けていた鉄の棒にあたって。それが、大槻の上に落ちてきたみたいでした」
「大槻くんに殴られたと言っている生徒もいる。実際大槻君にも、右手に人をなぐったような擦り傷のようなものがあった」
「それは…」
そこで初めて朔哉は言い淀んだ。
数日前に、無邪気に手を振っていた司を思い出す。
もう少し早く、気づいていたら。
司からもっと、いろいろ話を聞いていたら。
そうすればきっと。
こんなことにはならなかったのかも知れない。
俺が、
キャプテンである俺が、
もっと気を配るべきだった。
もっと注意してやるべきだった。
俯いたところで、それはと声に出そうとしたが、渇いた喉からは掠れた音しか出てこなかった。朔哉は込み上げてくる思いを押し込むように唾を飲み込むと、答えた。
「それは、倒れた時にできた傷だと思います。あいつは…大槻は、そういうことをする人間ではありません」
震えた声に校長がどう思うのか、そう考えるほどの余裕は、最早朔哉にはなかった。大事な友であり、チームメイトである司に、傷を負わせてしまったのは、自分にある。
竹田も言っていた。
『残念ながら、遅すぎだ』
俺がもっと気を付けていればよかった。
俺のせいだ。
その思いだけが、朔哉の中にあった。
俯いたまま黙り込む朔哉を見つめてから、校長は再びにこりと笑った。
「確かに。うちの生徒の中には、乱闘騒ぎを起こすような生徒はいないはずだ」
「校長、しかし―」
ほっとした萌子の前で、逆に声を上げたのは石橋だった。校長は納得していない表情の石橋に向って、ため息をつくように答える。
「もういいじゃないか。それとも何かね。君は、福山君が嘘をつくような生徒だと思っているのかね」
「…そういうことではありませんが、しかし―」
それでも納得をしようとしない石橋の話を止めるように、校長は大きく咳払いをすると声高に話を続けた。
「幸い、先方もあまり騒ぎを大きくしたくないそうだし、中心になった他校生は今までにも傷害事件を起こしてるそうだ。この話はもう終わりにしよう。サッカー部にとっても、こんなところで足元をすくわれるわけにはいかない。ああ、これは受理しておくよ、石橋君」
校長はそう言って、机の中から白い封筒を取り出すと、石橋に向ってちらりと見せた。
「なんですか？それ」
思わず朔哉が口を挟む。校長は、ゆっくりとその封筒を朔哉に見せる。表には、退部届と書かれていた。
「大槻君から預かったものだ」
そしてそのまま胸ポケットにしまおうとする校長に、思わず朔哉は怒鳴った。
「そんなことしなくても、あいつは乱闘には加わってないのに、どうしてっ」
校長の前に立ちふさがり、今にも退部届を奪おうとする朔哉を、素早く石橋が止める。それでも手を伸ばしてくる朔哉を、校長は不満そうな表情で睨みながら答えた。
「わかっているだろう。今、君たちサッカー部にとっては重要な時期なんだよ。変なスキャンダルでも起こされたら大変なことになる。学校のイメージも当然悪くなる」
「だからって司を退部させるんですか？」
朔哉の声が校長室に響く。校長は面倒くさそうに朔哉を一瞥すると、小さくため息をついて答えた。
「落ち着きたまえ、福山君。いいかね、これは大槻君から出されたものだ。学校が強要したわけではない。それに、どのみち彼は選手権には出られないよ」
「え？」
その話に、いつにない朔哉の様子に呆気にとられていた萌子と成も思わず声を上げた。その中で校長は淡々と話を続けた。
「詳しいことは知らんが、足首を複雑骨折してるらしい。手術してその傷が完治しても、選手権に出られる状況ではないだろう」
校長室を飛び出した朔哉を、石橋は追いかけた。
「待て、朔哉」
その声に、朔哉は足を止めると振り返って石橋に一礼する。
「司のとこ、行ってきます。すみません、今日の練習は―」
休ませてくださいという前に、石橋の声が、床を睨みつけている朔哉の耳に届く。
「大槻はお前に会わないぞ、朔哉。昨日だって、会えなかっただろう」
その言葉に、朔哉は唇をかみしめる。
昨日司の母親が言っていたことは、すべて嘘だったのだ。
司が寝ていたことも、司の怪我が軽いということも。
いつも明るいおばさんが、口が重かったのはそういうことだったのに、
それを司の突然の怪我のせいだと俺は思いこんでしまったんだ。
どうして。
どうしてだ、司。
下を向いたままの朔哉の視界の隅に、石橋の足が見えた。
「練習に出ろ。それが大槻の意志だ」
ふいに思い出す。
『お前は、凪高サッカー部のキャプテンだ』
あの時からきっと、司は決めていたんだ。
サッカー部を辞めることを。
自分が責任を取ることを。
「朔哉」
石橋が優しく呼びかける。
「何があった。話せ」
監督になら話せるかもしれない。
監督なら、きっと学校の面子の為に、司を退部させたりしない。
監督だって、司のことを可愛がってきたんだ。
それに、今のサッカー部になくてはならない存在だということを、痛いほど分かっている。
朔哉はゆっくりと顔を上げた。
石橋が、じっと自分を見つめている。その表情には、全てを引き受ける決意さえ見えた。朔哉は口を開こうとしたところで、ふいに自分の中に疑問を見つけた。
…でも、あの時全てを被る決意を司がしていたんだとしたら。
どうして本当の話を、監督にしなかったんだ。
どうして、俺たちと口裏をあわせた？
どうして、嘘をついた？
司？
あの日の出来事を回想していく中で、ふい良次が叫んでいた言葉が朔哉の頭をよぎった。
『国立に行くんだろ？
優勝するんだろ？
お前らの夢は、お前らだけの夢じゃないんだ。
どんな事をしても、何があっても、
叶えなきゃならない夢なんだ』
それが、司の答えなのだと、瞬間的に朔哉は感じた。
俺たちを、選手権に出すために、
俺たちの、
あいつの、
みんなの夢を叶える為に、
だから、司は。
…俺たちを、守った。
今すべてを語るということは、司のその気持ちを踏みにじることになる。
『俺たちは、応援してくれている人たちの為にも、選手権に出場しなければならない』
自分で言った言葉が、痛いほど自分に跳ね返ってくる。自分を信じろとゆっくりと頷く石橋に、朔哉は視線を遠くに馳せながら、口元だけ引き締めて答えた。
「…あったことは、さっき校長室で話した通りです。司だって、そう答えたんじゃないですか？監督」
石橋の表情が途端に曇った。怒りではなく、憐れんだような表情に、くるりと朔哉は背を向ける。
「朔哉―」
「…練習に、戻ります」
歩きだそうとした朔哉の肩を、それでも石橋が捕まえる。
「朔哉、待て―」
しかし朔哉は、石橋を振り返ることもせず、淡々と答えた。
「監督。部員たちを混乱させたくないから、司の怪我は、交通事故ということにしてください」
夕陽の差し込む廊下を、一人歩き始めた朔哉の背中を、大きなため息と共に石橋は見送った。
練習後、部員達は部室に集められた。ざわつく部員たちを前に、石橋は司が練習に顔を出していない理由を、交通事故だと告げた。レギュラー選手である司は、重要な点取り屋だった。当然週末の試合について、質問が上がる。週末の試合も、勝てば来週に行われるであろう決勝の試合にも、怪我で出られないだろうと石橋は話した。ざわめきが一層大きくなる。それもそのはずだろう。すでにゲームを組み立てる右京がいないチームなのだ。層が厚いとはいえ、これ以上要の選手が抜ければ、チームとしても厳しい。ましてや、相手のレベルは、どんどん上がっていくのだ。
ざわついた中で、不安そうな声が聞こえてきた。
「こんなんで勝てるのかよ」
「まだ県予選なんだぜ」
「大丈夫だよ。なんたって、全国大会二回も制覇したチームなんだぜ。レギュラーの選手が二人くらいいなくったって、勝てるって」
「そうだよな、こっちにはなんてったって、あの福山さんがいるしな」
そう囁く声、期待に満ちた視線を感じながらも、朔哉は答えることなくじっと少し先で立っている俊平を見つめていた。しかし、前を見ているように思えるその視線の先に、監督がいないことを朔哉は知っている。
土曜日、倉庫から逃げだしてきた朔哉は、萌子を送り届けると、途中で石橋に嘘の報告をしてから、一人で寮に戻ってきた。すると、ちょうど俊平が寮の前に立っていた。
他の誰にも話さない。
萌子に自らが語った言葉を思い出し、朔哉は無理やり笑顔を作った。
「俊平。珍しいな寮に―」
来るなんて、と言おうとしたが、その前に俊平が朔哉を睨みつけた。
「司はどうした？」
「え？」
無理やり作った笑顔は、いとも簡単に壊れる。それでも俊平は、朔哉の胸倉を掴むと激しく揺さぶって叫んだ。
「司はっ、あいつはどうしたんだよっ。良次はどうした？二人とも大丈夫なのかよっ」
良次の名前が出たところで、朔哉ははっと気づいた。
「俊平、お前…」
「あいつとアルジャーノンにいたら、環から電話かかってきたんだ。司がやばいことになってるって。途中で無理やり良次が電話奪って、さっさと出て行っちまうから、こっちはどうしていいのかわからなかったんだぞ。おい朔哉、何があったんだ？」
思えば不思議だった。
あのタイミングで、どうして良次が現れたのか。
そうか、環が電話したんだ。
激しく揺さぶられながら、どこか冷静に朔哉はそう思っていた。
と、突然ドアが開き、湊が顔を出す。
「福山さんお帰りなさい。細谷さん…どうかしましたか？」
二人の只ならぬ様子に、湊は少し戸惑っているようだった。
「何でもない。気にするな、和泉」
朔哉がそう言うと、湊はわかりましたと顔を引っ込めた。不満げな顔をして、俊平が朔哉を睨みつける。
「おい…さく―」
朔哉は俊平の肩を掴むと、有無を言わさぬ力で、そのまま二階に上げた。そして、自分の部屋に誰もいないのを確認すると、そこに俊平を押し込む様にして入れる。そして電気をつけることなく、オーディオの電源を入れ、ボリュームをめいいっぱいあげる。
「朔哉っ、何だよっ。俺が聞きたいのはっ」
暗がりの中で流れだした激しいヘヴィメタルの音楽は、同室の小田原の趣味だ。いつもだったらうるさくてたまらないこの音楽が、今の朔哉にはありがたい。
俊平にだけ、朔哉の声が聞こえる。
それに、聞こえるために張り上げる声が、石橋に嘘をつき、溜めこんでしまったものを吐き出させてくれる。
涙で震える声をかき消してくれる。
話すのを止めてしまいたくなる衝動を、打ち消してくれる。
そうして朔哉はすべてを話し終わったが、俊平はすぐに立ち上がる様子はなかった。
俊平が何を思っているのか、朔哉にはわからなかった。
お互いの顔は暗がりで見えなかったし、俊平は何も言わないままだった。
ただ、ベッドに腰掛けながら、膝の間で強く両手を握りしめていた。
「大槻の代わりは、新田、お前だ。準決勝だからって、気を抜くなよ」
「はっ、はいっっ！」
珍しく緊張した樹生の声が部室に響き、朔哉ははっとする。俊平は、いつもと変わらぬ無表情のままに、周囲に合わせてかったるそうに拍手をしていた。
解散となった部室で、興奮している樹生の周りに一年たちが集まっていた。思わぬ形ではあるが、一年生でのスタメンは、樹生が初めてなのだと、その時ようやく朔哉は気づいた。
その姿に、朔哉はかつての自分たちを思い浮かべる。
そういえば、俺がスタメンになった時、司はいつもみたいに、「お前ばかりもてやがって」って結構本気で小突いてたよな。
だがその中で、青山望だけが心配そうな表情を浮かべていた。
「…だけど、大槻さん。大丈夫かな。病院近いなら、お見舞い行こうかな、僕」
他の一年たちも、同調しそうな雰囲気だった。
思わず朔哉は名前を呼んだ。
「青山」
「は、はいっ」
望がびっくりしたように朔哉の方を振り返る。その強張った表情に、どれだけ自分の表情が険しいのかに気づき、朔哉は自嘲気味に笑って見せた。
「司の見舞いはしばらく後の方がいい。こんな時期に怪我して、あいつも気が立ってるはずだ」
見舞いに行って会えなかった朔哉の言葉を、望は素直に受け入れた。
「そ、そうですね。じゃ、全国に行くのが決まったら、皆で行きましょう。樹生も、大槻さんの為にも頑張ろうな！」
その日の萌子の足取りは重かった。隣に歩く朔哉は、部活が終わってから帰ろうとは言ったものの、それから口は開いていない。考えていることはわかっているのに、萌子もどうしたらいいのか、わからなかった。黙り込んだまま、校門を出ようとしたところで、見覚えのある姿があることに、先に朔哉が気づいた。
「三上…」
ようと軽く手をあげて、三上良次は二人に向って薄笑いを浮かべた。
「冴えない顔してるな。二人して」
言われて二人は思わず顔を見合わせると、慌てて顔をそらした。その様子を見ながら、良次は再びくすりと笑った。
「連絡が遅くなってすまん。いろいろあって」
その言葉に、朔哉は慌てて謝った。
「すまない、一週間停学になったって聞いた」
「いつものことだ。そのくらい、どうってことない」
にこりと笑う良次の言葉に、厭味はない。
「感謝してる。竹田に口裏あわせさせたのも、お前だろ」
「脅すのは自由さ。あとはあいつらがどう答えるかだ。もともと竹田と俺の喧嘩だ。司は巻き込まれだけ。そうだろ？」
そうだな、と答えると朔哉はそれ以上何も言えなくなった。代わりに萌子が口を開く。
「怪我は？」
「俺か？言っただろう。負けたことないって」
とはいえ、目の上には絆創膏が貼られている。萌子も、黙り込むしかなかった。
「しかし、あれだけ言われた割に、竹田もあの女をかばったってわけだ。司といい、趣味悪いよな」
ケラケラと笑う良次は、二人の表情の暗さに笑うのをやめた。
「どうしたんだよ、二人して。さっきから暗いぜ」
司の怪我のことを聞こうかと思った朔哉だったが、笑う良次を見て、彼が何も知らないのだろうと感じた。
司の怪我も、退部届を出したことも。
だとしたら、話せば三上を苦しめるだけだ。
「そういや南田って男知ってるか？」
「ミナミダ？」
突然出てきた名前には、朔哉も萌子も覚えがなかった。
あぁと答えると良次は話を続けた。
「高校まではわからなかったんだけどな、その男が、あの門馬って女の本当の彼氏らしいぜ。まあ、竹田みたいに他にも何人か男いるかもしれねぇけどな。
それから、写真は俺がちゃんと処理しておいた。南田のことも、探しだして俺がしめといてやるから安心しろ」
「でも…」
そんなことまでしてこれ以上迷惑はかけられない、と萌子が顔をあげると、先ほどの笑顔とは変わって、良次は真剣な表情で答えた。
「言っただろう。
俺は凪高のファンなんだ。
お前らが選手権に出て、全国制覇することが、俺の夢でもあるんだぜ」
その言葉に、朔哉は深く息を飲み込む。良次は明るく笑って手を上げた。
「じゃな。練習頑張れよ」