Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
兆風2
「回復状況にもよるだろうが、よくて選手権に出れるくらいだろう」
石橋がそう口にした時、萌子も朔哉も、同時に息をのんだ。
先に口を開いたのは、朔哉だった。
「それって、つまり」
確かめるようにゆっくりそう言って、続く言葉を飲み込んだところで、一呼吸遅れて萌子が続けた。
「つまり、右京は、選手権に出れないかもしれないってことですか？」
石橋はそれに応えはせずに、顔をしかめると、僅かに俯いた。
選手権には出れないかもしれない。
あの右京が。
母親との約束を叶える為に、選手権で優勝するために、凪浜にやってきた右京が。
思いもよらなかった言葉に、萌子は両手をぐっと握りしめた。
すると、ドアがガラガラと開き、中からユニホーム姿の右京が、松葉杖を携えて現れた。
「右京」
しかし右京は、萌子たちを確認すると、無視したように慌てて反対の方向に歩きだした。
「藤原」
石橋の、苛立ちを押さえた声が、夕焼けに赤く染まった廊下に響く。右京は足を引きずるようにしながらも、廊下を歩くことを止めなかった。
「帰ります」
「帰るってそんな足でどうやって」
思わず萌子が回りこんでそういうと、仕方なく足を止めた右京が萌子を睨みながら答えた。
「一週間後には、また試合がある」
「ちょっと右京―」
引き止めようとした萌子の手を振り払い、進もうとした右京に、石橋は小さなため息とともに話しかけた。
「藤原。試合のことはしばらく忘れろ」
驚いたように右京が振り返り、石橋を睨みつける。石橋は、その視線に応えずに、廊下を睨みつけたまま答えた。
「明日、精密検査だそうだ。今夜はひとまず入院になる。後のことは、それからだ」
寮に集まっていた部員達は、朔哉からの話を黙って聞いていた。
それこそ、初戦を勝利したことなど、微塵も感じられないほど、雰囲気は落ち込んでいた。
「どうして、こんな時に…」
大きなため息の後に、厳己が正直にそう呟いた。
こんな時。
そう、これから選手権の予選が始まろうとする時に。
どうして。
テーブルの中央で、両手を組み、朔哉が話を続けた。
「夏の終わりから、支障が出ていたらしい」
どうして自分は気づいてやれなかったんだろう。
あいつの異変に気づいていれば、もっと症状だって軽かったかもしれないのに。
手術を受けることなく、試合に出場できたかもしれないのに。
そんな朔哉の思いを汲んでか、ケンが言う。
「けど、あいつは。あいつは、全然いつもみたいに飄々とした顔で、試合に出てた」
限界なんてまだ先みたいな顔して。
目の前の敵は、相手にならないとでもいいたげな顔して。
おまけに、絶好調だったじゃねぇか。
それでも、あいつは足を怪我してたっていうのかよ。
畜生。
どんだけ、能力があるっていうんだよ。
奥歯をぎりぎりとかみしめたケンに、知朗が珍しく落ち込んだ声で、言い返す。
「いつもじゃねぇし、飄々でもねぇよ。あいつ、ユースの合宿あたりから、練習の量増やしてたんだ。それこそ、寝る間も惜しんで」
薄暗い中での、シュート練習。
体は疲れきっているはずなのに、それでもここと思うところに正確なパスが来て、知朗は何度もシュートを蹴った。
楽しい、そう感じていたのは、自分だけじゃなかったはずだ。
『ちょっとあれ、やりすぎだぞ。体壊す前に、少し休ませたほうがいいんじゃねぇの』
五十嵐はそう言ってなかっただろうか。
あの時、あの言葉を素直に聞いていればよかったのに。
知朗が項垂れると、寮には深い沈黙が、再び訪れた。
誰もが、事の重大さをかみしめていた。
沈滞してしまった空気を少しでも変えようと、湊が朔哉に問いかける。
「で、どうするんですか？朔哉さん。右京は」
寮にいた全員の視線が、朔哉に向けられた。
「わからない。だけど、監督はおそらく手術させる」
その判断は、指導者としては、間違っていないと朔哉は思っていた。
特に、笠間の時のことを思えば、絶対だ。
仮に右京がどんなに反対しても、絶対受けさせるに違いない。
ということは、右京はもしかしたら今回の選手権には出れないかもしれないということなのだ。
落胆するムードの中で、わざと篤志が声を大きくして言った。
「だ、大丈夫だよ。右京がいなくても。今まで大きな大会で、二回も優勝してるんだ。
右京は、先発で出場してたけど、途中で交代してた試合も多かったし、それに―」
「篤志」
朔哉の呼びかけに、篤志は口を閉ざした。
確かに、右京は途中で交代することが多かった。
チームも、三大大会のうち、二大会制覇している実績からすれば、全国屈指のチームだ。
右京のワンマンチームではなかったにしても、右京のチームにおける存在の大きさは、誰もが痛感していることだった。
三年のレギュラー選手である小田原が珍しく口を開いた。
「…手術しないで、続けるのは無理なのか、朔哉」
三年にとって、今回の大会は、最後の大会になる。
それに対し、右京はまだ二年だ。来年も選手権はある。
それもあるから、監督は手術を選択するんじゃないか、という思いが、小田原にはあった。
小さく息を吐きだしてから、朔哉は小田原に答えた。
「痛み止めの注射を打てば、出れなくもないが、それじゃあいつの膝に負担がかかりすぎる。それに、サッカーを続けるんであれば、いつかは手術をしなければならないし、だったら一刻も早い方がいい」
「そんな…」
理香の悲鳴のような声が響いたが、その後は再び沈黙となった。
朔哉はゆっくりと立ち上がると、項垂れている部員達を見回して答えた。
「とりあえず、明日精密検査で、藤原はしばらく入院することになる。
どちらにしても、週末の試合には出れないだろうから、そのつもりでいてくれ」
深いため息が聞こえたが、朔哉の頭の中には、週末の試合のメンバーと、フォーメーションのことでいっぱいだった。
その時、電話が鳴った。
気が動転して誰も出ようとせず、電話は鳴り続ける。
思わず朔哉は苛立った口調を押さえながら言う。
「悪いが、誰か電話に出てくれ」
慌てたように萌子が廊下に飛び出して行った。
「はい、あ、そうです。えっ…。はい…わかりました」
微かに聞こえてきた会話でも、電話を切って現れたその表情にも、電話の内容が朗報ではないことがわかり、朔哉は思わず尋ねた。
「どうかしたか？」
萌子は周囲を憚ってか、一瞬視線を泳がしたものの、皆の答えを待つ視線に、口を開いた。
「入院用の荷物を持ってきてほしいってコーチが。あと、右京が、また病院を脱走しようとしたって」
それを聞いた部員達は明らかに困惑していた。
右京の脱走は、萌子が病院についた時もそうだったが、実はその前にもあったらしい。命にかかわる大けがでもないからと、しかし強制もできず、病院側も手を焼いているようだ。
どうしたらいいのかと思う朔哉に、揺れる部員達を代表したようにケンが口を開く。
「やっぱり、右京が出たいんだったら、そうさせてやるべきなんじゃないですか？
どうしても辛くなったら、今までみたいに交代すればいいし、あいつがもしミスしても、俺たちがカバーできるし」
こういう状況でなかったら、ケンのこの言葉に、朔哉は微笑んだであろう。
名取が、藤原をカバーするなんて、成長したな、と。
だが、今はそういう状況ではなかった。
「もし、怪我が悪化したらどうする？二度とサッカー出来ないと医者に言われたら？誰が、その責任を取るんだ。
あいつ一人にとらせるには、荷が重すぎる」
笠間さんは、それでも立ち直ることができた。
だけど、藤原には、きっと無理だ。
朔哉にはそう思えていた。
それは漠然としたもので、確固たる理由などない。
あえて言うのであれば、柔軟性とでも言うのだろうか。
サッカー以外の世界にも対応できる力が、藤原にはないように思える。
それに、藤原は、日本ユース代表の主力選手だ。
協会としても、選手権大会で未来をつぶしたいと思わないはずだ。
色々な思いが交差して、朔哉は頭が押しつぶされそうになり、慌てて呟いた。
「…とにかく、今日は解散だ」
その言葉を聞いて、黙り込んでいた部員達は、それぞれにリビングを後にした。
「右京の荷物は私が届けますから」
頭を抱えるようにした朔哉の隣で、萌子がそう囁いた。
右京の部屋で、萌子がひとり荷物をつくっていると、ドアがノックされた。
「はい。…由太？」
顔を出したその姿に、萌子は詰め終わったバッグを持って立ち上がる。すると由太が、萌子の手からそのバッグを奪うように取り上げた。
何故と問いかける萌子の視線から逃げるように顔を逸らし、由太は答える。
「病院は通り道だから。俺が届ける」
「でも」
「外も暗いし、お前は家に帰れ」
素気なく、一方的な言い方ではあったが、それが由太の優しさであることに萌子は気づいた。
「…ありがとう」
由太はそう言った萌子に答えることもなく、無言で部屋を出て行った。
ドアが閉まりかけたところで、萌子は慌ててそのドアに手を伸ばすと、階段を降りて由太の後を追った。
「由太」
玄関で靴をはく由太を見つけ、声をかけると、由太は視線を靴に落としたまま答えた。
「何だ」
広く、孤独な背中を見つめながら、萌子は口を開く。
「亜紀ちゃんから、聞いた。
といっても、詳しく聞けたわけじゃないんだけど」
しかし由太が振り返る様子はない。
萌子はもし、と呟いた。
「もし、もしもよ。
由太がやり直したいって思ってるんだったら、きちんと亜紀ちゃんと話し合った方がいいと思う。
亜紀ちゃん、別に由太のことが嫌いになったわけでもないみたいだし。
むしろ、私には、今も由太のことを好きなんだって思えるし。
それに、由太だって―」
「関係ない」
萌子の言葉を遮って、由太が低くそう言った。
「お前には、関係ない」
立ち上がり、もう一度そう言うと、由太ははっきりと萌子を拒絶した。
「二度と亜紀子のこと、口にするな」
そうして何事もなかったように、寮を出て行こうとする由太の腕をとり、萌子は必死で言った。
「でも、亜紀ちゃん。由太のこと、お願いしますって。ああ見えて不器用だからって、そう言ったのよ」
どうして亜紀子が自分にそう言ったのかは、わからない。
仮に、萌子が由太が冷酷なだけの男ではないことを知っているからだとするならば、なるほどとも思えるけれど、だからといって、由太が無条件に自分を頼りにするような人ではないことも、萌子にはわかっていた。
だとすれば、この言葉には萌子にはわからない、二人だけの秘密があるんだと思い、由太にそう言ったのだのだ。
すると由太は、体を強張らせ、一瞬だけ萌子を見つめた。
「亜紀子がお前に？」
「うん」
すると由太は視線を泳がした。
何を考えてるの？
そう聞こうとしたところで、萌子の手は由太によってそっと振り払われた。
「悪いが忘れてくれ」
「でも―」
すると、珍しく由太が声を荒げて答えた。
「迷惑だ。
亜紀子に頼まれたからって、これは、俺と亜紀子の問題であって、お前には関係ない」
そして萌子が口を開く前に、由太は慌ただしく寮を出て行った。
玄関に取り残された萌子は、しばらく茫然と立ち尽くしていた。
「萌子？どうかした？」
上から声がしたかと思うと、すぐに階段を降りて朔哉がパーカーを羽織りながらやってきた。
「病院なら、一緒に行くよ」
「ああでも。由太が行くって」
萌子はそう言って何も持っていない両手を見せる。朔哉は、そうか、と呟いてから、それじゃあ家まで送るよと萌子の背中に手をまわした。
「私が病院に？」
首をかしげてそう言う紗依に、萌子は大きく頷いてみせる。
月曜日の昼休み、萌子は紗依のところにやってくると、右京の怪我のことと、手術のこと、すべてを話した上で頼み込んだ。
「手術を受けるように、説得してもらいたいんです」
検査の結果は思わしくなく、医者も手術することを薦めたのだが、右京は頑として言うことを聞かずに、入院してから三度目になる脱走を試みた。
怪我を聞き、慌てて駆け付けた叔母夫婦によって、脱走することは諦めたようだが、それでも手術については、試合に出るから受けないの一点張りだった。
「それなら石橋先生なり、他に適任の人がいるじゃないの」
紗依はそう答える。
確かにそれはもっともなのだが、と萌子は口ごもらせて答えた。
「それが…監督の話、全然聞かないんです」
「え」
もともと、従順な性格ではなかったが、それでも石橋の言うことには従っていた右京が、今回に関しては、全く言うことを聞こうとしないどころか、石橋の存在すらも無視するかのような態度に出ているのだ。
そうまるで、反抗期みたいに。
「怪我のせいで、気が動転してるだけなのかもしれないけど、とにかく、何度も病院を抜けだそうとしてて。
右京の叔母さん夫婦は、家が東京だし、赤ちゃんがいるしで、そう毎日来れるわけでもないみたいだし、私達は学校と部活があるし。
先生、お願いできませんか？」
それなりの理由をつくってはみたけれど、萌子が紗依ならば説得できると思った理由は、当然別にある。
好きな人から言われたら、さすがに右京も手術をしてくれるかもしれない。
右京の気持ちを確かめたことはなかったが、萌子の中でそれは確かな事実へと変わりつつあった。
長い沈黙の後、紗依は小さくだが頷いた。
「…わかったわ。約束は、できないけど、それでもいいなら」
萌子は微笑みながら大きく頭を下げた。
「ありがとうございます。部活終わったら、迎えに来ます！」
そう言うと、萌子は颯爽と保健室を出て行った。
だからその後、残された紗依の溜息とその思いに、当然気づくはずもなかった。
医者との話し合いは、最初から平行線だった。
手術に関して、うんと言わない右京に、ついに諦めたように医者がため息交じりに言った。
「はっきり言おう。確かに、手術を受けない方法もある」
そらみたことか、とじろりと医者を右京は睨んだが、逆に医者は右京を見据えて言った。
「だけど、今の君には手術が必要だ。
ただし、手術を受ければ、選手権の予選には出られない」
下手をすると、選手権も。
医者はそう続けていたけれど、右京の耳には何も入ってこなかった。
開け放した窓からは、潮の香りを含んだ風が入ってきて、右京の髪を揺らしていた。
窓の外に広がる海は、夕焼けに赤く染まっている。
そろそろ練習が終わる頃だろうか、と右京は一人考えていた。
「藤原」
ふいに呼ばれて振り返ると、朔哉が一人で立っていた。
いつも一緒にいる萌子が、今日はどうやらいないらしい。
「ちょっと話しないか」
朔哉そう言うと、親指を立て、上を指した。
「右京？あれ…」
僅かに開いたドアの隙間に、不安を覚えたわけではなかったが、開け放たれた窓から揺らぐカーテンと、
誰もいないベッドを見たところで、それが杞憂に終わらなかったことに、萌子は大きくため息をついた。
「沢木、藤原は」
その時背後から、石橋の声がした。
やっぱり来てたんだと思いながら、萌子は首を左右に振る。
「ここにはいないみたいです」
「…あいつ、また」
石橋が苛立ったようにそう言う。
病院側からすると、右京は厄介な患者であった。
手術は受けない、脱走もする。
事実、転院の話も持ち出されている。
石橋としては、右京が手術をするという意志が固まり次第、外科の名医のいる別の病院に移るつもりではあったが、その為にはこの病院から紹介状をもらわねばならなかったのだ。
石橋は深いため息をついて、眉間にしわを寄せた。
同じく萌子も深くため息をついた。
こんな時、朔哉さんがいてくれたらいいのに。
だが朔哉は、練習が終わると用事があるとかで、珍しく先に学校を出て行ってしまったのだ。
それでも、仕方ない。
「探します。すみません、田波先生も一緒に探してもらえますか？」
萌子にそう言われ、別の方向を見ていた紗依は慌てて答えた。
「ええ」
屋上は、思った以上に風があった。
手摺につかまりながら、右京は口を開いた。
「試合は、出ます」
ちらりと隣で、手摺を背もたれにしている朔哉を確認する。
読めない表情だった。
「出られないと決まったわけじゃない」
再び口を開いたが、それでも朔哉の表情は変わらなかった。
安心というよりは、むしろ険しい表情だ。
来たときからずっとそんな表情だとしても、少しは喜んでくれるとどこかで考えていた右京は、いつになく饒舌になった。
「福山さんだって、わかってるはずだ。
選手権で優勝するには、並大抵のチームじゃできない。
だけど、いま。このチームなら、優勝も夢じゃない。
こんなチーム、そうあるわけじゃないってことくらい」
風に吹かれるままになっている髪の間から、睨むようにして朔哉を見つめていると、小さく息を吐いてから、朔哉がようやく口を開いた。
「…そうだな。それに。県大会の予選も、皆が思うほど楽じゃない」
ようやく、自分の味方を見つけた気がして、右京が思わず安心しかけたところで、朔哉は右京に向き直ると、はっきりと言った。
「手術、受けろ。藤原」
その言葉に、右京は思わず息をのみ込んだ。
どうして、とそう口にする前に、朔哉が再び口を開いた。
「優勝するには、お前が必要だ。確かに」
「だったら―」
だったら、俺を試合に出せばいい。
監督の信頼も厚いキャプテンのあんたがそういえば、みんなだって納得する。
そう言い返そうとした右京だったが、朔哉は冷静に答えた。
「だけど、膝に爆弾抱えたままじゃ、かえって足手まといになるかもしれない。
臨むなら、最高の状態で試合に臨んでもらわないとな」
にこりと微笑む朔哉の言っている意味がわからず、右京は只管朔哉を見つめた。
そんな右京を見て、朔哉はくすりとほほ笑む。
「手術を受けても、全国大会には間に合うだろう？」
手術を受けて、完璧に治してから試合に出ろ。
朔哉が言いたいことを、ようやく右京は理解した。
だけど。
「県予選は？」
それこそが大きな問題なのだ。
以前の四強時代は終わり、今の神奈川県はまさに群雄割拠の戦国時代を迎えている。
加えて、どのチームもが、夏の二つの大会で神奈川県代表として出場し、優勝した凪浜高校を最大の敵として、対策を練っているのだ。
土曜の試合も、圧勝ではあったけれど、本来の力が発揮できていれば、あと二点は取れたと、朔哉は考えていた。
それができなかったのは、敵もそれなりに凪浜の攻撃を研究してきたからなのだ。
初戦で、そう思うのだから、この先は厳しくなることは必須だ。
「そのくらい問題ない、と言えるほど、簡単な試合にはならないとは思ってる。
だけど、約束することはできる。
お前抜きで、凪浜は全国出場を決める。
だから、お前は。手術を受けろ。
そして必ず、全国大会には戻って来い」
にやりと笑う朔哉を見て、ようやく右京は心からこのキャプテンを信頼できると感じた。
「…はい」
右京がそう答えると、それに朔哉も満足そうに大きく頷いた。
交わした約束を、互いに見つめあいながら確認していると、ふいに大きな声が響き渡った。
「先生っ、いましたっ。右京っ、みんなが探してるよっっ」
萌子の声だ。
朔哉がまずい、と思った時には、萌子は朔哉を見つけ、
「朔哉さん？どうしてここにいるの？」
と言っていた。
右京が手術を受けることを宣言したことで、今回の脱走についてはお咎めなしになった。
帰り道、隣を歩く朔哉の手を掴むと、萌子は力強く呟いた。
「頑張ろう、県大会」
「え」
瞬きする朔哉に、萌子は小声で答える。
「ごめん。聞こえちゃった」
本当は、右京が答えるのを待って声をかけたことは、萌子は言わずにおいた。
朔哉は萌子の手を強く握り返すと、ああと答える。
「頑張るさ。萌子を、国立に連れていくことも、約束したし。
それより、どうして田波先生が？」
「あ、うん。それは…」
右京の気持ちは、本当かどうか確かめたわけではない。
それに、そのことを朔哉に伝えるべきかどうか、答えに悩んで萌子は思わず後ろを歩いているはずの紗依を振り返った。
しかし、萌子はそこで思わず足を止めた。
紗依は、石橋と並んで歩いていた。
若くパリッとスーツを着こなした紗依と、ジャージ姿の石橋とは、パッと見不釣り合いにも思えたが、紗依は思い切り微笑んでいた。
あんな幸せそうな田波先生、見たことないかも。
「萌子？」
立ち止まった萌子の手を引き、朔哉が尋ねる。
紗依は萌子の視線に気づくことなく、ただ隣の石橋をじっと見つめている。
その視線に、ふいに感じた思いを否定し、萌子は答える。
「何でもない」
まさか、ね。