Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
秋霖8
学校はすでに後夜祭モードに切り替わり始めていた。ほとんどが店じまいの準備を済ませている中で、萌子はドレスの裾を掴み、校内を駆け回っていた。
「萌子？」
ふいに声をかけられる。振り返ると美都が驚いた表情で立っている。その隣には、怪訝そうな表情の和美がいた。
「着替えてないの？」
「時間なくて。理香は？」
てっきり美都は理香と行動していると思った萌子はそう尋ねた。美都は和美をちらりと見ると気まずそうな表情で答えた。
「ごめん…途中ではぐれちゃって。たぶん、川瀬君たちと一緒だと思う」
となれば、行く先は校庭で行われる後夜祭だ。
「篤志見なかった？」
萌子の問いかけに、美都は和美を顔を見合せて答えた。
「日比野君？見てないけど…、あれ？萌子、どこ行くの？」
再び走り出そうとしている萌子の背中に、美都は尋ねる。その方向は、皆が向かっている昇降口とは反対方向だった。
「篤志探してくる」
少し呆れたように和美が口を開いた。
「後夜祭、始まるぞ」
「コンテストの発表だってあるよ」
「それまでには戻るから」
萌子は叫ぶようにそう答えると、人波をかき分けて走り出していた。
誰もが、萌子の姿に、そして人の波に逆らうように進むことに、驚いているようだったが、気にしている暇はなかった。
とにかく篤志に聞いて、確かめなければ。
萌子は館林の話を思い出して、強くそう思った。
「７月まで付き合ってたの。司とは。でも、夏になる前に別れようって言われたわ」
館林の告白は、そう始まった。
司の女性関係の派手さは、萌子も知っていた。だからこそ、誰と付き合っているのかなんて、把握もしていなかったし、聞いたとしても一ヶ月後には別れているのがざらにあるため、聞き流しているに近かったのだ。
たしかに館林の隣には、篤志より司の方が似合う。
本気ではなく、遊びでの付き合い。
司の話は他からも聞いたことがあったし、館林自身も二股をかけたことも一度ならずともあった。
しかし、付き合い始めて三ヶ月後に、司から言われた言葉に館林は戸惑っていた。
「別れる？どうして」
付き合い始めて三か月ほどだった。
いきなりの司の話に、館林はそう聞き返した。
だが、司はその質問に答えるより先に、館林を問いただした。
「お前、待ち伏せしたんだってな」
思い当たることはあった。
館林はふんっ横を向いて、馬鹿にしたように言い返す。
「ああ、あのオバサン？」
その頃、館林は司に自分以外の恋人がいることに気づき始めていた。調べると、それが地元の短大生ということがわかった。
そして館林は、短大生に直接伝えたのだ。
司と付き合っているのは自分だから、司と別れろ、と。
「そういうの、嫌いだって知ってんだろ」
吐き捨てるようにそう言う司に、館林は戸惑った。
「司？」
そう名前を呼んだが、司はくるりと背を向けながら冷たく言い放つだけだった。
「俺が自分のものだとか、勘違いすんなよ」
気づかぬうちに両手を握りしめていた。
確かに、司の女性関係が派手なことは理解しているつもりだった。
それでもこの付き合った三か月は、司は本当に自分のことを好きでいてくれているように思えるほど幸せだったし、自分も心から司が好きだと思ったのだ。
そう思った相手は、司が初めてだったのに。
館林は震える声で、それでも言った。
「…だって、付き合ってるでしょう。私たち」
確かめるように言った言葉を、司はこう切り返してきた。
「付き合ってた、だよ。じゃな」
「司っ」
慌てて後を追いかけるが、司は館林を無視して廊下を歩いて行く。待って、と言おうとしたところで、廊下から見覚えのある女子生徒が飛び出してきて、司とぶつかりそうになる。寸前のところで司が女子生徒を抱きかかえるようにしてぶつかることはなかったけれど、その時見せた司の表情に、館林は思わず嫉妬をした。
あの子…、サッカー部のマネージャーだわ。
名前を思い出そうとする館林の前で、真っ赤な顔をした女子生徒が、大慌てで司の前を走り去って行った。
その様子にくすりと笑う司に、館林は更に嫉妬をした。
その時、自分を睨みつけている館林に気づいた司は、ズボンのポケットに手を突っ込みながら明らかに館林に向って言った。
「ほら、あれ。うちのマネージャ―だけどさ、あいつなんか、好きな男がしょっちゅうふらふらしてるのに、責めもせず、じっと待ってるんだぞ。
ああいうおおらかな女が、俺は好きなの」
その日のうちに、館林はそのマネージャーが、小池理香という名前であることを突き止める。
好きな相手は、同じサッカー部の日比野篤志。
二人の仲の良さは、サッカー部でも公認だった。
「悔しくて、あたし…。
じっと待ってるなんて嘘だって、
本当は逃げてるだけの弱虫だって、
だから諦めさせてやろうって思ったの」
俯きながらそう言う館林の頬は、まだ残暑の厳しい夕日に照らされ、赤く照らされていた。
思わず萌子は聞き返す。
「それで、篤志を後夜祭に誘ったんですか」
こくんとゆっくり頷くと、館林は長い髪をかきあげて答えた。
「賭けをしたの、彼と」
綺麗に巻き上げられた髪が、ゆらりと揺れる。
「あたしが彼を誘ったことを知って、彼女がどうでるか。
それを知って、彼女も彼のことをダンスに誘ったら、彼の勝ち。もし、彼女が彼を誘わなかったら、あたしの勝ちで、彼はあたしと踊る」
どうして篤志はそんな賭けにのったんだろうか。
だがそれを館林に聞いても、確かな答えが出てくるわけではない。
その答えを知っているのは、篤志だけだ。
萌子はふいに今日の理香を思い出した。
篤志を諦めると言っていた理香。
その前に理香は、篤志を後夜祭に誘ったんだろうか。
「理香は？どうしたんですか？」
萌子の問いかけに、館林は軽く吐息をつきながら、ほほ笑むそぶりを見せた。
「賭けはあたしが勝ったわ。だけど、彼はあたしと踊れないって」
「どういうことだ」
そう由太に言われた一馬だったが、どう答えていいのかわからなかった。何より亜紀子からは、由太には自分が伝えるまでは黙っていてほしいと言われている。黙り込んだ一馬を、由太は自分の問いかけに対しての肯定と受け取った。
気づけば由太は、一馬の胸倉をつかんでいた。
「由太チャンッ」
慌てて隣にいた理香が由太の腕をひっぱる。
一馬も驚いた表情で言い返した。
「待てよ、誤解だって」
「止めてっ」
しかし由太は更に掴み上げると、じっと睨みつけた。
「何が誤解だ」
「由太チャンッ！」
理香が無理やり横から由太を一馬から手を放すようにと突き倒した。
由太もいくらか冷静になっていたのか、その手は簡単に一馬から離れ、バランスを失った一馬は、壁に寄りかかるようにして床に座り込むと、喉元を押さえながら答えた。
「…彼女に聞けばわかる。
きっと今頃、校内のどこかでお前のこと待ってるだろうから」
由太はそれだけ聞くと、くるりと踵を返し、二人の前を去って行った。
理香が慌てて一馬に駆け寄る。
「大丈夫？一馬っち」
お節介を焼いた結果が、これか。
もとから何か見返りを期待していたわけじゃなかったが、あまりの仕打ちに一馬は小さく舌打ちをした。
…だけど、あの冷静な高岡が、ここまでやるってことは、それだけ彼女のことを真剣に思っている証ってこと。
しかし残念ながら、由太のその想いは亜紀子に届いているようには思えず、また亜紀子の意志はすでに固まっているように思えた。小さくなっていく由太の背中を見つめながら、やりきれない思いが込み上げてくる。
心配そうに見つめる理香を無視して、一馬はひとりごちた。
「知んねぇぞ、もう」
後夜祭が始まったのか、グランドからは音楽が響いていた。
しかし萌子は、校内を一周した揚句に、ついに校門を抜け出し、海の方へと歩き出していた。
それはただの勘でしかなかったけれど、篤志は確かに防波堤の上に立っていた。
海には、真っ赤な夕日が落ちているところで、海面はその陽を受けて、穏やかな波の上でキラキラと輝いていた。
無言のまま篤志の隣に立ち、萌子も同じように海を見つめながら篤志に言った。
「聞いた。館林さんから。全部」
「そう」
覇気のない返事も、いつもの篤志とは全然違っていたけれど、萌子は気にすることなく話を進めた。
「館林さん、大槻先輩にふられた腹いせに、篤志と理香を別れさせようとしてたんだって」
「そう」
「…篤志？」
驚かないのだろうか、と思わず篤志の顔を見つめると、篤志が淡々と答えた。
「いや、何となく、あの人が俺のこと好きで後夜祭に誘ったわけじゃないとは、思ってたから。そういう意味じゃ、納得」
「そう」
今度はそう萌子が答える番だった。
すると篤志は、ぽそっとその口を開いた。
「ダンス誘われた時も、最初は断ったんだ。そうしたら、館林さんに問い詰められたんだ。
理香と踊るのか。理香が好きなのかって。
…だけどオレ。答えられなかったんだ」
「だから、館林さんとの賭けにのったのね」
言ってしまえば、断ることができなかったのだ。
小さく頷いた篤志は、少し首を傾げながら口を開いた。
「ずっと考えてたんだ。今まで考えないようにしてたことでもあったし。
だけど…わからない。やっぱバカなんだな、オレって。情けねぇ」
ため息交じりにそう言った篤志に、思わず萌子は言い返した。
「だけどこのままだと、篤志の隣から、理香はもういなくなるんだよ」
厳己の気持ちに理香が応えるかどうかはわからなかったけれど、理香が篤志を諦めると決めたことは、無理やりでも嘘でも、理香がようやく出した結論なのだ。
引き止めることが正しいのか、萌子にはわからなかった。
だけど、お互いの気持ちをぶつけないで、自分一人で相手の気持ちを決めつけて、答えを出すのは間違っているように思えた。
それに、萌子からしても、結局理香も篤志も、お互いのことを一番思っているように見えた。
「…わがままだよな、俺」
長い沈黙のあと、ぽつりと篤志が呟いた。
「自分の気持ちがはっきり見えないくせに、やっぱり理香にはそばにいてほしいって、思う。
あのつきぬけた明るさに、今まで何度もオレは助けられてたんだなって、ほんと今更だけど」
篤志はそこで両手を空に掲げると、大きく深呼吸をした。
「オレさ、昔っからサッカー下手なのに、巧い奴とか、監督とかと仲良くなるのは得意で。
グランドの外では、ずっと一緒なんだよ。けど、一歩グランド入ると、越えられない壁がそこにあってさ。
オレも一緒にやるって思っても、それはできなくて、
だけどそれは俺の実力不足だから、仕方なくて、
でもやっぱり悔しくて、やりきれなくて。
そう言う時、いつも隣に理香がいて、オレのこと応援しててくれてたんだ。
他にサッカー巧い奴とか、かっこいい奴とか、たくさんいるのに、理香だけはオレのことをずっと応援してくれてたんだ。
周りのやつが、どんなに理香をバカにした目で見ても、
理香は、気にすることなく、オレのこと応援してくれてた。
どんなにオレがへましても、ドンマイって笑顔で笑っててくれた。
レギュラーになれなくても、次があるって励ましてくれてたんだ」
母親が寮母をやっているからと、陰口を叩かれることもあるのを知っていた。けれど、理香のまっすぐな応援のおかげで篤志は捻くれることもなく、皆と一緒に頑張ってこれたのだ。
感謝はしてる。すごくしてる。
だけど、その気持ちを、好きだと混同していいんだろうか。
好きだって気持ちは、もっと張りつめたものがあるんじゃないのだろうか。
もっと、必死なものなんじゃないんだろうか。
そう、朔哉のように。
そう思えば思うほど、篤志は理香の気持ちに答えられない自分を不甲斐無く感じるのだ。
黙り込む篤志に、萌子はふっとほほ笑みかける。
「その気持ち、理香に伝えたらいいんじゃないの？」
しかし篤志は首をふる。
「あいつがほしいのは、もっと確かなものなんだろ。
好きだ、とか、つきあってくれ、とか。そういう。
オレにはまだ、そんな確かなものなんて見えてない」
大事な相手だからこそ、簡単な気持ちで理香とは向き合えない。
夏の合宿で萌子に言われた言葉は、まさしくその通りだった。
「そうかな」
萌子は唄うようにそう呟いた。
「そばにいてほしいっていう気持ちは、確かなものなんじゃないの」
『恋愛の形は、人それぞれで、どんな風に始まるから正しいなんてない』
そう朔哉が言ったことを、ふいに萌子は思い出した。
理香と篤志のような形があっても、それはそれで間違ってるわけじゃないのだ。
萌子の言葉に、表情を強張らせた篤志に向って、萌子はこう言った。
「言っておくけど篤志。理香が篤志のこと応援してたのは、結果がどうであれ、篤志が誰よりも一生懸命頑張ってたのを知ってたからだよ」
それが最後のひと押しになったのか、篤志は数度視線を左右に揺らすと、
「…ごめん」
と呟き、学校に向って走り出した。その背中に、萌子も声援を贈る。
「がんばれっ、篤志っ」
篤志の姿は、瞬く間に小さくなっていき、そのうち見えなくなった。
答えなんて、あとから追いつくことだってあるのだ。
そう、自分と朔哉のように。
ふうとため息をついた瞬間、萌子は声を上げた。
「あ、やばい」
激しかったバンドの演奏は、いつの間にかたち消え、穏やかなオクラホマミキサーの音楽が流れ始めていた。
朔哉たちの演奏は、一番最初だと言っていたはずだ。
萌子は再びドレスの裾をまくしあげると、篤志の後を追いかけるようにして学校に向って走って行った。
怪我はなかったものの、壁に背中を打ちつけていた一馬に湿布を貼ったところで、理香は一馬と一緒に校舎を追い出された。
後夜祭には原則、全員参加なのだ。
その間、校舎に生徒は立ち入り禁止になる。
校庭では、朔哉と俊平たちのバンドが演奏をしていた。
ステージには多くの生徒が詰めかけて、盛り上がっていたけれど、理香も一馬もその中に入っていく気にはなれなかった。
その時、ふいに一馬は呼び止められた。
「あっ、渡部先輩」
「え？あ…」
振り返ると見覚えのある女子生徒が一人で一馬の前に立っている。
「探してたんです」
赤い顔でそう訴える女子生徒を見て、一馬は彼女が亜紀子の友人であることを思い出した。
「え？あ…もしかして、佐々木がどうかした？」
やっぱり気持ちを変えたのだろうか、と周囲を見回すものの、やはり亜紀子はいない。
女子生徒は、小さく首を振った。
「亜紀ちゃんは、後夜祭には出ないって」
それじゃ、状況は変わらない。
だったら、何だと言うのだろうか。
彼女は一瞬一馬を見上げたが、隣にいる理香に気づくと、そっとその視線を落とした。一馬もつられて理香を見つめたが、理香は知らないというように首を振るだけだった。
再び視線を彼女に戻した一馬に向って、彼女は軽く息を吸うと、一気に言った。
「…ダンス、よかったら踊ってもらえませんか？私と」
結局、ひとりか。
理香はそう思いながら、校庭の片隅からステージを見つめていた。
朔哉たちの演奏が終わり、最後のバンドの演奏が始まっているところだ。
これが終われば、今回の目玉のひとつであるフォークダンスが始まる。
一馬がさっきの一年生と踊るかどうかはわからないけれど、あのまま一馬の隣にいるわけにもいかず、理香は一馬をからかいながら二人から離れるしかなかった。
気づけば理香の目は、篤志を探しているものの、どうも篤志は校庭にはいないようだった。
かといって、館林の姿が校庭にあるわけでもなく、結局理香の気持ちの靄は晴れない。
いっそ、帰っちゃおうかな。
あ、ダメだ。軽くだけど、練習があるんだった。
練習…。
いったいアッチとどんな顔して会えばいいんだろう。
バンドの演奏も終わり、ファイヤーストームに火が灯される。
これから目玉でもあったフォークダンスが始まるのだ。
委員たちの手によって、大きな輪は三つ作られていく。
ひとつは、カップル専用。もうふたつは、それ以外の生徒用。
華やかな話声の飛び交うカップルたちの輪を見つめて、理香は思わず両膝を抱え込む。
諦められれば、どんなに楽だろう。
理香は自分が萌子に言ったことを思い出して、そう思ったが、すぐに萌子に言われた言葉も思い出した。
『理香は、今まで篤志に本気で気持ちぶつけたことあった？』
答えは否だ。
今まで一度もなかった。
篤志との関係が終わりになるのが怖かったから。
楽しい思い出も、全部なくなってしまうのが、怖かったから。
ふいに理香は、さっき一馬に告白した一年生のことを思い出した。
当たって砕けろの告白に、戸惑っていたのは一馬だけではない。
彼女はいい。
もとから、一馬との関係が皆無なのだから。
失うものは何もないのだから。
「理香ちゃん」
ふいに名前を呼ばれて、理香は顔を上げた。
そこには、はにかみながら理香に手を差し出す厳己がいる。
「理香ちゃん。行こう」
しばし悩み、理香はしずかにその手を取る。