Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
秋霖7
ミーティングルームのドアは変わらず開く気配もなく、萌子は思わず時計を見た。約束の時間より、五分ほど遅れていたけれど、朔哉を責める気にはなれない。
萌子は肩を軽くたたきながら、とりあえず椅子に座った。
篤志一人から萌子達を入れて四人に増えたとはいえ、通常は倍の人数で回すのだ。しかも、予定外の当番で、萌子も少し疲れていた。
ふいにドアがノックされ、朔哉が姿を現した。
「ごめん、遅くなって」
「ううん、私こそ―」
ごめんなさいと萌子が続ける前に、朔哉はトンと皿に乗ったドーナツを萌子の前に差し出した。
「はい。これが噂の凪高限定ドーナツ」
笑顔でそう言うと、朔哉は向かいの席に座った。
「ごめんなさい、行けなくて」
朔哉たちのクラスはドーナツを売る喫茶店を催していた。
当番である時間内に行く約束をしていたのに、サッカー部の手伝いをしていた萌子は結局行くことができなかった。
篤志が一人で店番をしていて、放っておけなかったからと言うのは簡単だったけど、言い訳がましいような気がして、萌子はその理由を言いそびれた。
けれど、朔哉はそんな萌子を追求するでもなく、優しく言った。
「よかったよ、ひとつ取っておいて。萌子が来るって言ってた時間にはもう完売してたからさ。
もちろん、みんなには内緒だから」
心の中でごめんなさいともう一度呟きながら、萌子は食べていいかと朔哉に尋ねる。当然のように朔哉は頷き、萌子はそれを頬張った。
朔哉のクラスの文化祭委員の熱意で、地元のドーナツ屋に文化祭限定ものを作ってもらうことにしたのは、萌子も聞いていた。
その最後のひと押しが朔哉によるもので、実はドーナツ屋がサッカー部のファンだったということも、あとから朔哉以外の人づてに聞いた。
だが、どうして本人が萌子に言わなかったのか、萌子は聞けないままだった。
ぱくりと食べて、目を見開いた萌子を見て、朔哉は満足そうに微笑む。
「結構いけるだろ」
「うん、おいしい」
もともとおいしいことで有名なドーナツ屋ではあった。
文化祭限定ものとはいえ、いつものドーナツに凪高サッカー部のチームカラーでもある白と水色のチョコレーションが飾られているそれだけというのに、それはとても美味しく感じられた。
練習後のこともあり、パクパクと食べる萌子に微笑みかけながら、朔哉は話を始めた。
「萌子、明日のこと聞いてる？」
「明日？」
「コンテスト、目玉らしいから、後夜祭のラストにやるんだって」
「コンテスト？」
萌子の動きが一瞬止まる。
それからはっと気づいた。
ベストカップル・コンテストのことだ。
完全に忘れていた。
「ごめんなさい」
投票は、明日の午後３時までということになっているものの、ダントツの投票数のおかげで、萌子と朔哉の一位は、この時ほぼ確定していたのだ。
ため息をつくかと思った朔哉だが、軽く微笑んで答えた。
「まあいいよ。その時萌子が俺の隣にいればいいわけだし。
だけど、逆にバンドの方が後夜祭のオープニングになったから、後夜祭にはひとりでも来てくれないと困るんだけど」
いたずらっ子のようにくすりと笑う朔哉に、思わず萌子は力いっぱいに答えた。
「それは大丈夫！絶対行くから。そういえば、バンドの方は？」
バンド仲間の俊平が、数日前に朔哉がいなくて練習にならないとぼやいていたことを萌子は、思い出した。
「どうだろ。実はあまり練習できてないんだ。でも、萌子が見てるって思ったら、きっとうまくいく気がする」
「わかった。理香たちと一緒に見てる」
萌子はそう答えたものの、ふいに理香と篤志のことを思い出し、できれば篤志もその時一緒であってほしいと願った。
美智子が食べたいと言った文化祭限定のドーナツは、すでに売り切れており、理香たちは仕方なく隣の写真部のギャラリーに入った。入口には誰もおらず、ご自由にと書かれた状態で、中にはぽつぽつとテーブルと椅子が置かれている。近くで買った缶ジュースを開けながら、話は自然と篤志の話になっていた。
ふわふわとして、どこか現実感のない美智子は、理香の話をすべてじっと聞いてくれた。それはまるで小さい頃大事にしていた人形のように、話相手として相応しかった。
一通り聞き終わった後、美智子はジュースを一口飲んで答えた。
「そっか。彼が他の女の子とダンスの約束しちゃったんだ」
「彼って言うのか、言わないのか…。つきあってるわけじゃないから、あたしがそんなこと言う権利、ないんですけど…」
だからと言って二人の関係が、同じ部活の人では悲しい。
幼馴染というのがやっぱり一番しっくり来たが、理香にはそれが淋しく感じられた。
そう、と呟いた後に、美智子は缶を覗き込むようにしながらこう言った。
「私もね、昔コウとそんな感じだったのよ。周りからはつきあってるって思われてたけど、実際はそんなことなくて、ただ一緒にいるだけでね」
「え」
美智子と光一のカップルは、当時理香のいた中等部でも噂のカップルだった。二人が憧れだという生徒は、周りに何人もいたし、理香だってそのひとりだったのだ。
それが、違ったなんて。
思わず声を上げた後で、美智子がすべて過去形で話していることに気づいて尋ねた。
「…で、どうしたんですか？」
すると美智子は、軽くいやいやというように首を横に振って答えた。
「どうもこうも、痺れ切らして、まああたしの方から売り言葉に買い言葉、みたいな感じで、お互いの気持ちを確認して、お付き合いしましょうってなったけど。
ロマンティックも何もなかったわ」
「…すごく、びっくりです」
例えばお互い一目で恋に落ちて、そのまま付き合うとか、
事故にあいそうになった美智子を、光一が救ったとか、
そういうドラマのような話が、二人には似合うように思えたのだ。
しかし、美智子はあっけらかんと答えた。
「そうかなあ。でもね、付き合うってことになったら、逆にあたしが意識しすぎるようになって、ぎくしゃくしちゃって。
あーこんなんじゃ、言わなきゃよかったって思った時もあったわ」
思わず理香は息をのんだ。
両想いになったのに、うまくいかないことがあるなんてわからなかったし、
第一、美智子が光一のことで悩むなんてことを、理香は想像できなかったのだ。
美智子は、そんな理香に気を使うことなく、ふふっと笑うと軽く言った。
「だけどコウに、大事なのは、彼とか彼女とか、そういう役割じゃなくて、自分の気持ちだって言われてから、そんなこと意識することもなくなったけど」
そこまで言うと、美智子は缶ジュースを手に持ち、ねぇと理香に向って、小首をかしげた。
「ねえ、理香ちゃんは彼に付き合ってって言われたい？それとも好きだって言われたい？」
「あたし…」
切り分けて考えたことのない理香は、返事に困った。
好きだから、付き合うわけで、その二つは理香にとっては同じ意味だった。
答えに詰まる理香を無視するように、美智子は話を進めた。
「仮に彼が他の女の子とダンスしても、それはつきあってるわけでも、彼がその子のこと好きだってわけでもないって私は思うわ。
大事なのは、まず理香ちゃんの気持ち。
理香ちゃんは、誘ったの？ダンス」
戸惑って、ガードが緩くなったところで、美智子の言葉がまっすぐ理香にぶつかってくる。
理香は篤志をダンスには誘っていなかった。
どう切り出していいのかわからなかったし、できるならば篤志から誘われたいと思っていた。
けれど、篤志のことだから何も言わないだろうしと、ぎりぎりまで待って、最後に自分が勢いで篤志を連れ出そうと思っていたのだ。
黙り込んで俯く理香に、美智子はふんわりと言う。
「まだ一日あるから、ゆっくり考えてみたら？チャンスはたっぷりあるわよ」
萌子の満足そうな笑顔を思い出し、朔哉はひとり頬を緩める。
単純だが、おかげで今日と明日も乗り切れそうだと朔哉は思った。
ドーナツ屋を口説くのは思ったほど難しくはなかったけれど、代わりに朔哉はほんの少し自分を裏切り、おまけに取り次ぎ相手に指名されたおかげて、このあともドーナツ屋に顔を出さねばならないのだ。
そのあとには、軽いメニューとはいえ練習も待っているし、明日も朝練がある。
おまけにバンドの練習と、キツくないといえば、それは嘘だ。
とにかく、目の前のことをこなすんだと、朔哉が教室に戻ってくると、その手前で背後から呼び止められた。
「あら。朔哉君」
その声に慌てて振り返ると、思った通りの美智子が手を振って立っている。
「どうしたんですか？」
「どうしたって、卒業生が文化祭に遊びに来ちゃダメかしら？」
そう言って少しすねた表情を美智子は見せる。朔哉は慌てて言った。
「いや、そういうことは、ないですけど」
すると美智子は、そんな朔哉を見て、ふわりとほほ笑んだ。
「それに、会いに来たのよ、朔哉君と彼女に」
かつて好きだった相手に無邪気に言われた朔哉は、戸惑いながらもにっこりと余裕の笑顔を作って答えた。
「萌子は今、クラスの出し物の練習中です。明日舞台やるんで」
「へぇ。朔哉君ところは何を？」
「ここでドーナツ売ってます」
朔哉が自分の教室を指差すと、あらと美智子は声を上げた。
「朔哉君のクラスだったんだ。さっき食べようと思ったのよ。文化祭限定ドーナツ。でも売り切れちゃって食べれなかったわ」
「明日でもいいなら取っておきますけど？」
「つくづく残念。明日はこれないの。予定があって。だけど、すごいじゃない。あのドーナツ屋の限定ものなんて」
美智子が『あの』というのは訳がある。仕入先のドーナツ屋は、昔から凪浜にあるのだが、そこの店長が偏屈で有名なのだ。
そこの店長の、しかも特注品を作ってもらえるなんて、と美智子は言いたかったのだ。
朔哉はかるく微笑んで、首を振った。
「運がよかったんです。店長もうちのファンで、おまけに娘が…うちの、ファンだったから」
言葉を濁した朔哉に思わず美智子はこう言い返した。
「うちの、じゃなくて、朔哉君のとか？」
しばしの沈黙の後、大きなため息と同時に朔哉は言った。
「ほんと、鋭いんだか鈍感なんだか、わからないですよ、美智子さん」
確かに美智子の言ったとおりだった。父親である店長は、確かに凪高サッカー部のファンらしく、それだけでも十分丁寧には対応してもらえていたと思うが、 最終的に限定商品まで漕ぎづけたのは、その中学生になる娘の協力があってこそだった。娘はやってきたのが朔哉だとわかると、すぐさま父親にねだった。頑固 とはいえ娘に弱い父親だったらしく、その願いを断ることはできなかったようだ。
「…言わないで下さいよ」
小声で朔哉が言うと、美智子がきょとんとしながら聞き返す。
「彼女にも？」
「彼女には」
朔哉の言葉に、美智子は首を傾げて聞き返した。
「どうして彼女にそういうこと話さないの？嫉妬するから？」
軽く朔哉は首を振った。
「そうじゃないです。…そういう、実力じゃないところで作ってもらえたって、なんか卑怯じゃないですか？」
「そうかな」
「少なくとも彼女は…萌子は、そう考えると思うんです」
公明正大。清廉潔白。
仮にそうでなかったとしても、そうであり続けようとするのが萌子だ。
娘が自分のファンであったことは偶然だったとしても、利用したように萌子に思われたくはなかった。
しかし美智子はわからないと言ったように、じっと朔哉を見つめ続ける。
耐えきれず、朔哉は本心を口にした。
「ようは…格好、つけたいんですよ」
運だけの男じゃないことを、
萌子には、わかってもらいたかった。
だが、美智子はまたも首を傾げる。
「そうかな」
「そうですよ。男って。好きな子の前じゃ特に。常に、頼れる存在でありたいんです」
答えながら、朔哉は心で思った。
現に、美智さんの愚痴を聞きいていた時は、そうやって心が広い男だって、そう思われたかった。
本当は、単なる惚気話に、身がよじれる程苦しんでいたというのに。
「だけどね、朔哉君」
美智子はそう言うと、ふっと朔哉から視線を逸らして、ぽつりと呟いた。
「女の子は、別にそんなこと望んじゃないのよ」
文化祭も二日目の最終日になった。
今日は出店も四時くらいには店じまいになり、五時過ぎからは、後夜祭が始まる。
しかし、浮かれてばかりでもいられない。その一週間後には、ついに選手権大会の県予選の決勝トーナメントの試合が始まるのだ。
軽い朝練の後、萌子がふと気づくと、篤志が練習で使ったボールを体育倉庫に一人で運ぼうとしていた。
籠の中に入れられたボールは、ひとつ運ぶのでもボールが転がらないように注意が必要だと言うのに、篤志が運んでいるのは三つの籠だった。
周囲を見渡すと、一年生はグランド整備でいっぱいだったし、他の部員達は皆急いで部室に向かっている。
萌子も部員から渡された洗濯用のタオルを手に持ち、篤志の様子を伺っていると、朔哉が声をかけてきた。
「持つよ、タオル」
「あ、…うん。だいじょう―」
だが、視線の先で、案の定篤志が籠からボールを落とした。一つ転がると、バランスを失ったのか、三つ四つとボールがグランドに四方八方と転がった。
「ごめん、朔哉さん。これお願いっ」
萌子はそれだけ叫ぶと、朔哉にタオルを押しつけて、篤志の元へと走る。
「あ、もえっ―」
そう叫ぶ朔哉の声など聞こえないように、萌子は一目散に走って行く。
「いいのかよ、キャプテンのお前にこんなもん渡して」
「俊平」
ふと気づくと、俊平が隣に立っていた。
「放っておけって言ったんだろ？お前は」
だけどどうなんだ、あの態度は。
俊平はそう言いたそうに、グランドの萌子と篤志に視線を投げかける。萌子は足もとに転がってきた一つを手にしたものの、慌てた篤志が籠を一つ蹴倒して、更にボールがグランドに転がり始めた。
その様子にくすりと朔哉は笑う。
「言ったけど。…本当にそうできるとは思ってない」
それが萌子の性格なのだから。
本当ならば、自分だって篤志を救ってやりたかった。
だが、キャプテンという立場と、篤志との関係上、率先して篤志を庇うようなことをしては、ますます篤志が孤立することは予測ができた。
だが、萌子が手助けするようになっても、問題の後夜祭が終わるまでは、そうするのは萌子だけだろう。
しかし後夜祭が終わった瞬間、皆も気持ちを切り替え、他人の色恋沙汰に構ってなどいられなくなる。
何より目の前にあるのは、選手権大会。
自分ができるのは、そこで篤志もふくめて、皆の気持ちを一つにまとめあげることだ。
俊平が呆れたと、深いため息をつく。
「全く、どっちもどっちか。
それより朔哉、今日は大丈夫だろうな」
それが後夜祭でのライブであることは、朔哉にもわかる。
「ああ」
そう答える朔哉の目の前で、その時想像していなかったことが起きた。
成や湊たち、他の二年も萌子に倣うようにして篤志が落としたボールを拾い始めたのだ。
それは二年だけじゃなく、グランド整備をしていた一年もそうだった。
皆が拾い上げたボールを、笑顔のままに篤志に向ってパスした。
篤志もその一つ一つを丁寧に受け取って、ありがとうと言っている。
ケンがそんな篤志の頭を小突いた。
篤志もそんなケンに何か言い返している。
周囲では、そんな二人の様子を見て、成や萌子たちが笑い合っている。
「何だよ。あいつらもう仲直りしてやんの」
微笑む朔哉の隣で、俊平がそう呟いた。
喜劇仕立てのシンデレラは、思いの外成功した。
更衣室に戻ったところで、ドレスのファスナーを下してもらう相手を探していると、萌子は理香に話しかけられた。
「萌子ごめんっ、ファスナー下してくれる？」
考えることは誰も同じようだ。
萌子は理香の黄色いドレスのファスナーを下しながら、その声が明るいことに気づいた。
「緊張したけど、笑ってもらえてよかったぁ。楽しかったね」
以前の理香に戻ったと思った瞬間、萌子は思わず尋ねていた。
「理香。もしかして、篤志と話したの？」
「もう、いいの」
声は明るい。けれど、少し張り上げているような気がして、萌子は息をのみ込んだ。理香はそんな萌子を気にかける風もなく、さっさとドレスを脱ぐと、制服に着替え始めた。
「考えて、悩んで。すっぱり、諦めようと思うんだ、アッチのこと」
「…ほんとに？」
「うん。あーもう、そう思うとすっきりしたって感じ。こんなにスッキリするなら、さっさと諦めちゃえばよかった」
笑いながらそう答える理香を見て、萌子は心が痛んだ。
「理香―」
無理しないでと肩に手を置こうとしたところで、理香はその手をするりと交わして答える。
「あ、ごめん。これから、厳己チャンとパフェ食べに行くことになってるの。萌子も、朔哉さんとこ行きなよ」
だが、視線は頑として萌子を見ようとしていない。
「理香ってば―」
「そのあとは、ケンケンが、かき氷御馳走してくれるんだって。怪我の功名ってやつかな。これも」
「ねえ―」
「大槻先輩は、今度コンパしてくれるって言うし、あたしも早く次の人見つけないとね」
だからね、と理香はくるりと踵を返して、まっすぐ萌子を見据えた。
「だから萌子も、もう気にしないで」
その瞳に影が映るのを、しかし萌子は見過ごさなかった。
さっさと更衣室を出て行こうとする理香の背中に、萌子は思わず問いかける。
「理香は、今まで篤志に本気で気持ちぶつけたことあった？」
理香の肩がびくんと反応して、足が止まる。
「…だから、気にしないでって言ってるじゃない」
萌子の方を振り向かずに理香は僅かに震える声でそう答えた。萌子はそれでも問いかけた。
「前に言ってたよね。何と無くとか、茶化してとか。そうじゃなくて、きちんと伝えたこと、あった？」
萌子の中には、館林の声が心に残っていた。
『じゃあ彼女は、一度でも真正面から日比野君のことを見て、自分の気持ちをぶつけたことあるのかしら』
逃げないで、理香。
この質問から。
篤志から。
けれど理香は、肩をすくめる仕草を見せて、軽く答えた。
「さぁ、どうだろ？じゃ、またあとでね。萌子」
「理香っ」
萌子は叫んだが、更衣室のドアは、空しく音を立てて閉ざされた。
本当のところ、理香は厳己とパフェを食べに行く予定などなかった。
ケンがかき氷を御馳走してくれるというのも嘘で、唯一司がコンパやろうと誘ってくれたのだけが、本当だった。
しかしそれも、理香の為にというよりは、自分の為と言った方が正しいのだろう。
後夜祭の時間が近づき出し、校内を歩いていても、生徒たちがそわそわしているのが理香にはわかった。
『チャンスはたっぷりあるわよ』
昨日、美智子はそう言っていたけれど、自分にはもうそんなものないのだと理香は思っていた。
あったとしても、この十三年の間に、きっと自分は逃してしまったのだ。
『理香は、今まで篤志に本気で気持ちぶつけたことあった？』
ふいに萌子の言葉を思い出した。
女の子の友達には、好きな人はと聞かれて、いつもアッチと答えていた。
篤志に対しても、バレンタインデーには必ず手作りのチョコをあげていたし、
デートにも誘ったし、
その時に勢いで手をつないでみたり、キスしてみたり。
理香なりに一生懸命、気持は伝えてきていたはずだ。
だけど、正面から篤志に好きだと言ったことはなかった。
そうすれば、逃げられなくなるのは篤志だけじゃない。理香だってそうだ。
昨日まで楽しく笑い合っていられたのに、それで関係がぎくしゃくしてしまうことが理香は怖かった。
今までずっと隣にいてくれた篤志が、そうしていなくなってしまうことの方が怖かった。
後夜祭なんて来なければいいのに。
だけど、その時間はあと数時間後に迫っている。
篤志が本当に館林とダンスを踊っているところを見たら、自分はどうしたらいいんだろう。
厳己はああ言ってはくれたけれど、理香だって厳己の気持ちには何となく気づいているから、いくら篤志と踊れなかったとしても、はいそれと踊るわけにはいかない。
どうしたらいいの？
しばらく校内を歩きまわった理香の足は、そのうち自然とある教室に向かっていた。
きっと彼なら、話を聞いてくれるだろう。
しかし、厨房をやるのだと聞いていたはずだったのに、入口で呼び込みをやっているのをみて、思わず理香は茫然としていた。
「いらっしゃいま、せ」
その一馬も、一人現れた理香に気づくと、張り上げていた声を、詰まらせてそんな理香を見返していた。
「どうした」
風貌は厳ついが、その声は優しい。
理香は、笑顔を無理やり作って言う。
「かき氷、驕ってよ。一馬っち」
商品はほとんどなく売れ残りということもあり、結局理香はお金を払わずにかき氷を食べることができた。
「おいしー。やっぱり夏はかき氷よねぇ」
だがそんな理香の隣に立つ一馬の表情は硬い。
「もう時間ねぇぞ。どうすんだ、後夜祭」
「ああ。それ。もう、いいんだ」
「いいってどういうことだよ」
一馬の表情が更に硬くなる。
廊下を歩いていた女子生徒が一馬を見止めると、そそくさと廊下をかけだして行った。
「そんなんじゃ、お客さん逃げてくよ。もう一馬っちってば、スマイルスマイル！」
「だからその呼び方やめろって」
一馬はそういうと、横目で理香を睨んだ。
「いいから篤志のところ、行けよ。あいつだって悩んでるかもしれないし」
追い出すような言い方に、理香は頬を膨らませる。
「行ってどうするの？どうにも―」
「ダンスに誘えばいい」
きっぱりと言い切った一馬が、恨めしかった。
「できない」
「やってねぇのにそう言うな」
「無理だよ」
「無理かどうか、わからんだろ」
「…なんか萌子みたい」
「萌子？」
頷くと、理香は持っていたスプーンで、残りのかき氷をぐるぐるとかき回した。
「放っておけばいいじゃない。あたしのことなんか。
萌子に言われたよ。
自分の気持ち、伝えたことあるのって。
でも、あたしは萌子みたいに強くないし。
怖いんだもん、あたし―」
「俺も、萌子に賛成だ」
冷やかに言われて、理香は戸惑った。
「一馬」
茶化さずそう名前を読んでみたけれど、一馬の態度は変わらなかった。
「逃げてるのは、篤志だけじゃない。小池だってそうだろ。
篤志の本当の気持ちを知りたいんだったら、まず小池から本気で気持ちぶつけねぇと―」
「じゃ、一馬も本気なの？」
「え？」
当てが外れた上に、萌子と同じことを口にする一馬に、かっとなった理香は思わず言った。
「亜紀ちゃんのこと、本気で好きなの？」
「アキ、ちゃん？」
一馬は首を傾げる。
「由太ちゃんの彼女」
そう言われた一馬の表情が僅かに歪んだ。
それが一馬の肯定だと感じた理香は、思わず叫んでいた。
「見たんだから、あたし。一馬っちが亜紀ちゃんと教室に二人っきりでいるの。
最近、ぼけっとしてるのは、そういうことなの？」
違う、と手を振ろうとした一馬の表情が固まる。
その時、理香の背後から、冷ややかな声が響いた。
「どういうことだ？」
一馬の視線の先を追い、理香は振り返ると思わず呟いた。
「由太チャン」
そこには、まっすぐに一馬を睨みつける由太がいた。
少し悩んだが、それでも萌子は理香の後を追った。
着替える時間もなかったから、ドレス姿で校舎内を歩く萌子は明らかに目立っていたが、おかげで知り合いには声を掛けられ、理香のことを聞くことができた。
しかし、ついさっき見かけたという場所に行っても、そこにはもう理香はいなかった。
すでに店仕舞いをしているクラスもいくつも見かけた。
早くしないと。
後夜祭が始まってからでは遅いのだ。
結局ぐるりと校内を一周する形になった萌子は、最後の南校舎の３階の西階段を上がったところで、ふいに聞き覚えのある声を耳にした。
南校舎の三階はすべて三年の教室で、すでに生徒たちは後夜祭のために校庭に出て行ったのか、その声はよく廊下まで響いていた。
「本気であんなガキ、相手にするわけないじゃないっ、あたしは司に嫉妬してもらいたかったのよ」
艶のあるその声に、はん？という小馬鹿にしたような笑いを含む声が答える。
「嫉妬？冗談」
「司…」
落胆した女子生徒の声が響く。
ほどなくして、教室のドアが開き、サッカー部でも女性関係の派手な大槻司が顔を出した。
「もう俺らは終わったの。そういうこと。げ。沢木―」
司は廊下に出たところで、茫然としている萌子に気づき、思わず口を閉ざしたが、すぐに顔を逸らすと、教室に向って言葉を吐いた。
「じゃ俺、用事あっからさ。瑞希も純情カップル取り上げて、遊んでんじゃねぇぞ」
司は諭すようにそう言うと、萌子に向って、
「ってまあ、そういうことで」
と言って逃げるように去って行った。
その背中をしばし睨むように見つめていた萌子だったが、少しして、司が開け放したドアから教室の中をのぞいた。
中には、項垂れた女子生徒の背中が見える。
綺麗にカールされた髪が、揺れていた。
萌子はその背中に話しかけた。
「…館林さん。説明、してくれますよね」