Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
秋霖6
文化祭初日は、晴天に恵まれた。
ごった返す校内の隅々で見られるのは、おそらく明日がピークとなる告白の風景だ。
バレンタインやクリスマスと同じように、明日の後夜祭のフォークダンスというカップルイベントを控えて、一緒に踊る相手を見つけようと俄かに動きだした生徒もいれば、ずっと好きだった相手の、告白のチャンスとして捉える生徒もいた。
篤志は、やっぱり館林さんと踊るんだろうか。そして理香は、どうするんだろう。
萌子が、たこ焼き屋の受付でそんなことをぼんやり考えていると、
「あの」
と声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
慌てて顔をあげると、目の前には女子生徒が二人立っていた。上履きの色からすると一年生のようだ。
二人は、あの、と言ったまま緊張した面持ちで黙り込んでいる。
「どうか、しましたか？」
萌子がそう話しかけると、そのうちの一人が、もう一人の脇をつついた。急かされた方は、意を決したように顔をあげた。
「早坂先輩、いますか？」
「成？」
こくりと頷く生徒を見て、萌子は彼女がどうして萌子に声をかけたのかを理解する。成も萌子と同じ時間に当番になっているのだが、午前中ということもあって客足が少ないことから、裏に回っているのだった。ちょっと待ってと言い、萌子は裏方に顔を出した。ちょうど成は、ノリを切っているところだった。
「成、ちょっと」
「何？どうかした？」
成はそう答えると、表の方に顔を出した。その先で女子生徒の緊張が一層高まるのが萌子にもわかる。
「成に用事だって」
裏から様子をうかがったところで、成は萌子に耳打ちした。
「え？…知らない子なんだけど」
「後夜祭のダンスじゃないの？」
「え」
成の表情が微妙に強張る。
ってことは、残念なことになりそうだ。
萌子は少しでも成の気持ちを和らげるべく、笑顔を向ける。
「こっちは大丈夫だから。とりあえず行ってきたら」
「じゃ、ごめん」
ぎこちなく歩く成の背中を眺めながら、萌子はふと思う。
もしかして、他の誰かと踊るから、断るのかな。
…なんて、私には関係ないか。
右京はひとり、校内を歩いていた。
サッカー部の当番まで、まだ時間があった。
密かに続けていた自主練の為か、どうも体が疲れているようだ。
となると、自然と体は保健室へと向かう。
文化祭の間でも、保健室のドアは開かれたままだった。調理中に思わぬ怪我をしたり、疲れがたまって倒れたりと、何かと忙しいのだ。
それに、保健室には、紗依がいる。
ふいに紗依のことを思い返したところで、右京の脳裏に萌子の言葉が過る。
『ねぇ右京。…もしかして、田波先生のこと―』
萌子がその先を口にする前に、右京が萌子を振り払ったのだが、右京には萌子が何を言おうとしていたのかがわかっていたから。
わかっていたからこそ、強引に話を切ったのだ。
紗依を思い描く時、右京の中に流れる感情は、今までに抱いたことのない温かく、だが胸を掴まれたような苦しいものだった。
幸せといえば、幸せにも思えるが、辛いと言えば辛くも思える。
だが、その気持ちを何かの言葉に言い換えるには、右京の中でも葛藤があった。
「あのっ。藤原先輩っ」
ぼんやり歩いていたからなのか、目の前にそう言って見知らぬ女子生徒が右京の前に立ちはだかった。先輩、というくらいだから後輩なのだろうが、むろんクラスメートの顔すら覚えない右京には、誰だかわからない。
すると女子生徒は、いきなり腕を突き出した。
「これっ受け取って下さいっ」
その手には掌に包まれるくらいの、赤く小さな袋があった。
「御守ですっ」
見覚えがあるその御守を、右京は顔を近づけてじっと見つめた。
そしてそれが紗依が持っていたあの御守であることに気づいた。
「…あの」
右京の視線に気づいた女子生徒が、不安そうに声を出す。その視線を無視して、右京は尋ねた。
「何の御守？」
これを見つけた時の紗依のことを思い出したのだ。
何故か恥ずかしそうにしていたことを思い出して、右京は首を傾げる。
女子生徒は右京に話しかけられた為に、直立不動になって声を裏返して答えた。
「はっはいっ、勝守りって言いますっ。試合とか、あと恋愛にも効くそうですっ」
恋愛…。ああ、だから。
『一応女子なんだから』
あの時の紗依の慌てようと思いだし、右京はふと笑みをこぼしながら、その御守を再びじっと見つめる。
「いいの？」
「え？」
その笑顔に惚けていた女子生徒は、慌てて姿勢を正した。
「もらって」
「はいっ、もちろんですっ」
「サンキュ」
右京はそう言うと、驚きすぎて表情が作れなくなった女子生徒からその御守を受け取った。
確かに御守を尻に敷いたら、ご利益がなくなるだろう。
それにこれで保健室に行く理由もできた。
そう思いながら、右京はそれをポケットにしまった。
「あのっ、藤原先輩っ」
目の前にいた女子生徒が再び右京を呼びとめる。その時になって、右京は初めて目の前の女子生徒の顔が真っ赤であることに気づいた。
「あのっ、もしよかったら、後夜祭のダンス、あたしと、踊って、なんて…」
いつもの無表情の右京に戻ったことに気づき、声がだんだん小さくなっていく女子生徒に、右京はあっさりと答えた。
「興味ない」
そもそも後夜祭に出るつもりもなかった。
ダンスやら、カップルやらで周囲はうるさいが、右京には全く興味のないことなのだ。
「ですよね、はは…」
そうやってわざとらしく笑う女子生徒を無視して、右京は保健室へと向かう。
どうやらたこ焼き屋の当番も、理香と篤志が同じになったり被らないようにと考えてくれていたらしい。
理香は萌子から手渡されていた当番表をながめてそう思った。
篤志は昼の１２時から、そして自分は午後２時からで、間にも１時からというシフトが組まれていた。
おまけに去年はほとんど働きづめになっていた理香も、今年は持ち回りの時間が一時間程になっていた。
自分でも、正直嫌になっている。
恋愛がうまくいかなくて、だけどそれを思い切り部活に持ち込んでいる自分が。
前みたいに、元気に頑張ろうとは思うのだけれど、篤志を見つけると、どうもそうもいかない。
篤志を問い詰めたい気持ばかりになって、そわそわして、だけどどうにもできない自分がいて、そうしてまた落ち込む。
悪循環だな。
そう思いながら、教室を出て行こうとした。
「あ、理香ちゃん。ちょっと待って」
もうすぐ当番が終わる美都と校内を回る約束をしていたからと、待ち合わせした昇降口を目指していたところで、理香は厳己に引き留められた。
「何？」
このところ元気がないことを厳己が心配してくれていることは、理香も気づいていた。息を整えて、厳己が口を開く。
「あのさ」
「うん」
「返事は明日で構わないんだけど」
「うん？」
「後夜祭、僕と踊ってくれないかな、と思って」
「え」
それって…。
理香の表情が強張ったことに気づいた厳己は、そのまま早口に話を続けた。
「そんなに、固く考えなくていいからさ、別に踊ったからってつきあってるとか思わないし、ただ、せっかくだし、文化祭楽しみたいから」
厳己の熱をもった目が、まっすぐに理香を見つめる。
黙っていると、厳己はこうも言った。
「返事は、直前で構わないから」
省かれた言葉は、聞かなくてもわかる。
篤志と踊れなかったら踊ろうと、厳己は言ってくれているのだ。
「…ありがと、厳己ちゃん」
今の理香には、それ以上の言葉が出てこなかった。
せっかくだから、ドーナツ食べにおいで。
朔哉にそう言われていた萌子は、朔哉の教室に向かおうとしていた。
知朗に一緒にお化け屋敷に行こうと無理やり拉致されたりして、朔哉がいるという時間は残り少なくなっていた。
早く行かないと。
廊下を走ろうとしたところで、萌子はふいに苛立った声を聞いた。
「ちょっと、まだ？」
「早くしてよ。注文してからもうずいぶん経ってるじゃないの」
「腹減ったー」
声がするのは、中庭の方で、そこにはサッカー部の屋台が用意されているはずだった。思わず窓から中庭を見ると、篤志がたった一人、並ぶ客相手に、たこ焼きを慌てて焼いている姿があった。
どうして、篤志一人なの？
シフトじゃ、他にも部員達はいるはずなのに。
昼時だからと、人数も厚くしたはずだ。
だが、どう見ても、篤志以外の部員は見当たらない。
篤志は額の汗をTシャツの袖で拭いながら、並んでいる客に言う。
「すみません、今焼いてますんで」
「だからさっきからそればっかじゃん」
いくら篤志が慣れているからといって、全部一人で対応するのは限界がある。
だれがこんなことっ。
「篤―」
私も手伝うと言おうとしたところで、並んでいた客をかき分けるようにして制服姿の成と湊が姿を現した。
「すみませんっ」
「今焼いてますから、アツアツの食べてくださいね」
その姿を見て、思わず萌子は手を握りしめた。
当番表は作った萌子の頭にきっちりと刻まれている。
成も湊も、当番はすでに終えている。
だから、制服姿なのだ。
成たちの登場に、篤志は一瞬驚いた表情を見せたが、二人に肩を叩かれて、僅かに微笑んでいた。
…やっぱり、このままにはしていられない。
お節介って言われても、それで構わない。
萌子は窓枠から身を乗り出して声を出した。
「篤志ー！私も手伝うっ」
「いらっしゃいま、せ」
一馬の声が、語尾でぎこちなくなったのは、相手が亜紀子とその友人だったからだ。
それは亜紀子も同じなのか、二人して黙り込むところに、友人が元気よく言った。
「かき氷ください。苺と、亜紀ちゃんは何にする？」
「…レモンを」
「じゃ、苺とレモンで」
そう答える亜紀子が視線を合わせないことに気づいた一馬が黙っていると、背後から元気な声が響いた。
「はーい、ただいまっ」
クラスの文化祭実行委員である井口だ。井口は裏方に注文を済ませると、一馬にささやいた。
「ほら渡部君っ、怖い顔してないで」
これは素だと言い返そうと思った一馬だが、さらりとかわされそうな気がして、あきらめて亜紀子にぽつりと言った。
「…高岡なら、今はいないぞ」
その言葉に亜紀子が顔をあげて何か言いかけたが、目の前に突然かき氷を出されて、口を閉ざした。
「はーい、苺とレモン、お待たせしました」
「…ありがとうございます」
「また来てね」
井口はにっこり微笑んで亜紀子たちから代金を取ると、一馬の横に立って再び囁いた。
「渡部君、やっぱり中の方やって」
「へ？」
一馬としてはどちらでもよく、まあ言うなれば冷たいものに触れるというだけで裏方の方がよかったのだが、井口にバイト経験を買われて接客に回されたのだった。
しかし、井口は笑顔を店内に向けながらも、冷たく言い放つ。
「そんな仏頂面してたら、お客さんも寄ってこないわよ」
だからこれが素なんだが、と言い返したいのをぐっと堪え、一馬は素直にエプロンを外す。
そうして裏方の方に入ろうとしたところで、急にキャッという小さな悲鳴を聞いた。
「大丈夫？真沙美ちゃん」
この声は亜紀子だ。思わず一馬は振り返った。
すると、真沙美と呼ばれた亜紀子の友人が床に座り込んでいて、その脇にシャツを赤く濡らした男子生徒が立ち上がって喚いてるところだった。
「うわっ、なんだよー」
「すみませんっ」
亜紀子と真沙美が謝る。どうやら、真沙美が謝ってすべり、手に持っていたかき氷を男子生徒にぶちまけたらしい。
一馬はその男子生徒が、後ろにひっくり返りそうなほどに椅子にもたれかかっていたことを思い出した。
男子生徒は、肩についたかき氷の残骸を床に撒き散らしながら言う。
「白いシャツが台無しだよ」
「ごめんなさい」
「おまけにシロップのせいでベタベタしてるし、甘ったるい匂いはするし。
どうしてくれるわけ？」
「ごめんなさい」
「ごめんですんだら、警察いらないって言うでしょ」
亜紀子も真沙美も、困ったように顔を突き合わせた。
仕方なく一馬は声をかけた。
「すみません」
いきなり現れた強面の一馬に、男子生徒は明らかに驚いたようだ。
「わっ。何だよ。このクラスの人？」
「クリーニング代はこっちが持ちます。けど、彼女たちも謝ってるわけだから、いいじゃないですか」
「何だって？」
男子生徒の声が甲高く響く。
一馬は痛いくらいの周囲の視線を受けながら、わざとらしく凄んで言う。
「麦茶いっぱいで偉そうに居座られちゃ、こっちだって商売ならねぇんだよ」
すると男はひっと小さく悲鳴をあげてると、
「わっ、わかったよっ」
と言いながら、逃げるように店を出て行った。
「あのっ、クリーニング代っ」
亜紀子が慌ててそう言ったけれど、男子生徒は振り返ることもなかった。
「ありがとうございました」
そう二人に頭を下げられ、一馬は逆に戸惑った。
「別に。こっちも迷惑だったし」
「あの、もしクリーニング代払うようでしたら、これで払ってください」
亜紀子はそう言うと、千円を一馬に差し出した。
「いい。この店の客だったんだから、こっちが払う」
一馬はそう答えたが、亜紀子は納得できないと言った表情を浮かべるだけだった。
「それじゃ、明日の２時くらいにまた食べに来てくれればいい。高岡がいるはずだ」
やはり亜紀子は何か言いたそうだったが、一馬は踵を返すと、元の通りに裏方に入ろうとした。が、それを井口が引き留めた。
「ちょっと渡部君っ、これ付けて」
差し出したのは、さっき外した接客用のエプロンだ。
「へ？俺、中やるんだろ」
「思いなおしたの。用心棒として、表に立って」
用心棒って、と思う一馬だが、最早井口に楯ついてもしかたない。
素直に廊下に出ると、遠くの方に真沙美と歩いている亜紀子の背中が見えた。
考えが変わってくれるといい。
だが、クリーニング代を払うと言って引こうとしなかった亜紀子を思い出すと、前言撤回とはいかなそうだった。
あいつ…高岡、どうするつもりだよ。
そう思いながら亜紀子の背中を見つめる一馬を、じっと見ている理香の姿があった。
保健室は、想像以上に混み合っていた。
いつもは生徒と教師だけを相手していればいいのだが、文化祭となればそうはいかない。
階段で転んだ子供から、お年寄りまで、いろんな人たちが保健室に駆け込んでいた。
気づけばもう昼は過ぎており、紗依は仕方なくため息をついた。
この様子だと、保健室も出れないし、誰かにお願いするしかないかしら。
紗依はそう思いながらぼんやりと窓の外を見ていると、石橋がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
いつものようにジャージ姿だったが、見たことのない優しい笑顔に、紗依は戸惑った。
え。
…もしかして、私に笑いかけてくれてるの？
胸が高鳴り、思わずごくりと唾を飲み込む。
落ち着かなきゃ、でも、どうしたんだろう。
そう思ったところで、紗依の視界に、小さな二人の少女の影が過る。
あっという間に彼女たちは、石橋に向って駆け寄って行った。石橋も、そんな二人を両手を広げて抱きしめている。
…娘さん、かな。
ちらりと見えるその顔は、石橋の車に飾られていたのと同じものだった。
そう、よね。
私なんかに笑いかけてくれるわけない、か。
その時、三人がふと別の方向を見た。つられて紗依も視線を送ると、そこにはやわらかく微笑む女性が立っている。二人の娘はその女性に駆け寄り、石橋もその手に持っていた大きな荷物を取り上げていた。
奥さん。
初めて見る石橋の妻は、優しそうに幸せそうに微笑んでいる。石橋も、そんな彼女に安心そうに何度か頷いていた。
そこにあるのは、幸せを絵に描いたような家族がいた。
自分は、入ることができない、温かい家族。
あたしって…馬鹿ね。
ふと紗依はそう心の中で呟くと、持っていた御守を手にした。
奥さんのいる人を、
家庭のある人を、
好きになってしまったなんて。
こんな御守持っていても、仕方ないのに。
ポケットからハンカチを取り出すと、紗依はその御守を包んで、そっとゴミ箱に捨てた。
「こんにちは」
たこ焼き屋に響いたその声に、部員達は浮き出しだった。
「美智子さん」
奥にいた俊平は、その姿を見つけて慌てて外に出てきた。
美智子も知った顔を見て安心したのか、ほっとした笑顔を浮かべて言った。
「朔哉君に、かわいい彼女ができたから、見に来たんだけど」
その言葉に、俊平と併せて出てきていた司が呟く。
「かわいい？沢木のどこが」
「つーかーさっ」
俊平に睨まれて、司はふんと顔を逸らす。
その様子にため息をつきながらも、俊平は答えた。
「その彼女なら去年、会ってますよ。マネージャーの沢木です」
しかし美智子は知ってるわ、だけどね、とにっこり微笑む。
「せっかくだから二人揃ってるところみたいじゃない」
美智子にそうやって微笑まれると、俊平も司もどう返したらよいのか、わからなかった。
黙り込んでしまった二人を前にして、美智子は仕方なく目の前で接客していた理香に同意を求める。
「ね」
「…はい」
しかし返ってきたのは、暗い声だった。
思わず美智子は俊平の耳元で尋ねる。
「あたし、また地雷踏んだ？」
「いや、小池は最近ずっと落ちてるから、気にしないでください」
俊平のその言葉を聞いた美智子は、再び理香へと視線を戻す。
確かに会ったのは一年前とは言え、明らかに雰囲気が違っている。
美智子はふんわりとほほ笑むと、理香に話しかけた。
「ね、小池さん。せっかくだから、校内案内してもらってもいい？
久しぶりの文化祭で、懐かしいわ」