Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
秋霖3
篤志と三年女子の噂は、あっという間に部内に広まった。
そして、篤志はいくら尋ねても、真実を答えようとはしなかったし、当事者の一人でもある理香も肩を落として黙り込んでしまったために、周りはこの噂を真実と受け止めた。
しかも館林瑞希は、男子からも人気のある生徒だったからやっかみめいた視線を、女子からは嫌われている生徒だったから、幼馴染よりそういう人を選んだことで非難めいた視線を、篤志は受けることとなった。
「がっかりだな、日比野君」
「ほんとだよな」
「あんな薄情な人だと、思わなかった。ショック」
いつの間にか篤志は、部内でも、校内でも孤立するようになっていた。
グランドに、ひとりトンボを持ってトボトボと歩く篤志を見ながら、萌子がため息をついていると、後ろから声がした。
「すっきりしないって、表情してる」
「朔哉さん」
朔哉は萌子の視線の先を追いかけてから、尋ねた。
「篤志のこと？」
「あそこまで、篤志のこと邪険にしなくても」
グランド整備だけのことではない。ストレッチの相手だって、誰も篤志とは組もうとせずにいて、見かねた朔哉が、一年の充彦に命令をして篤志と組ませたくらいだった。
いつもなら、こう言う時には理香が間に入る。
理香の物おじしない親近感のおかげで、雰囲気もよくなり、気づけばこういうぎくしゃくした空気はなくなるというのに。
そう思い、萌子はもう一度大きくため息をついた。すると、それに気づいた朔哉がくすりと笑った。
「この前の勢いは、なくなったわけだ」
萌子は、朔哉に落ち着けと言われるまで煮え切らない篤志のことを言っていた自分を思い出し、少し恥ずかしくなって顔をそらした。
「…だって、おかしいじゃない。二人の問題なのに。篤志がかわいそうに思えてきて。部内の雰囲気も良くないし」
部内の雰囲気と言われて、部長でありキャプテンの朔哉も、緩んでいた表情をいくらか引き締めた。
「そうだな。でも、篤志自身が答え出さないと、俺たちがいくら篤志を擁護しても、状況は変わらないんじゃないかな」
「それは…そうだけど」
確かに、問題は篤志と理香の間にあるわけだから、他の人間が口を出しても、解決することでもない。
けれど、萌子の心の中の靄は、残り続けるままだ。
納得のいかない表情の萌子に、朔哉が頬をつついてからかった。
「それだから、司にお節介だって言われるんだぞ」
「それはっ―」
思わず大声をあげて、顔を朔哉に向けると、そこには朔哉の真剣な表情があった。思わず息を呑む萌子に、朔哉はそっと囁く。
「俺は、そんな萌子が好きなんだけどね」
そうして、にっこりと朔哉は笑う。
萌子は頬を赤らめると、再び俯いた。そんな萌子を嬉しく思いながら、朔哉はそっとその肩を抱く。
「もう少し、時間をやろう。篤志には」
小さく息を吐き、あきらめたように萌子は答える。
「わかった」
「はあ」
と小さくため息をつき、紗依は手元の赤い御守を見つめていた。
何やってるんだろう。私。
最近、女子生徒の間で流行っているというこの御守を、紗依はよく保健室に来る生徒からもらった。
「恋愛の御守なんだよ。先生もがんばってね」
その生徒には、彼と別れたことは話していたからだと思う。好きな人ができたとは、一言も言っていないし、紗依自身もそうは思っていない。
しかし、御守を手にした瞬間、紗依には思い描いた人がいた。
確かに、夏休みから気になる存在ではあったけれど、だからと言って、別に恋愛対象というわけではない。
第一、家族のある人だ。
好きになっては、いけない人だ。
その時、ノックもなく保健室のドアが開いた。
思わず紗依も、勢いよく立ちあがった。
保健室に入ってきた生徒は、そんな紗依に少し驚いたのか、中に入ってきたもののそれ以上入っていいのかと入口で立ち尽くしていた。
「あら、藤原君」
紗依がぎこちなく微笑むと、右京もいくらか安心したのかそのまま中にはいると、ベッドの仕切りになっているカーテンに手をかけた。
「ちょっと待って、藤原君。体調、よくないの？」
慌てて紗依がそう尋ねると、右京は静かに首を左右に振った。
「そう、ならいいわ」
それはいつもの挨拶だった。
保健室には、当然ながら具合の悪い生徒もいれば、ちょっと休みに来る程度の生徒もいる。それらをきちんと把握しなければ、四つしかないベッドはすぐに埋まってしまう。
藤原右京は、たいがい四時間目のチャイムが鳴ると同時に現れる生徒だった。
そうして、昼食を取り終えた生徒たちが入ってくる頃には、さらっと出ていく。
いつ食事をとっているのか、保険医として健康が気になるところではあったが、見たところ健康的には思えたので、特にそのことを尋ねたことはなかった。
カーテンを引く音がして、紗依はほっと椅子に座り込む。
無防備に考えていたことを、一瞬見透かされたように思ってしまったのだ。
それに右京の澄んだ瞳を見ていると、なんだかそう思えてしまう。
…なんて、超能力者でもないんだし、そんなこと、ないか。
座り込んだところで、はたと紗依は気づいた。
御守が、ない。
慌てて机の上の資料を探すが、その間にもあの赤い御守は見当たらない。
いやだ、どこにやったのかしら。
紗依は椅子を蹴るように立ち上がると、しゃがみ込み、机の下をのぞいたが、それでも御守はない。
どうしよう。
出ていないのだから、きっとこの保健室の中にはあるのだろうけれど、あと少しすれば、休み時間に入った生徒たちがどっと押し寄せる。
気づかなければ、踏まれてしまうかもしれない。
どうしよう。
紗依はそのまま床に四つん這いになり、あたりを探したが、目立ちそうなあの赤色さえ目につかない。
その時、紗依の視線の先に、青い上履きが見えた。
顔をあげると、目の前には右京が立っていて、手を差し出している。その手には、紗依の探していた御守があった。
紗依は慌てて立ち上がると、右京からその御守を奪うように掴んだ。
よかった、と思わず胸の前で握りしめていると、じっと見つめる右京の視線に気づいた。
人形のような綺麗な瞳が、無表情に紗依を見つめている。
見透かされる。
そう思って、思わず紗依は答えていた。
「いいじゃない。私だって、一応女子なんだから」
そう言ってしまってから、紗依は顔をパッと赤らめた。
いやだ、私ってば。生徒に対して、女子だなんて。七つも年下の男の子に。
何か言わなきゃと思っていると、目の前の空気が、ふわっと和らいで、くすくすという笑い声が聞こえた。
えっと顔をあげると、目の前で右京が笑っていた。
「なぁに？」
声を押し殺しながら笑っていた右京が、ちらりと紗依を見つめた。
「いや。一応、先生だから、の方が似合ってる」
「ひっ、ひどいっ」
からかわれたのだと気づいた時には、ますます顔が赤くなっていた。
そんな紗依を見て、右京は教え諭すように言った。
「それに、大事なものなら、尻に敷かない方がいい」
「え」
「立ち上がった時に、椅子から落ちた」
「嘘」
「ほんと」
そうしてまた、くすりと笑う。
初めは腹が立っていた紗依だったが、確かにあの時の自分の慌てようを思い出すと、恥ずかしいくらいに笑える。
しかも、『女子』って、もっと別の言葉あったはずなのに。
僅かに笑みがこぼれると、もう止めようがなかった。
くすくすと笑いあう二人の前に、ドアがノックされた。
「こんにちは…あれ」
そう言って萌子が顔をのぞかせる。にこやかなはずの表情は、けれど中の様子を見て、はたと止まった。
そして、萌子の視線に気づいた右京も、はっと気づいたように笑うのをやめて、顔を俯かせる。
「あら、沢木さん。どうしたの？」
ただ一人、何も気づいていない紗依が、そう萌子に尋ねた。萌子は、視線を右京に向けたままに、紗依に答える。
「ちょっと、絆創膏をもらいに…そんなことより右京。もしかして四時間目さぼったの？」
萌子の責めるような言い方に、思わず紗依が間に入った。
「違うわよ。彼は、さっき来たばかり…、藤原君？」
紗依が呼び止めるのも無視して、右京は萌子の脇をすり抜けて、保健室を出て行ってしまった。
昼食を取った一馬は、喉が渇いたと、昇降口にあるブリックの販売機のところにやってきていた。
カフェオレが目に付いたが、あえて牛乳を選ぶ。どうもアルジャーノンで働くようになってから、舌が肥えてしまったのか、市販のコーヒーは受け付けなくなっていた。
一気に飲み干そうとしたところで、ケンや成たちサッカー部のいつものメンバーが歩いてくるところが目に付いた。
「一馬、グランド行くけどお前もどう？」
「悪い、パス」
そう答えながら、一馬はその中に由太の姿を見つけて、思わず凝視する。
由太がそれに気付かないはずもなく、一馬はじろりと睨みつけられた。
「なんだ」
「いや、なんでも」
ケンたちは、そのままグランドへと向かって行った。
あいつら、本当にサッカーが好きなんだな。
一馬はそう思いながら、由太の背中をもう一度見返した。
由太の様子は変わりがない。
それは、つまり何も知らないということなんだろうか。
それとも、すべて納得済みで、もう終わったこととでも言うのだろうか。
ブリックを握りつぶし、ゴミ箱に投げ捨てようとしたところで、一馬は廊下の向こうから亜紀子が歩いてくることに気づいた。
思わずじっと見ていると、一緒にいた友達の方がそんな一馬の様子に気づいたのか、訝しそうにこっちをにらみつけ、亜紀子の手を引っ張った。
何と無く決まりが悪くなり、一馬は壁に寄りかかり、二人の視線から逃れる。
自分の人相が悪いことは知っていた。
愛想だって悪い。
だから、こんなことは日常ではあったが、さすがにあからさまだと辛い。
ひそひそとしゃべる声が聞こえてきて、目の前を亜紀子たちが通る。
何も知らないふりをするのは、簡単だと思っていた。
だけど、気づいたら、先に声が出ていた。
「あの」
びくっとして逃げ出そうとした友達とは逆に、亜紀子は素直に足をとめ、一馬へと向き直る。
「ちょっと、話しないか」
まるでナンパしてるみたいじゃねぇか。
しかも、ヘタすぎる誘い文句。
落ち込む一馬に、亜紀子は、わかりましたと言って、友達に手を振った。
昼休み、理香の机を囲むようにしてお弁当を食べ終えた萌子たちの前に、いきなり厳己が紙袋を置いた。
「理香ちゃん、お土産」
それは、市内にある有名な和菓子店の袋だ。
「どうしたの？厳己」
反応が鈍い理香に代わって、萌子がそう尋ねた。
「うん、ちょっとさ。ランニングがてらに買ってきた」
「ランニングって。厳己、今日の最高気温三十度って話よ」
残暑はまだ続いていた。
それに、市内とはいえ、和菓子店は学校から２キロは離れている。
「三十度だって、試合も練習もあるだろう？」
笑顔でそういう厳己だが、額からは汗がふき出していた。
「それはそうだけど」
何も言えなくなった萌子を置いて、厳己は一生懸命理香に話しかける。
「おいしいんだって、このくずきり」
包みを開いて、厳己はそれを理香に差し出した。理香も、そうされると引けなくなったのか、笑顔で受け取りながら答えた。
「ありがと、イズミちゃん」
「どういたしまして」
厳己が嬉しそうに笑顔を浮かべる。
まるで、子犬のようだと萌子が思っていると、美都が立ち上がりながら萌子を呼んだ。
「萌子、ちょっと」
くずきりを食べる理香と厳己を見つめながら、萌子は美都の後をついて廊下に出た。
グランドでは、ケンや成たちいつものメンバーが集まって、飽きずにボールを蹴り合っている。
けれど、いつもはいるはずの篤志が、やはりいない。
「いいのかな、これで」
「これでって？」
「川瀬君、理香のこと好きなんでしょう」
美都には珍しく、そうはっきりと言った。萌子は小さくため息をつく。
「…美都もそう思う？」
「うん」
そう、と萌子は小さく呟いた。
何と無くは感じていたことだったけれど、美都にはっきりと言われると、萌子はさらにやるせない気持ちになった。
「別に、厳己は、理香を元気づけようとしているだけかな、って思ったから、いいかなって思ってたんだけど」
例えば厳己が、理香と篤志の仲を裂こうとしているとか、二人を傷つけてまで、理香を手に入れようとしているのであれば、萌子は何か厳己に伝えていたかもしれない。
ただ、厳己はそうではなく、ただ純粋に、落ち込む理香の心を励まそうとしているだけなのだ。
そう考えると、萌子は何も言えなくなっていた。
「だけど、こういう時に優しくされたら、理香の心だって動いちゃうかもしれないでしょう。
川瀬君、一生懸命だし」
美都の言いたいこともわかる。
だけどやっぱり、それを決めるのは、萌子たちでも、厳己でもない。
理香と、篤志なのだ。
「でも…。やっぱり、私たちにできるのは、見守ることだけだと思う」
萌子は、朔哉に言われたことを繰り返した。
だけど、やはり心は釈然としない。
『あたしたちの関係って、何なの？』
ふいに萌子はあの時の理香の叫びを思い出した。
どうして篤志は答えることができなかったんだろう。
篤志は、このままで、いいの？
理香を、誰かに取られちゃうかもしれないんだよ。
「日比野君、どうしちゃったんだろうね」
美都もぽつりとそう呟いた。
他人に聞かれてはまずい話だと、人目を避けていたら、偶然化学室が開いていた。
むわっとした空気を取り払うように、窓を開けるが、入ってくるのは残暑の熱い風と、うるさいほどの蝉の声だった。
広い教室に二人きりなんて、まるで告白の場面のようだと思いながら、一馬はドアの脇に立つ亜紀子に話しかけた。
「その…あいつは知ってるわけ？」
「先輩のことですか？」
「そう、高岡」
亜紀子は俯くと、はっきりと答えた。
「いいえ」
そこで一馬は一息つく。
「じゃ、まだ別れたわけじゃないってわけだ」
じろりと亜紀子を見つめると、それに答えるように亜紀子ははっきりと答えた。
「だけど、もう決めたんです」
意外と頑固な性格なんだな。
あいつに、似てる。
再び一馬は息をついた。今度は、安堵ではなく、ため息だった。
「こんなこと、俺が言うのも変だけど。
あいつ、悪いやつじゃないと思うんだ。ただ、不器用なだけでさ、その…」
「よかったです」
「へ？」
思わず一馬は甲高い声を上げた。
目の前で、亜紀子は笑っていた。
「他にも、先輩のことわかってくれる人がいて」
その表情に、嘘はない。
嫌いになって別れるわけじゃないってことか。
ってことは、あいつに何か原因があるのか？
浮気？
まさか。
あの高岡に限って、それはありえない。
じゃあ、なんだっつーんだ。
一馬が腕組みをして黙り込むと、今度は亜紀子が話しかけてきた。
「後夜祭の日に、先輩には伝えようと思うんです。
だから、その日まで、このことは誰にも言わないでもらえますか？
よろしくお願いします」
そういって亜紀子は深々と頭を下げると、ドアを開けて、颯爽と化学室を出て行ってしまった。
「あっ、ちょっ」
慌てて一馬が引き留めたものの、ドアはそのまま閉められた。
思わず小さく舌打ちをしたところで、一馬は思った。
やっぱり俺、何してるんだろう。
そして、篤志はいくら尋ねても、真実を答えようとはしなかったし、当事者の一人でもある理香も肩を落として黙り込んでしまったために、周りはこの噂を真実と受け止めた。
しかも館林瑞希は、男子からも人気のある生徒だったからやっかみめいた視線を、女子からは嫌われている生徒だったから、幼馴染よりそういう人を選んだことで非難めいた視線を、篤志は受けることとなった。
「がっかりだな、日比野君」
「ほんとだよな」
「あんな薄情な人だと、思わなかった。ショック」
いつの間にか篤志は、部内でも、校内でも孤立するようになっていた。
グランドに、ひとりトンボを持ってトボトボと歩く篤志を見ながら、萌子がため息をついていると、後ろから声がした。
「すっきりしないって、表情してる」
「朔哉さん」
朔哉は萌子の視線の先を追いかけてから、尋ねた。
「篤志のこと？」
「あそこまで、篤志のこと邪険にしなくても」
グランド整備だけのことではない。ストレッチの相手だって、誰も篤志とは組もうとせずにいて、見かねた朔哉が、一年の充彦に命令をして篤志と組ませたくらいだった。
いつもなら、こう言う時には理香が間に入る。
理香の物おじしない親近感のおかげで、雰囲気もよくなり、気づけばこういうぎくしゃくした空気はなくなるというのに。
そう思い、萌子はもう一度大きくため息をついた。すると、それに気づいた朔哉がくすりと笑った。
「この前の勢いは、なくなったわけだ」
萌子は、朔哉に落ち着けと言われるまで煮え切らない篤志のことを言っていた自分を思い出し、少し恥ずかしくなって顔をそらした。
「…だって、おかしいじゃない。二人の問題なのに。篤志がかわいそうに思えてきて。部内の雰囲気も良くないし」
部内の雰囲気と言われて、部長でありキャプテンの朔哉も、緩んでいた表情をいくらか引き締めた。
「そうだな。でも、篤志自身が答え出さないと、俺たちがいくら篤志を擁護しても、状況は変わらないんじゃないかな」
「それは…そうだけど」
確かに、問題は篤志と理香の間にあるわけだから、他の人間が口を出しても、解決することでもない。
けれど、萌子の心の中の靄は、残り続けるままだ。
納得のいかない表情の萌子に、朔哉が頬をつついてからかった。
「それだから、司にお節介だって言われるんだぞ」
「それはっ―」
思わず大声をあげて、顔を朔哉に向けると、そこには朔哉の真剣な表情があった。思わず息を呑む萌子に、朔哉はそっと囁く。
「俺は、そんな萌子が好きなんだけどね」
そうして、にっこりと朔哉は笑う。
萌子は頬を赤らめると、再び俯いた。そんな萌子を嬉しく思いながら、朔哉はそっとその肩を抱く。
「もう少し、時間をやろう。篤志には」
小さく息を吐き、あきらめたように萌子は答える。
「わかった」
「はあ」
と小さくため息をつき、紗依は手元の赤い御守を見つめていた。
何やってるんだろう。私。
最近、女子生徒の間で流行っているというこの御守を、紗依はよく保健室に来る生徒からもらった。
「恋愛の御守なんだよ。先生もがんばってね」
その生徒には、彼と別れたことは話していたからだと思う。好きな人ができたとは、一言も言っていないし、紗依自身もそうは思っていない。
しかし、御守を手にした瞬間、紗依には思い描いた人がいた。
確かに、夏休みから気になる存在ではあったけれど、だからと言って、別に恋愛対象というわけではない。
第一、家族のある人だ。
好きになっては、いけない人だ。
その時、ノックもなく保健室のドアが開いた。
思わず紗依も、勢いよく立ちあがった。
保健室に入ってきた生徒は、そんな紗依に少し驚いたのか、中に入ってきたもののそれ以上入っていいのかと入口で立ち尽くしていた。
「あら、藤原君」
紗依がぎこちなく微笑むと、右京もいくらか安心したのかそのまま中にはいると、ベッドの仕切りになっているカーテンに手をかけた。
「ちょっと待って、藤原君。体調、よくないの？」
慌てて紗依がそう尋ねると、右京は静かに首を左右に振った。
「そう、ならいいわ」
それはいつもの挨拶だった。
保健室には、当然ながら具合の悪い生徒もいれば、ちょっと休みに来る程度の生徒もいる。それらをきちんと把握しなければ、四つしかないベッドはすぐに埋まってしまう。
藤原右京は、たいがい四時間目のチャイムが鳴ると同時に現れる生徒だった。
そうして、昼食を取り終えた生徒たちが入ってくる頃には、さらっと出ていく。
いつ食事をとっているのか、保険医として健康が気になるところではあったが、見たところ健康的には思えたので、特にそのことを尋ねたことはなかった。
カーテンを引く音がして、紗依はほっと椅子に座り込む。
無防備に考えていたことを、一瞬見透かされたように思ってしまったのだ。
それに右京の澄んだ瞳を見ていると、なんだかそう思えてしまう。
…なんて、超能力者でもないんだし、そんなこと、ないか。
座り込んだところで、はたと紗依は気づいた。
御守が、ない。
慌てて机の上の資料を探すが、その間にもあの赤い御守は見当たらない。
いやだ、どこにやったのかしら。
紗依は椅子を蹴るように立ち上がると、しゃがみ込み、机の下をのぞいたが、それでも御守はない。
どうしよう。
出ていないのだから、きっとこの保健室の中にはあるのだろうけれど、あと少しすれば、休み時間に入った生徒たちがどっと押し寄せる。
気づかなければ、踏まれてしまうかもしれない。
どうしよう。
紗依はそのまま床に四つん這いになり、あたりを探したが、目立ちそうなあの赤色さえ目につかない。
その時、紗依の視線の先に、青い上履きが見えた。
顔をあげると、目の前には右京が立っていて、手を差し出している。その手には、紗依の探していた御守があった。
紗依は慌てて立ち上がると、右京からその御守を奪うように掴んだ。
よかった、と思わず胸の前で握りしめていると、じっと見つめる右京の視線に気づいた。
人形のような綺麗な瞳が、無表情に紗依を見つめている。
見透かされる。
そう思って、思わず紗依は答えていた。
「いいじゃない。私だって、一応女子なんだから」
そう言ってしまってから、紗依は顔をパッと赤らめた。
いやだ、私ってば。生徒に対して、女子だなんて。七つも年下の男の子に。
何か言わなきゃと思っていると、目の前の空気が、ふわっと和らいで、くすくすという笑い声が聞こえた。
えっと顔をあげると、目の前で右京が笑っていた。
「なぁに？」
声を押し殺しながら笑っていた右京が、ちらりと紗依を見つめた。
「いや。一応、先生だから、の方が似合ってる」
「ひっ、ひどいっ」
からかわれたのだと気づいた時には、ますます顔が赤くなっていた。
そんな紗依を見て、右京は教え諭すように言った。
「それに、大事なものなら、尻に敷かない方がいい」
「え」
「立ち上がった時に、椅子から落ちた」
「嘘」
「ほんと」
そうしてまた、くすりと笑う。
初めは腹が立っていた紗依だったが、確かにあの時の自分の慌てようを思い出すと、恥ずかしいくらいに笑える。
しかも、『女子』って、もっと別の言葉あったはずなのに。
僅かに笑みがこぼれると、もう止めようがなかった。
くすくすと笑いあう二人の前に、ドアがノックされた。
「こんにちは…あれ」
そう言って萌子が顔をのぞかせる。にこやかなはずの表情は、けれど中の様子を見て、はたと止まった。
そして、萌子の視線に気づいた右京も、はっと気づいたように笑うのをやめて、顔を俯かせる。
「あら、沢木さん。どうしたの？」
ただ一人、何も気づいていない紗依が、そう萌子に尋ねた。萌子は、視線を右京に向けたままに、紗依に答える。
「ちょっと、絆創膏をもらいに…そんなことより右京。もしかして四時間目さぼったの？」
萌子の責めるような言い方に、思わず紗依が間に入った。
「違うわよ。彼は、さっき来たばかり…、藤原君？」
紗依が呼び止めるのも無視して、右京は萌子の脇をすり抜けて、保健室を出て行ってしまった。
昼食を取った一馬は、喉が渇いたと、昇降口にあるブリックの販売機のところにやってきていた。
カフェオレが目に付いたが、あえて牛乳を選ぶ。どうもアルジャーノンで働くようになってから、舌が肥えてしまったのか、市販のコーヒーは受け付けなくなっていた。
一気に飲み干そうとしたところで、ケンや成たちサッカー部のいつものメンバーが歩いてくるところが目に付いた。
「一馬、グランド行くけどお前もどう？」
「悪い、パス」
そう答えながら、一馬はその中に由太の姿を見つけて、思わず凝視する。
由太がそれに気付かないはずもなく、一馬はじろりと睨みつけられた。
「なんだ」
「いや、なんでも」
ケンたちは、そのままグランドへと向かって行った。
あいつら、本当にサッカーが好きなんだな。
一馬はそう思いながら、由太の背中をもう一度見返した。
由太の様子は変わりがない。
それは、つまり何も知らないということなんだろうか。
それとも、すべて納得済みで、もう終わったこととでも言うのだろうか。
ブリックを握りつぶし、ゴミ箱に投げ捨てようとしたところで、一馬は廊下の向こうから亜紀子が歩いてくることに気づいた。
思わずじっと見ていると、一緒にいた友達の方がそんな一馬の様子に気づいたのか、訝しそうにこっちをにらみつけ、亜紀子の手を引っ張った。
何と無く決まりが悪くなり、一馬は壁に寄りかかり、二人の視線から逃れる。
自分の人相が悪いことは知っていた。
愛想だって悪い。
だから、こんなことは日常ではあったが、さすがにあからさまだと辛い。
ひそひそとしゃべる声が聞こえてきて、目の前を亜紀子たちが通る。
何も知らないふりをするのは、簡単だと思っていた。
だけど、気づいたら、先に声が出ていた。
「あの」
びくっとして逃げ出そうとした友達とは逆に、亜紀子は素直に足をとめ、一馬へと向き直る。
「ちょっと、話しないか」
まるでナンパしてるみたいじゃねぇか。
しかも、ヘタすぎる誘い文句。
落ち込む一馬に、亜紀子は、わかりましたと言って、友達に手を振った。
昼休み、理香の机を囲むようにしてお弁当を食べ終えた萌子たちの前に、いきなり厳己が紙袋を置いた。
「理香ちゃん、お土産」
それは、市内にある有名な和菓子店の袋だ。
「どうしたの？厳己」
反応が鈍い理香に代わって、萌子がそう尋ねた。
「うん、ちょっとさ。ランニングがてらに買ってきた」
「ランニングって。厳己、今日の最高気温三十度って話よ」
残暑はまだ続いていた。
それに、市内とはいえ、和菓子店は学校から２キロは離れている。
「三十度だって、試合も練習もあるだろう？」
笑顔でそういう厳己だが、額からは汗がふき出していた。
「それはそうだけど」
何も言えなくなった萌子を置いて、厳己は一生懸命理香に話しかける。
「おいしいんだって、このくずきり」
包みを開いて、厳己はそれを理香に差し出した。理香も、そうされると引けなくなったのか、笑顔で受け取りながら答えた。
「ありがと、イズミちゃん」
「どういたしまして」
厳己が嬉しそうに笑顔を浮かべる。
まるで、子犬のようだと萌子が思っていると、美都が立ち上がりながら萌子を呼んだ。
「萌子、ちょっと」
くずきりを食べる理香と厳己を見つめながら、萌子は美都の後をついて廊下に出た。
グランドでは、ケンや成たちいつものメンバーが集まって、飽きずにボールを蹴り合っている。
けれど、いつもはいるはずの篤志が、やはりいない。
「いいのかな、これで」
「これでって？」
「川瀬君、理香のこと好きなんでしょう」
美都には珍しく、そうはっきりと言った。萌子は小さくため息をつく。
「…美都もそう思う？」
「うん」
そう、と萌子は小さく呟いた。
何と無くは感じていたことだったけれど、美都にはっきりと言われると、萌子はさらにやるせない気持ちになった。
「別に、厳己は、理香を元気づけようとしているだけかな、って思ったから、いいかなって思ってたんだけど」
例えば厳己が、理香と篤志の仲を裂こうとしているとか、二人を傷つけてまで、理香を手に入れようとしているのであれば、萌子は何か厳己に伝えていたかもしれない。
ただ、厳己はそうではなく、ただ純粋に、落ち込む理香の心を励まそうとしているだけなのだ。
そう考えると、萌子は何も言えなくなっていた。
「だけど、こういう時に優しくされたら、理香の心だって動いちゃうかもしれないでしょう。
川瀬君、一生懸命だし」
美都の言いたいこともわかる。
だけどやっぱり、それを決めるのは、萌子たちでも、厳己でもない。
理香と、篤志なのだ。
「でも…。やっぱり、私たちにできるのは、見守ることだけだと思う」
萌子は、朔哉に言われたことを繰り返した。
だけど、やはり心は釈然としない。
『あたしたちの関係って、何なの？』
ふいに萌子はあの時の理香の叫びを思い出した。
どうして篤志は答えることができなかったんだろう。
篤志は、このままで、いいの？
理香を、誰かに取られちゃうかもしれないんだよ。
「日比野君、どうしちゃったんだろうね」
美都もぽつりとそう呟いた。
他人に聞かれてはまずい話だと、人目を避けていたら、偶然化学室が開いていた。
むわっとした空気を取り払うように、窓を開けるが、入ってくるのは残暑の熱い風と、うるさいほどの蝉の声だった。
広い教室に二人きりなんて、まるで告白の場面のようだと思いながら、一馬はドアの脇に立つ亜紀子に話しかけた。
「その…あいつは知ってるわけ？」
「先輩のことですか？」
「そう、高岡」
亜紀子は俯くと、はっきりと答えた。
「いいえ」
そこで一馬は一息つく。
「じゃ、まだ別れたわけじゃないってわけだ」
じろりと亜紀子を見つめると、それに答えるように亜紀子ははっきりと答えた。
「だけど、もう決めたんです」
意外と頑固な性格なんだな。
あいつに、似てる。
再び一馬は息をついた。今度は、安堵ではなく、ため息だった。
「こんなこと、俺が言うのも変だけど。
あいつ、悪いやつじゃないと思うんだ。ただ、不器用なだけでさ、その…」
「よかったです」
「へ？」
思わず一馬は甲高い声を上げた。
目の前で、亜紀子は笑っていた。
「他にも、先輩のことわかってくれる人がいて」
その表情に、嘘はない。
嫌いになって別れるわけじゃないってことか。
ってことは、あいつに何か原因があるのか？
浮気？
まさか。
あの高岡に限って、それはありえない。
じゃあ、なんだっつーんだ。
一馬が腕組みをして黙り込むと、今度は亜紀子が話しかけてきた。
「後夜祭の日に、先輩には伝えようと思うんです。
だから、その日まで、このことは誰にも言わないでもらえますか？
よろしくお願いします」
そういって亜紀子は深々と頭を下げると、ドアを開けて、颯爽と化学室を出て行ってしまった。
「あっ、ちょっ」
慌てて一馬が引き留めたものの、ドアはそのまま閉められた。
思わず小さく舌打ちをしたところで、一馬は思った。
やっぱり俺、何してるんだろう。