Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏果9
「お兄さん、お金くれない？」
薄暗がりの中でも、相手がニヤリと笑ったのが朔哉にはわかった。明らかにこの状況を楽しんでいるようだ。
「悪いけど、持ちあわせてない」
財布は持っていたが、渡す気は勿論ない。
朔哉の言葉に、相手が息を呑むのがわかった。そう答えるとは思っていなかったようだ。
沈黙の中、朔哉は状況を冷静に判断していた。
相手は三人だ。
見たところ、足はそんなに速そうでもないから、逃げ切れるだろう。問題は、この四方を塞がれた状況で、どう逃げるか。
誰か、突き飛ばすか。
右のヤツは、体も細い。
逃げるなら、そこだ。
だがその時、暗闇に光るものが浮かび上がった。
「ねぇ。お兄さん。嘘ついちゃいけないって、子供の頃教えてもらわなかった？」
中央の男が、ガムをかみながら、それを朔哉の顔に近づけた。
アーミーナイフだ。
ごくりとつばを飲み込んだ朔哉だったが、浮かび上がった男の顔を見る。
あどけない、まだ子供の顔だった。まるで、ゲームを楽しんでいるような笑顔だ。
だが、やっていることは、立派な犯罪。
おもちゃのように手にしているのは、人の命を簡単に奪えるものだ。
その時、朔哉の中で何かが沸点を越えた。
「…ガキにやるような金は持ってないって言ってるんだ」
先ほどとは違い、腹の底から出てきた凄みのある朔哉の声に、右の男がびくつき、一歩後ずさりしたのが見えた。だが、残りの二人は、逆上した。
「何だって？」
「こいつなめやがってっ」
左の男が朔哉を捕らえる前に、朔哉は中央の男の、ナイフを持つ手を振り払うと、右の男に向って突進しようとした。
だが、その時、左手に痛みが走った。
「っつ―」
思わず抑えると、ぬるりとした感触がある。
朔哉を追いかけようとした男の持つナイフが、朔哉の左の手のひらを数センチではあるが切りさいたのだ。
だがその血を見て怯んだのは、朔哉ではなく、ナイフを持った男だった。朔哉が痛みを堪えて睨みつけると、男は慌てたように両手を上げて言った。
「違うんだっ、オレッ、別に、あんたのこと刺したかったわけじゃなくて、偶然ナイフが―」
「こら、何してるんだっ」
その時、大声がした。顔を向けると、自転車に乗った警官が道路からこちらの様子を伺っていた。
「やべっ」
「行くぞっ」
男たちは腕を押さえた朔哉を置いて、さっさと逃げていく。警官も慌てて下りてきたが、男たちを追いかけるよりも、朔哉のことが気になったらしく、すぐに駆け寄ってきた。
「君、大丈夫か」
「…はい」
痛みはあったが、出血はそれほど多くないようだ。
警官は大きくため息を着くと、愚痴のように言い始めた。
「最近、集団でかつ上げする子供がこのあたりをうろついてるんだ。まったく、親は何をしているんだか。君も、こんな時間に、一人で出歩くのは危ないよ。
それより君。手を切ってるじゃないか」
慌てて朔哉は左手を背中に回した。
「大丈夫です。このくらい、それより。これ、落ちてました」
朔哉は足元に転がった手帳を右手で拾うと、それを警官に渡した。
どうやら、襲ってきた連中の生徒手帳のようだった。中学校、という文字が、僅かに見えた。
「ありがとう。あれ？君は…凪浜高校の―」
受け取った警官が、そう言って朔哉の顔を覗き込む。
朔哉は慌ててフードを被りなおした。
「失礼します」
警官が何か言っているのが聞こえたが、朔哉はそれを無視して走っていった。
溜まってしまった夏休みの宿題をこなしていた萌子は、一段落ついたところで大きく伸びをした。
今日は、このくらいにしようかな。
お風呂も入れなきゃならないし。ゴミ出しの準備もしなきゃいけない。
出張中の父はもとより、母も仕事が忙しいのか、今日も泊まりになるという連絡が先ほどあった。
家には萌子一人しか居ない。やらねばならないことは沢山あった。
音楽を止めると、静まり返った部屋には、時計の音だけが響いていた。
今日も、ひとりだ。
きっと、明日も、明後日も。
ふいに時計を見ると、その隣に飾った写真が目に付いた。
それは、インターハイで優勝したときに、皆で撮った写真だ。
『旅行いかないか。一泊でも』
不意に朔哉の言葉を思い出す。
決勝戦で得点を決めたら、という条件を出したのは萌子で、朔哉はその通り、約束を守った。
ならば、萌子もその約束を、守らねばならないはずだ。
だが、その約束は、忙しさの中に自然と流れていった。
夏休みもあと数週間で、その間には全日本ユースの大会がある。
旅行などしている余裕はなく、朔哉もそれはわかっているようだった。
約束が反故されたことに、どこかほっとしていることに気づき、萌子は自分の心の奥底で、約束から逃げていたことに気づいた。
旅行に行くことが、朔哉とそうなることが嫌なのではないとは思う。
嫌いならば、きっと自分はあの手を振り払っているはずだし、そもそも、約束などしない。
そういう意味で、悔しいけれど一馬の指摘は正しい。
では何なのだろう。
怖い、のだ。
朔哉が、ではない。
その時になって、自分が受け入れられるのかが、わからないから怖いのだ。
朔哉を、朔哉の気持ちを、その全てを。
そう思ったところで、萌子は更に戸惑った。
受け入れているから、つきあっているのではなかったのか。
一緒にいてほしいのだと願ったのは、自分ではなかったのか。
春、朔哉からの告白を受け入れた時は、確かにそう思っていた。
けれどこの夏、合宿の後から、気持ちが不安定だ。
『それは、…福山さんの恋人だから？』
成のあのひと言が、ずっと萌子を苦しめている。
側にいて、萌子は朔哉のすごさを実感していた。皆の思う福山朔哉になるために、朔哉は周囲に気を遣い、隠れて努力をし、だけどそんなことは微塵も見せない。それは萌子に対しても、そうだった。弱音を吐いたことなど、選手権の後の一度くらいだ。
すごいと思う。
尊敬している。
だけど、どこかで、心配で、心も体も休めて欲しいとも思っている。
それは、萌子の朔哉に対する思いやりであると同時に、萌子の本心でもあった。
一緒にいることで常に感じる緊張感に、気づかぬうちに萌子も疲れてしまっていたのだ。
「…お風呂、入れよう」
気持ちを切り替えようと、そう呟き、萌子は風呂場に向った。
スポンジを手に取り、これから浴槽を洗おうとしたところで、電話が鳴り出した。
「…もう」
誰かいたら出てくれるのに、と思いながら、萌子はスポンジを置き、リビングに向かった。
「せいーっ、成くんっ、成ちゃんっ」
ケンがベッドの下から、誘いをかけているのがわかる。
だが、それでも成はベッドから起き上がろうとはしなかった。
しびれを切らせたケンが、ベッドに上がってきて成に怒鳴る。
「おいってばっ、いい加減起きろよっ。成っ」
背中を向けた成を、無理やり自分の方に向けたところで、ケンが呟く。
「…なんだよ、その面」
黙れと言わんばかりに、成はケンの手を振り払って、顔を背けた。
「どうしたんだよ？ケン」
見かねた湊が、雑誌から顔を上げてケンに尋ねる。ケンは、成を一瞥すると、ベッドから降りて、誰とも為しに大声で言った。
「麻雀やるんだけどさ、人数足りないんだよ。成、やろうぜ」
だが、変わらず反応はない。
湊は雑誌を置くと立ち上がった。
「俺が行ってもいい？」
「湊が？もちろん、いいけど。もう一人足りねぇんだよ」
ケンはそういうと、成の方を睨む。だが、そこにあるのは、タオルケットに包まった成の背中だ。
湊が、じゃあと代わって話を続ける。
「それじゃあさ、樹生呼ぼう。あいつもできるから」
「新田かぁ、まあ。いっけど」
湊に押されるようにして、部屋を出たケンは、ドアが閉まるかも確認せずに湊に尋ねた。
「あいつ、どうしたわけ？昨日からおかしいよな」
昨日帰ってきてからの成は、誰とも口を聞かず、黙り込んでいる。
練習には出ているが、どこかプレーも苛立っているようで、石橋にも怒鳴られていた。インターハイの絶好調が嘘のようだった。
「何かあったみたいだね」
「湊も聞いてねぇの？」
湊はうんとため息混じりに笑顔で答える。ケンは思い切り舌打ちをした。
「何だよっ、あいつ」
何で一人で溜め込んでんだよ。
そう怒鳴りたい気持ちを抑えるケンに、湊が穏やかな顔をして答える。
「ユースの合宿で何か嫌なことがあったのかもしれないね。
全国から色んな選手が集まるわけだし。周りは皆ライバルって感じなのかもしれない。
知朗も、選考で落とされたのもあるかもしれないけど、何だか元気ないし」
「おまけに右京は、腹下すしっ」
試合が近いこともあり、右京は一度凪浜の病院での診察を受けた後から、練習に参加した。が、やはりまだ本調子ではないということで、別メニューだった。
主力選手がこんなんで、次の試合勝てるかっつーの。
ケンは心の中でそう呟きながら答える。
「ユース代表か。皆鼻高々で、自分が一番って自信過剰な嫌なヤツばっかりな感じだもんな」
でも、いつかはその中に自分も入りたい。
ケンはそう思った。
「とにかく今は、そっとしておこう。本当に辛くなったら、きっと話してくれると思うし」
湊はそう言うと、樹生の部屋をノックする。
「そうだな」
ケンもそう答えると、頭を麻雀へと切り替えた。
行く当てもなく、朔哉は走り続けていた。
蘇るナイフを向けられた時の恐怖から、
傷つけられた手の痛みから、
朔哉の顔を見つめた警官から、朔哉は逃げ出そうとしていた。
それでも流石に息が切れ、朔哉は足を止めた。
膝に手を当て、体をかがめ、精一杯呼吸をしようと思うのだが、いくら大きく深呼吸しても、上手に空気を吸えているとは思えなく、体も少し震えている。鼓動は、恐怖感、高揚感と重なって、心臓が壊れそうなくらいに、高鳴っていた。
気づけば、萌子の家の近くの公園だった。
朔哉は水のみ場を探して、喉を潤した。
少しだけ気持ちが落ち着くと、公園の隅にある公衆電話が見えた。
朔哉はポケットから財布を取り出すと、迷わずダイヤルを回した。
「はい、沢木です」
変わらない萌子の声に、朔哉は安堵のため息と同時に目を閉じた。
「萌子？」
「朔哉さん？」
朔哉の声に、萌子も気づいたようだった。
「どうしたの？走ってたの？息が上がってるみたいだけど」
喉を潤したというのに、体はまだ少し震えていた。声を聞いて安心したとはいえ、気持ちもまだ高ぶっている。
「声、聞きたくなって」
「部活終わるまで一緒だったじゃない。どうしたの？」
何事もなかったように話す萌子の言葉に重ねるように、朔哉はその名前を呼んだ。
「萌子」
受話器の向こうで、萌子が軽く息を呑むのがわかる。
「会いたい」
頭で考えるより、口が先に動いていた。
「今すぐ、会いたい」
「篤志っ」
怒鳴り声と同時に、ドアが勢いよく開け放たれる。
ベッドに転がっていた篤志は、慌てて起き上がった。
「何だよ、ねぇちゃんっ、っつーかノックしてくれよ」
「突然開けられて困るようなことしてたの？篤志」
環の視線が篤志の周辺を探るように一巡する。だが、怪しいものは何もなかった。
「そういうことじゃなくてっ」
答えのみつからない考え事をしていただけの篤志が、そう言い返すと、環は無視して会話を進めた。
「そんなことより、あんたまた、理香ちゃん泣かしたでしょ」
「はい？」
突然出てきた理香の名前に、篤志は戸惑った。
理香とは、今日映画を見に行った。一昨日の台風で、一度は延期になった約束だった。
そのまま無効になると思った約束なのに、今朝一馬から頼み込まれて、結局今日行くことになったのだった。
映画は理香が選んだ甘ったるいラブストーリーだった。理香は、感動で目を潤ませていたけれど、篤志からすれば実につまらない映画で、正直ちゃんと見ていなかった。
どうせだったら、アクション映画の方が楽しい。今更、理香と恋愛映画を見ても、それに酔いしれたりなんかしないというのに。だが、理香は違うらしい。
映画が終わると、理香は映画の話を続けたがったが、篤志としては一人になりたかった。
一人になって、考えたいことがあった。
だから、買い物をしたいという理香とは、映画館の前で別れ、一人家まで帰ってきたのだ。
少なくとも、理香の涙は、映画のせいで、俺のせいじゃない。
篤志はそう思っていた。
だが、環は言った。
「どうして家まで送ってやんないの」
「だって、買い物あるって言うしさ、子供じゃないんだし、一人で帰れるっしょ」
その言葉に、環は篤志の頭を叩く。
「馬鹿者っ。女の子ひとり、夜道歩かせてっ。なんて弟だろうね、全く」
「だって、駅から家までの距離だよ。理香の家なら、十分もかからないだろう」
環は篤志を睨みつけると、怒鳴りつけた。
「歩きなれてる道だって、今日が安全だとは限らないでしょう。
これが萌子ちゃんだったら、送っていくくせに。
誰に似て、こんなに外面が良くなったんだか」
思わず篤志も言い返す。
「ねえちゃんだって、お客に対して横暴なこと言わないだろ、一緒だよ」
「商売なんだから、笑顔で接客するのは当たり前でしょうっ。まったく、口は軽いわ、姉のせいにするわ。
萌子ちゃんに、私に嵐の中アイス買いに行かされたって言ったんだって？何嘘ついてんのよ」
環の口から出てきた話に、篤志は取り繕うことも忘れて、驚いた。
「だってっ、それはっ―」
慌てふためく篤志をふんっと一瞥すると、環は思い切り睨みつけて言った。
「そうやってると、いつか愛想尽かされるからね。あんたの最後の味方は、理香ちゃんだってこと、忘れちゃ駄目よ」