Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏果8
「ふふふん♪」
練習を終えたミーティングルームで、鏡を覗き込みながら、理香が鼻歌を歌っている。
軽やかな足取りは、今にも踊りだしそうなほどだ。
「どうしたの？理香」
その様子に見かねて、萌子が美都に小声で聞く。
「今日ね、日比野君とデートなんだって。一昨日延期しちゃった分」
「へぇ。そうなんだ」
鏡を見ながら、髪の毛をくるくるといじっている理香は、本当に楽しそうだった。
「理香、日比野君待ってるんじゃない？そろそろ行った方がいいと思うよ」
美都がさりげなくそういうと、理香はハッと気づいて時計をのぞくと、
「やばっ」
と小さく叫んだ。そして勢いよくロッカーを閉めると、自分を見つめている二人に笑顔で言う。
「それじゃ、お二人さん。また明日〜」
バタバタとミーティングルームを出て行った理香と見て、萌子と美都はくすくすと笑う。
「ほんっと、嬉しそうだね。理香」
「昨日は本当に落ち込んでたっていうのにね」
台風のせいでデートができなかったとかで、昨日の理香は口数も少なく、肩もがっくり落として部活に参加していたのだ。
事情を知らない石橋からも、
「小池は、何か悪いもんでも食べたのか？」
と言われるほど、その落ち込みようはひどかった。
見かねた一馬が、篤志をせっついて、今日のデートが実現されることになったのだけれど、理香はそのことを知らない。
「ムードメーカーだもんね、理香」
「理香が元気ないと、サッカー部も暗くなるしね」
萌子と美都はそう囁きあってから、またくすくすと笑った。
「それじゃ、私も帰るね。萌子は、朔哉先輩と帰るんでしょう？」
身支度を終えた美都が、ごく普通にそう尋ねる。
「うん」
ぎこちなく答えたものの、美都も自分のことで精一杯なのか、気づくことはなかった。
「じゃあね、また明日」
ミーティングルームを出て行く美都の隣には、寄り添う和美の姿が窓越しに見えた。
僅かに見えるその横顔には、幸せのオーラが出ている。
美都も、順調なんだな。
萌子はそう思い、ひとりため息をついた。
「石橋先生」
体育館から出てきた石橋を見つけた紗依は、慌てて声をかけた。
「あぁ。田波先生」
何か言われる前に、紗依は持っていた紙袋を差し出した。
「あの、これ。この前、送っていただいたお礼です」
中身は、弁当だ。
今朝早起きをして、頑張って作ったものだった。
だが石橋は、差し出されたそれを、受け取ろうとしなかった。
「あぁ。いいですよ。別に、気にしなくてよかったのに」
そう答え石橋はそのままジャージのポケットに手を入れてしまう。
だが、紗依も引くわけに行かなかった。
「でも、奥さまいらっしゃらないんでしょう？そうしたら、食事もあまりちゃんとしたもの食べてないんじゃないかと思って。
あの、それに、これ。残り物なんです。だから、あまり気にしないでください」
お願いします、と頭を下げる紗依を見て、さすがにばつが悪くなったのか、石橋もポケットから手を出すと、その紙袋を受け取った。
「じゃあ…。ありがとうございます」
その声を聞いて、紗依は顔を上げると、いいえと言って微笑んだ。
萌子が一人、部室の鍵を閉めていると、後ろから声がかかった。
「もーえこちゃんっ」
「環さん」
そこには、体育館の影から顔を出し、やっほうと手を振る環が居た。
「今日は一人？」
「はい」
朔哉には、石橋に話があるとかで遅くなるから、先に帰るようにと言われていた。
萌子の返事を聞き、環は目を輝かせた。
「じゃあさ。ちょっとお茶しない？」
「はいっ」
久しぶりに会う環だったが、意外にも口から出てきたのは明るい話題ではなかった。
環は、付き合いだしそうだった人と、別れてきたところだったという。
原因は、相手に妻子が居たことだった。
そもそも、今日は海辺をドライブしながらデートをする予定で、凪高の目の前の駐車場に来ていたのだ。
「それが、ほんと馬鹿な人でさ。
車に乗り込んだ途端、定期落とすから、拾ってあげたら、そこに家族の写真入れてあったのよ。
ほんと、バカ。
だいたい車なんだから、定期なんて使わないのに、どうして持ってきてるのよ。
浮気するのに、どうして家族の写真なんか持ってきてるのよ」
いきなりの打ち明け話に、萌子はどう答えていいのかわからなかった。
だが、少し綺麗めの格好をして、それなりに化粧をしている環を見れば、今日のデートをいかに楽しみにしていたのかがわかり、それが更に萌子を戸惑わせていた。
環は頬杖をついたまま、アイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、ぽつりと呟く。
「嘘つくくらいなら、いっそ突き通してくれればいいのに」
そういう環の言葉に、萌子は黙り込む。
環の気持ちもわかった。
けれど、萌子は相手の気持ちも何となくだがわかった。
きっと、言い出せなくて、困ってたんだろう。
環の言うとおり、ばれるようなものを、持って行かなければ、きっと今頃は楽しくデートをしていただろう。だけど、そうしなかったのは、男の意思でもあったんじゃないのかと、萌子は少し思った。
もしかしたら、ばれてむしろ、ほっと安心したんじゃないのかな。
それは、そのまま萌子の気持ちでもある。
結果として、成とは会わなかったものの、約束をしていたのは事実だ。
それは、朔哉を裏切ったということ。
朔哉の隣にいればいるほど、萌子はその罪悪感にさいなまれていた。
俯く萌子の前で、環はいきなり大きく伸びをした。
「でもよかった。あと一歩踏み出しちゃったら、きっと後に戻れなかっただろうなあ。
危ない、危ない」
そう言って笑顔を見せたところで、ふと環の表情が曇る。
「そういえばさ、萌子ちゃんところの保健の先生…」
「田波先生？」
「そうそう、あの別嬪さん。恋人いるの？」
いきなりの質問に萌子は戸惑った。
「確か、恋人と別れたばかりって言ってましたけど」
「ふーん」
「どうかしました？」
萌子からすると、環と紗依の接点が見えない。
歳も違うし、環さんは田波先生の名前も知らなかったみたいだけど。
すると環は小さく首を振った。
「ううん。ただの勘。外れるといいけど。
それにしても不倫しなくてよかった」
「環さん」
明け透けな物言いに、萌子の方が慌てる。だが、アルジャーノンには二人以外客もいなく、また買い出しで、一馬もいなかった。
「だって、誰も幸せにならないじゃん。
どうせ恋人できたんだったら、皆に祝福してもらった方がいいじゃない」
「はい」
それはその通りだと思う。
萌子は、かつての父と母の言い争いを思い出して答えた。
あの後、相手の女性も、結局会社を辞めたそうだ。その後のことを萌子は聞いていないけれど、環の言うとおり、誰も幸せになどならなかった。
俯いた萌子の顔を覗き込むようにして、環が身を乗り出して萌子に質問する。
「で。萌子ちゃんはどうなの？あいつ、朔哉、優しい？」
その質問に萌子は戸惑いながらも、正直に答える。
「…はい。とても」
誰かと付き合うのは初めてだから、他の誰かと比べようはなかったが、美都や理香の話からしても、朔哉の優しさは格別だった。
俯いく萌子の態度を、恥じらいと取った環は、ニコニコと笑いかける。
「そうか、それはよかった。
朔哉ってば、あんな感じだけど本当は真面目だから、大丈夫かって思ったけど。
でも、うまくいってるならよかった。
萌子ちゃんには、幸せになってもらいたいって、思うんだ。保護者として」
環の言葉が萌子の心の奥の方に触れる。
気がつけば萌子は口を開いていた。
「環さん」
「ん？」
「幸せって、どういうことだと思いますか？」
顔を上げた萌子を、環も正面から見据えて答える。
「難しいこと聞くね」
環は再び頬杖をつくと、うーんと唸ってからこう言った。
「そうだな、私なら…誰かの為に生きてること、かな」
「誰かの為に生きていること？」
そう、と環は大きく頷く。
「小さいことだけど、お店に来てくれたお客さんが、髪を切って、笑顔になって帰ってくれるときは、やっぱり幸せだな、って思うし。何だか浮かない表情の萌子ちゃんが、私と話すことで少しでも笑顔見せてくれるんなら、あーよかったな、幸せだなって思う」
「環さん…」
ちゃらんぽらんに見せて、観察力の鋭い環に、萌子は言葉を詰まらせた。
環は目を瞑ると、うんうんと数回頷いた。
「別に無理に話しなくていいからね。だけど、話したくなったら、その時は聞くから。
いつでも連絡ちょうだい」
にっこりと微笑む環を見ていると、ふいに萌子は目頭が熱くなった。
この人にだったら、相談できるかもしれない。
朔哉さんとの事、成とのこと。全部。
「あの…」
萌子が口を開きかけた瞬間、ふいに先ほどの環の言葉が頭を過ぎった。
『あいつ、朔哉、優しい？』
『それはよかった。
朔哉ってば、あんな感じだけど本当は真面目だから、大丈夫かって思ったけど。
でも、うまくいってるならよかった』
そう。
環も、朔哉との恋を応援している一人なのだ。
…言えない。
言えるわけ、ない。
「ありがとう、ございます…」
萌子はそう答えると、出掛った言葉をアイスティーを飲み込んだ。冷たい液体が、萌子の頭を一気に冷やす。
何事もなかったかのように、萌子は笑顔になって言った。
「私、環さんみたいなお姉さん欲しかったな」
環もそれに大きく頷いた。
「その言葉っ、篤志に言って聞かせたいよ。この前も余計なこと言いやがって。我が弟ながら、あの口の軽さは何だろうね」
顔をしかめる環に、萌子は笑いながら答える。
「でも、環さんの為に、嵐の中アイス買ってきてくれたじゃないですか」
「え？アイス？」
環の表情が、変わる。困ったのは萌子の方だった。
「はい。一昨日の夜」
駅で声をかけてきた篤志は、確かにそう言っていた。
環は、腕組みをしてうーんと考え込む。
「確かにアイス食べたけど、頼んでないよ。あの雨の中、買出し行けなんて、さすがに言わないわよ」
「え」
一瞬、萌子の頭が真っ白になった。
「そう、ですか」
平然を装ってそう答えたものの、あの時の篤志のことばかりが、脳裏に浮かんで来た。
それじゃあ、何で篤志は、あの時間、あそこに現れたの？
どうして、嘘ついたの？
…もしかして、何か知っていたの？
朔哉は、いつもの防波堤に腰掛けていた。
いつの間にか夕日は落ち、目の前には漆黒の闇が広がっている。
気づいてしまった不安の種に、朔哉は今も悩まされていた。
そんなこと、あるはずない。
萌子は何も言っていなかった。
だから、萌子を信じよう。
そう思う一方で、
だけど、という言葉が付きまとう。
今朝も、今までのように萌子を迎えに行き、二人で学校まで来たけれど、どんな会話をしたのか、正直朔哉は覚えていなかった。
たった、ひと言聞けばいいだけなのだ。
あの嵐の夜、早坂と何か約束をしていたのか？
ただ、それだけ。
なのに、聞けない。
一つには、そんなに萌子を信じられないのか、という自分を責める気持ちがあるからだ。
だけど、本当は、怖いだけなのだ。
萌子が、そうだと認めることが。
もし、萌子が認めたら、自分はどうすればいいのだろう。
笑って許す？
そんなこと、できるのか？
萌子は自分に秘密にしていたのに？
朔哉は項垂れると大きく頭を振った。
落ち着け。
落ち着くんだ。
仮に、会う約束をしていたからといって、それがそのまま浮気ということにはならない。
もしかしたら、どうしても会わなきゃならない事情があったのかもしれない。
そしてそれは誰にも言えない事情だから、萌子は俺にも言えなかっただけかもしれない。
…だとしたら、どうして二人がそういう事情を抱えるんだ？
いや、実はその逆で、会うことは、それほど大した事情じゃなかったのかもしれない。
例えば、部員の誕生日プレゼントを買いに行くことに、なってしまっていたとか。
だから、俺に話さなかった。
…だけどそんな風には見えなかった。
考えれば考えるほど、答えは見つからない。
ならばいっそ考えなければいいと思うのだが、隣に萌子がいて、考えないわけがない。
だから、帰りは、石橋に用事があるといって、先に帰した。実際の話は、五分程度のものだから、待っていてもらっていても構わなかったのだが、萌子もすんなりとそれを受け入れた。
だが、萌子が隣にいなくても、朔哉の不安が消えるわけではなかった。
寮に戻り、部屋で横になっていても、音楽を聴いていても、そのことばかり考えてしまう。
頭を空っぽにしたくて、朔哉は一人ランニングに出た。
近所を軽く走る程度に、と思っていたのに、気づいたら海に来ていた。
しかも、この場所に。
一年の頃、何かに煮詰まると来ていたこの場所は、変わらず朔哉を受け入れてくれた。
ぼんやりと、海に沈む夕日を、防波堤に押し寄せる波を見ていたら、いつの間にか時間が経っていたようだ。辺りは暗闇に包まれて、少し先にある外灯の明りだけが頼りだった。
流した汗も、もはや引いていた。
少し肌寒さを感じて、朔哉は着ていたパーカーのフードを被る。
晩御飯も食べてない。
そろそろ帰るか。
立ち上がったその瞬間、暗闇の向こうに数人が朔哉を取り囲んでいる気配がした。
何だ？、と声を出す前に、その中の一人が朔哉に言った。
「お兄さん、お金くれない？」
暗くてよく顔は見えないが、背丈と声の感じからして、中学生か高校生のようだ。
喝上げか。
だが、相手は三人。
そして、俺のすぐ後ろは暗い夜の海。
朔哉はごくりと、つばを飲み込んだ。