Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏果10
ドアを開けると、毎朝のように笑顔の朔哉が立っていた。
「遅くにごめん。おばさんたちは？」
その表情からは、先ほどの切羽詰まったような凄みがない。
気のせいだったのかもしれない、と思いながら萌子は朔哉を迎え入れた。
「例によって二人とも出張。年頃の娘が、一人で留守番すること、何も思ってないみたい。
…手、どうしたの？」
リビングに入ったところで、萌子は朔哉の左手にぐるぐると巻かれたタオルに気づいた。
「ああ、ちょっと…」
背中に隠そうとしたその手を無理やり掴むと、朔哉の表情が僅かに歪んだ。
萌子が慌ててタオルを外すと、浅くだが、長く切られた傷跡が見えた。
「切れてるし、血が出てるわ。手当てしないと」
それだけ言うと、萌子は下から救急箱を持ってきた。
手当てをしながら、萌子はぽつりと呟いた。
「…擦り傷じゃ、ないよね」
明らかに、切り傷だ。まっすぐ線を引かれたような切り口からすれば、ナイフのようなものかもしれない。
萌子の質問に、朔哉は小さくため息をついて答えた。
「海辺に居たら喝上げされそうになった」
「え」
驚く萌子に、朔哉は口早に説明した。
「大丈夫。ナイフ出されたところで、警察の人が来たら、相手は逃げ出したから。
暗かったし、相手の顔もわからなかったし、フード被ってたから、気づかれてないと思う」
俯きがちにそういうと、朔哉は黙り込む。
萌子は包帯を巻き終えたところで、静かに尋ねた。
「さっきまで、海で一人でいたの？」
沈黙の後、朔哉は答えた。
「ちょっと…考え事があったんだ」
そう、と答えながら、萌子も黙り込んだ。
だが、目の前の朔哉の表情は、どこかおぼろげだ。
何かあったのだろうかと考える萌子だが、思い当たるようなことはなかった。
ただ成との約束だけが、気がかりと言えばそうだが、昨日の朔哉の様子からしても、それではないと思う。
昨日などは、むしろ楽しそうに笑っていたはずだ。
でも、まさか。
萌子は気持ちを切り替えて尋ねた。
「病院、行ったほうがいいんじゃない？」
しかし、朔哉は頑なだった。
「大丈夫。それほど深い傷じゃない。それに、変に騒がれたくないんだ。今の時期に」
そう答えた朔哉の気持ちが、萌子にもわからないわけではない。
大きな大会を目の前に控えた今、不祥事があれば、出場辞退もありうることだった。
萌子は包帯の端をテープで止めると、そっと朔哉の手を離した。
「…とりあえず手当て終わったけど。明日も痛むんだったら、やっぱり病院行くべきだと思う」
「わかった」
相変わらず朔哉は俯いたままではあったが、その声ははっきりしていた。
喝上げされかける。
ナイフは、おそらく脅しとして使われたのだろう。
一瞬、寒い公園での出来事を思い出しそうになり、萌子は慌てて、声を張り上げて言った。
「そういえば、この前のお土産ありがとう。すごくおいしかった」
朔哉の買ってきたゼリーは、甘すぎず、本当においしかったのだ。母親もその味を気に入っていた。
下を向いていた朔哉の頬が僅かに緩む。
「同級生に教えてもらった店のなんだ」
「同窓会あったの？」
「予定が合った奴だけ。昔のチームメートもいたし、女の子も数人来てくれた」
ふーん、と言いながら、萌子はわざと茶化すように尋ねた。
「初恋の子も来てた？」
軽く返してくれると思った萌子だったが、朔哉は淡々と答えてくれた。
「いや。彼女は、別の学校だった。それにもう、きっと俺に会いに来てはくれない」
その言葉に息を呑んだのは、萌子だった。
影を落とした朔哉の表情に、自分が心の闇に土足で踏み込もうとしたことに気づいたのだ。
「…ごめんなさい、私―」
「いいんだ。中三の時、ふられたんだ。自分は、俺には不釣合いだからって」
「朔哉さん―」
もういいから。
そんな話を聞こうと思って聞いたわけじゃないから。
そう言おうとしたが、朔哉が萌子の言葉を遮った。
「いいから。聞いて、萌子」
いつになく、強い口調の朔哉に萌子は黙り込んだ。
しばしの沈黙の後で、開いた膝の上に肘を乗せ、両手を祈るようにして項垂れた額の前で組み、朔哉は話を始めた。
「初めて、本当の俺を認めてくれた子だったんだ。いや、認めてくれると思えた子だった。皆の思う、福山朔哉じゃなくて、俺を。
でも結局、俺は、俺の存在は、彼女を守るどころか傷つけていた」
ふっくらとした、白く、柔らかい頬。
大好きだった。
あの頬を、彼女の大事な人を、だけど俺は傷つけた。
「だからもう恋なんてしないって誓った。
想えば想うだけ、俺自身が好きになった相手を傷つける。
俺が俺自身を裏切る。
俺は、結局、福山朔哉に勝てないから。
そんな時、ある人が言った。
福山朔哉という偶像を追いかけて頑張っている俺も、俺の一部だって。
美智子さんはそう言ってくれた」
聞いたことのある名前に、萌子が顔を上げる。
それに頷くように、朔哉は答えた。
「原田美智子。コウさんの彼女だよ」
海からの風になびく黒髪。
くすくすと、いたずらっ子のように微笑む笑顔。
恋をしないなんて、決めた俺が間違いだった。
「もちろん、美智子さんは、俺の気持ちなんか知らない。俺も自分の気持ちは、隠し通してきたつもりだ。
だけど、そんな気遣いも必要がないくらい、二人は信頼しあってた。俺の入る隙間なんて、初めから一ミリもなかった」
美智子さんが話すのは、こっちの気持ちもお構いなしで、話は全部コウさんのこと。
それも、コウさんの愚痴。
だけど、その表情に、声に、全てにコウさんへの愛が溢れていた。
「苦しかった。話しかけられるたびに、どこかで期待してる自分がいて、そんな自分がコウさんを裏切っているような気がして、浅ましく思えた。だから、二人が卒業して、凪浜からいなくなって、正直ホッとした。
そんな時、萌子が凪浜にやってきたんだ」
いきなりグランドに居た少女は、いきなりその髪を、ばっさりと切り捨てた。
自分の夢を叶える為に。
もがき苦しんでいた人を助ける為に。
「何て子だろうと思った。けど、まっすぐな瞳は力強くて…。
思えばあの時、一目ぼれしてたのかもしれない、萌子に」
誰に対しても、まっすぐな萌子に、けれど朔哉はあまり近づかないようにしていた。
「だけど、怖くて。本当の俺を知られるのが怖くて、そうして軽蔑されるのが怖くて、萌子と距離を置こうと思ってた。
でも、無理だった」
選手権の後、朔哉の重圧を軽くしてくれたのは、紛れもない萌子のひと言だった。
『私は、アイドルの福山さんよりも、今の福山さんのことを、応援します』
萌子なら、萌子になら、全てをさらけ出しても大丈夫だと思った。
そして、事件が起こり、二人の距離が近づく。
不謹慎なのは承知の上で言えば、あの夜のことを、朔哉はどこかで幸運と感じていた。
自分に与えられた、数少ないチャンス。
誰にだってあるチャンスを掴むのか、逃がすかは、タイミングと決断力だと話していたのは、笠間だったろうか。
そして、朔哉は自分の気持ちを決めた。
朔哉は天を仰ぐように顔を上げると、大きく息を吸い込んでから話を続けた。
「萌子に告白して、ＯＫもらった日の夜は、眠れなかったよ。
寝て起きたら、全てが夢物語になってる気がして」
そこまで言って、朔哉はふっと力が抜けたように微笑んだ。
「かっこ悪いよな、とことん。
わかってる。自分でも、情けない。
でも。
萌子が居てくれれば、これからも頑張っていける。そう思える」
萌子、と呼びかけて、朔哉は視線を萌子に向けた。
「俺の、そばに居て欲しい。ずっと」
これから先、ずっとずっと。
俺のそばに。
だが朔哉は、萌子の強張ったような表情を見て、目を瞑ると再び顔を俯かせた。
…やっぱり、そうだよな。
こんな情けないヤツの側にいても、楽しいわけがない。
だけど俺は、諦めたくないんだ。
萌子のことを。
どうしても、諦められないんだ。
どうにもならない想いに、朔哉が更に固く目を瞑ろうとしたところで、そっと体を抱きしめられた。
「…萌子？」
顔を上げると、確かに萌子が自分の体を優しく包み込むようにして抱きしめていた。
戸惑う朔哉に、萌子は小さく頷いて答えた。
「いるよ。私は、ここにいるから」
萌子、と朔哉がもう一度呼びかけるのを押し切って、萌子は朔哉の肩に顔を埋めるようにして言った。
「今日はずっと一緒にいて」
ふいに、眩しい陽の光を感じて、朔哉は目を開けた。
レースカーテンから、朝日がこぼれて、自分の顔に照らしている。
見慣れぬ景色に、戸惑っていた朔哉は、昨日の出来事を思い出し、慌てて体を起こした。
隣にいるはずの萌子は居ない。
それとも、昨日のことは夢？
だが、ここは確かに萌子の部屋だった。
まだ早朝に近い時間だ。
ふいに、階下から、リズムのある物音が聞こえてきた。
朔哉は枕元に置かれていた、昨日は投げ捨てたはずの自分の服を慌てて着ると、階段を下りていった。
萌子は、すでに制服姿で、台所に立っていた。手元には野菜と包丁がある。
リズムはこれだったんだ。
ふいに振り返った萌子が、朔哉に気づく。
「おはよう」
いつものように萌子はそういうと、再び野菜を切り始めた。
朔哉はしばらくその背中を見つめていたが、サラダを切り終えた萌子が、食卓にそれを並べ始めた途端、そのままの萌子を抱きしめた。突然のことで驚いたの か、萌子の手からサラダボールが落ちる。あっ、と小さく叫ぶ萌子の声が聞こえたが、朔哉は無視して、更に強く萌子を抱きしめた。
「…どうしたの？」
そう尋ねる萌子の髪に、顔を埋めながら朔哉は答えた。
「いないから、夢かと思った」
昨日の夜のことも、
その前のことも、
付き合っていることでさえ、長い長い夢のような気がしていた。
夢じゃないことを確かめたくて、朔哉はいっそう強く抱きしめる。
すると、胸の中から、萌子の苦しそうな声がした。
「苦しい、朔哉さん」
「…ごめん」
腕の力を緩めると、萌子が朔哉を見上げる。
その表情には、どこか恥じらいがあり、朔哉と目があうと、萌子は恥ずかしそうにして顔を俯かせた。
「もう学校に行かないと、練習はじまるよ。それに、朔哉さん。寮に戻った方がいいでしょう」
確かに私服のままに、学校に行くわけには行かなかった。
今日の練習は、朝からだ。
とすれば、確かにあまり時間はない。
自分を捕らえていた腕の力が緩まり、萌子は忙しなく落ちたサラダを拾い始めた。
「萌子」
「ん？」
サラダを拾い終えた萌子が、朔哉の呼びかけに振り返った。
その笑顔を、守りたい。
一生をかけて。
「愛してる」
朔哉はごく自然にそう口にしていた。
それと同時に、強く決意をした。
守りたい、じゃない。
これからは、守っていく、なんだ。
朔哉の突然の言葉に、戸惑っていた萌子だが、
「私も」
と小さく呟いた。そうしてから、深呼吸をし、もう一度その言葉を口にした。
「私も、朔哉さんのこと好きよ」
萌子はそう言って、微笑んだ。
朔哉もそれに答えるように微笑むと、萌子の手元を見つめて謝った。
「サラダ、ごめん」
「いいよ。大丈夫だから」
「朝ごはん、食べようか」
「うん」
この日の朝は、朔哉が今まで生きてきた中で、一番幸せだと思った朝だった。
成は一人で、学校に向っていた。
練習にはまだ少し早かったのだが、昨日もあまりよく眠れなかったし、寮にいても、考えたくないことを考えてしまう自分がいて、一人先に寮を出てきたのだ。
いつもだったら、爽やかに感じるこの朝の海からの風も、今日は何だか煩く思える。
ため息をついたところで顔を上げると、逆方向から校門に向ってくる萌子が見えた。
「あ」
同じように萌子も成に気づくと、お互い足が止まっていた。
こうして二人だけで顔を合わせるのは、萌子の家に成が行って以来だった。
とはいえ、あの時は、萌子が一方的にしゃべり、成を追い返したのだけれど。
むしゃくしゃした気持ちが、成の中にこみ上げてくる。
あの日、一方的に自分を拒否した萌子に。
そして、昨日の夜、外泊をしてきた朔哉に。
その電話は、消灯時間直前にあった。司の家に泊まるのだと言っていたけれど、誰かがそれは朔哉が外泊するときの常套手段で、バレンタインの時もそう言って寮には帰ってこなかったが、実際に司の家には泊まっていないのだと口にしていた。
つまり…。
そう考えてしまうから、成は昨日眠れなかったのだ。
とはいえ、無視をするのも大人気ない気がしていた。
萌子と朔哉は付き合っているわけで、そういうことがあっても、別におかしいわけじゃない。
誰かがそう言っていた。
悔しいけれど、その通りだった。
「おはよう」
成の挨拶に、萌子も戸惑いながら答える。
「お、はよ」
だが、その次に続く言葉が、お互い出てこなかった。
さっさと部室に入ろうとする成を、その時萌子が引きとめた。
「成」
足を止め、振り返る。
萌子の表情は、どこか硬い。
「ちょっといいかな。成に、話したいことがあるの」