Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏果7
朔哉が、寮に戻ってきたのは、萌子の家にくる三十分ほど前だった。
予定より早くついたこともあり、誰もいないと思った寮だが、練習を終えた寮生たちがいち早く帰ってきていた。他にも数人の部員たちが、全員リビングに大集合をして騒がしくしていた。
「だから、悪かったって謝ってるじゃないすか」
悲鳴のような声を上げているのはケンだ。
朔哉はリビングには入らず、廊下で中の様子を伺うことにした。
「これで何度目の注意だと思ってるんだ。寮の電話はひとつしかなくて、お前のものじゃないんだ」
そう諭すように言っているのは、三年の小田原だ。性格的にも穏やかに話しているものの、周囲の雰囲気は殺伐としている。
どうやら昨日のケンの電話のことが問題になっているようだった。
「長電話するなら、外の公衆電話使えと言っているだろう」
「だってあの雨の中だから、外に出て行きたくねぇし」
「皆だって同じだ」
譲らない小田原に、ケンはぷいっと顔を背ける。
確かに寮から一番近い公衆電話の場所は、歩いて十分ほどのコンビニだった。
そんなケンの態度に、腹を立てた樹生が、先輩たちを無視して言い返した。
「そうだよ、ケン先輩。おかげで、俺。今日クラスメートと遊ぶ予定だったのに、連絡つかないからってハブにされたんだぜ」
「樹生」
湊が宥め、樹生もケンのように顔を背ける。
年長者である小田原が、粘り強くケンを諭した。
「昨日は藤原のこともあったし、電話が繋がらなくて大変だったんだ」
それでも答えないケンに、しびれを切らした環が怒鳴った。
「そうよ、あんたのせいで、うちの電話が鳴りっぱなしだったんだから、ねっ。篤志」
「あ、うん」
環の勢いに押され、篤志は思わずそう答える。
「友近の電話だってそう、厳巳ちゃんの親からの電話だってそう。
あとは、あんた、誰の電話出たんだっけ？」
「え？…監督と、成と…」
しどろもどろに答える篤志に代わって、環が話を続けた。
「京ちゃんだってカンカンだったんだから」
だがケンは首を傾げるだけだ。
「まじ？でも、今日の練習じゃ何も言ってなかったけど」
「あきれ返ってんのよっ」
青筋を立てて怒鳴る環を、厳巳が慌てて抑えた。
「おっ、落ち着いて環さん」
だが環はその腕を振り払う。
「これが落ち着いていられますかっ。おかげで、こっちは電話出れないから、デートの約束できなかったんだからっ」
「…もとからかかってこない電話だったんだってば」
ため息がこぼれる中で、篤志が冷静に答えた。
「何ですって、篤志っ」
「何でもないってばっ。あーっ、朔哉さんっ。お帰りなさいっ」
環に胸倉を掴まれた篤志だったが、ふと視線の先に朔哉を見つけて、救世主とばかり声を上げた。
全員に視線を向けられて、朔哉は仕方なくリビングに入る。
「ただいま…。なんか、すごいことになってるな」
苦笑いを浮かべると、篤志が環の手から逃れて言った。
「朔哉さんからも言ってやってくださいよ。昨日のケンが長電話して大変だったんですから」
「そうそう、福山先輩からも電話あったもんなぁ。消灯時間過ぎて」
口を出してきた樹生に、朔哉は答える。
「繋がらなかったんだ」
「しかも、しょーもない内容」
思わず睨みつけると、
「樹生、お前ってばひと言多すぎだってば」
と、同じく一年の植松が樹生の腕を押さえた。
気づけば周囲の視線は全て朔哉に集まっていた。皆一様に、この場を納めてくれることを期待している目だった。
朔哉は心の中で小さくため息をつく。
「とりあえず、決まりを破った名取は一週間寮の電話使用禁止」
「えーっ」
ケンが大声を上げるが、こればかりは朔哉も助けるわけにいかなかった。
「大丈夫だ。しばらくは台風も来ないらしいし」
「ちぇっ」
本人も悪いと思っているのか、ケンもそれ以上は言わなかった。
とりあえずその場が治まったところで、朔哉は包みの一つを樹生に差し出した。
「ほら、新田。約束の土産。皆で食べてくれ」
「やったぁ」
「じゃ、みんなお茶にしよっか」
環がそう言って、ようやく場の雰囲気が和む。
朔哉は、それを見て、自分の部屋へと上がっていった。
荷物も片付け、下に下りて行くと、由太が篤志を廊下に呼び出しているのが見えた。
「何だよ、由太。俺に話って。中じゃ話せないこと？」
土産のケーキを頬張る篤志と違って、由太の表情はあくまで硬い。朔哉は何となく階段を下りづらくなり、足を止めた。
「…昨日の夜、用事があって、偶然萌子の家の前を通りかかった」
「え？」
驚いたのは篤志だけではなかった。
突然出てきた萌子の前に、朔哉は思わず耳を潜めた。
「何かあったのか？一緒に、歩いてただろ」
明らかに篤志は動揺すると、めまぐるしく視線をめぐらせ始めた。
「あ…。いや、別にっ」
と、そこで、篤志は階段に立つ朔哉に気づいた。
「っ朔哉さん」
由太まで驚いたように朔哉の方を見つめる。朔哉は戸惑って、口を閉ざしたが、それが篤志には自分への疑惑と感じたらしかった。
「あっ、違うんですよっ。
嫌だな、由太っ。
俺もさ、俺も、たまたま、姉貴に買い物頼まれて、それで駅に行ったんだよ。
そしたらさ、偶然っ。萌子がいるわけ」
「萌子が？」
思わず朔哉がそう答えると、篤志は同意を得たと感じたのか、更に声を張り上げて説明した。
「そうなんですよっ。それで、時間も10時とかでさ、びっくりして。
そしたら、萌子ってばバカでさ、朔哉さんの帰る日、変わったの忘れてたんだって」
自然と朔哉は息を飲み込んだ。
「時間も遅いし、それで俺が家まで送ることになったってわけ。
だから、何もやましいことはないですから、朔哉さん」
ぎこちなく笑う篤志に、嘘はないのだろう。
確かに、萌子の家に電話をかけても、誰も出なかった、と朔哉は思い出しながら篤志に尋ねた。
「…10時まで駅にいたのか？萌子」
「あ、はい。いつからかは、聞いてないですけど。あ、でも朔哉さん。これ、萌子には内緒にって言われたんで、聞かなかったことにしてください」
「内緒？どうして」
「恥ずかしいから」
確かに自分から言い出せるような話ではないと思いながら、朔哉は答える。
「珍しいな、スケジュール間違えるなんて」
いまや練習試合などのスケジュールも、管理するのは石橋ではなく萌子だ。
確かに電話口でも、何だかぼんやりしているというか、
心ここにあらず、ではあったけど。
黙りこむ朔哉に、篤志がこう言った。
「でも、俺。萌子の間違えた気持ち、わからなくもないです。きっと、朔哉さんに一日も早く会いたかったんですよ」
それは自分も同じだった。
いっそのこと、直接学校まで行こうかと思っていたくらいだった。
「ちょっと、外に出てくる。夕食の時間までには戻ってくるから」
「どこ行くんですか？」
慌ててそう尋ねた篤志に、朔哉は微笑みながら答える。
「もう帰ってきてる頃だろう、萌子」
昨日のことは、直接聞けばいい。
それより、何より。
萌子に、会いたい。
その気持ちが、朔哉を走らせていた。
来たときとは違う気持ちで、寮へと続く道を歩きながら、朔哉は気づかぬうちにため息をついていた。
胸に起こった違和感を消したくて会いにいったというのに、結局不安となった影は、ますます大きくなっている。
『朔哉さんの帰る日、変わったの忘れてたんだって』
おとといの電話で、帰りの日は確認していた。
帰ってくるのは午後の三時くらいで、その頃萌子は部活の最中だ、と。
だから駅で待ち合わせる約束は、とりやめたのだ。
それに、萌子の部屋のカレンダーにも、昨日の日付にはバツがつき、代わりに今日の日付に丸がついていた。
おまけにあの大雨だ。
それでも間違えて、駅で待ち続けるだろうか。
途中で気づきはしないだろうか。
朔哉はふと、胸に手を当てた。
先ほどまで、萌子が寄りかかっていた自分の体。
『昨日の夜、何してた？』
ただそう聞けばよかったはずなのに、朔哉はそれができなかった。
萌子の答えを聞くのが、怖いと思った。
「ただいま」
寮の玄関には、たくさんの靴が放り出されていた。その隙間に靴を並べ、朔哉は部屋へと上がる。
「…あとで来いよ」
廊下に声が響くと、ドアが開き、湊が姿を現した。朔哉に気づくと、湊は笑顔を見せた。
「お帰りなさい、福山先輩」
「ただいま。もう、夕食か？」
「その前に準備あるんで。今日は、ちょっとしたパーティーみたいな感じだし。先輩は主賓だし、もう少ししてから降りてきてください」
「わかった」
相変わらずの笑顔を浮かべ、湊は階段を下りていく。それを横目で見送りながら朔哉は部屋に入ろうとしたところで、ふと湊の出てきたドアが開いていることに気づいた。明りがついているままだ。
珍しいな、しっかりものの和泉が、電気消し忘れるなんて。
そう思いながらドアに手を伸ばしたところで、朔哉の視線に思わぬものが飛び込んできた。
なんの特徴もない紙袋だった。表には、凪高の制服を扱っている店の名前が印刷されている。
少し遅れて家に帰ってきた萌子が手にしていたものと同じだ。
『押し売りセールスの人。追い返しちゃった』
萌子はそう言って戻ってきたときには、あったはずの包みはなかった。
本当にそうなのだろうか。
セールスの話し声は聞こえてこなかったし、それに少し話す時間も長かった。
それは、つまり…。
「はぁーっ」
部屋からいきなり誰かのため息が聞こえてきて、朔哉は慌ててドアから手を離した。
合宿に行っていた成が、帰ってきているのだ。
そういえば、あいつらも、今日帰って来たんだ。
確か予定じゃ―。
そう思ったところで、朔哉はごくりとつばを飲み込んだ。
そう、予定じゃ、昨日帰ってくるはずだった。
小さな点が、そうして細いながらも繋がることに、朔哉は身震いを覚えると、急いで自分の部屋に駆け込んでいった。
大きく天井に吐き出したため息は、そのまま自分に降り注いでいく。
目の前の、少し壁紙のはがれかけた天井を見つめながら、成は無意識でもう一度ため息をついた。
ついてる、と思ったのは昨日の夜のことだ。
右京が倒れ、凪浜に帰れなくなった昨日。
萌子も捕まらず、寮にも電話が繋がらず、もう絶対にダメだと諦めた時、偶然見つけたアルジャーノンの電話番号は、まさしく運がいいとしか言いようがなかった。
祈るように電話をかけると、ちょうど一馬が出た。
「もしもし？一馬。俺、早坂」
口早にそう言うと、一馬は少し驚いた様子で答えた。
「ああ。どうした？」
理香を何とか送り届け、お礼にとラーメンを出されながらも、一馬はアルジャーノンに戻ってきていた。やはり店長の怪我が気になっていたのだ。店に戻ると、一組のカップルが食事をしているところだった。どうやら別れ話をしているらしく、雰囲気は重かった。男はすぐ女を置いて店を出たいようなのだが、別れたくない女がそれを引き止めている最中だった。
どうした、と聞かれた成は、悩んだ挙句答えた。
「その…色々あって、今日はそっちに戻れなくなったんだ。で、一馬に頼みたいことがあって」
「それで？」
どうやら一馬は引き受けてくれるようだ。成は、ほっと一息をついてから、受話器に口を近づけると小さな声で頼み込んだ。
「萌子が駅にいるかもしれないんだ。家に電話しても繋がらなくて。それで、迎えに行って欲しいんだ。とりあえず、俺は今日は帰れそうにないから」
「萌子？ああ、わかった」
一馬はそう答えると、そのまま電話を切った。
成はほっと胸をなでおろした。
やっぱり、今日はついてる。
小さくガッツポーズをすると、通りかかった知朗が怪訝そうな表情を浮かべた。
「風呂、空いたぜ。成」
「サンキュ」
そう答えると、成はリビングを出たところで、再びガッツポーズをした。
成は、信じていた。
きっと、萌子は許してくれるだろうと。
きっと、明日には、ゆっくり話ができるだろうと。
それなのに。
「これは？」
萌子に家に向かい、出てきた萌子にほっと安心していた成は、差し出された紙袋を見てそう尋ねた。
「サイズ合わなかったら、お店に行って。中にあるレシート見せれば、取り替えてくれるから」
と萌子は口早に言った。
一緒に買いに行くはずだったシャツだ、と気づいた時には、萌子の姿はなかった。
どうして、と理由を聞く時間もなかった。
だが、萌子の気持ちは充分に伝わっていた。
一緒に買いには行かない。行けない。
合宿前の、萌子を思い出す。
手のひらを返したような萌子の態度を、それでもまだ成は嘘だと思いたかった。
だが、渡されたシャツは成の手元にあった。
それに、ついさっき寮にやってきた一馬からも、萌子からの返事を聞かされていた。
「雨がひどくて、昨日は行かなかったって、言い張ってる」
萌子はそういうヤツじゃないし、様子が少しおかしいのだと一馬は続けて説明した。
「すまん。俺が、電話もらってすぐに行ってれば」
成はそれは違うと答えた。
約束を破ることになったのは、自分なのだから、と。
「むしろ、感謝してる。ありがとう」
一馬は強く首を振った。
「俺は関係ないから、このことでは、もうあいつとは話しないけど。でも、あまりむきになると、却ってあいつが頑なになるだけだと思う」
一馬のアドバイスは、正しいと成も思った。
一度そう決めたら、それを貫き通すのが萌子だ。
これ以上、昨日のことを問いかけても、余計こじれるだけ。
だけど、それじゃ、俺はどうすればいい？
俺の気持ちは、どこに向かえばいい？
寝返りをうってはみたものの、気持ちは晴れることなく成は大きくため息をついた。
「夕飯の準備できましたーっ」
階段の下から一年の声が聞こえてきた。
食事する心境じゃないと思っていた成だが、その声に素直に腹の虫が反応する。
重い体を起こし、廊下に出て行くと、ちょうど階段の下から上がってきた朔哉と鉢合わせる形になった。
萌子のことを思い出し、成は思わず顔を逸らしたが、朔哉のほうはそれに気づくことなく話しかけてきた。
「聞いたぞ。昨日は、大変だったみたいだな」
「え？」
萌子のことを思い出し、成は思わず声をあげる。朔哉は冷静に答えた。
「藤原。急性腸炎だったんだって」
「あぁ、でも大変だったのは俺じゃなくて、右京ですから」
結局入院したのは昨日だけで、右京の退院を待ち、成たちは三人で帰ってきたのだ。
全日本ユース選手権の試合が近い今、チームの中心である右京の不在は、大きく勝敗に影響する。
足早に朔哉の前を立ち去ろうとする成に、朔哉は思い出したように尋ねた。
「本当だったら、何時に帰ってくる予定だったんだ？」
「え？」
成は思わず振り返る。朔哉は淡々と質問を続けた。
「昨日駅に、何時ごろ着く予定だった？」
成を見つめる朔哉の目は、睨みつける風でもなく、かといって笑いかける風でもなく、考えがわからず成は戸惑ったが、そのまま素直に答えることにした。
「…六時、です」
それ以上何か聞かれるのかと思った成だが、朔哉は意外とそっけなく答えた。
「そう、か」