Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏果6
萌子は待っていた。
駅に着いたのは、6時前だった。
少し、早かったかな。
駅のロータリーの中央にある時計を見ながら、そう思った。
台風の影響か、家路に着く人々で駅は大混雑していた。タクシーには大行列をなし、駅にも迎えを待つ人たちで溢れていた。
夏の終わりの生ぬるい強い風が、人の混雑と混ざり、萌子の体にまとわりついていたが、それでも萌子は微動だにせず、じっと待っていた。
ようやく駅が落ち着いてきた頃、台風の為、電車のダイヤが大幅にずれていることが、駅のアナウンスで流れてきた。
待ち合わせの時間からは、三十分が過ぎていた。
もう少し待とう。
もう少し、もう少し。
どうせ家に帰ったって、誰もいないのだから。
気づけば、時計は約束の時間より一時間を過ぎ、二時間を過ぎていた。
駅には、つい数時間前の混雑はどこに行ってしまったのか、人影もなく、静まり返っている。
駅前の商店街も、そのうち店仕舞いを始めた。この天候では、客足も望めないのだろう。
おそらく萌子が成と約束していた店も、もう閉まっている頃だ。
けれど、萌子は待っていた。
萌子も、気づいていた。
買い物は、口実で、成は自分に話があるのだと。そして、自分も、成と話したいと思っていることを。
心の奥には、朔哉への罪悪感はある。
けれど、今日は、どうしても成に会わなければならないと、そう思っていた。
そのまま時間は淡々と過ぎていった。
改札を人が抜けるたびに萌子は顔を上げたが、そこに成の姿はなかった。
成、どうしたんだろう。
電車が遅れただけかな。
それとも、何かあったのかな。
何か、よくないことが？
小さな不安は、瞬く間に萌子の心を覆いつくす。
だが、何かあったとして、どうやれば成に連絡がつくというのだろうか。
寮に電話する？
湊に聞く？
そう思ったところで、萌子はぎゅっと二本の傘を握り締めた。
いいえ、きっと。
成は、今日のことは誰にも話してない。
他の部員にも、
湊にさえ。
ただの予感でしかなかったけれど、今の自分にはただ待つことしか出来ないのだと、萌子は感じていた。
「萌子？」
その時、背後から突然呼びかけられて、萌子は慌てて振り返った。
「あ…つし」
「何やってんの？こんな時間に」
そこにはラフな格好の篤志が立っていた。傘を差してはいるものの、かなり服は濡れている。それだけ、雨が強いのだろう。
こんな時間といわれ、萌子は時計を見た。午後の十時。親が家にいれば、帰ってこない萌子を心配する時間だが、今の萌子にはそのような親は居なかった。
「篤志こそ」
「俺？ねぇちゃんに言われて買出し。ただのアイスだぜ、アイス。ひっでぇよな、こんな雨の中。一日くらい我慢すればいいのに。ほんと、あれこそ姉鬼だよ。で、萌子は？」
うまく質問を交わせたと思ったのに、篤志はまた同じ質問を繰り返した。
「うん、ちょっと…」
まさか、成と待ち合わせをしているのだとは言えなかった。
俯く萌子に、突然篤志が大声を上げる。
「あーっ！わかった」
「えっ」
ニヤつく篤志を見て、萌子は一瞬、本当のことを知っているのではとドキリとしたが、篤志の答えは、それとは違っていた。
「朔哉さん、待ってんだろ？」
思いがけない答えに、萌子は一瞬言葉を失った。篤志は更に笑いながら、萌子に笑いかける。
「早く会いたいって気持ちはわかるけど、朔哉さん帰ってくるの明日だよ」
「あ、」
詰まった萌子の声を、篤志は違う解釈をして答える。
「一日伸びたの、聞いてなかった？」
昨日の電話で、そう言っていたことを萌子は思い出した。
正直なところを言えば、今日のことで頭がいっぱいで、明日朔哉が帰ってくると言っていたことすら、忘れてしまっていたのだ。
「そう、っだったっけ？」
なるべく平然を装って答えると、篤志が萌子の持っている傘を掴んだ。
「そうだよ。朔哉さんそう言ってなかった？とにかく送るよ。ひどい嵐だし」
「でも」
「こんな夜に、女の子を一人にして帰るようじゃ、男じゃないし。
まして相手が萌子だったら、俺が責任持ってちゃんと送り届ける。そうでもしないと、朔哉さんに顔見せできないよ」
朔哉の名前が出て、萌子ははっと気づく。
自分と朔哉の関係。
サッカー部での、凪高での、存在。
それは、相手が入学の時から仲良くしている篤志であっても、変わらない。
私は、福山朔哉の恋人なのだ。
『萌子は、もっと朔哉先輩のこと、大事にしてあげるべきだよ』
理香の言葉が、萌子の脳裏を過ぎる。
『朔哉先輩、本当に萌子のこと好きなんだから。
あんなに萌子のこと大切にしてくれる人なんて、他にいないよ？』
相手は、最高の恋人と称される人。
わかっている。
歩道では、道路側を必ず歩くさりげない気遣い、名前を呼ぶだけで返ってくる幸せそうな微笑。
わかってる。
朔哉さんの想いは。
苦しいくらいに、わかってる。
でも。
萌子はぎゅっと目を瞑って俯いた。
「そういや、さっき知朗から連絡あってさ、右京が急性腸炎とかで、入院したらしい」
「入院？」
思い出したように篤志が言った。顔を上げて驚く萌子に、篤志は小さく頷く。
「でも、心配要らないって。明日には退院して、三人で帰ってくるってさ。右京も、知朗も、成も」
右京が入院。
だから、成は約束の時間に来なかったのだ。
今日はもう、こない。
帰ってこない。
そう考えると、体中から、力が抜けていく気がした。
萌子の手から倒れかけた傘を、篤志は奪うと、笑顔で言った。
「明日も早いんだしさ、帰ろう」
萌子は、力なく答える。
「…そうだね」
よかった、と微笑み、傘を差す篤志の背中に、萌子は話しかけた。
「ねえ、篤志。今日のこと、誰にも言わないでくれる？」
「え？」
くるりと篤志が振り返った。
萌子はぎこちなく微笑みながら、明るく答える。
「だって、恥ずかしいじゃない。日にち間違えた、なんて」
笑顔で答えると思った篤志の表情は、一瞬だけ強張ったような気がしたけれど、それでもすぐにいつもの笑顔になった。
「わかった」
台風はその夜の深夜には抜けた。
萌子が目を覚ますと、太陽が燦燦と輝いている。
水溜りやそれにかかる青々とした落ち葉、木々に残った雨の雫がなければ、昨日の台風などなかったかのような晴天だった。
台風が通り過ぎた後というのは、決まって蒸し暑くなる。
この日も例外じゃないだろうと思いながら、萌子は家を出た。
校門をくぐり、部室に向かう途中で、萌子は一馬に呼び止められた。
「お前、昨日どうした」
昨日と言われ、どきっとしながらも萌子はいつものように答える。
「どうしたって、別に普通よ」
「駅にいつまで居たんだよ」
ドキッとして、萌子は思わず足を止めかけた。
「駅？何の話、一馬」
とぼけてみたが、一馬は変わらなかった。
「連絡もらったんだよ、昨日の夜。成から。
お前が駅にいるかもしれないから、迎えにいって欲しいって。だけど、バイトから出られなくて、遅れちまって。バイク飛ばして行ったら、十時半になってた けど、駅には誰もいなかったから、心配してたんだ。お前の家に行ったら、灯りが見えたからいるんだろうと思ったんだけど。早くいけなくて悪かった」
「…一馬が謝ることじゃないよ。バイト中なんだもん。忙しいに決まってる」
悪いのは、そんな一馬に頼んだ成の方だ、という言い方の萌子に、一馬は頭を振った。
「いや、悪いのは俺だ。寮の電話が繋がらないからって、わざわざこっちにまで連絡くれたのに」
項垂れる一馬に、萌子は明るく答えた。
「だから、一馬は悪くないわ。
それに、私行ってないもの。天気悪かったから、やめちゃった」
できるだけ、おちゃらけるようにして答えると、一馬の顔が強張った。
「…おかしいぞ、お前」
「え」
「どんな約束してたのか、俺は聞いてないし、知りたいとは思わないけど、少なくともお前は約束を簡単に破るようなヤツじゃない」
はっきりとそう言われ、萌子は返す言葉を失った。
黙りこんだ萌子に、一馬は小さくため息をついて答える。
「それでも、お前が行ってないって言うんなら、俺はそれでも構わない。
だけど、成は必死だったぞ。お前に何かあったんじゃないかって、すごく心配してた。
それだけは、わかってやれよ」
「萌子」
話しかけられた萌子は、ハッとして顔を上げた。
暑い日差しを遮るように前に立つ由太の姿を見て、萌子は自分がグランドで、救急箱の片づけをしていたことを思い起こさせた。慌てて手を動かしなら萌子は答える。
「あ、ごめん。何？由太」
逆光になって、由太の表情はよく見えない。目を細める萌子に、由太は低い声で話を続けた。
「理香から、聞いた。…俺が、お前を避けてるんじゃないかって」
「あ、あぁ」
そういえば、と萌子は答える。
理香に話したのは昨日のことだったのに、もうずいぶん昔のことのような気がした。
気にしないで、と萌子が口を開く前に、由太が淡々と答える。
「色々あって、疲れてたんだ、この頃。でも、ようやく落ち着いてきた」
二年になってから、確かに由太の身辺は慌しかった。両親は離婚をしたが、由太も妹の好実も、変わらずこの凪浜で母親と暮らすことになった。周囲へのこともあり、それぞれ大学に入るまで、子供の苗字は高岡のままでいくそうだ。
「好実ちゃん、元気？」
萌子は、グランドの片隅で練習風景を見つめていた好実を思い出しながらそう尋ねた。由太は、短く頷いた。
「相変わらず。お袋も、仕事頑張ってるし、親父も元気らしい。昨日、電話があった」
「そう」
小さく息を吸い、由太が口を開こうとしたところで、遠くの方から理香の声が聞こえてきた。
「萌子ーっ、ちょっとお願いっっ」
抱えた籠からは、洗濯物が今にも落ちそうだった。昨日の台風のおかげで、一日洗濯出来なかった分、今日はその倍の量がある。
だが、今理香が落とせば、更に洗濯の回数が増えることになる。
萌子は慌てて立ち上がった。
「ごめんね、由太。ちょっと行ってくる」
わかった、と答える由太だったが、駆けていく萌子の背中に、無言のまま問いかけた。
昨日の夜、だけどお前はどこに行ってた？
どうして、篤志と一緒に帰ってきた？
父親からの電話の後、由太はやはり萌子の家に電話をかけた。
だが、誰も出なかった。
手が離せなくて出れないのかと思ったが、何か気になって、その後もかけたが、それでも出なかった。心配になって、結局由太は萌子の家に向かった。すると、ちょうど萌子と篤志が、家に帰ってきているところだった。どこか浮かない表情の萌子が気になった。
どこに行ってたんだ？
篤志が一緒だったのか？
どうして、篤志が？
見つめる由太の視線の先には、萌子がいつにない厳しい表情で立っていた。
駅に寄って買い物を済ませた萌子が家に戻ると、玄関にはいつもはない靴が置いてあった。
「あら、萌子。お帰りなさい」
「お帰り、萌子。いや、ただいまかな」
母親に続いてリビングから顔を出したのは、朔哉だ。
「朔哉さん。いつ着いたの？」
リビングのソファには、朔哉がゆったりとくつろいでいた。その隣に荷物を置きながら、萌子が尋ねる。
「さっき。でも、もう練習終わってる時間だし、とりあえず寮に荷物置きに行ったら、篤志たちも帰ってきてたから、萌子も帰ってくる頃だと思って」
そう言って微笑む朔哉の向こうから、アイスティーを持った母が現れる。
「昨日はごめんね、帰って来れなくて」
「ううん。無事帰って来れたんだ」
「当たり前でしょう。朔哉君から、お土産頂いたのよ。萌子も一緒に食べましょう」
机の上には、すでにカラフルなゼリーが並べてある。
「わかった。着替えてくるね」
鞄を持ち、部屋に上がろうとしたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「あら、荷物かしら」
そういう母親に代わり、萌子が答えた。
「あ、私出る」
鞄を玄関の脇に置くと、萌子はそのままドアを開けた。
「はい」
だが、その瞬間、萌子の表情は固まった。
「あ、萌子」
「成…。どうして―」
そこには、制服姿の成が立っていた。走ってきたのか、額からは汗が流れており、足元には大きな荷物が置かれていた。
「昨日は、ごめん。何か色々あって、行けなくて…。誰か、来てる？」
中を伺うようにした成を見て、萌子は慌てて自分も外に出るとドアを閉めた。
家の中には朔哉がいる。
会わせるわけにはいかないと思った。
「昨日の埋め合わせは、必ずするから。だから―。
これは？」
必死で謝っていた成は、目の前に差し出された紙袋を見て、戸惑った。
萌子はそんな成を無視してそれを成の胸に押し付ける。
「サイズ合わなかったら、お店に行って。中にあるレシート見せれば、取り替えてくれるから」
それが、昨日買うはずだったシャツだと成が気づいた時には、萌子は半分体をドアに滑り込ませていた。
「萌子っ―」
「それじゃ」
ちょっと待って、という成の声は、ドアの閉まる音にかき消された。
ドアを閉めたところで、萌子は大きくため息をついた。大きく深呼吸するものの、一度高鳴った鼓動は、なかなか治まりそうになかった。
「荷物だった？」
静かに二階に上がろうとしたところで、母親が萌子にそう尋ねる。萌子は、しばし足を止めた。
「ううん。何か押し売りセールスの人。追い返しちゃった」
「あらたくましい」
「着替えてくるね」
萌子はそう答えると、逃げるように階段を駆け上った。そして部屋に駆け込むと、そのまま床に座り込んだ。
鼓動は更に高鳴っている。
シャツを渡したときの成の驚いた表情が、萌子の脳裏に強く焼きついていた。
これでよかったのだ。
これで。
忘れようと目を強く瞑ったが、余計に先ほどのことが思い起こされた。
すると、軽くドアがノックされて、朔哉の声が聞こえてきた。
「萌子？」
「はい。どうぞ」
大きく深呼吸すると、萌子は思い切りドアを開けた。朔哉は、少し心配そうな表情をしていた。
「どうかした？」
「ううん。何でもない。どうしたの？」
あまりにまじまじと見つめられ、萌子は俯きながらそう尋ねた。とても今は朔哉の顔を見れる心境ではなかった。
朔哉は、いや、と小さく答えてから、そっと萌子の髪に触れる。
「やっぱり早く帰ってくるべきだったかなって思って。萌子の顔見たら、そう思った。
こんなんじゃ、先が思いやられるかな」
朔哉がくすりと笑う声を聞きながら、萌子はそっと朔哉の胸に頭をうずめた。
「萌子？」
心配そうな朔哉の声が聞こえる。
トクトクと、心地よい朔哉の鼓動が萌子の耳に届いた。
「少し、このままでもいいかな」
お願い、と言いながら、萌子はゆっくりと目を閉じる。
ここが、自分の居場所なのだと、何度も確認しながら。