Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏果4
台風が迫ってきているためか、空には暗雲が広がり、風も強くなってきていた。
いつ雨が降り出してもおかしくない、という状況になったところで、石橋は練習の終了を告げた。
「今夜には関東を抜けるそうだから、明日の練習はいつも通りの予定だ。
今夜はおとなしく、自宅で待機しているように」
海沿いに立つこの校舎は、強く吹き付ける海風を直接受けることになる。
このまま雨が降り出しても、風の強さで傘を差す余裕などない。その為にか、誰もが足早に学校を後にした。
部室の鍵を閉めたところで萌子は空を仰いだ。空には、淀んだ色の雲が厚く広がっている。理香も美都も、用事があると、萌子より先に部室を出ていた。部室の鍵を返したところで、萌子はひとり校門に向かって歩き出していた。逸る気持ちを抑えきれず、気づけば駆け足になっている。
そんなに急いでも、待ち合わせの時間が早まるわけじゃないのに。
はたとそう気づき、萌子は足を止め、海を見つめながら大きく深呼吸した。海には、もうすぐ嵐がやってくるというのに、沢山のサーファーたちが浮かんでいる。
「萌子っ」
校門の脇に立っていた理香に名前を呼ばれ、萌子は慌てて顔を上げた。
「あれ？用事は？」
「あー、うん。雨天延期になった」
はにかんだ様にそう言って理香は笑う。確かにこの天気では、今日は出歩かないほうが良いに決まっている。
それなのに。
萌子は成との約束を思い出し、口を閉ざした。
「どうかしたの？萌子」
黙りこんだ萌子に、理香が心配そうに尋ねる。まさか、本当のことが言えるわけもなく、萌子は慌てて言った。
「何でもない」
「本当に？」
しかし理香は引かなかった。
理香になら、話してもいいのかな。
朔哉に対する後ろめたさからか、思わず萌子はそう考えた。理香は、男女が2人でどこかに出かけるからといって、それはデートじゃないと言っていた。
だが、口を開きかけた瞬間、別の言葉が頭を過ぎった。
『萌子は、もっと朔哉先輩のこと、大事にしてあげるべきだよ』
口を閉ざす萌子だったが、理香は萌子が何か話そうとしていたところを見逃さなかったようで、そのまま萌子の顔をじっと見つめ続けた。
その視線に耐え切れず、萌子は今日、ふと思ったことを口にした。
「…何だか、由太に避けられてるような気がして」
「由太チャン？」
「気のせい、かもしれないけど」
それは本当に些細なことだった。
タオルを渡すとき、
飲み物を渡すとき、
朝の挨拶、帰りの挨拶。
由太は、萌子の目を見ていないように思う。
萌子を励ますように、理香は声を大きくして言った。
「気のせいだよ、気のせい！由太チャンって結構気分屋だし、気難しいしさ。
それより、萌子。今日も、寄って行かない？アルジャーノン」
約束の時間までは、まだある。
だが、こんな気持ちのままで、ゆっくりお茶など飲めるはずもなかった。
「ごめん。今日は、ちょっと」
萌子がそう言うと、理香は一瞬表情を固くしたものの、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「そっか。わかった」
いつもの萌子だったら、そのままの理香を置いて、先に帰ろうとはしなかったのかもしれない。
けれど、萌子の頭の中には、約束のことしかなかった。
「ごめん、それじゃ」
そう言って足早に校門を出て行く萌子を、そうして理香も止められなかった。
校門を背もたれに、小さくため息をつくと、まさに由太が、こちらに向かって歩いてくるところだった。
由太も理香に気づくと、小さくお疲れといって、その脇をすり抜けようとした。だが、そんな由太を、理香は引き止めた。
「由太チャン、ご機嫌斜めなのは、どうでもいいけど、人に当たっちゃだめだよ」
ぴたりと足を止め、由太は僅かに理香を振り返りながら聞き返す。
「何の話だ」
「萌子が、由太チャンに避けられてるんじゃないかって、気にしてたよ」
その瞬間、由太の眉が僅かに上がる。こわばった表情に、理香はフォローを入れることにした。
「大丈夫。気のせいだって言っておいたから。それよりねぇ、由太チャン。よかったらさ、アルジャーノン―…」
アルジャーノンに行かない？
そう言いかけた理香だったが、ふと目の前にあったはずの由太の姿が、もう先のほうに歩き出しているのに気づいて言葉を止めた。
「何よ、人の話は最後まで聞いてよねっっ」
由太の背中にそう怒鳴りつけた理香だったが、その声にいつものような力強さはなかった。
窓の外に流れ行く景色に、ポツリと水滴が落ちてきた。
「あ」
どんよりとした曇り空だ。いつ降ってもおかしくなかったから、ついに来たというところだった。
思わず声をあげた成だったが、隣の知朗は相変わらず黙り込んだままだったし、通路を挟んだ席に、ひとり座る右京も、窓の外を眺めたままピクリとも動いていない。間を埋めるように、再び知朗に視線を戻した成だったが、固く握り締められた拳が目に付いて、口を閉ざした。
だって、こんなとき。
何ていえばいいのか、わからない。
ユース代表候補合宿最終日。午前の紅白戦の後、田村は次の合宿参加者の名前を挙げた。それはすなわち、現時点でのユース代表選手を意味し、そしてその中に知朗の名前はなかった。
堀田の名前もなかったが、右京と成の名前は、平太と共に呼ばれた。
そういうことだった。
雨は、すぐに本降りとなり、窓は水玉模倣ではなく、いくつもの水滴からなる小さな小さな川ができている。
知朗が、努力型の人間であることは、ようやく成もわかるようになってきた。そして本人がそれを認めない性格というのも、この1年半程の付き合いの中で、ようやく理解し始めていた。それはプライドの高さでもあり、コンプレックスの裏返しだということも。
普通の高校生男子としても、決して高くはない身長をカバーするための俊敏さを、知朗は努力でもって手に入れていた。インターハイでの活躍は、その努力が花を開いた結果であり、ユース代表候補に選ばれたのは、それが全国に認められた証なのだと思った。
だが、それも、ほんの三日で変わってしまった。
ゴールへの臭覚は、ともすれば単なる幸運と思われがちだ。
偶然、ボールが飛んできた。
偶然、前が開けていた。
軽く足を伸ばしてボールを蹴っただけ。
軽くジャンプして、頭をボールが掠めただけ。
それだけで、ゴールが決まる。
けれどそれは、その状況を作れるポジションにいることが、また瞬時に対応できるからこそ決められるゴールであり、その決定力は立派な才能なのだ。
そして成は、知朗にはその才能が充分に備わっていると思っていた。
だからこそ、今回の落選は、成にとってもショックであった。
雨は風と共に、ますます強くなってきていた。そのせいか、新幹線も速度を落としての運転に切り替わり、到着時間が遅れるとのアナウンスが入った。今回の台風は、大型で非常にゆっくりとした速度で東に向かっているという。まさしくこの新幹線と同じ経路である。
待っててくれるかな、萌子。
沈みかけた成の気持ちを、萌子との約束が湧き立たせた。
凪浜にも、この台風の影響は出ているはずだった。
萌子のことを心配に思う気持ちと、今日しかない、という気持ちが成の中で揺れ動いた。
今日しかない。
実際そんなことはないと思うのだが、成はそう感じていた。
『このチャンスは、今しかない。
次はもう来ない。
考える前に、手を伸ばす』
そう言っていた笠間の言葉を思い出しながら。
よし、と小さく気合を入れる成の横で、ふいに右京が声を出した。
「正月、国立に行こう」
「え？」
声をあげた成の隣で、弾かれたように知朗も右京を見つめた。
だが右京は、知朗を見ることなく、もう一度呟いた。
「国立に」
それが選手権のことを指しているのは、確かだった。
選手権で優勝しよう。
全国制覇しよう。
はっきりそう言った右京に戸惑う成の隣で、知朗が力強く、
「ああ」
と答えた。
「やっぱり、アッチ。どうでもいいのよ、あたしのことなんか」
理香はそう言うと、ぐいっとグラスを飲み干した。当然だが、グラスの中身はアイスティーであるが、その管の巻く様は酔っ払いのようであった。
今日の放課後、理香は篤志と一緒に映画を見に行く予定だった。
ところが、練習後に篤志を誘うと、今日は中止だと断られたのだ。
空になったグラスを引き上げ、一馬が答える。
「そりゃ、この雨の中じゃ、中止にするだろ」
「でも、映画館だよ。雨なんか関係ないじゃん」
「見てる最中はいいけど、終わったらどうすんだよ。傘差しても、ずぶぬれだぜ。この様子じゃ」
「だって…」
映画に誘ったのは理香だ。
そしてこの日を楽しみに待っていた。
ずぶぬれになっても、それはそれで構わないのに。ドラマのように、どこかで雨宿りをすることになっても、その先に何かが起こっても、理香としては全然構わないことだ。
一向に引かない理香に、小さくため息をつきながら一馬は呟いた。
「この前、信頼されてるからって、言ってたじゃねぇか」
「それはっ、だってそうでもいわなきゃ、美都のことが羨ましすぎて。
…美都だけじゃない。萌子だって。
ねぇ、一馬っち。どうしたら、アッチはあたしと同じくらい、あたしのこと好きになってくれないんだろう」
「だから、その呼び方やめろ」
ドンと音を立てて、新しいアイスティーが理香の目の前に置かれた。口を尖らせる理香に、一馬ははっきりと言う。
「愛情なんて、秤にかけるもんじゃねぇだろ。それに、仮にかけられたとしても、同じじゃなくてもいいんじゃねぇか。
要は、相手にとって、自分がどういう存在で、相手のために何をしてやれるかってそういうことだろ」
しかし理香は一馬からぷいと顔を逸らしたまま、何も答えなかった。
「ほら、雨も振り出したし、風が強くなってたし、そろそろ帰れって」
雨は本降りになってきていた。ぼやぼやしていると、嵐に巻き込まれることになるが、理香は頑なに断った。
「イヤッ。…うちに帰っても、同じこと考えるだけだもん」
小さくため息をつく一馬の脇を、最後のお客が出て行く。
「ありがとうございました」
アルジャーノンには、ついに店長と、アルバイトの一馬、そして理香の三人だけとなった。
最後のお客を見送った後、店長がお互い顔を背けたままの一馬と理香に言う。
「一馬君、今日はお客もあまりこないだろうし、先に帰っていいよ」
「でも」
思わず一馬は立ち上がる。
確かに今日は、客足は期待できなかったが、店長は午前中に腕に軽い怪我をしており、閉店準備をひとりでできるような状況ではなかったのだ。
大丈夫だから、といって店長は話を続ける。
「その代わり、帰りに、彼女送ってってよ」
「はー、着いたぁ」
新幹線を降りた途端、大きな伸びと共に知朗がそう言う。
「ひゃー長かった」
結局新幹線は予定よりも30分ほどの遅れで、東京駅に到着した。
泣いたカラスが何とやら、で、知朗は先ほどからいつもよりもパワーアップしている。逆に右京の方は、黙り込む一方だった。
まるで、正反対の2人だ。磁石のN極とS極みたいに。
身長も、
性格も、
今までの環境も。
だけど、だから。相性いいのかもしれない。
「電車のダイヤ、乱れてるみたいだけど、一応動いてるみたいだな。じゃ、行こうか」
ホームを降りながら、電子掲示板を確認して知朗が成と、後からついてくる右京に言う。
萌子との約束にも、少し遅れるけど、何とか間に合いそうだった。
ほっとする成の前で、後ろの右京を振り返っていた知朗が、突然甲高い声をあげた。
「おい、右京？―」
え？と笑顔で振り返る成の視線の先では、突然右京が蹲っていた。
戸惑う成を掻き分けるようにして、知朗が右京が倒れこむ寸前で抱えようとした。
「どうしたっ右京っっ」
約束の時間まで、あと二十分となった。
駅までは、通常歩いて十二・三分。今出るにはちょうどよい時間だ。
萌子は窓から空を見上げた。
すでに雨は本降りになっていた。
鏡の中をもう一度見つめると、萌子はひとつ多めにハンカチを鞄に入れて、部屋を出た。
一階は相変わらず静かだった。出張中の父はもとより、祖母の具合がよくないとかで、母は今朝慌てて長野の実家に戻っていた。具合は思っていたよりはよかったものの、台風のこともあり、今日は実家に泊まろうと思う、という連絡は先ほど受けた。
大丈夫？と電話口で母は聞いたが、萌子は大丈夫としか答えられなかった。仮に大丈夫じゃないと言っても、それは母を困らせるだけでしかないし、そんなことはしたくなかった。
靴を履き、萌子は一瞬振り返ると、いってきますと声を出した。無論返事はない。だが、萌子はリビングをじっと見つめ、数秒待った。それからドアを開けて 外を出ると、思った以上に雨は強くなっていた。萌子は傘をもう一本手にすると、怯むことなく家を出た。逸る気持ちのどこかに、デジャヴめいたものを感じな がら。
来たときは、雨も小降りだったはずなのに、スーパーを出ると、ひどい嵐になっていた。
傘はあるものの、この風の強さでは頼りなく、それなにの買い物を沢山してしまった自分を、紗依は責めながら空を眺めていた。
いや、眺めていても、雨が止むわけじゃない。
覚悟を決めて、傘を差そうとすると、ふいに後ろから声をかけられた。
「田波先生？」
振り返ると、多少髭が濃くなったような石橋が、同じようにスーパーの袋を抱えて立っていた。
「石橋先生…。お買い物ですか？」
分かりきったことを質問した自分に気づき、恥ずかしいと思ったところで、突風が紗依を襲った。
「キャッ…」
小さい悲鳴を上げて傘だけは飛ばされないようにと力強く握った紗依だったが、風の強さには勝てず、傘が飛ばされそうになったところで、ふいにその力が緩くなる。驚いて顔を上げると、石橋が紗依の傘を同じように持ってくれていた。
「あの、ありがとうございます…」
思いがけず近づいた距離に、紗依は戸惑っていた。戸惑いはそれだけではない。無精ひげの石橋にも、少々戸惑っていた。
「ひどい嵐になりますね、今日は」
空を仰ぎため息と共にそういわれ、紗依もそうですね、と答える。だが、その目は、石橋を追いかけていた。
無精ひげ以外は、石橋はいつもと変わらないように見えた。
ジャージ姿で、愛想のない表情。
もしかしたら、非日常的な場所だから、何か気になるのかもしれない。
当然ながら、紗依の知る石橋は、学校で見かける石橋だけであって、スーパーで買い物をしているなど、想像したこともなかった。
両手に持った買い物袋からは、カップラーメンのパッケージが沢山のぞいている。
奥さん、風邪でも引いたのかしら？
「こんな天気ですし、よろしかったら車で送りましょうか？」
「え？」
考え込んでしまっていたことと、いきなりの石橋の申し出に、紗依は戸惑った。
だが石橋は、何も臆すること付け加える。
「ただし、ポンコツのワゴンですけど」
「あ…はい」
紗依が思わずそう答えると、石橋はすぐさま紗依から荷物を取り上げた。
「あのっ」
戸惑う紗依に、石橋はてきぱきと指示を与える。
「それじゃ田波先生は、傘もってくれますか？トランクにこれ入れるんで、すみませんが傘差しておいてください」
「あ、はいっ」
大雨の中を小走りになって紗依は傘を差していた。荷物を入れると、石橋は再び指示を出す。
「後ろにタオルが転がってます。青い方は洗濯したてなので、使ってください」
「あ、はい」
紗依は指示通りに、タオルを取った。濡れてしまった髪を拭いていると、ふと飾られた小さな女の子たちの写真を見つけた。
「これ…娘さんですか？」
「そうです」
「かわいい」
素直に感想を言うと、石橋の頬が綻ぶのがわかった。
その表情に、紗依も心を落ち着かせた。
こんなお子さんが2人も居るのに、奥さんが風邪引いてたりなんかしたら、石橋先生大変なんじゃないのかしら。
ふとそう思い、紗依は口を開いた。
「奥さま、風邪ですか？」
「いいえ？どうして？」
怪訝そうな石橋の表情に、紗依は慌てて答えた。
「いえ、あの。買い物がカップラーメンばかりだったので、てっきりそうかな、と思っちゃって。あの、ごめんなさい」
恥ずかしさから紗依は、顔を伏せた。
勝手に観察して、そこから想像して。変な女って思われたかもしれない。
しかし石橋は、そんな紗依に気遣うことなく、淡々と答えた。
「夏休みだからと家内は、今娘たちと一緒に実家に帰ってます。私一人だから、ついつい簡単なものにしてしまってね」
驚いて紗依が顔を上げると、石橋は淡々と、紗依の家の住所を尋ねた。