Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏果3
「ひどくない？ケンケン」
一通り話し終えた理香は、そう言って水の入ったコップを置いた。
練習の後、萌子は理香と美都に誘われて、アルジャーノンにやって来ていた。時間が時間だけあって、客はまばらだ。
注文が終わった途端に、理香はマシンガンのようにしゃべりだした。
話によると、この前の夏休み、理香は厳巳に勉強を教えてもらいたいと図書館に誘った。それを知ったケンが二人の仲を怪しんで、篤志の前でそのことでからかわれたというのだ。
「別にさ、イズミちゃんだよ？ただの友達じゃん。それをアッチに聞かせるように言わなくてもいいじゃん」
鼻息荒く語る理香の話を聞き終えた美都は、一口水を飲むと尋ねた。
「日比野君は何も言わなかったの？」
「…うん。あー、ほら信用厚いから、あたし。美都は？」
美都は手に持ったコップを軽く回してから呟くように答えた。
「そんなこと言ったら、しばらく口利いてくれないと思う」
「へー、やきもち焼きなんだ、北内くんって」
意外だ、という理香に、美都は小さく頷いた。
「でも、あたしもやだな。
いくら、なんとも思ってなくても、二人きりでどこかに行くって、それってデートってことでしょう？」
だが理香は、そんな美都に首を傾げる。
「えーそんなことないよ、ねぇ萌子」
理香は隣に座る萌子に話を投げたが、返答はなく、萌子は手に持ったコップの中の氷を、カラカラと回しているだけだった。
「萌子？」
「ん？ごめん」
ハッとしたように萌子が二人のほうに顔を向ける。
理香は小さくため息をついた。
「萌子ってば、朔哉先輩いないからって、気を抜きすぎだよ」
「ごめん」
考え事してて、とは言えずにいる萌子に、尤もらしく理香は諭す。
「いい機会だから、言うけど。萌子は、もっと朔哉先輩のこと、大事にしてあげるべきだよ」
「え？」
驚いたのは、萌子のほうだ。
理香はさらにたたみかけるように言う。
「朔哉先輩、本当に萌子のこと好きなんだから。あんなに萌子のこと大切にしてくれる人なんて、他にいないよ？」
「うん」
「うん、って簡単に言うけど、本当にそうなんだからね」
萌子は、手にしていたコップをテーブルに置くと、改めて答えた。
「…大事に、します」
その言葉を聞いた理香が、安堵の息を吐いたところで、一馬がすかさず飲み物を持ってきた。
「それじゃまるで、刑事の尋問みたいだぞ、小池」
「だって、隣にいなくて初めて気づくなんて、鈍感すぎるよ」
理香の言葉に、思わず一馬も黙り込んだ。
静まりかえってしまった雰囲気を一掃すべく、理香は手にグラスを持つと、突然立ち上がった。
「じゃ、誓いの乾杯と行きましょうか」
「なぁに？それ」
美都がきょとんとした表情で、理香を見上げている。
「いいからさ。ほら二人とも立って立って！」
美都も萌子も、促されて立ち上がると、理香がグラスを掲げて大きな声で叫んだ。
「お互いの幸せに向かって、乾杯！」
夕食に出されたのはカレーで、成はそれを受け取りながら、空いている席を探した。
すぐ近くに３席空いていたが、同じテーブルに堀田がいたので、遠くを見渡すと、一番隅のほうに一人で右京がいるのが見えた。
知朗と平太を伴って、そちらに向かおうとしたところで、わざとらしい堀田の声が聞こえた。
「そういえば、あいつさ、家追い出されたらしいぜ」
「あいつ？」
堀田の取り巻きのようになっているクラブチーム出身の選手が答えた。
「あいつって言えば、あいつだろう」
「ああ、あいつね」
そう言って二人は、わざとらしく右京に視線を向ける。
皆の視線が集まっていることを意識して、堀田は更に大声で言った。
「引き取られてる親戚の家に、赤ん坊ができたんだって。で、完全に厄介者扱い。まあ、あれだけ愛想もくそもないんじゃ、しょうがねぇよな」
「親戚の方からしても、清々したんじゃねぇの？厄介者追い払う理由ができて」
そう言うとニヤリと笑った二人を見て、知朗が乱暴に声を出す。
「おいっ―」
「んだよ」
知朗が堀田を睨みつけると、堀田も勢いよく立ち上がった。
睨み付けていたはずの知朗だったが、逆に堀田から見下ろされる形になった。それを見て、堀田は更ににやりと微笑む。
「やめろよ、知朗」
成は慌てて知朗を抑えると、そのまま強引に堀田の前を去ろうとしたが、知朗はその腕を振り払った。
だが成の気持ちは伝わったのか、手を出すのはやめたらしい。
「汚ねぇだろ、こんなやり方っ」
「ただの世間話だろ。このくらい」
白々しく答える堀田に知朗は思わず突っかかる。
「世間話だぁ？陰口っつーんだよっ、そういうのはっ」
張り詰めた雰囲気の中で、ふいに冷静な声が響いた。
「メシくらい、黙って食えよ」
楢崎高の五十嵐だ。
堀田が思わず聞き返した。
「んだって？」
鼻息の荒い堀田に、五十嵐は相変わらずの冷静さで答える。
「ただでさえまずいメシが、余計まずくなる」
「おい、五十嵐。お前もあいつの肩持つ気かよ」
そういった堀田に、五十嵐はカレーを食べ終えた口許を拭いながら答えた。
「別に俺はどっちの肩も持たないけど、お前はここで油売ってる余裕なんかねぇんじゃないのか？」
「え」
「第一、藤原。もう出て行ったぜ」
五十嵐のその言葉に、成が先ほどまで右京がいた席をみたが、確かにそこには誰もいなかった。
「アッチいる？」
理香は、厳巳の家庭教師の時間を終えると、ノートを片手に篤志の部屋にやってきていた。
ノックをして尋ねると、
「ああ？」
という篤志の返事がある。気の抜けた声だな、と思いながらドアを開けると、案の定篤志はゲームに夢中だった。
「ちょっといい？」
「いいけど」
そうはいうものの、篤志の顔は理香に向くことはない。そのことに、理香はため息をつきたくなったが、諦めてドアを閉めると、立ったままに言った。
「あのさ、あれ。誤解だからね」
「あれ？」
話の通じない篤志に、理香は少しだけ苛立つ。
「だから、ケンケンが言ってたじゃない。あたしと、イズミチャンができてるとか何とか。
全然嘘だから。
一学期の成績悪かったから、教えてもらってるの。
ほら、監督って成績悪かったりすると、部活動停止ってすぐ言うじゃない。だから。
今度も、一緒に図書館行くんだけど。
でも、もしアッチが行くなって言うんだったら、行かない。
勉強も、イズミチャン以外の人から教えてもらう」
一大決心をしての言葉だった。
理香はぎゅっとスカートの裾を握る。
こんな言い方で、篤志を試すようなことはしたくはなかったけれど、でもそうでもしなければ、篤志の気持ちがわからなかった。
だが、理香の決心に気づくことなく、篤志は画面を見ながら答える。
「どうしてだよ。せっかくだから、教えてもらえばいいじゃん。
あ、ついでだから夏休みの宿題やっておいてよ。俺、後でそれ見せてもらうからさ」
ようやく篤志は振り返ると、よろしくな、と片手を上げたが、理香の返事を待つことなく、その視線はすぐに画面に引き戻される。そのまま篤志が口を閉ざすと、部屋にはゲーム音しか聞こえなくなった。
「…うん。そうする」
理香はそう答えるが、篤志は相変わらず画面を見ている。
「そう、だよね」
「何？」
ぽつりと理香が呟くと、篤志が聞き返したが、理香はため息混じりに答えた。
「なんでもない」
知朗が風呂に入ろうとすると、ちょうど出てきた五十嵐と鉢合わせた。軽い会釈程度の挨拶をする五十嵐とすれ違いざまに、知朗が独り言のように呟いた。
「お前、結構いいやつなんだな」
「へ？」
クールな表情を浮かべていた五十嵐の表情が崩れる。
「さっき、助け舟出してくれたろ」
「さっき？」
五十嵐はタオルで頭を乾かしながら、そう聞き返す。
「食堂」
知朗がそういうと、ああとだけ五十嵐は答えてから、
「別に俺は、どっちの味方もしてねぇよ」
と呟くように言った。
確かにあの時も五十嵐はそう言っていたし、
五十嵐は本当にそう思ってるんだろうけれど、
知朗の心が冷静になれたのも、五十嵐のおかげだった。
言いたいことを言い切った安堵感で、知朗が浴室に入ろうとしたところで、今度は逆に五十嵐が知朗を呼び止めた。
「それより、藤原。まだ練習してるのかよ」
「え」
確かに、部屋に右京はいなかった。
だがそれはいつものことだ。
寮にいても、学校にいても、合宿中でも、遠征中でも、右京はひとりどこかに行っている。
五十嵐は、知朗の反応を見て眉をひそめた。
「気づいてねぇのかよ。合宿初日からだぞ」
思わず目をつり上げると、五十嵐は大きくため息をついた。
「ちょっとあれ、やりすぎだ。体壊す前に、少し休ませたほうがいいんじゃねぇの」
部屋にいない時間を、すべて練習に当ててるのだとすれば、確かに尋常じゃない練習時間になる。
知朗は慌ててグランドまで駆けていった。
すると、暗闇の中から、ボールを蹴りだす音が聞こえ、グランドの片隅の薄暗がりの中で、一人ゴールと向き合う右京の姿があった。
どうやらフリーキックの練習をしているようだ。
右京の蹴ったボールは、綺麗な弧を描き、ゴールに吸い込まれていく。
けれど右京はそれに満足することなく、ゴールをまっすぐに見つめ、再びボールを蹴りだす。
その額には、大粒の汗が流れていた。
インターハイで、右京のスタミナ不足は、凪高の弱点のひとつとされていた。
逆を返せば、それだけ右京の存在感が大きいということなのだ。
だけど、そんなチームのままじゃ、選手権じゃ優勝できない。
知朗はそう思っていた。
誰かに頼るようじゃ、駄目なんだ。
その為には、俺がもっと決めなきゃいけないんだ。
「右京ーっっ」
知朗は持っていたタオルを投げ捨てると、そう叫びながら右京の方に駆け寄って行った。気づいた右京が、ぎょっとした表情で知朗を凝視している。
「俺もやる！俺もっっ。
だから、パスくれ、パスッッ」
一瞬困惑そうな表情を浮かべていた右京だったが、ボールを持ったままで、自分のポジションを少し下げた。
そして、知朗に中に入るように指で示すと、
「はじめるぞ」
と、ぽつりとひと言口にした。
それから、成が二人を呼びに来るまで、思う存分二人はシュートの練習を続けた。
「それじゃ、おやすみなさい」
そう答えて萌子は電話を切った。
大学の練習中に参加している朔哉からの電話だった。
いつもより遅いのは、一度かけたら萌子がお風呂に入っていて出れなかったせいで、二度目にかかってきたときは、もう寝ようとしているところだったのだ。
開口一番、朔哉は帰りの日が一日延びた事を告げた。実家に寄るつもりはなかったのに、親から帰ってくるよう強く言われたらしい。
「だからごめん。帰ってくるのは、月曜日になった」
そのときばかりは声のトーンを落とした朔哉だが、それ以外の声は楽しそうだった。
監督とも気が合うらしく、雰囲気もいいと言っていたから、はっきり口にしないものの、もうすでに朔哉の気持ちは決まっているのだと思う。
そうなれば、遠距離になるわけだが、きっと朔哉は毎日連絡をくれるのだと萌子は思っていた。
現に、凪浜を出てからのこの二日間、必ず萌子宛に電話がある。
灯りを消すと、窓から差し込む月光の明るさに、萌子は戸惑った。
カーテンを閉めようとしたところで、ふと明日の天気が気になった。
台風が近づいてきているとニュースでやっていたけれど、成は戻ってこれるのだろうか。
この前成が家に来たのが、ずいぶん昔のように思うが、たった三日前のことなのだ。
たった三日間。
その間、萌子はずっと成のことばかりを考えていた。
『萌子、俺に話したいことあるんじゃないかって』
成にそう言われた時、確かにそうだと思っている自分がいた。
だけど、いざ考えてみると、特にないようにも思う。
日々の小さなことで話したいことは色々ある。
樹生がはしゃぎすぎて膝小僧をすりむいた話。
ケンの長電話に、ついに電話を料金制にする話が、密かに進んでいるという話。
それから、今日食べたチーズケーキがおいしかった話。
そう思ったところで、萌子はハッとした。
『いくら、なんとも思ってなくても、二人きりでどこかに行くって、それってデートってことでしょう？』
美都の言葉が正しいのであれば、明日の買い物も、デートになるのだろうか。
デート。
そう思うだけで、萌子の鼓動は早くなる。
結局朔哉には成と買い物に行くことは言っていない。タイミングがつかめなかったのだ。
それに、わざわざ言う話でもない、と思っていた。
『でも、あたしもやだな』
そう言った美都の言葉を、再び思い出した。朔哉の悲しそうな顔が思い浮かぶ。
やっぱり、言おう。
萌子は再び受話器を手にした。
ついさっきまで話をしていたのだから、朔哉だって起きているだろうし、電話番号は聞いている。
メモした紙を取り出したところで、だが萌子は思わず受話器を胸に押し付けた。
…だけど、もし。
行くなって言われたら、どうしよう。
成の連絡先は聞いてないから、断ることもできないし。
それに、成の話も聞きたい。
萌子はそっと受話器を机の上に置いた。
別に、デートなわけじゃない。
そもそも、私がダメにしたシャツを買うんだから。
やましい気持ちなんか、ない。
そう思い、ベッドに伏せると、萌子は固く目を閉じた。
合宿最後の夜は、満月の夜だった。
綺麗な夜空だが、天気予報では、明日は台風がやってきて、大荒れになるという。
しかも、関東にも上陸するとあって、外出は控えるように、とニュースでもやっていた。
できれば、明日は避けてもらいたい。
空を見上げながら、成はそう思っていた。
連日のハードな練習で、体は悲鳴を上げているというのに、気持ちの高ぶりと知朗の歯軋りとで、成はなかなか寝付けなかった。
ふと、右京がすやすや寝ていることに気づいてよく見ると、その耳にはヘッドフォンがついていた。
どうりで同じ部屋でも平気なはずだ。
それに、練習で体が疲れ切っているせいもあるだろう。
気づいたら、二人とも部屋にいなくて、ようやく見つけたのはグランドだった。
どうやら二人して、練習していたらしい。
右京が自主練をやっているのは、いつものことだし、今回の合宿で、知朗が頑張っていることは成にもわかっていた。
俺も、頑張らないと。
成はゆっくりと寝返りをうった。
そして、すぐに明日のことに思いを馳せた。
明日の夜には、萌子と会える。
偶然だった。
いわば、売り言葉に買い言葉のように、萌子と会う口実を、成は手にしていた。
シャツを返してほしいと、萌子の家に言ったのも、口実で、本当はちゃんと話をしたいと思ったから。
いつからか、気にはなっていた。
光り輝く朔哉の隣で、身の置き所がないような不安そうな表情をたまに見せる萌子が。
それでも、いいと思っていた。
萌子が、そう思うんだったら。
だけど、そうじゃないらしい。
それに気づいた成は、気が気ではなくなっていた。
話がある、なんて言ったけど、でも具体的に何を萌子に伝えたいのかは、成の中でもはっきり見えていない。
だいたいみんなは、萌子のこと誤解してるんじゃないか、と成は思う。
マネージャーというのは、本当に裏方で地味な仕事ばっかりで、やってみればわかると思うけど、目立ちたがり屋には向いていない役割だ。
だけど、朔哉も含めて、すぐに萌子を引っ張りだす。
だから、萌子は戸惑うんだと思う。
成は、小さくため息をついて寝返りを打つ。
どんな話をしても、きっと朔哉さんの話にはなる。
そうしたら、俺はどう言えばいいんだろう。
別れた方がいいって？
そんな権限、俺にないし。
だけど、言ってみたとして、萌子は、どう答えるんだろうか。
再び寝返りをうってはみたものの、知朗の歯軋りと、頭がいっぱいで、眠れそうになかった。