Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏果2
「あー、なんかつまらない」
理香はベンチに座り、テーピングを手にしながら大きくため息をついて、後ろにいるはずの美都に言う。
「朔哉先輩も、右京君、成君も、知君も、おまけに大槻先輩もいないんだもん」
それぞれが、それぞれの事情で昨日から練習を休んでいた。
しかも今日は、監督の石橋までが、頭から練習に参加できずにいて、マネージャーの理香から見ても、練習がどこかだらけているように見える。
「おまけってのは、どういう意味だ？」
ふいに誰かがそう尋ねるので、理香は無意識の中で答えた。
「うーんつまり、ランキングの中に入っていないんだけど、存在感はあるっていうか」
「ランキング？」
「いい男ランキング」
「ほぉ。で、それに俺は入ってるわけ？」
「オレ？あっ」
理香が慌てて後ろを振り返ると、
「口の前に手を動かせ、小池」
そういいながら、厭味な作り笑顔を理香に向ける俊平がいた。
理香はそのままぱっと立ち上がった。
「はいっ、すみませんっ、細谷先輩っ」
そうして、一目散に駆け出していった。
その様子を見て、全くと小さくため息をつきながらも、俊平はグランドに視線を送りながら、確かに覇気がないな、と感じていた。
八十人を越える部員の中で、たった五人がいないだけというのに、朝の挨拶から練習から、しまりがない。
一瞬、心細さを感じ、俊平は気合を入れるべく声を張り上げた。
「お前ら、気合入れてけ、気合っ」
副部長、副キャプテンである俊平が、キャプテンである朔哉がいないときに、その代役をするのは、決まりきったことではあったが、いなくなってから初めて気づくこともある。
やっぱり、お前は偉大だよ、朔哉。
「あー怖かった、細谷先輩」
駆け寄ってきた理香に、美都は小声で答える。
「まだこっち見てるよ、理香」
「うわっ」
一瞬だけ振り返った理香だったが、俊平と目が合いそうになって、慌てて顔を戻した。
「だけど、美都も思わない？チームも元気ないし、練習もなんかつまんないし。萌子だって、ぼんやりしてるし」
「そうね」
「よかったぁ」
「え？」
しみじみとそう言った理香に、美都は思わず顔を上げた。
すると理香は、だってさ、と話を続けた。
「朔哉先輩がいないから、落ち込んでるわけでしょう？萌子。
萌子たち見てたまに思ってたんだ。なんか朔哉先輩ばかり一生懸命な気がして、萌子はどうなんだろうって。
萌子って、あまり言わないじゃない。自分のこと。だから、こっちもなかなか聞き出せなくて。
でも、よかった。そんなことなかったんだ」
ふと、理香とは違う思いが美都の中に過ぎった。
だが、その思いを口にするには何だか気が引けて黙り込むと、はしゃいだ理香が大きな声で言った。
「ね、練習が終わったら、三人でアルジャーノンに行かない？
景気づけにおいしいもの食べようよ。あそこのチーズケーキ、おいしいんだよね」
行く行く、と美都が答える前に、理香の後ろから冷たい声が二人に浴びせられた。
「その前に練習のことを考えろ」
「由太チャン」
思わず姿勢を正した理香に、由太は冷たく言う。
「理香はテーピングの補充、椎名は洗濯」
「「はいっっ」」
理香も美都も、大きく返事をすると、慌てて走り出した。
まったく、と由太はそんな二人を見ながら、ため息をついた。
由太も俊平と同じく、覇気のない部員たちにいくらか苛立っていた。
インターハイが終わったからといって、気を抜くことはできないのだ。
来月には全日本ユース選手権があり、関東大会で優勝した凪浜は、決勝トーナメントからの出場で、その試合も来週から始まる。
だが、一番元気がないのは、グランドを走っている選手たちではなかった。
由太は顔をあげた。
視線の先には、タオルを抱えたままグランドに立ち尽くしている萌子がいる。
元気がない、というのは少し違うかも知れない。ただ、部活に集中していないのは確かだった。
理香は朔哉がいないからだと言っていたが、由太にはそれだけではないと思っていた。
萌子の様子がどこかおかしくなったのは、むしろ夏休み入ってすぐの合宿からだったはずだ。
どうしたんだ、と幾度となく由太は話しかけようと思った。
何があったんだ、と。
だが、いずれも直前で由太は声をかけなかった。
今、萌子に近づけば、自分の気持ちに自制をかけられる自信がない。
自分の気持ち。
気づきたくなかった。
けれど、気づいてしまったのだ。
それからの由太は、なるべく話さないようにしてきた。
それでも視線はいつの間にか萌子を追いかけている。萌子のことを考えている。
そんな自分に対する苛立ちを押し込めるように、由太は両手をぐっと握り締めた。
思いがけず、自分の懐に、萌子が入り込んでいたのは事実だ。
だけど、それ以上の感情を持ってはいけない。
自分には、亜紀子という恋人がいる。
この気持ちを認めるということは、亜紀子への裏切りであるし、自分の父親がしていたことと、何ら変わりないのだ。
違う、俺はそれほど弱い人間じゃない。
自分の気持ちに負けるほど、弱い人間じゃない。
由太は何度も心の中で、そう呟いた。
練習が一段落ついて、休憩に入る。
各自が、それぞれの形で体を休める中で、成は知朗と平太と、そのままベンチに座り込もうと思ったが、知朗は水が欲しいといって、水道に向かっていってしまった。
その背中には、疲れが見えている。
日本各地から選ばれた選手の中で、知朗は一番背が低かった。
ディフェンダーからも練習試合で削られて、ライバルであるフォワードの選手たちとも競り合って、肉体的にも、精神的にも疲れているんだろうな。
成は、そう思いながらその背中を送る。
実際に、知朗も、初日と違って、疲労からか口数が減ってた。
それこそ初日は大はしゃぎで、大変だったというのに。
成は、ふと先を歩く巨体を見つめながら思い返していた。
「結構、人数いるんだな」
合宿初日、集合場所に集められた選手たちを見て、知朗がそう呟く。
成も見回してみたが、前回のメンバーから知らないメンバーも増えたようにも思う。
いるかな、平太。
そうやってきょろきょろ見回していると、ふいに背中から誰かが飛びついてきた。
「せいーっっ、元気だったか？」
「平太っ」
「よっ」
無邪気な笑顔を浮かべる平太は、以前よりも背が伸びたようだった。
「平太、背伸びた？」
「まあね、っつーか成もでしょ」
仲良く話し合う二人を見て、知朗がじろりと平太を睨んで言う。
「誰だ？」
１６０センチ台前半の知朗と、１８０センチを超えている平太が向き合うと、とても同級生には思えなかった。
「佐藤平太。北海道の大沢高のディフェンダー。前の合宿も一緒だったんだ」
成がそう知朗に紹介をすると、平太は笑顔を見せた。
「よろしく、えーっと…」
「友近知朗」
そっけなく言われた平太だったが、ひるむことなく笑顔を見せる。
「インター見てたぜ。すげーよな。得点王」
「二人いるけどな」
そう答える知朗だったが、僅かに頬が綻んだのを成は見逃さなかった。
平太は二人から一歩離れたところで荷物を降ろしている右京を見つけて、言った。
「藤原は相変わらず、みたいだな」
「まあね」
ひとりで空を仰ぐ右京は、それでも周囲からの注目を集めていた。
集められた選手たちからも、直接話しかけることはないが、遠巻きに右京を見つめている。
その中で、ひときわ体の大きな男が、近づいてきた。
「おい、お前か。藤原っつーのは」
男はそう言いながら、成と知朗の間を、二人には何も言わずに通り抜けようとした。
体がぶつかりそうになって、思わず避けた知朗が噛み付いた。
「何すんだよっ」
男は知朗に言われて、初めて気づいたようにしてふっと視線を落とし、それからふんと顔を右京に向けて言う。
「悪いな、よく見えなかったもんで」
「何だとっ―」
「やめろよ、知朗っ」
掴みかかろうとした知朗を、成と平太が慌てて引き止めた。
だが男はそんな知朗を気にすることなく、右京の目の前に立つと、低い声で言った。
「ヴィクトリアの堀田だ。舟越が世話になってたみたいだな」
話しかけられたことに気づいた右京だが、堀田を一瞥すると、すぐに視線を足元の荷物に落として答えた。
「別に」
そして、そのまま荷物の中を探し始めた。
無視するようなその態度に、堀田は肩を震わせ、小さく舌打ちをする。
「インターハイで優勝したくらいで、いい気になるなよ」
「何がだ」
小さくそう答えた右京を見て、堀田は顔を歪ませて言い返す。
「その言い方が、むかつくって舟越が言ってたぜ。
あいつのこと、別に好きでも嫌いでも何でもねぇけど、俺もあいつの意見に賛成する」
ぴりぴりとした雰囲気の中で、監督である田村の声がタイミングを計っていたかのように響いた。
「全員集まったようだな」
田村の登場に、集められた選手たちは、慌ててその前に並んだ。
田村はそれぞれの顔を一度見渡してから、口を開いた。
「今まで何度か顔を合わせてきていたのであれば、久しぶり。
それ以外は初めましてだな。監督の田村だ。
私の信条は、常にベストをつくせるチームをつくる、だ。
二度目に選ばれたものも、初めて選ばれたものも、調子が悪ければ、容赦なく落としていくからそのつもりでいてくれ」
その言葉に、集まっていた選手たちの間に緊張感が走った。
以来、堀田からは、直接的な嫌がらせは受けていないものの、右京を目の敵にしているのは、明らかだった。
そして当然のように、右京はそんな堀田を無視し続けている。
それが堀田の感情を更に逆撫でしていることも、明らかだった。
成は、去年の合宿を思い出し、このまま無事に終わればいい、とだけ思っていた。
亜紀子が茶道部に入部したのには、あまり深い理由はなく、友達に誘われたことと、活動が週に1度だけだったからだ。
実際に、正座は辛かったけれど、週に一度食べれる和菓子はおいしく、真面目な性格もあって亜紀子は毎週参加していた。
その茶道部が一年で一番慌しくなるのは、実は学園祭だ。
普通の喫茶店とは違い、和室にて部員が立てるお茶を出すというだけではあるが、部員が少ないこともあって、大忙しなのだという。
その学園祭の打ち合わせで、亜紀子は夏休み中の学校にやってきた。
サッカー部への差し入れを持ってきたり、由太にも内緒でひっそりと学校には来ていたものの、制服を着るといつもと違う気分になった。
「暑いー」
友人の真沙美はそういうと、スカートの下から、団扇を仰いでいる。
「真沙美ちゃんってば」
茶道部が全員女子だからなのか、部活の時間はいつも女子高の雰囲気が漂うのだ。
「だって、暑いんだもん。亜紀ちゃん、偉いよ。我慢して」
そんなことない、と答えながら、亜紀子は席を立った。
「それじゃ、窓開けようか」
「うんっ」
真沙美も亜紀子に続いて席を立った。海側の窓を開けては見たものの、風が入ってくる気配すらない。亜紀子は、教室のドアも開け、そのまま廊下の窓も開け始めた。
窓を開けた途端、グランドからかけ声が耳に入ってくる。
「あー、サッカー部が練習してる」
気づいた真沙美も、亜紀子の隣に駆け寄ってきた。
「高岡先輩、いる？」
真沙美に言われるまでもなく、亜紀子は由太の姿を探していた。
あ、いた。
腰に手を当て、グランドに視線を馳せているその後姿を見つけた亜紀子は、顔を綻ばせる。
勉強を教えてくれる由太も好きだが、それでもやっぱりグランドにいるときの由太が、一番かっこいいと亜紀子は思っている。
その時グランドにホイッスルが鳴り響き、選手たちが一斉にグランドから引き上げてきた。どうやら休憩時間らしい。
「呼んじゃえば？」
真沙美がそう言うが、亜紀子としてはそういう目立つことを由太が嫌っていることもわかっていた。
それに、亜紀子も大声を出すことはあまり好きではない。
いいよ、というと真沙美が不満そうな声を出した。
「相変わらず高岡先輩って厳しいんだね。いいじゃん、彼女にくらい甘くても」
前にデートでの由太の様子を話した時から、真沙美はどうも由太が苦手のようだ。
「あたしだったら、むしろこっちに気づいたら大声で叫んでほしいけどなあ。ほら、福山先輩みたいに」
亜紀子は朔哉が、萌子の名前を大声で叫ぶのは見たことがないが、真沙美の言いたいことは理解できた。
つまり、自分を好きだってことを、堂々と周囲に見せ付けてもらいたいのだ。
「でも、優しいところもたくさんあるんだよ」
亜紀子はそういうと、どこか俯きがちに校舎に向かってくる由太を見ていた。
本当は、優しくて。
でも、それを素直に表現できない、まっすぐで不器用な人。
ふふっと微笑んでいた亜紀子だったが、次の由太の行動に、思わず顔を強張らせた。
ベンチで理香からタオルを受け取った由太は、額の汗をふき取ると、ふいに後ろを振り返った。
そこには、理香と同じようにして部員に飲み物を配っている萌子がいて、そのコップに集るように萌子を取り囲んでいる。
由太はそんな萌子に近づきもせず、ただじっと見ていた。
そのうちに集っていた部員たちも姿を消し、由太に気づいた萌子がそっとコップを差し出した。
『由太もどうぞ』
大方そう言っているのだろう。
だが由太は、そんな萌子を無視するようにして、スタスタと逆の方向に歩いていく。萌子はそんな由太に一声かけているようだが、由太はそれも無視して、先を歩いていく。
傍から見れば、由太のことを冷たいと思うのだろう。
でも、どうしたんだろう。
避けることないのに、先輩…。
はっと気づいた亜紀子は、思わず窓に背を向けると、そのままずるずると廊下に座り込んだ。
交わしてきた言葉は、恋人同士のわりに少なかったかもしれない。
だがその分、亜紀子はずっと由太を見つめていた。
見つめ続けることで、由太を理解してきたのだ。
そんな自分だからこそ、わかる。
先輩は、気づいてしまったんだ、自分の気持ちに。
萌子さんに、惹かれている気持ちに。
だから、自分で抑えようとした。
でも、できなかった。
そうしたら、どうする？
高岡先輩だったら、どうするの？
まっすぐで不器用な人だから。
先輩だったら、きっと。
「亜紀ちゃん？どうしたの？」
真沙美が心配そうな声をあげる。
亜紀子は、大丈夫とだけ消えて行きそうな声で答えた。
理香はベンチに座り、テーピングを手にしながら大きくため息をついて、後ろにいるはずの美都に言う。
「朔哉先輩も、右京君、成君も、知君も、おまけに大槻先輩もいないんだもん」
それぞれが、それぞれの事情で昨日から練習を休んでいた。
しかも今日は、監督の石橋までが、頭から練習に参加できずにいて、マネージャーの理香から見ても、練習がどこかだらけているように見える。
「おまけってのは、どういう意味だ？」
ふいに誰かがそう尋ねるので、理香は無意識の中で答えた。
「うーんつまり、ランキングの中に入っていないんだけど、存在感はあるっていうか」
「ランキング？」
「いい男ランキング」
「ほぉ。で、それに俺は入ってるわけ？」
「オレ？あっ」
理香が慌てて後ろを振り返ると、
「口の前に手を動かせ、小池」
そういいながら、厭味な作り笑顔を理香に向ける俊平がいた。
理香はそのままぱっと立ち上がった。
「はいっ、すみませんっ、細谷先輩っ」
そうして、一目散に駆け出していった。
その様子を見て、全くと小さくため息をつきながらも、俊平はグランドに視線を送りながら、確かに覇気がないな、と感じていた。
八十人を越える部員の中で、たった五人がいないだけというのに、朝の挨拶から練習から、しまりがない。
一瞬、心細さを感じ、俊平は気合を入れるべく声を張り上げた。
「お前ら、気合入れてけ、気合っ」
副部長、副キャプテンである俊平が、キャプテンである朔哉がいないときに、その代役をするのは、決まりきったことではあったが、いなくなってから初めて気づくこともある。
やっぱり、お前は偉大だよ、朔哉。
「あー怖かった、細谷先輩」
駆け寄ってきた理香に、美都は小声で答える。
「まだこっち見てるよ、理香」
「うわっ」
一瞬だけ振り返った理香だったが、俊平と目が合いそうになって、慌てて顔を戻した。
「だけど、美都も思わない？チームも元気ないし、練習もなんかつまんないし。萌子だって、ぼんやりしてるし」
「そうね」
「よかったぁ」
「え？」
しみじみとそう言った理香に、美都は思わず顔を上げた。
すると理香は、だってさ、と話を続けた。
「朔哉先輩がいないから、落ち込んでるわけでしょう？萌子。
萌子たち見てたまに思ってたんだ。なんか朔哉先輩ばかり一生懸命な気がして、萌子はどうなんだろうって。
萌子って、あまり言わないじゃない。自分のこと。だから、こっちもなかなか聞き出せなくて。
でも、よかった。そんなことなかったんだ」
ふと、理香とは違う思いが美都の中に過ぎった。
だが、その思いを口にするには何だか気が引けて黙り込むと、はしゃいだ理香が大きな声で言った。
「ね、練習が終わったら、三人でアルジャーノンに行かない？
景気づけにおいしいもの食べようよ。あそこのチーズケーキ、おいしいんだよね」
行く行く、と美都が答える前に、理香の後ろから冷たい声が二人に浴びせられた。
「その前に練習のことを考えろ」
「由太チャン」
思わず姿勢を正した理香に、由太は冷たく言う。
「理香はテーピングの補充、椎名は洗濯」
「「はいっっ」」
理香も美都も、大きく返事をすると、慌てて走り出した。
まったく、と由太はそんな二人を見ながら、ため息をついた。
由太も俊平と同じく、覇気のない部員たちにいくらか苛立っていた。
インターハイが終わったからといって、気を抜くことはできないのだ。
来月には全日本ユース選手権があり、関東大会で優勝した凪浜は、決勝トーナメントからの出場で、その試合も来週から始まる。
だが、一番元気がないのは、グランドを走っている選手たちではなかった。
由太は顔をあげた。
視線の先には、タオルを抱えたままグランドに立ち尽くしている萌子がいる。
元気がない、というのは少し違うかも知れない。ただ、部活に集中していないのは確かだった。
理香は朔哉がいないからだと言っていたが、由太にはそれだけではないと思っていた。
萌子の様子がどこかおかしくなったのは、むしろ夏休み入ってすぐの合宿からだったはずだ。
どうしたんだ、と幾度となく由太は話しかけようと思った。
何があったんだ、と。
だが、いずれも直前で由太は声をかけなかった。
今、萌子に近づけば、自分の気持ちに自制をかけられる自信がない。
自分の気持ち。
気づきたくなかった。
けれど、気づいてしまったのだ。
それからの由太は、なるべく話さないようにしてきた。
それでも視線はいつの間にか萌子を追いかけている。萌子のことを考えている。
そんな自分に対する苛立ちを押し込めるように、由太は両手をぐっと握り締めた。
思いがけず、自分の懐に、萌子が入り込んでいたのは事実だ。
だけど、それ以上の感情を持ってはいけない。
自分には、亜紀子という恋人がいる。
この気持ちを認めるということは、亜紀子への裏切りであるし、自分の父親がしていたことと、何ら変わりないのだ。
違う、俺はそれほど弱い人間じゃない。
自分の気持ちに負けるほど、弱い人間じゃない。
由太は何度も心の中で、そう呟いた。
練習が一段落ついて、休憩に入る。
各自が、それぞれの形で体を休める中で、成は知朗と平太と、そのままベンチに座り込もうと思ったが、知朗は水が欲しいといって、水道に向かっていってしまった。
その背中には、疲れが見えている。
日本各地から選ばれた選手の中で、知朗は一番背が低かった。
ディフェンダーからも練習試合で削られて、ライバルであるフォワードの選手たちとも競り合って、肉体的にも、精神的にも疲れているんだろうな。
成は、そう思いながらその背中を送る。
実際に、知朗も、初日と違って、疲労からか口数が減ってた。
それこそ初日は大はしゃぎで、大変だったというのに。
成は、ふと先を歩く巨体を見つめながら思い返していた。
「結構、人数いるんだな」
合宿初日、集合場所に集められた選手たちを見て、知朗がそう呟く。
成も見回してみたが、前回のメンバーから知らないメンバーも増えたようにも思う。
いるかな、平太。
そうやってきょろきょろ見回していると、ふいに背中から誰かが飛びついてきた。
「せいーっっ、元気だったか？」
「平太っ」
「よっ」
無邪気な笑顔を浮かべる平太は、以前よりも背が伸びたようだった。
「平太、背伸びた？」
「まあね、っつーか成もでしょ」
仲良く話し合う二人を見て、知朗がじろりと平太を睨んで言う。
「誰だ？」
１６０センチ台前半の知朗と、１８０センチを超えている平太が向き合うと、とても同級生には思えなかった。
「佐藤平太。北海道の大沢高のディフェンダー。前の合宿も一緒だったんだ」
成がそう知朗に紹介をすると、平太は笑顔を見せた。
「よろしく、えーっと…」
「友近知朗」
そっけなく言われた平太だったが、ひるむことなく笑顔を見せる。
「インター見てたぜ。すげーよな。得点王」
「二人いるけどな」
そう答える知朗だったが、僅かに頬が綻んだのを成は見逃さなかった。
平太は二人から一歩離れたところで荷物を降ろしている右京を見つけて、言った。
「藤原は相変わらず、みたいだな」
「まあね」
ひとりで空を仰ぐ右京は、それでも周囲からの注目を集めていた。
集められた選手たちからも、直接話しかけることはないが、遠巻きに右京を見つめている。
その中で、ひときわ体の大きな男が、近づいてきた。
「おい、お前か。藤原っつーのは」
男はそう言いながら、成と知朗の間を、二人には何も言わずに通り抜けようとした。
体がぶつかりそうになって、思わず避けた知朗が噛み付いた。
「何すんだよっ」
男は知朗に言われて、初めて気づいたようにしてふっと視線を落とし、それからふんと顔を右京に向けて言う。
「悪いな、よく見えなかったもんで」
「何だとっ―」
「やめろよ、知朗っ」
掴みかかろうとした知朗を、成と平太が慌てて引き止めた。
だが男はそんな知朗を気にすることなく、右京の目の前に立つと、低い声で言った。
「ヴィクトリアの堀田だ。舟越が世話になってたみたいだな」
話しかけられたことに気づいた右京だが、堀田を一瞥すると、すぐに視線を足元の荷物に落として答えた。
「別に」
そして、そのまま荷物の中を探し始めた。
無視するようなその態度に、堀田は肩を震わせ、小さく舌打ちをする。
「インターハイで優勝したくらいで、いい気になるなよ」
「何がだ」
小さくそう答えた右京を見て、堀田は顔を歪ませて言い返す。
「その言い方が、むかつくって舟越が言ってたぜ。
あいつのこと、別に好きでも嫌いでも何でもねぇけど、俺もあいつの意見に賛成する」
ぴりぴりとした雰囲気の中で、監督である田村の声がタイミングを計っていたかのように響いた。
「全員集まったようだな」
田村の登場に、集められた選手たちは、慌ててその前に並んだ。
田村はそれぞれの顔を一度見渡してから、口を開いた。
「今まで何度か顔を合わせてきていたのであれば、久しぶり。
それ以外は初めましてだな。監督の田村だ。
私の信条は、常にベストをつくせるチームをつくる、だ。
二度目に選ばれたものも、初めて選ばれたものも、調子が悪ければ、容赦なく落としていくからそのつもりでいてくれ」
その言葉に、集まっていた選手たちの間に緊張感が走った。
以来、堀田からは、直接的な嫌がらせは受けていないものの、右京を目の敵にしているのは、明らかだった。
そして当然のように、右京はそんな堀田を無視し続けている。
それが堀田の感情を更に逆撫でしていることも、明らかだった。
成は、去年の合宿を思い出し、このまま無事に終わればいい、とだけ思っていた。
亜紀子が茶道部に入部したのには、あまり深い理由はなく、友達に誘われたことと、活動が週に1度だけだったからだ。
実際に、正座は辛かったけれど、週に一度食べれる和菓子はおいしく、真面目な性格もあって亜紀子は毎週参加していた。
その茶道部が一年で一番慌しくなるのは、実は学園祭だ。
普通の喫茶店とは違い、和室にて部員が立てるお茶を出すというだけではあるが、部員が少ないこともあって、大忙しなのだという。
その学園祭の打ち合わせで、亜紀子は夏休み中の学校にやってきた。
サッカー部への差し入れを持ってきたり、由太にも内緒でひっそりと学校には来ていたものの、制服を着るといつもと違う気分になった。
「暑いー」
友人の真沙美はそういうと、スカートの下から、団扇を仰いでいる。
「真沙美ちゃんってば」
茶道部が全員女子だからなのか、部活の時間はいつも女子高の雰囲気が漂うのだ。
「だって、暑いんだもん。亜紀ちゃん、偉いよ。我慢して」
そんなことない、と答えながら、亜紀子は席を立った。
「それじゃ、窓開けようか」
「うんっ」
真沙美も亜紀子に続いて席を立った。海側の窓を開けては見たものの、風が入ってくる気配すらない。亜紀子は、教室のドアも開け、そのまま廊下の窓も開け始めた。
窓を開けた途端、グランドからかけ声が耳に入ってくる。
「あー、サッカー部が練習してる」
気づいた真沙美も、亜紀子の隣に駆け寄ってきた。
「高岡先輩、いる？」
真沙美に言われるまでもなく、亜紀子は由太の姿を探していた。
あ、いた。
腰に手を当て、グランドに視線を馳せているその後姿を見つけた亜紀子は、顔を綻ばせる。
勉強を教えてくれる由太も好きだが、それでもやっぱりグランドにいるときの由太が、一番かっこいいと亜紀子は思っている。
その時グランドにホイッスルが鳴り響き、選手たちが一斉にグランドから引き上げてきた。どうやら休憩時間らしい。
「呼んじゃえば？」
真沙美がそう言うが、亜紀子としてはそういう目立つことを由太が嫌っていることもわかっていた。
それに、亜紀子も大声を出すことはあまり好きではない。
いいよ、というと真沙美が不満そうな声を出した。
「相変わらず高岡先輩って厳しいんだね。いいじゃん、彼女にくらい甘くても」
前にデートでの由太の様子を話した時から、真沙美はどうも由太が苦手のようだ。
「あたしだったら、むしろこっちに気づいたら大声で叫んでほしいけどなあ。ほら、福山先輩みたいに」
亜紀子は朔哉が、萌子の名前を大声で叫ぶのは見たことがないが、真沙美の言いたいことは理解できた。
つまり、自分を好きだってことを、堂々と周囲に見せ付けてもらいたいのだ。
「でも、優しいところもたくさんあるんだよ」
亜紀子はそういうと、どこか俯きがちに校舎に向かってくる由太を見ていた。
本当は、優しくて。
でも、それを素直に表現できない、まっすぐで不器用な人。
ふふっと微笑んでいた亜紀子だったが、次の由太の行動に、思わず顔を強張らせた。
ベンチで理香からタオルを受け取った由太は、額の汗をふき取ると、ふいに後ろを振り返った。
そこには、理香と同じようにして部員に飲み物を配っている萌子がいて、そのコップに集るように萌子を取り囲んでいる。
由太はそんな萌子に近づきもせず、ただじっと見ていた。
そのうちに集っていた部員たちも姿を消し、由太に気づいた萌子がそっとコップを差し出した。
『由太もどうぞ』
大方そう言っているのだろう。
だが由太は、そんな萌子を無視するようにして、スタスタと逆の方向に歩いていく。萌子はそんな由太に一声かけているようだが、由太はそれも無視して、先を歩いていく。
傍から見れば、由太のことを冷たいと思うのだろう。
でも、どうしたんだろう。
避けることないのに、先輩…。
はっと気づいた亜紀子は、思わず窓に背を向けると、そのままずるずると廊下に座り込んだ。
交わしてきた言葉は、恋人同士のわりに少なかったかもしれない。
だがその分、亜紀子はずっと由太を見つめていた。
見つめ続けることで、由太を理解してきたのだ。
そんな自分だからこそ、わかる。
先輩は、気づいてしまったんだ、自分の気持ちに。
萌子さんに、惹かれている気持ちに。
だから、自分で抑えようとした。
でも、できなかった。
そうしたら、どうする？
高岡先輩だったら、どうするの？
まっすぐで不器用な人だから。
先輩だったら、きっと。
「亜紀ちゃん？どうしたの？」
真沙美が心配そうな声をあげる。
亜紀子は、大丈夫とだけ消えて行きそうな声で答えた。