Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏影8
「どうかしたの？沢木さん」
練習時間、ベンチに座っていると、隣で紗依がそう話しかけてきた。
「やけにため息が多いから」
「いえ…あの」
萌子はしばし、グランドを眺めた。
練習もほぼ終わりで、選手たちは最後のストレッチをしているだけだ。
「恋愛相談、してもいいですか？」
萌子がそういうと、紗依が目を真ん丸くさせ、逆に萌子が戸惑ってしまった。
「あ、ごめんなさい。突然で」
いくらか落ち着いたのか、紗依がゆっくりと首を左右に振った。
「ううん。全然いいわよ。だけど…。
福山君とうまくいってないの？」
紗依の驚いている表情に、萌子は思わず首を振った。
「あ、いいえ、私じゃなくて…。理香と篤志なんです」
人の悩み事を、他人に話すのは躊躇われたものの、萌子としても篤志の言葉に戸惑いを感じていた。
篤志の気持ちを理解したいと思うけれど、理解しきれない自分がいる。
もし、年上の女性だったら、別の答えを出してくれるのかもしれない。
萌子はそう思い、思い切って紗依に相談することにしたのだ。
一通り、話し終えると、紗依はそうね、と呟いてから、答えた。
「タイミング、なのかもしれないわね」
「タイミング？」
「そう。
実はね、私も恋人と別れたばかりなの。
別に嫌いになったわけじゃなくて、ただ、最後の最後でタイミングが合わなかったの」
紗依はそこで、大きくため息をついて、赤く染まり始めた空を仰いで語り始めた。
「あと三年、ううん一年、待ってくれたら、結婚だってOKしてたと思う。
彼の転勤も、もう少し早くに決まっていたら、そうね半年前なら、別れたくないからって付いていったかもしれない。
だけど、うまくいかなかった。
お互いのタイミングが、あってなかった」
悲しそうな横顔に、萌子は紗依が泣き出すのかと思ったが、そこで紗依は、大きく首をかしげて言った。
「だけど、悲しいけど、このタイミングって、自分自身じゃ作れないのよね」
どうしようもならないのよ、と紗依は自分に納得させるように呟いた。
応えに悩む萌子に、今度は逆に紗依が萌子に質問をした。
「ね、沢木さんの時はどうだったの？福山君と」
「え」
「突然で、びっくりしたって、小池さんから聞いたわよ」
私は…と言いかけて、萌子は、振りかえった。
確かに、朔哉とは初めから良好な関係だったわけじゃなかった。
だけど。
『俺と、つきあってほしい』
中庭での、朔哉からの突然の告白。
『あいつは、私が一番側にいて欲しいときは、必ずいてくれる』
真琴の言葉。
必ず、学校の行き来を一緒にしてくれた朔哉。
そのきっかけは、
タイミングは…。
『大丈夫…？』
寒空の下で、自分の鼓動の音が耳に痛かった。
それだけじゃない。
すりむいた膝、手足。
助けて。
何度もそう叫んだ…。
助けて、誰か。
『モエ…っ』
そう思ったところで、萌子は頭を抱えるようにして俯くと、ぎゅっと目をつぶった。
駄目。
これ以上、思い出してはいけない。
何かが萌子の心にブレーキをかけた。
黙りこんだ萌子を見て、紗依はそれ肯定と受け取って重ねるように聞き返した。
「それも、タイミングだったんじゃないのかしら？」
「タイ…ミング？」
「そう。お互いがお互いを必要としている時だったのよ」
「お互いが…お互いを…」
萌子はそう呟いた。
確かにそうだった。
誰かに隣にいてもらいたかった。
そう思った。
ふいに首筋がひんやりとして、萌子が手を当てると、一筋の汗が流れていた。
気づけば、鼓動も早まっている。
萌子は汗をふき取りながら、ぐっと手を握り締めると、話を元に戻す。
「先生、篤志は。
篤志はちゃんと答えを出してくれるんでしょうか」
そうだ。
話は自分のことじゃない。
理香と、篤志のことなのだ。
紗依は、そうね、と吐息混じりに答えてから続けた。
「きっと出すとは思うわよ。
それが、小池さんの望んでるタイミングではないかもしれないけどね。
だけど、答えが出せないってことは、すでに日比野君にとって、小池さんは簡単には離せない相手ってことでしょう。
日比野君が、それに気づいてくれたら、それが答えの出る時かもしれないわね」
紗依がそう答えたところで、練習の終了を告げるホイッスルが鳴った。
立ち上がり、選手のタオルを手に持ちながらグランドに向かう紗依を見て、萌子はどこかほっとしていた。
練習も終わり、グランドの片隅ある水呑み場で、成が水を飲んでいると、隣に影が見えた。
顔を上げると、笠間だった。
笠間も、そんな成に気づいて、顔を上げると、口についた水をタオルで拭きながら言った。
「おつかれ、早坂」
「お疲れ様でした」
今日の練習は、一応笠間も相手をしてくれたのだ。
成にとって、初めての経験だったのだが、怪我をする前は凪高のホープだったのも当然という技術を笠間は持っていた。
今は、草サッカーをする程度らしいが、それでも、レベルは高い。
「うまくなったな。早坂」
そんな笠間にふいにそういわれ、成は、思わず聞き返していた。
「ほんとですか？
…実は、最近相手選手の動きが見えるようになったりして、ほんのちょっとだけ、自信でてきたんですけど。
でも、まだまだ。
国立は遠いです」
国立、と聞いて笠間は、ハハと笑い声を上げた。
「その前にインターハイだろう」
インターハイは、目前に近づいているのだ。
そうですね、と答える成に、笠間が真剣な表情になって言った。
「だけど、この分じゃ、国立も夢じゃないな」
成としても、このところはその手ごたえを感じていた。
統率の取れたディフェンスの最終ラインは、全国からしても、トップクラスだし、オフェンスも、朔哉と右京がいれば、怖いものなしだと自画自賛でもなく言えることができた。
それに何より、負ける気がしなかった。
誰も口にはしなかったが、実は新チームになってから、凪高は公式戦は負けなしだったのだ。
だけど、全国区の試合は、インターハイが最初になる。
ごくりと唾を飲み込み、成は気持ちを引き締めた。
本当の勝負は、これからだ。
「早坂」
「はい」
笠間は夕焼けに顔を赤く染めながら、成に唐突に質問をした。
「勝ち続ける選手と、そうじゃない選手の差って、何だと思う？」
考えたこともない質問に、成は悩んでから答えた。
「…練習量、ですか？」
そうだな、と笠間は小さく頷いた。
「それもあるだろうな。
経験もあるだろうし、運だってあると思う。
だけど俺は、それは、その一瞬を逃さないことだと思う」
「その一瞬？」
「ここぞという時に、きちんと決めてくれる選手だ。
あるだろう。試合中に、ポイントとなる場面。
そこで、絶対的に勝てる選手が、常に勝ち続けられる選手だと俺は思う。
それを補うのが、練習や、経験というわけだ。
早坂には、そういう選手になってほしいと思うし、そうなれると思う」
なれると言われ、成は答えに戸惑い、思わず唾を飲み込んだ。
確かに試合には、そういった場面が必ずある。
ここで点を決めるべき場面。
ディフェンスから言えば、絶対に抜かれてはまずい場面。
オフェンスでは、また次のチャンスということもあるが、ディフェンスでは、そうはいかない。
常に勝ち続けられる選手になれる？
俺が？
「ほんの一瞬だ。そして、二度と訪れない一瞬。
それを逃さないようにして、頑張れよ」
背中を押されるように、ぽんと叩かれて、成は、はい、と答えた。
成の言葉が魔法の呪文だったのか、萌子の怪我の具合はよくなってきていた。
よほどの重い荷物でなければ、軽々と持つことができた。
だから、コールドスプレーが切れてしまったという話を聞き、萌子は率先して買出しを申し出た。
とはいえ、夕食前の為、それほど時間に余裕もない。
駆け足で一番近い薬局に駆け込んだ萌子が学校に戻ってくると、またも木原が裏門の前に立っていた。
「やぁ」
もたれ掛っていた門から体を起こし、木原はそう萌子に向かって手を上げた。
「木原…くん」
すると木原は高潮した表情で答えた。
「やっと名前覚えてくれたんだ。それじゃ、俺のこと思い出してくれたのか」
「ええ」
萌子の警戒した低い声にも木原は気づかないのか、明るく楽しそうに続けた。
「へー、嬉しいねえ。一度も話したことなかったのに」
「彼女のまるで手下だったから。あなた」
冷水をかけられたように、一瞬にして木原の表情が強張った。
けれど、萌子は怖いとは思わなかった。
「残念だけど、彼女のことで私をからかっても、もう過去のことだもの。怖くなんかないわよ」
萌子は気丈にそう言うと、さっさと木原の脇をすりぬけようとした。
ショックのあまりか、木原は何も答えなかったものの、萌子とすれ違った瞬間、
「…ぉいっ、何だよその態度は」
といきなり声を荒げると、萌子の腕を掴んだ。
その痛みに、思わず萌子は持っていた包みを落としてしまった。
あ、と思いながら、その包みを見ていると、別の影が近づいてきて、そっとそれを拾い上げる。
思わず萌子が顔を上げ、そこで動きを止めた。相手は、無言のまま、包みを萌子に渡すと、すばやく木原の腕を掴み返した。
「何、だよ」
突然現れた朔哉に睨みつけられ、木原は掴まれた腕の痛みに顔を歪ませると、萌子を掴んでいた手を放した。小さく舌打ちする木原に、朔哉は淡々と言い返した。
「磯村さんからの伝言だ。
今帰るなら、起こした過ちは、許してくれるそうだ」
磯村、と聞いた木原の顔が瞬く間に赤くなる。
「…なっ」
動揺が、左右にいったりきたりと動く瞳孔にも垣間見える。
そんな木原の腕から手を離し、朔哉は萌子を背中に庇うと、低い声で言い放った。
「さっさと帰ってくれ。
そして二度と萌子の前に現れるな」
部室で萌子の腕に湿布を貼りながら、朔哉は話していた。
「木原則之って、名取の彼女の知り合いらしいんだ。
今朝、名取から聞いて」
運命のいたずらとも言える偶然だった。
ケンの会話から、萌子の名前を聞いた朔哉は、直接亮子から話を聞いたのだ。
それは今年のゴールデンウィーク、ケンの地元で開催されていた大会に行った時のこと。
萌子が亮子を街中で見つけた時、一緒にいた友人の一人に木原がいた。
何となく見覚えがあったこともあり、気になった木原は、亮子から萌子の名前を聞きだした。
その後、凪高の試合会場にもやってきて、自分の小学校の時の同級生が、萌子であることを確信したという。
「女癖の悪い男らしくて、夏休みに入って、学校の先輩…それが磯村って言うらしんだけど、彼の恋人をたぶらかしたらしい。それがばれて、逃げ出してきたようだ。夏休みだし、こっちのほうに、知り合いがいるとかで。名取の彼女は、木原がこっちの方に来てるって聞いて、萌子のこと心配してた。木原が、萌子にも 手を出そうとしてるんじゃないかって」
そう、と答えて萌子は黙り込んだ。
手当てを終え、萌子のTシャツの袖を下ろしながら、朔哉は唇をかみ締めながら言った。
「萌子に話そうと思ったんだけど、中々タイミングが合わなくて…ごめん。少し、遅かった」
「ううん」
謝りながら下げた頭を僅かに上げて、朔哉は萌子の様子を伺った。
伏し目がちな萌子の視線は、どこを見ているのかわからず、それ故に朔哉は心配になり、尋ねた。
「何か、あったのか？」
「え？ううん。何もないわ。ただ、話しかけられただけで」
話は聞こえているらしいし、今の言葉にも嘘はなさそうだ。
けれど、朔哉はいつもと違う萌子に気づいていた。
「大丈夫？萌子」
ハッとしたように萌子は顔をあげたものの、視線は朔哉から逸らして答えた。
「うん」