Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏影6
また来てしまった。
朔哉はそう思いながら、渡り廊下の、女子が寝泊まりしている北校舎への入口で、しばし立ち尽くしていた。
結局、萌子とはあれからじっくり話が出来ていないままだ。
萌子は、体調不良でダウンした理香の代わりに、慌ただしく働いていたし、
朔哉の方は石橋からの呼出しを受けていた。内容は専ら進路のことだ。
今日は、ある大学から朔哉に推薦の話が来ているという話だった。その大学は、朔哉も希望している、光一のいる大学だった。
とりあえず、インターハイが終わってから、練習に顔を出すことは約束したけれど、それ以上のことは何も決めることができなかった。
そんな話も萌子としたいと思っていた。
昨日も、一昨日も、偶然田所が通りかかってくれたからよかったけど、さすがに三度目はないか。
十分ほどそのままで待ってはみたが、もう少しで消灯時間になると気付き、朔哉は素直に諦めることにした。
見上げると、萌子たちの寝泊まりしている教室の明かりはまだ点いている。
一つ屋根の下って思ってたけど、だからって近いわけでもないんだな。
小さくため息をつき、自分の教室へ戻ろうとしたところで、朔哉の視界に何かが映った。
どうやら北校舎奥にある道場の、入口辺りの木が、不自然に揺れているようだ。
誰かいるのか？
それとも不審者？
泥棒？
朔哉は足音を潜めて、道場に近づいた。
不審者としたら、道場から一番近い北校舎は女子が使っているわけだし、危ないから追い払うしかない。
だいいち北校舎には萌子がいるのだ。
萌子に何かがあってはいけない。
朔哉は、校舎の壁に体を沿うようにして隠しながら、顔だけ覗かせて様子を伺った。
強い風が吹いてきて、木々を揺らす。
木の影から、抱き合う男女の姿が見えたところで、自然と朔哉は息を呑んだ。
重ねた唇を、惜しみながら二人が体を離すところに、月明かりが差し込んで、その顔を照らす。
そして朔哉は、大きく息をのむと、立ち尽くした。
「…私ね、小さい頃は自分がいらない子供だって思ってたの」
「え」
萌子の突然の告白に、成は思わずそう答える。
「もちろん、今はそうは思ってない。けど、小さい頃は、本当にそう思ってた」
萌子の表情に笑顔が垣間見え、成は安心した。
だけど、小さい頃って？どうして？
成の疑問に答えるように、萌子は話を続けた。
「お母さんはお父さんと結婚したとき、仕事もきちんとこなしていて、ううん。むしろ、他の男の人よりも、一生懸命で、優秀だったみたい。
お母さんも仕事は結婚しても続けるつもりでいたんだけど、結婚してすぐに私を身籠って。予想外だったから、仕事も諦めるしかなくて、お父さんに言われるままに、仕事もやめて、専業主婦になって、私を生んだの。
働きたくて仕方なかったらしいわ。だけど、私がまだ小さいからって、我慢してたの。それでよく、お父さんとも喧嘩してた」
父も仕事が忙しく、余計に萌子の育児は、母親の仕事になっていた。
小さいころ、ふと不安で目覚めて母を捜しにいくと、いつもリビングでは仕事から帰って来たばかりの父と、母は口げんかをしていた。
「だけどね、小さい頃からやっていたバレエの発表会だけは、いつも二人でやってきて、ニコニコ笑ってたの。
…だから、私。バレエだけは必死にやってた。バレエをやっている限り、お父さんもお母さんも、笑顔で私の側にいてくれるんだと思ったから」
舞台から見た、誇らしげな二人の顔を、拍手を、萌子は思い出し、そっと微笑んだ。
あの時だけは、家族だと思うことができたから。
「頑張ってたから、これでもそれなりに上手かったのよ、バレエ。主役にもなれたし。
そうすると、お父さんもお母さんも褒めてくれたし、嬉しそうで、だから更に練習頑張ったりして。
だけど、それを認めてくれない人たちも沢山いた。
バレエの先生に、媚びてるとか、ぶりっこだとか、…いろいろ」
練習の前の更衣室でも、教室でも、萌子は一人だった。バレエしか見えていない萌子にとっても、ままごとのような友人は必要ないと思っていたから、だからといって他のクラスメートに媚びることもせず、それが余計に反感をかっていた。
「その中の一人に、クラスメートの子がいて。
彼女も、主役を目指している子だった。実際に上手だったとは思う。だけど、いつも主役は私だった。
彼女は…。私のことが目障りだったんだと思う」
クラスでも中心人物であった友田聖子は、実際頭もよく、教師にはわからないように萌子に嫌がらせを続けた。体育の時間に、下校途中に、そして、バレエ教室で。
「色々嫌がらせうけたけど、だけど私は我慢できた。
お父さんとお母さんの為だって思えば、耐えられた。
二人の為にも、いつかプリマドンナになろうとも思った。
だけど、小学校最後の発表会の直前に、怪我をしたの」
萌子はそういうと、自分の右足を見つめた。今も残る傷跡は、それでもいくらか自分の体に馴染んできたと思う。
「アキレス腱の断絶。練習中に突然だった。病院に運ばれて、お母さんも駆けつけて。
だけど、お父さんはなかなか来てくれなかった。
その頃、お父さんは、お母さん以外の女の人と会っていたから」
背後にいる成が、思わず息を呑んだのがわかった。
萌子は視線を、空に向けた。
綺麗な月に雲がかかり、辺りは瞬く間に暗闇に包まれる。
「自分がバレエをやることで、お父さんとお母さんは繋がってるんだと思ったけど、それは間違いで。
結局、みんなバラバラだった。だけど私はそれを認めたくなくて、独りよがり、してただけだったの。
そのまま、私は怪我でバレエも続けられなくなって。退院と同時に、お母さんは私を連れて、実家のある長野に帰ったの。離婚するつもりで。
それから、私が松葉杖無しで歩けるようになると、お母さんと一緒に実家を出て、二人で暮らし始めたわ。働き出したお母さんはいきいきしてた。
だけど、私はいつも不安だった。
いつか、お母さんが私だけ置いて、どこかに行かれてしまいそうで、いつも不安だった。
そうやって転校して…初めてできた友達を、自分が最悪な形で裏切って。
その頃はお母さんも忙しくて、私の話聞く時間なんてなくて、もう自分なんかいなくてもいいんだって、そう思ったときに、お父さんがやってきたの。
お母さんと、寄りを戻したいって。だけど、それには私の気持ちが第一だから、それを聞きに来たんだって」
けれど、萌子は許せなかった。
父が、父の浮気がすべての原因に思っていたから。
「身勝手だって、散々言った。小さい頃から十五年分、言えずに居たこと、我慢してたこと、全部ぶちまけた。
だけど、お父さんはそれを全部受け止めてくれた。
黙って聞いて、ごめんって謝ってくれた。
お母さんだけじゃなく、私ともやり直したいんだって言ってくれた」
雲が流れて、再び月明かりが二人を優しく照らす。
「十五年経って、初めて私たちが家族になろうとした時だったの」
それは、暗い深い夜の海に漂っていた萌子に見えた、一筋の光だった。
太陽みたいに強くは無いかもしれないけれど、
今こうして優しく照らしてくれる月明かりのように。
道に迷わないように、そっとそっと照らす、それは確かに萌子と、萌子の両親の未来への希望だった。
篤志は寝転がりながら、昨日の会話を思い出していた。
「相談にのるって言われてもさ…」
そう呟く成に、篤志は自信に満ちて答える。
「協力するよ、成の新しい恋に」
「新しい、恋？」
成の声が怪訝そうに響く。
「だからさ、例えばコンパとか」
「いいよ。俺、そういうの苦手だし」
「じゃあ、コンパじゃなくても。誰か紹介する。
失恋を忘れるには、新しい恋が一番って言うじゃん」
軽く篤志は答えるが、成は頑なだった。
「だけどさ、それって相手に悪くないか？その子の何かを好きになってってわけじゃないんだろ」
「そうかもしれないけど、それでもいいっていう女の子、いるかもしれないだろ？」
実際に、篤志は成のファンの女の子を何人も知っている。
しかし、成は考えることなくきっぱりと答えた。
「…やっぱ、いいよ」
「どうしてだよ、成」
「どうしてって…？」
「別にいいじゃん。本当に好きな相手と付き合える確率なんて、きっと１％もないぜ。
みんなどっかで妥協して、そうしていろんなこと勉強して、大人になっていくんだろ」
実際に付き合えば、どっちが好きだったかなんて、関係ない。
告白されて付き合って、惚れたところで突然ふられたという話はよくある。
想像と違ったのか、それとも本気じゃなかったのか、わからないけれど。
だけど、付き合ってみないと、見えないこともあるってことだろ？
それでも、珍しく、成は頑なだった。
「…確かに篤志のいう通りかもしれないけど…。
でも、ごめん。
俺はできない」
ごめん、と成はもう一度口にした。
どうして、と焦る気持ちが、篤志の口調を僅かにきつくさせる。
「何かあったわけ？」
「え？」
「だって成、もてるじゃん。だけど、誰とも付き合わなくて、ふられたうえに、恋人のいる子を好きでいるなんて、あり得ないだろ。絶対に！」
あり得ない。
しかも、その恋人は、あの朔哉さんなのだから。
けれど、成は繰り返し、ごめんというだけで、寝返りをうち、篤志に背中を向けると、そのまま黙り込んでしまった。
あの頑なな成の背中と、 さっき見た走り去る成の背中が被る。
あともう少しで消灯時間だというのに、成はまだ、帰ってこない。
「アッチ、理香ちゃんのお見舞い行った？」
篤志の背中に、厳巳がそう尋ねた。
「いいや」
そう答えると、篤志は厳巳から逃げるようにごろんと転がった。
だが、それでも厳巳の声が、篤志を追いかけた。
「理香ちゃん、待ってたよ。アッチのこと。
まだ消灯時間に間に合うからさ、行ってきたら？」
「いいよ」
「どうして？行ってくればいいのに」
「明日またグランドで顔あわせるじゃん。それでいいよ」
夏の暑さがそうさせるのか、正直なところ、篤志は理香から逃げていた。
真っ直ぐすぎて、理香の気持ちは、たまに篤志に重くのしかかる。
ごろんごろんと二回転半して、篤志は窓際の壁にぶつかった。流石にもう逃げられないらしい。
仰向けになったところで、篤志は大きくため息をついた。
あのさ、と厳巳が遠慮がちに口を開いた。
「…アッチさ、最近テニス部の斉藤さんと仲がいいって本当なの？理香ちゃん、相当気にしてるみたいだったけど」
「何でもないよ」
「でも、理香ちゃん―」
思わず篤志は起き上がり、叫んだ。
「うるさいよ、厳巳っ。
そんなに理香理香言うんだたら、厳巳が理香の見舞いにいけばいいじゃないかよ」
厳巳を睨みつけると、その後ろで、一馬達数人の部員たちと目があった。もちろん、篤志の視線に気づくと、彼らは何事もなかったの用に、雑談を始めた。
「わかったよ。…ごめん。うるさく言って」
篤志は厳巳に謝った。
じんわりとかいた汗で、額に前髪が張り付いていることに気づいて、手で離そうとするものの、なかなか思うように行かない。
シャワー浴びたばかりだってのに。
小さくため息をつく篤志に、一馬が心配して声をかけた。
「おい篤志。どうしたんだよ」
「…何でもないよ。ごめん。厳巳」
「ううん。僕こそ」
篤志は厳巳の声を聞きながら、心の中で小さくため息をついた。
「ありがとう、成」
「え？」
くるりと振り返り、萌子に清々しい笑顔で言われた成は、逆に戸惑った。
「木原って人…昼間の人だけど、あの人は、その女の子の近所の家の男の子でね。よく来てたの、バレエの練習にも。ガラス越しに、見たことが何回かあったわ。
私にとって一番嫌なときを知ってる人。
だから、一番嫌な時を思い出させる。
でも、すっきりした。あの人に会っても、もう大丈夫って気がする。
私は、昔の私じゃないんだって思い出したから」
すっきりした笑顔の中にも、力強さを感じて、成は良かったと思った。
いつもの萌子だと思った。
だけど、さっきの萌子も、萌子には変わりないのだとも。
この一年、色々な萌子を見てきた。
啖呵を切るように、髪を切り、マネージャーになろうとした萌子。
友達に裏切られて、それでも自分が悪いのだと責めた萌子。
ふられたと話しながら、清々しい笑顔を見せた萌子。
憧れていた友達に成り代わりたかったと、告白した萌子。
寒空の下で、ほんのり頬を赤くさせ、温かな笑顔を見せた萌子。
そして、今にも消えてなくなりそうな声で、過去を語る萌子。
すべてが、萌子の姿だった。
「あ、消灯時間」
時計を見ると、消灯時間まであと五分だった。
ダッシュで帰ったところでぎりぎりと言うところだろう。
「急ごう、成」
走り出そうとする萌子の背中を、成は呼び止めて話し続けた。
「萌子」
「なぁに？」
立ち止まった萌子が振り返る。
成は小さく息を吸い込むと、もしも、と続けた。
「もしも、それでも、不安になることがあったら。
俺、言うから。
萌子は必要だよ。
必要な存在だって。何度でも」
萌子は、必要だから。
萌子の両親にとっても、
サッカー部にとっても、
そして、俺にとっても。
萌子の目が、少し見開かれ、
「あり、がとう」
とぎこちなく、その声が小さく聞こえた。
嬉しいというよりも、戸惑っている様子だった。
だから成は、力強く微笑んで、続けた。
「手の怪我、無理することはないけど、早く治るの、待ってる」