Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏影5
教室のドアに手をかけて萌子は振り返った。
だが理香は、暑いというのに頭からタオルケットを被り、こちらに背を向けている。
理香…。
萌子は心の中で小さくそう呟いて、そんな理香の隣で髪の毛を乾かしている美都に、行ってくるとだけ告げた。
昼間の話を聞いていたのかはわからないが、結局理香は晩ごはんも食べずにずっと寝ていた。熱は無いという紗依の話だから、あとは、気持ちの問題なのかもしれない。
聞いてみよう、篤志に。
萌子はそう思うと、消灯時間まであとニ十分というところで、男子のいる南校舎へと向かった。
渡り廊下伝いに、南校舎への入り口まで来たものの、人の行きかう気配はあまりない。
かといって、女子禁制となっている校舎に、勝手に入り込むことも出来ず、萌子は立ち往生していた。渡り廊下の奥からは、楽しげに談笑する声が聞こえてくるが、誰かが現れることは無く、時間は淡々と過ぎていく。
いっそ、大声出してみようかしら。
よし、と気合を入れて大きく息を吸い込もうとしたところで、ふいに渡り廊下に誰かの影が過ぎった。
「萌子？」
暗がりで、相手の顔は見えなかったけれど、名前を呼ばれたことから萌子は安心して無意識に聞き返していた。
「篤志、いる？」
アッチ？と言いながら、その影は萌子に近づいてくる。
光の中に浮かび上がったその顔に、萌子はあっと一瞬息を止めた。
「さっき、出ていくのが見えたけど」
首に巻いたタオルで、濡れた髪をガシガシと拭きながら、成が目の前でそう答える。
「そう」
ごくり、と唾を呑みながら萌子は答えた。
心臓が高鳴っている。
昼間の出来事を思い起こされ、萌子は成に謝るべきかを一瞬だけ考えて、すぐにその考えを振り切ると、
「…福山先輩、いるかな」
と質問をした。
理香のダウンは思った以上に響いていて、萌子も、そして美都もその後はほとんどグランド以外のところでひっきりなしに働いていた。それ故に、結局朔哉とは具体的な会話もできずに、今に至る。
だが萌子の中では、朔哉よりも、理香のことの方が気にかかっていた。
朔哉との話は、自分が話したいだけだから、我慢をすればよい。
だが、理香のことは、友人としても、同じ部活の仲間としても、解決しなければならない。
それに。
と思ったところで、萌子は小さく息をついた。
本当のところ、萌子は少し悩んでいた。
朔哉は、本人は自分の弱さを責めていたけれど、それでも萌子にとっても、完璧な人だった。いや、常にそう在ろうとする。
その朔哉に、自分の消し去った過去を話して、それを朔哉が受け入れてくれるのか、正直萌子も計りかねていた。時が経つにつれ、冷静に考えるようになったのか、その気持ちは強くなっていた。
けれど萌子は、昼間の後の、成との二人きりの雰囲気に押されるようにして、気づけばそう尋ねていた。
言ってから、萌子は少し後悔をした。
こんな時間に朔哉さんを探してるなんて、部活と関係ないってこと、ばれてるようなものなのに。
だが、成の方は素直に答える。
「さっき、監督に呼ばれてたみたいだけど」
「…そう」
このところ、朔哉は石橋に呼ばれることが本当に多くなった。
インターのことだけなのかな。それとも別のこと？
そう思ったが、萌子は目の前にいる成を思い出し、慌てたように、ありがとうと礼を言い、その場を立ち去ろうとした。
「待って、萌―」
「萌子さーんっ、どこにいますかー？」
二人の声が重なって、萌子は思わず足を止める。
背後から呼び止めたのは、成だ。
そして、どこからか叫んでいるのは、多分良恵だ。
「誰？」
「多分、テニス部のマネージャーの子、だけど」
良恵のどこか媚びる表情を萌子は思い出した。
確かに相談事は、相談事なのだが、良恵の真剣さを、萌子はあまり感じられないでいた。
練習時間以外でも、良恵は萌子の周りをうろつき、勝手に話し続けるのだ。悩み事の相談というよりは、話し相手とされているような気がする。
だが、それを拒絶することは、萌子にはできなかった。
これから消灯時間まで、延々と続く良恵の話を想像し、萌子は俯いて思わず小さなため息をついた。
だけど、聞いてあげないと。
せっかく相談してくれてるんだし。
「萌子さーん、どこですかー？」
声が段々と近づいてくる。
萌子が覚悟を決めて、顔を上げたところで、ふいに成が萌子の手を掴んだ。
「…成？」
今、自分が見たのは、幻なんだろうか。
暗がりだったし、どちらか見間違えたのかもしれない。
萌子か、或いは成か。
わからないけれど、まさか二人が手をつないで、外に走っていくなんてこと。
あり得ない。
きっと、あり得ない。
「日比野君？」
「あ、えっと。何だっけ」
名前を呼ばれて、慌てて篤志は振り返る。
すると、斉藤友紀子が困惑した表情を浮かべていた。
流石に、表立って話していると、唯でさえうるさい連中に騒がれるのが嫌だったし、友紀子自身も望んで、二人は木陰で話をしていた。
木陰とはいえ月明かりが零れ、僅かに紅潮した友紀子のつるんとした肌を照らしている。
確かにその表情を見ていると、サッカー部での人気も頷ける。
いや、斉藤は、他の生徒からも人気がある。
少なくとも篤志の調査では、凪高の二年の中では美人だという噂だ。
篤志がそんなことを思っていると、友紀子が拳を握りしめながら言った。
「明日。ううん、少なくともこの合宿中には、思い切って、話そうと思うの。
いつまでも、こうやってるの、よくないと思うし。知ってる人もいるみたいだから。
隠してる場合じゃないと思うの。ちゃんと、伝えたいから」
「ああ、そうだよな。うん」
そう答える篤志だが、すでに頭の中では、先ほどみた光景が、駆け巡っていた。
「できれば、花火大会一緒に行きたいの。堂々と」
「ああ」
あり得ない。
絶対に、あっちゃいけない。
篤志は心の中で、強くそう呟いた。
月明かりが綺麗な夜だった。
萌子は成に、引かれるままに、海辺の防波堤へとやってきていた。
着いた途端に、成は萌子の手を離した。
二人とも気づけば必死に走っていて、肩で息をしていた。
それでも、日頃の練習の成果で、少ししてから成が呟くように言った。
「ごめん、萌子。手、大丈夫？」
息を切らしながら、萌子は頷いた。
そして、息を落ち着かせながら、萌子は尋ねた。
「だけど、どうして…？」
萌子としては、良恵と出会わずに済んだことを、本心ではホッとしていた。
成は暫く黙っていたが、ふいに思い立ったように答えた。
「俺が海がみたいと思って、だけど一人じゃ淋しいって思ったから、かな」
はにかんだ笑顔に、白い歯が垣間見える。
弾んだ胸の鼓動に、萌子は気づかぬふりをして、目の前に広がる海へを視線を投げた。
昼間の太陽の光を反射して、時に目を細める海が、今ではどこから海が広がっているのかわからないくらい、暗闇に潜んでしまっている。目を凝らしてじっとみていると、それでも波が僅かに見えて、ああその部分は、海なのだとわかる程度だ。
潜んでいる。
萌子はそう思った。
何かはわからないけれど、確かにあるもの。
揺らめいて、蠢いて、だけど、確かに、存在している。
「夜の海って、何だか不思議。昼間とは、全然違う」
昼間の海は、萌子を優しく撫でてくれる。
その風で、
その音で。
だが、目の前に広がる海は、それとは違う。それでも、萌子は惹きつけられていた。
「萌子？」
成に名前を呼ばれて、萌子はハッとして顔を上げた。
「何？」
「いやごめん。何だか引き込まれそうだったから」
振り返ると、成が心配そうな表情でそう答えた。
引き込まれそうだった。
確かにそうなのかもしれない。
昼間の海ならば、きっと萌子を波が優しく抱きしめてくれるはずだ。
そして、夜の海ならば、きっと萌子を抱き込んで、溶かして、そうして無にしてくれる。
ふいにそんな考えが萌子の中を過ぎった。
「いっそ、引き込まれたほうがいいのかも」
「え？」
「何でもない」
素早く萌子はそう答えた。
素直に気持ちを口に出来るのは、それでもそこにあるのが海だからなのだろうか。
成は、言いづらそうにだが、珍しくはっきりと言い切った。
「…昼間の男。もう一度来たら、今度こそ追い返すよ。二度と来るな、とも言うから」
何も答えない萌子に、更に成は続けた。
「それから、さっきの子も…。無理して付き合うことないと思う」
その時、一際大きく波の音が聞こえた気がした。
成ならば。
成ならば、わかってくれるかもしれない。
その思いに動かされ、萌子は成に問いかけた。
「成は…、成には、人に言いたくない過去って、ある？」
背中越しにいる成が、どんな表情をしているのか、萌子にはわからなかった。
ただ、少しして、成がきっぱりと答えた。
「…あるよ。
誰にでもあるさ、そんなもの。虫刺されの痕と同じくらいある」
一際大きな波が、防波堤にぶつかり、水飛沫を上げた。
萌子は、ゆっくりと振り返り、真剣に自分を見つめる成に向って口を開いていた。
「…昼間の人は、私のそれを知っている人なの。
凪浜に来てから、ずっと忘れていたことなのに、なのに…。
この夜の海に、何もかも吐き出してしまえば、そうすれば、明日からまた笑顔に戻れるかな」
強い風が、萌子の髪を靡かせる。
萌子の視線にも、成は逸らすことなく、ただじっと萌子を見つめ返していた。