Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏影3
もがいていた。
暗闇の中で、必死に手足を動かして。
けれど、辺りは暗すぎて、自分が登っていっているのか、それとも落ちていっているのか、流されているのかすら、わからない。
助けて、と声を上げたいと思うのだけれど、思うようにしゃべれない。
口が開かないのだ。
その代わりに、誰かの声が響いてくる。
『あんたなんか、いなきゃよかったのに』
女の子の声。
そう、彼女の声だ。
『こんな時にあなたって人は』
『君こそ、萌子の傍についてたんじゃなかったのか』
言い争う声。
聞きたくなかった真実。
逃げ出したかった。
けれど、足が石のように重くて、痛くて動けない。
助けて。
助けてっ。
「萌子？」
名前を呼ばれて、萌子はハッと目覚めた。
明るくなってきている中で、美都が心配そうに萌子の顔を覗き込んでいる。
「…美都」
萌子はそう答えながら、ゆっくりと起き上がった。額から汗が一粒流れて落ちる。
涙じゃない、そう思いながら萌子はそれを拭う。
「どうかしたの？怖い夢でも見た？」
「え」
美都は起き上がった萌子を心配そうに見つめている。
「うなされてたから…」
必死で叫んでいた言葉が、声になってなくてよかったと萌子は思った。
理香はまだ眠っている。時計を見ると、まだ朝の五時前だ。
起床は六時。まだ今から寝ても、十分体は休まる。
「大丈夫」
萌子がそう言って立ち上がると、美都が心配そうに呼び止めた。
「萌子―」
「ちょっと水。飲んでくる」
軽く微笑むと、萌子は教室を後にした。
心臓がまだドキドキしていた。こんな状況では、到底眠れそうにない。
萌子は水道で水を飲み、顔を洗うと、思い立ったように校舎を抜け出した。
朝の海風は、思った以上に穏やかだった。
昼には強くなる陽射しも、この時間だとまだいくらか和らいでいるし、海の波の音を聞けば、昂ぶったこの心臓も、落ち着ける気がしていた。
海を目の前にした階段のうえで、大きく深呼吸をしようとすると、ふいに視界に見たことのあるジャージ姿が飛び込んできた。
右京だ。
右京は砂浜を走っていた。左に、右に、全速力で走りぬける。早朝だというのに、右京の額や首筋にはたくさんの汗が流れていた。どうやら、１００メートル ダッシュをこなしている様だ。合宿中は、いつも以上にハードな練習だ。夜にはその疲れが自然と深い眠りを誘い、気づけば起床時間という部員がほとんどだった。その中で、自主練を行っているなど、誰も想像つかないだろう。
けれど、右京は行っていた。おそらく、誰に言われることもなく、たった一人で。
折り返すところで、大きく呼吸を整えながら、腰に手を当てて、歩き回る右京の目には、揺ぎのない強い光があった。その目を見ていると、萌子は自分がいかに邪推なことに囚われているのかと、はっと気づいた。
そう、目指すものはすぐそこにあるというのに。
「おはよ」
萌子が大きくそう言うと、右京はハッとして萌子の方を振り返り、目を細めて萌子を確認すると、訝しげな表情のまま萌子には到底聞こえないほどの小さな声で答えた。
「おはよう」
だが萌子は、右京の表情を気にすることなく、砂浜へと続く階段を駆け下りて、右京の隣に立つと、両手を砂浜について、陸上のスタートの笛の音を待つの恰好を取る。
「…何やってるんだ」
「わたしも、走る」
「え」
「走る」
その瞬間、萌子の頭の中に、パンという何かが弾けるようなピストルの音が響く。力強く足を蹴り出し、体を前に押し出すと、その心地よさとは対称的に、思わぬ砂の重さに足を取られた。
あ、と思った時には萌子の両足は絡んでいた。咄嗟に伸ばした右京の手からもすり抜けて、萌子はそのまま砂浜に倒れこんだ。
「びっくりした」
朝練が始まる直前、ベンチにやってきた朔哉が、萌子の隣に座って、ため息混じりにそう言った。
「ごめんなさい」
項垂れて、萌子がそう答えると、朔哉がそっと萌子の左手を取る。
その手首には厳重に包帯が巻かれていた。
全治一週間の捻挫。
一週間、つまり合宿中はずっとこのように不自由になる。
砂浜で転んだ時、咄嗟に手を伸ばしたのがまずかった。そのまま左手首に、全体重がかかり、すぐさま腫れあがってしまった。
再び、朔哉はため息をつく。
「調子は」
「重いものは持てないけど―」
でも大丈夫、という萌子の言葉を遮って、朔哉がその手をそっと握って言う。
「とにかく、今日は裏方の方やってもらえるよう、小池とかには頼んでおいたから」
「ごめんなさい」
恥かしさで萌子は更に俯いた。
皆がインター目指して、一生懸命頑張っているっていう時に、
そんな皆を支えるべき立場の私が、何をやってるんだろう…。
その時、ふいに左手に触れている朔哉の呟きが聞こえた。
「でも、よかった。大怪我じゃなくて」
ため息が、呆れたわけじゃなく、安堵からなのだと気づいた萌子は、思わず顔を上げる。
「あの…、朔哉さ―」
話したいことがあるの。
聞いてもらいたいことが。
だが、その続きを言う前に、別の声が朔哉を呼ぶ。
「朔哉っ」
グランドから少し怒った表情の石橋が朔哉を睨んでいる。
「…監督、呼んでる」
ああ、と朔哉は答えて、萌子から手を離し、グランドに向う。
そう、今は練習の時間。
彼は選手。
私はマネージャーなのだから。
グランドに向うその背中に、頑張ってと言おうとすると、くるりと朔哉が振り返る。
「今日の昼休みにでも、話そう」
萌子がゆっくりと頷くと、それを見た朔哉も僅かに微笑み、グランドに消えて行った。
涼しかったのは、明け方だけで、陽が昇るとグランドは瞬く間に灼熱の太陽に照らされていた。空は快晴。雲ひとつ見当たらないほどの、見事なまでの青だ。
小さくため息をつきながら、萌子はそんな空を見上げる。
利き腕では無いにしても、左手を庇いながら動くというのは、やはりそれなりに厳しい。
何をやってるんだろう、私。
無性に自分を責め立てたくなったところで、ふいに背後から明るい声が聞こえてきた。
「こんにちは」
「田波先生っ」
振り返ると、そこには薄い水色のサマーニットを着た紗依がいた。
「どうしたんですか？」
白衣を着ていない、しかもグランドにいる紗依は、先生とは思えないほど若々しい。
紗依はふふっと微笑んで答える。
「学校に用事があって。合宿だそうね、サッカー部。大変ね、沢木さんも。あら、どうしたの？」
「怪我、しちゃって…」
慣れた手つきが、萌子の左手を掴む。
「大丈夫？」
「はい。皆に迷惑かけてしまってますけど」
利き腕ではなくても、流石に料理はできない、ということで、料理当番も萌子は免除されていた。洗濯物も手を使うからと、結局萌子ができる仕事はほとんど残されてないに等しい。しゅんとしてそう答えると、
「それじゃ、私手伝うわ」
と紗依が妙に力強く言った。
「え」
そう驚く萌子の前で、紗依は今までに無く清々しい笑顔で答える。
「用事はもう済んだのよ。今日は暇だし」
伸びきった芝生の上でしゃがみ込んでいた夏実は、ふいに太陽の光が和らいだことに気づいて顔をあげると、仁王立ちになった樹生が目の前に立ってた。
「サボってんじゃねぇよ」
「違うわよっ。新田こそ、サボってるんじゃないの？」
夏実がそう言い返すと、樹生もふんっと顔を逸らして答える。
「俺はっ、ボール拾いだよ」
「あたしだって、そうよっ」
芝生は丁度テニスコートの隣にあり、サッカー部の使っているグランドの隅にあった。
夏実が見事打ち上げたテニスボールは、いとも簡単にフェンスを飛び越えた。
一年目だから、唯でさえボールが打てる時間は少ないというのに、こうやって自分の球拾いをしなければならないことに、夏実は苛立ちながらそう答える。
すると、ふいに樹生の声が和らぐ。
「どこだよ、ボール」
「え？…多分、そのあたり、かな」
戸惑う夏実の前で、樹生は四つんばいになると、ふいに声を上げた。
「お、あった」
起き上がると、その手には、確かに黄色いテニスボールがある。
ありがとう。
そう言おうと思っていると、グランドの方から声がかけられた。
「樹生っ。ボールっ」
成だ。それに気づいた樹生は慌てて叫ぶ。
「はいっっ、すぐ行きますっ」
まるで起き上がりこぼしのように、樹生はすくっと立ち上がると、足元に転がっていたボールを、グランドの方に蹴り上げた。ボールは見事に成の足元へと届く。
「サンキュ」
焼けた肌から白い歯を見せ、成はそのままグランドに戻っていく。
その背中を見つめながら、夏実はぽつりと呟いた。
「早坂先輩ってさ。上手だよね、サッカー」
夏実の口から、突然成の名前が出てきたことに、樹生は戸惑いながらも、それを隠すように怒鳴りつけた。
「ったりまえだろ、そんなの」
凪高のレギュラーなんだぞ。
日本のユース代表のディフェンダーでもあるんだ。
何より、俺が尊敬する大先輩なんだからっ。
高まる鼓動を隠そうと、樹生はなおも続けた。
「さてはお前、練習しないで余所見ばっかしてんだろ」
「何言ってんのよっ」
冗談で言ったつもりだったのに、夏実は顔を真っ赤にして反論する。余計に樹生の心は乱れた。
「やだねぇ。テニス部ってのは。そういうのばっかりで」
「どういう意味よ」
睨んでくる夏実に、樹生はテニスコートの方に指を向ける。
そこには、友紀子と談笑している篤志がいた。
「そんなんだから、いつまで経っても、レギュラーになれねんだよ」
吐き捨てるようにそういうと、樹生は怒鳴る夏実を無視してグランドの方に戻って行った。
それぞれの仕事が一段落ついたお昼前。午前中の練習もあと少し、というところで、ようやくグランドのベンチには、理香と美都が戻ってきていた。
「ごめんね、二人とも」
「大丈夫。一年生が手伝ってくれるし」
「こっちもテニス部の子がいるから。それよりも、萌子は無理をしないでね」
理香と美都にそう言われ、けれど萌子はもう一度小さくごめんと呟いた。
丁度ホイッスルが鳴り、午前の練習の終わりを告げる。グランドから選手がわらわらと帰ってくる中で、萌子は朔哉を見つけ、思わずタオルを握りしめた。
『昼休み、話そう』
嬉しかった。自分の気持ちを汲み取ってくれる朔哉が。
優しくて、誠実で、何より、自分をきちんと見つめていてくれるのがわかる。
理想の恋人と理香は言っていたけれど、本当にその通りだと思う。
萌子からしても、これ以上朔哉に求めるところはない。
隣で歩く俊平から顔をこちらに向けたところで、朔哉の視線が萌子と絡み合った。微笑む朔哉に、萌子はタオルを持って一歩近づこうとしたところで、ふいに 自分の目の前にタオルの山が置かれる。それを受け取りながら、萌子は慌てて顔を横に向けると、理香が勇み足でグランドを立ち去ろうとしていた。
「…理香？」
傍にいた美都も、理香の行動に気づいたようだ。萌子と二人、顔を見合わせると、美都は持っていたタオルを、ちょうどやってきた充彦に押し当てた。
「ごめん、松本君。お願いします」
「え？」
「これも、ごめんね」
「ええ？」
戸惑う充彦を置いて、理香を追いかける美都の後を、萌子も追いかけた。理香はそのまま部室ではなく校舎へと入っていく。
「待って、理香」
そう叫んだ萌子の視線の端に、グランドの片隅で、有紀子からタオルを受け取る篤志の姿が映った。
遅れて昇降口に入ると、理香を捕まえた美都の声が廊下に僅かに響いていた。
「理香が逃げることないよ。
言えばいいんじゃない、斉藤さんに。日比野君に近づかないでって。
だって、理香は日比野君の恋人なんだし、そう言っても、間違ってないと思う」
珍しく口調の強い美都に、萌子も加勢しようとしたところで、壁を背に、体育座りしている理香が口を開いた。
「付き合ってるわけじゃないよ」
「え？」
思わず声を上げたのは美都で、萌子も驚きのあまり、黙り込んでしまった。
その間に、理香は立て続けて話す。
「小さい頃はね、将来結婚しようね、って約束したこともあったよ。
でも、それなりに大きくなってからは全然。バレンタインデーにチョコレートあげても、嬉しがってもくれない。ホワイトデーにお返しくれても、あたしが手作りチョコなのに、アッチはコンビニの安いヤツ。
あたしが冗談っぽく好きって言っても、アッチは何も答えてくれないし、つきあってって言った事はないし、言われてもない」
膝を抱える腕に、力をいっそう入れて、理香はだけど、と続けた。
「それでもアッチは隣に居てくれたし、手をつなげば、振りほどかなかった。キスだって、したよ。
だけど、アッチ。好きって言ってくれないの。
怖くてあたし。
怖いから、わざと、付き合ってるように周りに見せつけて、自分でも彼女みたいに振舞って。だけど、アッチ、何も言ってくれないの。好きも、嫌いも、付き合ってほしいも、嘘つきとも。
アッチ…あたしのこと、何とも思ってないのかな」
「理香」
ようやく萌子がそう呼びかけたところで、理香は膝の間に顔をうずめて言った。
「どうしよう、萌子。美都。このままじゃ、アッチ。斉藤さんとつきあっちゃうよ」
涙交じりに震える声が、静まり返った廊下に響き渡っていた。
昼食のコロッケ用のソースがないと気づいたのは、すでに皿に盛り付け始めていたときだった。
「付け忘れたんじゃないの？コロッケ屋のオバサン」
「えー最悪ぅ」
ざわめきだしたテニス部の女子を見て、思わず萌子は口にしていた。
「それじゃ、私荒井屋に買いに行ってきます」
「えー、でも沢木さん手、怪我してるじゃん」
そういうテニス部員だが、その表情は本当に心配しているというものではない。
「大丈夫。右手で持てばいいし。三本くらいあればいいよね」
美都が、本当に心配そうに萌子を見つめたが、テニス部員たちは至って笑顔で、
「ごめんね。助かるわ」
と答えるだけだった。
人数からいっても、ただでさえテニス部には料理の準備で迷惑をかけているところで、萌子の怪我と、理香の保健室行きは、更に彼女たちの気分を害していたことを、萌子も気づいていた。
ついていくという美都に大丈夫だからと言い聞かせ、萌子は駅前にあるスーパーの荒井屋を目指した。往復でも十分もあれば帰ってこれる。
『付き合ってるわけじゃないよ』
理香の告白に、萌子はどう答えていいのかわからなかった。
『だけど、アッチ。好きっていってくれないの』
泣き崩れてしまった理香は、そのまま練習に戻ることも出来ず、偶然やってきた紗依の協力の元、理香は気分が悪くなったということで保健室で横になっている。おそらく紗依も理香の仮病をわかりながらも、許してくれたようで、石橋にもそのように説明された。
そして、少なくともその話を聞いて、篤志が保健室に出向いた節はない。
萌子との会話の中でも、理香と篤志が付き合っているというのは、公然の事実としてあり、篤志もそれを否定はしなかった。
だが、篤志にはっきりと理香のことを聞いたことは確かにない。
だけど、嫌いだったら、否定するだろうし。
仮に、他に好きな人がいても、理香と付き合ってるってことにはしたくないはずだ。
ふいに萌子の脳裏に、先ほどの篤志と斉藤の２ショットが過ぎる。
篤志。
篤志は理香のこと、本当はどう思ってるの？
「コンニチハ」
唐突に声をかけられた萌子は、ハッとしたところで、校門の前に立つ木原に気づき、思わず肩を強張らせた。それから、僅かに俯きながら、足早でその脇を通り抜けようとすると、木原は萌子と並走するように、そのまま校内にも入ってきた。
「そうやって無視するのは、思い出したから？」
「関係ないからよ」
思わず萌子が答えると、木原は嬉しそうに、関係なくなんかないよーと答えた。
「俺もさ、びっくりしたわけ。
まさか、あんな場所で、初恋の女の子に会えるなんてさ」
「冗談言わないで」
「冗談じゃないぜ。
バレエ踊る君の姿に、一目惚れしたんだから。俺。
気づいてなかった？これでも、何回かバレエ教室覗きに行ってたんだけどなあ。
あ、もちろん発表会もね。
うちの親と友田の親、仲良くてさ。だけど、できるなら、幼馴染はあいつじゃなくて君がよかったなあ。
端から勝負は決まってたんだよ、友田じゃ勝負にならないって。あいつも馬鹿な女だから、だけどそれを認められなくて君の事―おい」
萌子が話し続ける木原を無視して、校舎に駆け込もうとしたところで、気づいた木原が手を伸ばして、萌子の左腕を掴んだ。
「待てよ」
「っ」
痛みに声をあげると、目の前に影ができたと思った瞬間、木原の腕が萌子から離れていた。顔を上げると、目の前には成が立っている。
成は、萌子の腕を掴んでいた木原の腕を、逆に掴み返して、萌子から引き離すと、無言で木原を睨んでいた。
「…んだよ」
痛みに顔を歪ませた木原が、その表情のままに成を睨む。だが、成はそれに動じることなく、木原を睨み続けながら、パッとその腕を離した。
いてててと言いながら、木原は軽く腕を揺らして成を睨むと、その影に隠れた萌子に向かってにっこりと笑顔で言った。
「またね、萌子ちゃん」
萌子はそれに答えることなく、さっさと校舎に入った。
怪我と、理香のことで、すっかり忘れていたというのに、木原の登場で、萌子の心はまた昨日の夜と同じく靄がかかったようになっていた。
靴を履き替えていると、成が追いかけてきた。
「萌子、今の奴。昨日も来てた？―」
「知らない」
思いがけず強い口調になったことを、萌子は後悔した。
「ごめん、成」
それだけ伝えると、足早に調理室に向かい、萌子は走って行った。